第17日目
池鯉鮒宿〜桶狭間〜有松〜鳴海〜宮(七里の渡し)

月 日; 2009年3月24日(火)、天気;晴
区 間; 池鯉鮒宿(ちりゅうじゅく)〜宮(七里渡し)、約17.5+約10km(一色大橋KORONA温泉)
時 間; 10時間0分
費 円; 費用;合計3,846円
朝食(菓子パン、ヨーグルト)331円、マック105円、昼食(ラーメンセット)550円、ドリンク360円、夕食
(うどんと唐揚げのセット)750円、入浴料(セット)1750円
歩 数; 52,220歩

07:15 駅前のホテルを出発
昨夜は国道1号線沿いにある「スーパー銭湯」でゆっくり風呂に入ったため、ぐっすり眠ることができた。
07:25

池鯉鮒宿本陣(*)
(明治天皇在所聖蹟)
「本陣跡」(手前)よりも「明治天皇在所聖蹟」(向こう側上段)の石碑の方がずっと大きくて立派。

【池鯉鮒宿本陣跡】

本陣とは、江戸時代の宿駅に設けられた、大名や幕府役人、公家等が宿泊する公認の宿舎である。
東海道三十九番目の宿駅である池鯉鮒宿には、本陣・脇本陣(本陣だけで対応できない時の予備の宿)が各一軒置かれていた。本陣職は、当初峯家が勤めていたが(杉屋本陣)、没落したため、寛文年(1662)からは永田家によって引き継がれた(永田本陣)。敷地三千坪、建坪三百坪と広大な面積を有していたが、明治8年(1875)に取り壊され、二百年近く続いた永田本陣も、時代の変化とともにその使命を終えた。・・・・・・・・・・・・・知立市教育委員会

07:30

知立古城址
子供の公園の中に大きな楠の木が1本。
今日も快晴に恵まれた。
「タイ国渡来云々」と看板のある了運寺の門前には学校安全ボランティアの方々が子供たちの通学を見守っている(下段右の写真)。

<知立古城址> 了運寺門前
07:40 知立神社
07:50

総持寺

この総持寺付近には古い民家が多く残っている。

08:00 逢妻川
ここからしばらくは国道一号線を歩く。
今日も快晴、寒い。
08:05 刈谷市に入る。
西福寺入口。本殿は約1kmも奥にある。昔は随分とにぎわったに違いない。
ここで朝食として菓子パン2個、飲むヨーグルト1本。
08:50

境川

09:15 坂部無縁墓地(*)
ここで休憩とトイレのためにマックの店に入る。
【坂部無縁墓地】

この墓地には身元不明の多くの人が葬られ、地元の人が花や線香を手向けて供養しています。
この墓が何人たるかは定かではありません。
又、昔よりこの墓地にお参りすると子供の夜泣き、寝小便に霊験あらたかと言い伝えられています。盂蘭盆には区役員と有志の方々で、供養祭を行っています。・・・・・・・・・・・・・・・・・・坂部区

10:05

史蹟・桶狭間古戦場(*)
桶狭間の戦いは日本の歴史が大きく変化した戦いでもあった。
桶狭間とはもっと意味ありげな、うっそうとした森や深い谷間を想像していた。
実際には東海道からほんの10数メートル程離れた小さな丘、周囲は病院、マンションが広がる、なんの変哲もない静かな住宅地が広がっている。
ここで今川義元と織田信長の方、合計30,000人以上が決戦した所とは思えない。周囲の雰囲気は、実に穏やか平和な環境である。
JRの駅まで100mも無い、近くには中央競馬場がある。

【古戦場】
この地は、永禄3年(1560)5月19日、今川義元が織田信長に襲われ戦死した所と伝えられ、田楽狭間あるいは館狭間と呼ばれた。今川義元、松井宗信、無名の人々の塚があり、明和8年(1771)亡石表が建てられた。文化6年(1809)には桶狭間弔古碑が建立された。また、戦死者を弔って建てられた、おばけ地蔵、・徳本行者念仏碑などがある。 
      昭和12年12月21日 国指定史跡  豊明市教育委員会
【今川治部大輔義元の墓】
駿河・遠江・三河の国主、今川義元は西上の途次、永禄3年(1560)5月19日に織田信長の奇襲に遭い、ここで倒れた。ここには、その霊が祭られている。
以前、ここは塚であったが、有松の住人山口正義が主唱し明治9年5月に、この墓を建てた。・・・・・・・・・・・豊明市教育委員会
10:25 有松
古い町並みの風情が濃厚に残っている。
有松は絞り染めで昔から有名だ。
有松の絞染めとは;
布地を糸で縫ったり、巻きしめたりして防染し、染液に侵して模様を染め出す方法を絞染めという。
絞方には鹿の子絞、巻上絞、三浦絞、柳絞、縫い絞、蜘蛛絞などの多くの種類があり、又、数種の絞り方を併用したり、二度三度と染液を変えて多色に染め上げるなど、高度の技法に発展したそうだ。
有松は、旧東海道の鳴海と知立の宿の間に、慶長13年(1608)に合宿として開かれた。尾張藩の奨励により、阿久比村から移住した人達の一人、竹田正九郎により、絞染めが考案され売り出されると、藩の庇護も受け、絞は有松名産として、全国にその名が知られた。
 
有松は絞と共に繁栄したが、天明4年(1784)、大火が起こり全村ほとんどが焼失した。
村の復興に当たり建物は従来の茅葺きを
瓦葺きにし、壁は塗籠造(ぬりごめづく)り、2階の窓は虫籠窓に改め、当時の防火構造で造られた。豪壮な商家が建ち並ぶ現在の町並みは、この時に形成された。
商家の建物は、中2階建て切り妻平入りで、1階の前面についている半間の土庇の下は、昔の絞りの店頭販売の為に、大きく開かれていたが、今は格子がついている。名古屋市は、有松を町並み保存地区に指定し、伝統的建造物や、町並み保存上必要な物件を定め、古い町並みに調和した景観の整備に努め、建物の修理・修景工事の補助事業を進めている。

                      平成7年3月31日 名古屋市教育委員会

10:35

服部家住宅
有松にはこれまでに歩いた旧東海道筋の中で一番多くの古い建物が現存している。

10:50 文章嶺天満宮の鳥居
ここも鳥居と本殿までは途中に踏切が横断している。
10:55 有松一里塚(予定地)
一里塚の真上に高速道路建設中に付き、臨時の「有松一里塚」の標識(一里塚復原予定地)。下の写真
11:10

平部町常夜燈(*)

【平部町常夜灯】

東海道品川より40番目の宿場町、鳴海宿の東の入口平部町に建てられたものである。表に「秋葉大権現」右に「宿中為安全」左に「永代常夜燈」裏に「文化三丙寅正月」の文字が刻まれている。
文化3年(1806)に設置されたもので、旅人の目印や宿場内並びに宿の安全と火災厄除けなどを秋葉社(火防神)に祈願した。
大きく華麗な常夜燈であり、道中でも有数のものといわれ、往事の面影をしのぶことができる。
                               
・・・・・・・・・・・・・・名古屋市教育委員会

この付近は古い東海道の趣が残っている。
11:15

金剛寺

11:25

瑞泉寺

【芭蕉最古の供養塔】

誓願寺の芭蕉堂南東脇に建てられた高さ60pほどの青石の自然石で、表面に「芭蕉翁」、裏面に元禄7(1694)甲戌10月12日」と没年月日だけが刻まれている。芭蕉が没した翌月の忌日、当地の芭蕉門下が追悼句会を営んだ折、如意寺に建てられもので、その後、翁の門人下里知足の菩提寺である。当寺に移された。
芭蕉最古の供養塔で、昭和52年市の史跡に指定。・・・・・・・・・・・・・名古屋市教育委員会

11:30

来迎山誓願寺(上の写真中央)
芭蕉最古の供養塔、高さ80p位、ブロック塀の脇に立っている。
境内で作業中の庭師に「芭蕉の碑?」を訪ねても最初はまるっきり知らなかった。

11:35 この付近には成海神社、如意寺、蛤地蔵尊、式内成海神社など神社仏閣が林立している。
きっと信心深い住民が多かったに違いない。
12:05

鉾ノ木貝塚
この付近から国道一号線へ合流。
合流してまもなく道に迷う。幸いにして300m程行ったところで通行人の中年女性に「旧東海道」を教えてもらい、今、来た道を戻る。落ち着くために昼食にする。だいたい「旧東海道」の所在を聞いても若い人はほとんど判らない。
アメリカで開催されているWBC(野球)の決勝「日本対韓国」戦がテレビ中継されている。5回、「1−1」を放映している。気になるが先を急ぐこととする。

13:05 傘覆寺、清水稲荷大明神
たいそう立派な、大きな神社、そして今でも賑わっているようだ。
13:40 山崎の長坂
西へ向かって永い下り坂が続く。
14:40

法泉寺

【宿駅制度制定4百年記念碑】

今に残る東海道は、徳川家康による宿駅制度制定以来、我が国の代表的な幹線道路として産業・経済・文化の発展に大きく寄与してきた。江戸時代東海道の西側には、呼続浜の潮騒が磯を洗い、大磯の名を残している。ここで造られた塩は塩付街道を通じて小牧・信州に送られていた。東側には、松林を遠く望む風光明美な景勝の地として有名であった。
現在は繁華な町となるも、長楽寺、宇部神社・桜明神社など、名所旧跡を多く残し、今日に至るまで数々の歴史の重みに想いをはせるものである。

        平成13年吉日    名古屋市・呼続学区

15:10

裁断橋跡(*)
姥堂、ここが「都々逸」発祥の地だそうだ。そのいわれはよく判らんが、取り敢えず「よかった、よかった!」。

【裁断橋跡】

宮の宿の東のはずれを流れる精進川の東海道筋に架かっていて、現在の姥堂の東側にあった。
天正18年(1590)に18歳になるわが子堀尾金助を小田原の陣で亡くし、その菩提を弔う為に母親は橋の架け替えを行った。33回忌に当たり、再び掛け替えを志したがそれも果たさず亡くなり、養子が母の意志を継いで元和8年(1622)に完成させた。
この橋の擬宝珠に彫られている仮名書きの銘文は、母が子を思う銘文として、この橋を通る旅人に多くの感銘を与えた。
現在は裁断は下縮小されたが、擬宝珠(ぎぼし)は市の指定文化財で市博物館に保存されている。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・名古屋市教員委員会

15:25

宮の渡し
昔の旅人はここから桑名まで約七里は舟で渡ったという。今は定期便は無いので現代の東海道ウオーカーは、この区間約28kmを歩かなくてはならない。現代は不便だ。

【七里の渡し舟着場跡】

江戸時代、東海道の宿駅であった熱田は「宮」とも呼ばれ、桑名まで海路「七里の渡し」の船着場としても栄えた。寛永2年(1625)に建てられた常夜灯は航行する舟の貴重な目標であったが、現在は復元されて往事の名残をとどめている。

安藤広重による「東海道五十三次」の中にも、宮の宿舟着場風景が描かれており、当時の舟の発着の様子を知ることができる。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・名古屋市

17:25

国道一号線
ぼつぼつ歩くのにくたびれた。一旦、もう駄目!と思うと途端に全身に倦怠感が襲ってくる。
新聞販売店に聞くと、この付近の東海道には通常のホテルの類は無いという。困った。
数キロ先の街道筋に健康ランドがあるというから、そこまで頑張って歩いてみることにする。

18:00

一色大橋
健康ランド「KORONA温泉」、大衆娯楽場がある。思い切ってフロントで訪ねると「泊まれます」という。助かった!
映画館、ボウリング場、食堂、ゲームセンター、温泉など複合遊技場である。
家族連れや若者のカップル、けっこう女性客も多い。いたって健康的な娯楽施設だ。良かった。
深夜まで温泉とサウナに入浴。
仮眠室に移り、あー快適だぁ。簡易ベッドで爆睡。

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