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【例幣使街道】

 「例幣使」とは、朝廷がつかわした、伊勢神宮の神前に捧げ物をもっていく使者のことである。江戸時代朝廷は、徳川家康の法要のため日光東照宮にも同じように勅使を派遣した。恒例となったこの派遣のため、京から中山道を通り、倉賀野宿より日光に至るまでの道を整備した。復路は日光道から江戸に入り、東海道を使って帰京した。春の東照宮例祭に合わせ、勅使が通る道のことを「日光例幣使道」とよんだ。
なお、例幣使は京を4月1日に出発、15日に日光に到着した。1647年から1867年の221年間、一度も中断することがなかった。

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第6日目(最終日)
文挾宿→板橋宿→今市宿→日光東照宮(ゴール)10.3km

月 日; 2012年8月28日(火)、曇り、例幣使街道 #6(=最終日)
おじさn
区 間; 文挾=日光・鉢石(10.3km)
時 間; 7時間19分
費 円;

合計 3,950円
(内訳)交通費;260円、梵天ラーメンセット850円、東照宮 入場料 1,300円、 飲み物 280円、日光=自宅 1,260円

歩 数;

34,128歩、10.3km

07;00

JR鹿沼駅
宇都宮方面(上り)は通勤と高校生の乗客がワンサカ。
この時間で気温28度、蒸し暑い

こんな早い時間に高校生らしい生徒たちが通学している・・・・今日は8月28日、夏休みは終わった?

kanuma-eki
07:17 鹿沼駅発
07:25  文挾(ぶばさみ)駅
駅前10mに例幣使街道。
杉並木街道には引っ切り無しに車が往来する。
 
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<JR文挾駅> <文挾駅から10m程で杉並木>
07:36 今日の歩き開始。ファイトーッ!
今日は曇って多少涼しい。この付近、杉並木が続く。一部の人家の続く地域にはほとんど杉並木が無い。
 
yasai-market JA

 JAの直売所がある。安い! 朝獲りトウモロコシ5本で200円、ピーマン、茄子5本で100円、トマト5個入り120円。今、この店にある全部の商品(農産物)を買い占めたい。安ーい!ウマソ―!食いたい―!
ウルトラ・グルメのうちのカミさんに全部食べさせたいな!喜ぶだろうなぁ。

07:45 文挾宿郷倉
 
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有形文化財(建造物)  文挾宿郷倉
    (市指定 昭和41年12月)
 江戸時代の元禄、天明、天保等の大飢饉で、日光神領の村々は、餓死者や倒産の家が多発した。このため、村民は協同で郷倉を建て、不作の時に困らないように貯穀をした。
 この文挾宿郷倉は江戸末期に粟材でしっかりと建てられたもので、当時の稗も発見されている。
 農民の救済の実をあげたこの郷倉は、わずかに残っている貴重な建物である。
                平成11年(1999年)3月
                日光市教育委員会
07:57 岩見重蔵の碑
こんな辺鄙な地に「オウム反対!出テケェー!」の立て看板が林立している。
 
suginamiki

日光杉並木樹勢回復事業について

 日光杉並木街道は、我が国唯一、国の特別史跡・特別天然記念物の二重指定を受けた貴重な文化遺産です。
 かけがえのない日光杉並木を守り、後世に引き継ぐため、杉並木オーナー制度や杉並木保護基金に参加いただいた皆様のご協力により、並木杉の樹勢回復事業を実施しています。
   栃木県 日光杉並木保護財団

08:35 例幣使街道・板橋一里塚
右側だけに3m程の高さ、反対側にはそれらしいものは全く見当たらない。
今回初めて一里塚を見る。( 日本橋より108km)
 
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<板橋一里塚>
08:50 板橋交差点
ここから例幣使街道の車の交通量がグンと少なくなる。
体長1m程の蛇が死んでいる。どうやら車に轢かれたらしい。可哀そうに
 
hebi 「街道歩き」中に、又も蛇が現れた。今回もきっと良いことがあるはず!でも、この蛇、死んでいるからダメか
09:30 庚申塚
09:40 地震坂
 
地震坂
    地震坂 今市市明神
 昭和24年12月26日、今市市を中心に突如大地震が起こり、地すべりにより杉並木が移動した坂で別名「地すべり坂」とも呼ばれる。
 本来の街道は、この上にあった。
09:55 日光宇都宮道路と交差
10:00 宝瀬一里塚
日本橋より凡そ28里(約112km)
 
杉並木 一里塚
この付近では杉並木の中央に自動車道が延びている。  <宝瀬一里塚>
実物は見当たらない。
10:30 踏切
宇都宮からの日光街道が近い
 
杉並木  
もう直ぐ「日光道」と合流する  
10:40 日光街道と合流
今市宿
追分地蔵尊
風があって気持ちが良い。
 
追分   <お地蔵様とおサンヤサマ>
 お地蔵様には、大地に人間の力ではとうてい計り知れない力と知恵の倉を持っていると云われ、子育てや旅立ちの安全を願っておまいりされ、大勢の人から慕われてきました。地蔵盆日が、月の二十四日です。
 おサンヤサマは、二十三夜講と云い、月待ち信仰の一つです。満月を中心に月の形がちょうど半分になる夜だからとも、また地蔵縁日たる二十四日の前夜だからともお大師讃仰のためともいわれているが、娯楽機関の少なかった頃、信仰をかねて部落の女性が御馳走を持寄って集い、団らんにふけった日を言います。お地蔵様もおサンヤサマも安産子育ての信仰であり、供物と線香を供え祈願しました。
追分地蔵 追分地蔵
日光市指定文化財
石造 地蔵菩薩坐像
種別 有形文化財
員数 1躯
規模 像高2・9メートル
材質 石材
年代 鎌倉時代から室町時代
日光街道と例幣使街道の追分に安置されているので俗に「追分地蔵」と言われる。丸彫坐像の石地蔵として東日本有数のものである。制作年代は、はっきりしないが室町時代と思われ、八代将軍吉宗の日光社参のとき、すでに現在地にまつられていた記録がある。地蔵は普通錫杖と宝珠をもつが、密教系の胎蔵界大日如来の法界定印の朱印を結んでいる。
二十三夜信仰の「お三夜様」として信仰を集めている。
       昭和40年7月14日 
                                日光市教育委員会
11:00

今市宿
ここからは「日光街道」を東照宮に向けて進むことになる
気温33度。アチーィ!助けてー、ファイトーッ!

 
杉並木

               <日光杉並木街道の物語>(野口地区)
 日光杉並木街道は通称、日光(鉢石〜大沢)、例幣使(今市〜文挾)、会津西(今市〜大桑)の三つの街道から成り、今から約360年前の寛永2年(1625年)から慶安元年(1648年)にかけて植栽され、現在では約13,300本が並木の総延長37kmにかけて残されており、正に「国の宝」として特別史跡と特別天然記念物の二重指定を受けています。
 この杉を植栽した松平正綱は17歳で徳川家康に仕え、後に幕府の経理を預かる勘定頭(後の勘定奉行)になり、家康没後は、度々日光を訪れ、将軍の社参や祭典、または東照宮の警護や修理にも活躍し寛永2年(1625年)多年の幕府に対する功労が認められ、2万2千石の大名に任ぜられました。
 徳川家康を崇敬した松平正綱が日光東照宮の参道である街道に杉を植えたのは、東照宮をはじめとする聖地日光への道の景観を整えるとともに、雨風や日照などの自然環境から旅人を保護するために行ったものと言われております。
 杉並木を歩きながら、往時の旅人の事などを考えてみるのも楽しいことでしょう。
なお、この道は昭和61年8月10日”日本の道100選”(建設省道の日実行委員会)に選ばれるとともに、昭和62年度からはリフレッシュマイロードモデル事業とし現道を保存しながら、親しみやアメニティーの高い道づくりを目指して整備・修復事業をしてきたものであります。
                         平成5年3月 栃木県

11:04 龍尾神社
11:30 砲弾杉
 
杉並木 杉並木

    <街道を歩くグループに出会う>
うーん、楽しそうー、いいなぁー、羨ましい。

 

    <砲弾杉>
 砲弾打込杉 日光市
 付近は明治戊辰の役に官軍が日光に拠る幕府軍を攻撃した際、前哨戦を行った所である。この杉の幹の凹んでいるところは砲弾が当たって破裂したあとである。

12:15 イチョウ杉
とても疲れた。ファイトーッ!
 
銀杏杉
                   銀杏杉 日光市七里
 杉の根元が銀杏の葉のように広がっており、根張りの幅が8米余ある。この雄大な根張りがあれば樹木ばかりでなく大丈夫というところより別名「人生杉」とも呼ばれている。
12:20 明治天皇御小休所
12:36 東和町交差点
気温36度
風が少しあるから昨日より歩きやすい。ファイトーッ!
12:40 相生町交差点
JR日光駅
12:45 東武日光駅
12:55
ラーメンセット 駅前のラーメン屋に入る。
梵天ラーメンセット850円を食う、ウマーい、実にウマいのだ!きっと家康公のお蔭だ!
街道歩きの昼食は絶対ラーメン、そしてラーメンは日光に限るのだ! グルメで美食家のうちのカミさんにも食べさせたいな、この「梵天ラーメンセット」
<これが噂の梵天ラーメンセット!>
13:15 鉢石
 
鉢石

    日光市指定文化財  鉢石(=はついし)
種別 史跡
構成要素 地表に露出した岩盤 ほぼ楕円形で、直径最小約270センチメートル、最大約360センチメートル、高さ約40センチメートル

 地中から地表に突き出た岩盤の一端が鉢を伏せたような形のため、古来より「鉢石」と称されている。
 江戸時代に往古の伝承をまとめた『日光山堂舎建立記』に、「鉢石」の由来について、「勝道上人開山ノ時、此処ニ始テ建人家、鉢石町ト名ク、此町ノ北、大谷ノ南岸ニ、鉢ノ形ナル岩アリ、因テ名トス」と見え、勝道上人の日光開山伝説に因んでこの石が親しまれていたことがわかる。
古来より日光山の門前市として栄えた「鉢石町」は、江戸初期の東照宮造営を契機に、江戸五街道の一つである日光道中の最終宿駅として拡充整備され、東町全体を「鉢石宿」と総称するようになった。
 こうした由緒により昔から地元の人々に大切にされ、石の周辺に柵を設け、注蓮縄を張って神聖化されて保護の手が加えられてきた。
 日光開山にまつわる民間伝承の古蹟として、また日光における門前町の発達と近世街道宿駅の発達を示す価値ある史跡である。
                    昭和43年3月16日指定   日光市教育委員会

13:35 神橋
 
神橋
   <東照宮の前の神橋>
13:45 東照宮
入場料 1,300円
14:05 奥宮拝殿
 
東照宮

    <陽明門>
 御所十二門の内の名称を朝廷から賜ったもの、後水尾天皇の御真筆による勅額があるので勅額門、あまり結構善美を尽した門で見飽きないところから日暮門ともいわれる。

      重要文化財 神厩(しんきゅう)
 東照宮境内唯一の素木造、室町時代武家邸宅の厩舎式によったものと言われています。
御鎮座の際、慶長5年関ヶ原の陣に於ける御祭神家康公の御乗馬が神馬とされ、この後は幕府から奉献されました。
 明治以降は、大正天皇、北白川宮等の御乗馬が寄進されました。
 現在の神馬「光徳号」は平成17年十月一六日にニュージランド国ヘレン・クラーク首相より「福勇号」は平成23年6月14日に日本中央競馬会土川健之理事長より夫々献進されました。
 尚、建物の欄間に飾られた8個の神猿彫刻は猿が馬の健康安全を守るという信仰に基づいたもので、中でも「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿は昔から有名です。
 
眠り猫 墓
    <左甚五郎作眠り猫>     <家康公廟>
重要文化財 鋳抜(いぬき)門
 椎名伊豫作
慶安3年(1650)
唐銅で屋根・柱・壁などを鋳造し、それを組立てたものであり、鋳抜門と称する。
当時の豪華な作風を示すもので、色調は御宝塔にふさわしく荘厳の気があふれている。
重要文化財 奥宮御宝塔(御墓所)
御祭紳家康公の神柩をおさめた宝塔である。
八角九段の基盤の上にたち高さは5m。
当初は木造であったが、石造りに改められ5代将軍綱吉公の時、現在の唐銅製(金・銀・銅の合金)に改鋳された。
鋳工椎名伊豫の作。
この神域は350年弐年大祭(昭和40年斎行)を記念して特別に公開されている。
14:35 東照宮の拝観が終わった。
今回の「例幣使街道歩き」の全てが終わった。
14:55 東武日光駅
15:01

東武日光駅発  スペーシア特快浅草行き
日光東照宮はやはり歩いてアプローチするに限るのだ

「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し 急ぐべからず」 東照宮御遺訓

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