東海道

 

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【東海道】

日本橋から京都三条大橋まで約492km。
慶長6年(1601)から7年間かけて徳川幕府が江戸・日本橋を起点に東海道、中山道、甲州道中、奥州道中、日光道中の五街道を造った。江戸時代における街道は交通と情報連絡の通信網であった。
現代における高度情報化社会におけるルーツを探る旅である。
日本橋から「東海道ウォーカー」に挑戦してみませんか。
東海道の次は「中山道ウォーカー」の予定。

 

第1日目

日本橋~京橋~新橋~品川宿~鈴ヶ森~六郷大橋~川崎宿(小土呂橋)(自宅)

月 日;

2008年6月12日(木)、天気;雨のち曇り

区 間;

日本橋=川崎宿(小土呂橋) 約19km

時 間;

6時間10分

費 用;

1,320円

(内訳)自宅=日本橋380円、飲み物150円、昼食270円、川崎=自宅520円

歩 数;

不明(歩数計不携帯)

10:10

日本橋出発。小雨。

 

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「日本国道路元標」

日本橋*

高速道路下の標識

 

東京都中央区日本橋1丁目、「日本国道路元標」は佐藤栄作氏(元総理大臣)の筆による。
江戸時代の旅人は「七つ立ち」、現代時間の午前4時頃に日本橋を出発したらしいが家庭の事情や電車の都合で平成の旅人・東海道ウォーカーはこの時間に日本橋を発つことになる。
サラリーマンを辞め時間が出来たら、いつか東海道を歩いてみたいと考えていた。
街道歩きには体力、気力それに資力も必要ついでに家族の理解・・・・あれやこれやと思案していると実行に移す決断が数年も要することになる。
2008年5月、60歳代中半にもなって、ようやく決意が付いた。「まだ、やれる!」自分への挑戦である。
夢の実現第1日である。今がその時、これから京都三条大橋まで492kmを歩くと思うと不安と期待が交錯する。
が、誰も注目してくれない。出来れば「東海道一人旅中」の幟でも立てて歩けば、行き交う人が少しは注目したり激励してくれるかもしれない。
友人、知人に「東海道歩きの計画」を吹聴する自信はまだない。きっと箱根を越えた辺りで身近な友人だけには話せる、かな。

 

【日本橋】
所在地;中央区日本橋1丁目/日本橋室町1丁目
「日本橋がはじめて架けられたのは徳川家康が幕府を開いた慶長8年(1603)と伝えられています。
幕府は東海道をはじめとする五街道の起点を日本橋とし、重要な水路であった日本橋と交差する点として江戸経済の中心となっていた。橋詰めには高札場があり、魚河岸があったことでも有名です。幕末の様子は安藤広重の錦絵でも知られている。
現在の日本橋は東京市により、石造り二連アーチの道路橋として明治44年に完成しました。橋銘は第15代将軍・徳川慶喜の筆によるもので、青銅の照明灯装飾品のキリンは東京市の繁栄を、獅子は守護を表している。その中央にある日本国道路元標は、昭和42年に都電の廃止に伴い、道路整備が行われたのを契機に同47年に柱からプレートに変更された。プレートの文字は当時の総理大臣佐藤栄作氏の筆によるものです。
平成10年に照明灯の装飾品の修復が行われ、同11年5月には国の重要文化財に指定された。装飾品の旧部分品の一部は中央区が寄贈を受け、大切に保管しています。」
・・・・・・・・・・・・・平成12年3月   中央教育委員会

 

日本橋

    歌川広重五十三次之内「日本橋」

 江戸から京都へ向かう東海道の起点である日本橋。その東海道を描いたシリーズの巻頭を飾るにふさわしく、参勤交代の大名行列が朝早く江戸を出発する様子が描かれています。一方で、魚を天秤棒で担いだ一団が、向こう岸にあった魚河岸から仕入れを終え、行商に出かける様子も描かれており、江戸で一番賑わっている早朝の日本橋の活気が伝わってきます。

10:30

京橋

 

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京橋を過ぎると、直ぐに「銀座通り」である。小雨の中、日枝神社の夏祭りを準備している。
「あのー、私は今、日本橋から、あの三条大橋まで歩き始めたんですよ」って道ゆく人に片っ端から訴えかけ、少しは注目してもらいたいのだが。

11:00

新橋

 

高速道路の高架下には「ハナマサ」なんて店がある。
「マクドナルド」とか「スターバックス」なんてカタカナ文字の名前の店は旧東海道筋からは遠慮してほしいものだ。
この付近に「東海道」の痕跡を捜すのははなはだ困難である。

11:20

首都高速道路の下を流れる古川には屋形船が何艘も繋がれている。
夜の遊覧だと見えないかもしれないが、よどんだ川はお世辞にも綺麗とは言えない。わずかだが、臭いもある。

11:35

「西郷、勝海舟」の会合の場所(旧田町薩摩屋敷)

 

 

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薩摩邸跡*

玄関に老婆を背負った銅像のある笹川記念館の前

品川宿入口付近

 

【田町薩摩邸】
「この敷地は、明治維新前夜、慶応4年3月14日、幕府の陸軍総裁・勝海舟が江戸100万市民を悲惨な火から守るため、西郷隆盛と会見し江戸無血開城を取り決めた。「勝・西郷会談」の行われた薩摩藩屋敷跡の由緒ある場所。この蔵屋敷(現在地)の裏はすぐ海に面した砂浜で当時、薩摩藩国元より船で送られてくる米などは、ここで陸揚げされた。
現在は、鉄道も敷かれ(明治5年)更に埋めたてられて海までは遠くなったが、この付近は最後まで残った江戸時代の海岸線である。また人情噺で有名な「芝浜の皮財布」はこの土地が舞台です。」

12:30

品川宿

 

日本橋から品川までは電車やバスよりも歩く方が早い、と思うほどに着いた。
京浜急行の線路と第1京浜国道を斜めに横切った場所に東海道第1の宿場・品川宿の入口がある。この入口は少々判りにくい。
日本橋から2里。京都まで残りが約484km、ここから本格的な東海道ウォークが始まる。
ここまでに、所々にある「標識」以外に、江戸時代の痕跡を発見する事ができない。
入り口に東海道の案内図がある。ここ品川宿には「東海七福神」がある。
第1京浜国道と平行して「旧東海道」が延びている。両側は商店街である。

 

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品川宿入口の道標

品川宿の植え代えられた松*

土蔵相模跡

 

 

 

商店街に延びる、ここ品川宿には「旧東海道」の標識が随所にある。

 

【品川宿の松】
品川宿の松は殆ど枯れてしまった為、東海道第29番目の宿である静岡県浜松市の有賀氏より品川区へ寄贈された。商店街に延びる、ここ品川宿には「旧東海道」の標識が随所にある。

 

品川

    歌川広重;東海道五十三次之内「品川宿」

 最初の宿場である品川は、東海道の旅へ出る者、送る者が別れを惜しんだ所で、何軒もの茶屋が軒を連ねていました。また一方では、旅人だけでなく江戸の人たちがちょっと出かける行楽地でもあり、桜で有名な御殿山でのお花見や海浜での潮干狩りなどで賑わいました。本図は御殿山の下を通過する大名行列の最後尾を描いたものです。

13:03

 

諏訪神社
江戸時代には信仰を集めたに違いないが、今では住宅街に飲み込まれそうになっている

 

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諏訪神社

境内の大仏

海雲寺

13:15

海運寺
「品川の荒神さま」と親しまれる火と水の神。

千躰荒神があり、3月と11月の27・28日には、千躰荒神祭の参詣者でにぎわう。(台所の神様として人気があり女の人が多い)そうだ。

13:40

立会川
鈴ヶ森の手前、300メートルほどに立会川がある。5メートルほどの川幅、近くは住宅やマンションが建ち並ぶ、何の変哲もない川、そこに小さな橋がある。涙橋である。

 

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川幅5m程の立会川

涙橋(*)の説明看板

 

【涙橋】
「罪人は裸馬に乗せられ江戸府内から外れのこの刑場まで護送されてきた。
この時、罪人の親族が密かに見送りにきて、この橋で共に涙を流しながら別れたということから「涙橋」と呼ばれるようになった」・・・・・・・・・・品川区教育委員会

13:50

鈴ヶ森処刑場
観光には不向きな場所だが、初めてこの地を歩いて訪れた。
説明によると、江戸時代の刑罰はあまりにも厳重・・・・少なからず衝撃を受ける。八百屋お七、丸橋忠弥、日本左右衛門(この人って、歌舞伎の「白浪五人男」の一人だそうだ・・・・何だか変だな?)などがここで処刑されたという。
まもなく始まる「裁判員制度」を考える。

 

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鈴ヶ森刑場受刑者之墓

火あぶりの台*

首洗い井戸
いずれの処刑場にもこの首洗い井戸がある

 

【鈴ヶ森刑場】
慶安4年(1651)、ここ鈴ヶ森にお仕置場が設けられた。
江戸時代には小塚原、板橋そしてここ鈴ヶ森その他に「お仕置き場」が設けられた。

 

現代で、お仕置きといえば、「駄目じゃないか!これからは気を付けなさい」、「は~い、わかりました!次から気をつけま~す」という軽い、正式には何というか知らないが、説諭くらいに考えるが、江戸時代264年間に10~20万人が死罪になったという。
単純計算で江戸時代には毎日・毎日1-3人が処刑されていたことになる。

 

【火炙台】
八百屋お七を初め火炙りの処刑者は皆、この石上で生きたまま焼き殺された。真ん中の穴に鉄柱を立て、足下に薪を積み、縛り付けて処刑されたのである。」・・・・・・・・・・・・・・鈴ヶ森 史跡保存会

 

ここに立って、江戸時代の処刑風景を想像しただけで鳥肌が立つ、怖いー。
ここ鈴ヶ森は西国から江戸への入り口、いわば玄関に当たる所に処刑場がある。

15:20

ここからは六郷(多摩川)に向かって、しばらくは車の往来が激しい第1京浜国道をひたすら歩く。暑い、蒸し暑い。

 

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第1京浜国道を歩く

六郷の河川敷には沢山の小屋が点在している

六郷渡し(*)

 

【六郷渡し】
慶長5年(1600)、徳川家康は六郷川に六郷大橋を架けた。元禄元年(1688)7月の大洪水で流されたあとは架橋をやめ、明治に入るまで舟渡しとなった。渡船は当初、江戸の町人らが請け負ったが、宝永6年(1709)3月、川崎宿が請け負い、宿の財政を大きく支えた。」・・・・川崎市

16:10

小土呂橋(こどろはし)
旧東海道は商店街に飲み込まれている。何処を見ても橋らいしものが見当たらない。この付近何処にも「旧東海道」」の面影は無い。

 

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六郷を渡って直ぐの指導標
判りにくい。

昔はこの付近に橋があった。現代では全く江戸の痕跡が無い。*


宋三寺入口*

 

【小土呂橋
この通りには幅5メートルほどの流れがあった。新川堀と呼ばれ、ここからさらに渡田大島を経て海へ注ぐ用水であった。この濠が東海道と交わるこの地点に架けられていたのが「小土呂橋」である。
小土呂は、砂子、新宿、久根崎とともに昔、東海道川崎宿と呼ばれた4町の一つで、古くからの地名である。」

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