第19日目
桑名→朝日町→四日市市→石薬師→庄野→亀山

月 日; 2009年5月24日(日)、天気;雨のち晴時々曇
区 間; (自宅→[深夜高速バス])桑名(朝日町)〜亀山宿(亀山第一ホテル)、約25.9 km
時 間; 9時間45分
費 円; 費用;合計15,080円

交通費(高速バス・池袋=桑名)6,420円、ドリンク580円、昼食750円、第1ホテル亀山5,500円、夕食 1,450円、夜食380円

歩 数; 53,100歩

23:25
(5/23)
池袋・東口バス発着所発・三重交通
満席、縦3列セパレートの中央席、東海道歩きを始めて2回目の深夜高速バスに乗る。
05:35
(5/24)
JR桑名駅着
ここで東京・池袋発の高速バスから下車したのは私一人だけ。今回も睡眠導入剤を半錠だけを飲んだせいかバス車内ではぐっすりと眠ることが出来た。曇り、歩くには快適な気候だ。
05:48

近鉄内部線に乗る。普通列車、2両連結の列車、桑名駅からの乗客は私一人だ。

05:55

近鉄・朝日駅。前回の終着点、今回の出発地点。
ホームで身支度する。雨が降り出した。旧東海道が駅の直ぐ側を通っている。
栄養ドリンクを飲む。ファイトーッ!

06:15

小雨。雨具のポンチョと傘を差して出発。
駅周辺はなんの変哲も無い風景が続く。

駅から100m程に「東海道」の石碑がある。一本の「榎」推定300年、江戸時代から生きている。
以前は松並木だったが、戦争末期、松根油を取るため痛めつけられ、松並木は跡形もなくなってしまったそうだ。
東海道の松並木も戦争犠牲者・・・・?
06:30 橘守部誕生地遺跡
06:35 浄泉寺
【浄泉坊】
浄土真宗本願寺派。山号を小向山という。慶長8年(1603)に伊勢慶昭が小向にあった正治寺を再興し、小向山浄泉坊と改称したことにはじまる。寛永15年(1638)に西本願寺より寺号の公称を許された。徳川家にゆかりのある桑名藩主の奥方の菩提寺になっていたことがあるといわれ、山門や瓦に徳川家の定紋三ツ葉葵が入っている。そのため、参勤交代の大名はこの寺の門の前では駕籠から降りて一礼したと伝えられる。
06:45

JR朝日宿
東海道からJR朝日駅までは80m程の距離にある。

07:00

朝明川
幅約50m程の何ら変哲もない川だ。この橋を渡ると四日市市。

07:05 御厨神明社
<江戸時代は相当に賑わった神社のようだが・・・・>
07:25 鏡ヶ池
07:40 富田一里塚
【史跡 富田の一里塚跡】     県指定昭和12年11月
 昔、街道の両側に一里(約四キロメートル)ごとに土を盛り上げえのき等の樹木を植えて旅人の目じるしにしたものが一里塚である。すでに戦国末期に存在していたが江戸の初めごろから江戸日本橋を起点として五街道を中心に設けられていた。
 しかし明治以降は、交通機関等の発達によりほとんど取り除かれてしまい、本市おいてもその面影を見ることができなくなった。古地図や文献によると四日市には富田・三ッ谷・日永・采女の四ヶ所にその跡が判明されており、これはそのうちの一つで日永の一里塚跡とともに県の史跡に指定されている。
07:45 八幡神社の力石
07:55 間の宿 富田
ここには善教寺がある。
国宝・阿弥陀如来立像
地鎮祭が催されている。
08:05

常夜燈「南富田9」

【常夜燈】
 
常夜燈は神に捧げる灯である。神社の境内にあるときは献灯であろうが、町の中や街道で見る常夜燈は、それぞれの意味を持っている。桑名川口より伊勢までは、神宮への導光であろうと思われる。
 碑表には「常夜燈」と刻まれ下に「氏子中」とある。碑陰(裏)には「天保十巳亥年」(1839)とあり昔を伝えている。
 この、常夜燈の小さな灯が、明るく感じとられて、淋しい夜の街道の旅人をどんなに勇気づけたことか。雨の夜、風の夜、絶え間なくこの灯りを守りした人々の心意気を感じて、この灯籠を見つめてほしい。
 今一基、中町にあった常夜燈は鳥出神社に移されている。
      富田地区文化財保存会
08:10

薬師寺
門前に「大東亜戦争・・・・云々」の掲示板がある。

08:15 常照寺
08:20

茂福(もちふく)神社
本殿まで200m以上もあり鳥居から礼拝だけで通過する。
晴れてきた。ここでポンチョと傘をザックに収納。

08:45 「かわらづ」の松
東海道 【「かわらづ」の松】
この松は、樹齢200年余りで江戸時代より街道を行き交う旅人をじっと眺めていたことだろう。
昭和13年、国道1号線が出来るまでは幹線道路として往来が激しく賑わった道路であった。戦前まではこの付近の東海道沿いに多くの松が植えられていて、松並木の景観が見られたが、戦後は経済の発展に伴い道路の拡幅と松食い虫の被害等で姿を消し、現在四日市では日永地区と、この羽津地区の2本だけとなった。
この地域は「かわらづ」(川原津)」と呼ばれており、この松を昔の地名を取って、”「かわらづ」の松”としていつまでも愛護していきたい。
  平成19年6月吉日
                       八田第二自治会
                     かわらづの松保存会
08:50

氏氏神社
街道の鳥居から本殿まで350m以上もある。

08:53 

光明寺
境内はたいそう大きな、きれいに整地されたお寺。

09:15 三ッ谷一里塚
【三ツ谷の一里塚跡】
 一里塚は、江戸時代の初め、幕府が東海道をはじめとする五街道を整備した際、江戸日本橋を起点として一里(約4キロメートル)ごとに街道の両側に土を盛り、榎や松を植えて旅人の目印にしたものである。
 東海道の三ツ谷には、かって一里塚があった。しかし、その場所は、昭和20年代に海蔵川が拡幅された際、川の中に取り込まれてしまった。「東海道分間之図」(元禄3年<1690>)によれば、三ツ谷の一里塚は東海道が海蔵川に突き当たった辺りに記されている。
 そこで、東海道宿場・伝馬制度制定四百周年を記念して、この場所を一里塚跡とし、石碑を建てて後世に伝えることにした。
           平成13年(2001年)3月吉日  海蔵地区地域社会づくり推進委員会
09:20 海蔵川
09:27 三瀧橋
09:30

名物なが餅・笹井屋

09:40

道標・「すぐ江戸道」(四日市の中心地)

09:45

諏訪神社
この付近では旧道が商店街のアーケードに飲み込まれている。

10:15 鈴木薬局の旧家
200年以上続く、がっちりした造りの家。
10:55

日永
東海道名残の一本松

【追分道標】
 
この石柱は昔、日永の追分の神宮遙拝鳥居の傍らに立てられていた道標である。
 この道標には正面に「大神宮 いせおいわけ」右側面に「京」左側面に「山田」そして裏面には「明暦二丙申三月吉日 南無阿弥陀仏 専心」と刻まれている。
 この道標が立てられた明暦2年(1656」)といえば、神宮遙拝鳥居が建立されたときよりも約120年も前であり、東海道における最古の道標としても貴重なものである。
 更に立てた人がお坊さんであること、そして南無・・・・・(中略)
 寛永2年(1849)神宮遙拝鳥居の脇に現在の立派な道標が立てられたとき、この小さな道標が不要になり、近くにあった追分神明社の境内に移され、その後、明治40年に追分神明社が日永神社に合祀された際に、道標も一緒にここに持って来られたものと推定される。
11:00

すき家
牛丼大盛りセット・サラダ付 750円
美味い!こんな美味いものは他に無い。

11:30 

日永の追分
ここでは「わき水」が常時湧き出している。
道はここで右と左に分かれ、右の「東海道」に入る。

三重県史跡【日永の追分】
 「日永の追分」の神宮遥拝鳥居は安永3年久居市の渡辺六兵衛氏が江戸に店を持ち東海道を上下する度毎に参宮街道との分岐点日永の追分に鳥居のないのを遺憾とし江戸店支配人伊勢屋七右衛門を願主として江戸で伊勢出身同志数名を募り敷地を買入れて鳥居を建設した。更に今後の改造費として私財金壱百両を寄付されたので地元ではこれを基金として神宮式年毎に改造してきた。
 その後地元民は勿論旅人からの崇敬の的となり昭和13年4月12日県史跡に指定され昭和16年日永村が四日市市に合併して以来日永地区連合自治会が管理に当り毎年9月21日に鳥居祭を斎行している。
11:43  近鉄・追分駅
12:00 一人のニュージーランド人の東海道ウォーカーに会う。
もちろん、日本語は判らないという。
12:10 米田山願誓寺
12:20 内部橋
12:40

杖つき塚
芭蕉の碑

【杖衝坂と血塚、二つの井戸】
 杖突坂とも書き、東海道の中でも急坂の所で、日本武尊が東征の帰途、大変疲れられ「基地より、やや少しいでますにいたく疲れませるによりて、御杖をつかして、稍に歩みましき、故基地を杖衝坂といふ」(「古事記」)とあり、その名が称されるようになり、加えて、芭蕉の句「歩行(かち)ならば杖つき坂を落馬かな」により、その名が世に知られることになった。また、坂を上がりきった所には、尊の足の出血を封じたとの所伝から血塚の祠もある。
 この場所にある二つの井戸は、坂の上手を「弘法の井戸」、下手を「大日の井戸」と言われ、前者は弘法大師が水に困っている村人に、杖で指し示されて掘ったところ清水が沸き出た井戸であると伝えられ、後者は、坂の中腹左側にあった大日道に供える閼伽水(=あかみず)を汲み上げた井戸と、地元民の間では伝承されている。
12:55

豊富神社
国道一号線と合流する。車の往来がうるさい。

13:15 鈴鹿市に入る
13:35 石薬師宿
【石薬師宿】
 石薬師宿は江戸から数えて44番目の宿場である。天領であったこの地に宿駅が設置されたのは、元和2年(1616)と遅く、それまでは高富村と呼ばれていた。
 弘化2年(1845)の石薬師宿軒別図から職業構成をみると、人家約180軒のうち旅籠屋が約30軒、百姓は約130軒で全戸数の約七割をしめており、農村的性格の強い宿場であった。街道の中程の西側には小沢本陣がありその向かいには園田家がつとめていた問屋場があった。
 当資料館の隣に建つ連子格子造りの木造家屋は佐々木信綱(1872〜1963)の生家で、一家が松坂へ移住する明治10年(1877)までの幼年期をこの家で過ごした。 
 裏庭には「産湯の井戸」が今も残っている。
 石薬師では、信綱作詞の歌唱「夏は来ぬ」に因んで昭和63年(1988)から地区を挙げて「卯の花の里づくり」に取り組んでいる。
 初夏になると、どこの家庭の庭先にもまた道端にも白い可憐な花が咲き清楚な趣をそえている。
13:45 小澤本陣跡
【小沢本陣跡】
 東海道石薬師宿は元和2年(1616)幕命によって設立され宿の名は当時有名であった石薬師寺からとった。大名が泊まる宿を本陣といい、小沢家がこれを勤めた。屋敷は現在より広かったようである。残る文書も多く元禄の宿帳には赤穂の城主浅野内匠頭の名も見える。国学者萱生由章(かよう よりふみ)(1717〜75)もこの家の出である。   鈴鹿市
13:50 石薬師文庫
14:05 庄野宿
【庄野宿】
庄野宿は江戸から百二里余
東海道四十五次にあたり、幕府の直轄領であった。他宿にくらべ宿立ては遅く寛永元年(1624)といわれている。この宿は、「草分け三十六戸、宿立て七十戸」といわれ、鈴鹿川東の古庄野から移った人達を合わせて70戸で宿立てをした、南北8丁で宿人口の加茂町中町上町からなる。
安藤広重の描く「庄野の白雨」は、彼の作品の中でも傑作中の傑作といわれ、世界的にも高い評価を、得ている。
14:52 善照寺
14:55 旧小林家住宅
15:10

庄野宿本陣跡
庄野宿には旧い民家が所々に残っている。

15:35 従是東神戸領の石碑
15:45 中富田一里塚
【中富田一里塚】
 一里塚は慶長9年(1604年)に江戸幕府の事業として、東海、東山、北陸の三道に築かれた。
 江戸・日本橋を起点として、36町を1里(約4キロ)として、一里ごとに塚を築き旅人の往来の目印とした。
享和3年(1803年)に作成された「東海道亀山宿分間絵図」によると、川俣神社の東隣に一里塚があったことが描かれている。
 その近くに「御馳走場」と書かれた家があり、当時 東海道を往来する大名行列などの一行を接待する場所であったと考えられ、現在も「東百里屋(ともりや)」という屋号で呼ばれている家がある。
この間、江戸へおよそ100里(約400キロ)であったので、この屋号がつけられたと伝えられている。
                       平成13年10月  中富田一里塚保存会
15:50

常念寺
この付近、やたら寺が多い。

16:00 川俣神社
16:50 谷口光悦供養塔
16:55 和田道標
17:05

和田の一里塚
ぼつぼつ疲れがひどい。
この付近、新興住宅地。

【和田一里塚】
 野村一里塚とともに亀山市内に所在する旧東海道の一里塚で、慶長9年(1604)幕府の命により亀山城主であった関一政が築造した。
 かっては榎が植えられており、昭和59年の道路拡幅までは塚の一部が遺されていた。現在の塚は、塚跡地の東側に隣接する場所に消滅した和田一里塚を偲んで模式復元したものである。
                      平成13年10月   亀山市教育委員会
17:25

巡見道
亀山宿

【順見道】
 
順見道という呼称は、江戸時代にこの道を順見使が通ったことによる。順見使が最初に派遣されたのは、三代将軍家光の寛永10年(1633)のことで、その後将軍の代替わりごとに、諸国の政情、民情などの査察や災害などの実情調査を行う目的で実施された。
 順見道は、ここで東海道から分岐して北上し、菰野を経て濃州道と合流した後、伊勢国を通過し中山道とつながる。
          平成16年9月建之   亀山市教育委員会
17:40 江戸口門跡
【江戸口門跡】
 延宝元年(1673)、亀山城主板倉重常によって築かれた。
東西120メートル、南北70メートルで、北側と東側に堀を巡らし、土塁と土塀で囲まれた曲輪を形成し、東端には平櫓が1基築かれていた。曲輪内は3つに区画され、それぞれが枡形となっていた。この築造には領内の村々に石高に応じて人足が割り当てられ、総計2万人が動員されている。
 西側の区画には番所がおかれ、通行人の監視や警固にあたっていた。ただ、江戸時代前期においてはこの位置が亀山城下の東端と認識されていたことから、江戸口門は東海道の番所としてではなく、城下西端の京口門とともに、亀山城惣構の城門と位置づけることができよう。
 現在は往時の状況を示す遺構は存在しないが、地形や地割、ほぼ直角に屈曲した街路にその名残をとどめている。
                    平成15年3月   亀山市教育委員会
17:50

亀山宿
樋口本陣跡
何もない。ただの商店街。

17:55

高札場。
文字はかすれて読めない。

18:00 亀山城跡
18:30

亀山第一ホテル
左足中指が痛い。小指には大きな水泡が出来ている。右足親指も猛烈に痛い。またもやツメが血豆、やがて剥がれる。

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