| 07:20 |
しなの鉄道・上田駅
駅前のマクドナルドで朝食
ちょっと贅沢にソーセージ・エッグマフイン・セット440円、
上田駅前のマックで一人で朝食 サイコ―ッ!
街道歩きの朝食は絶対、マック!マックに限るのだ! |
| 07:42 |
上田発
しなの鉄道 230円
曇り。昨日とは違い雲が高く、雨は降らない予報
寒い。気温5℃
地元の人びとは完全に冬支度をしている。今日ぐらいの気温が一番寒く感じる |
| 07:52 |
しなの鉄道・田中駅
駅の周辺は実に美しく整備され、道路も実に清潔である
きれいすぎる程だ |
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| <しなの鉄道 田中駅> |
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| <しなの鉄道/信濃の晩秋は輝いている> |
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| 08:05 |
常田交差点
国道18号に戻る |
| 08:33 |
田中交差点 |
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| <田中宿脇本陣> |
<田中宿> |
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| 08:55 |
海野宿入口
田中駅前から遠回りしてしまった
入口の土産物屋の夫婦が旧街道を親切に説明してくれた
ウマそうなリンゴ、花梨等を売っている。
「チャレンジャーなかの」の看板 |
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海野氏の事跡
海野氏の出自については諸説があるが、ここ東部町を中心とした往古の海野郷を根拠とした豪族であり、新張、望月等の牧の管理者であった禰津、望月の両氏と共に東信濃にその基盤を築いた。
平安中期、海野、禰津、望月の三氏は国司、牧官等として下った中央の名門滋野氏と関係を結び、やがてこれを祖と称するようになり、滋野三家と称され、海野氏は本宗としてその中心的存在であった。
平安末期、中央での政変「保元の乱」には源義朝の下で活躍し、治承5年木曽義仲の白鳥河原挙兵に際してはその中心的となって奮闘した。また天下の実権が鎌倉に移ると源頼朝や北条氏に仕え重用された。中央にも聞こえた弓馬の名家であったため、主家が亡びても代わった権力者にその力を評価されて、平安末期・鎌倉期の波瀾の時代を乗り切り安泰を保った。
中世、元弘の乱以後の争乱の中では一族と共に北条氏の再興をはかったり、他の国人と共に守護に反抗したりその基盤を守るために懸命の活躍をしたが、足利幕府が確立される中でその努力は報われず苦難の道を歩む事になった。
戦国時代、信濃国内でも守護小笠原氏の勢力が弱体化し、諸豪族間の争いが次第に激しくなってきた天文10年、信濃侵略を企図した甲斐の武田氏は村上・諏訪両氏と連合して海野氏を攻撃した。「海野平の合戦」と称せられるこの合戦は海野氏の死命を制することとなった。一族の禰津、矢沢氏は降伏、当主・棟綱は上野に敗走、嫡子・幸義は戦死し、信州屈指の名族海野氏の正系はここに滅亡した。なお、一族の真田幸隆も上野に敗走したが、後、武田氏に支えその翼下として信濃攻略に活躍し、名門真田氏発展の基礎を築いた。
平成14年11月3日
海野史研究会建之 |
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| <昔の面影を色濃く残す「海野宿」> |
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| <白鳥神社> |
この神社は古代天皇の命を奉じて東征の途についた大和武尊が、この地に滞在されたことから白鳥神社と称し、古代から中世に栄えた豪族、海野氏の祖と伝わる貞元親王・善淵王・海野広道公を祭紳としています。
また、海野氏と、その名跡を継承した真田氏の氏神として篤く奉祀され、真田信之(幸村の兄)により松代の舞鶴山へ(長野市松代町)分祀されています。
往古より本海野の住民を始め近郷近在の人びとより産土神として崇敬の念を集め春と秋には海野宿の沿道に幟が立ち並び、例大祭が行われています。
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媒(なかだち)地蔵(縁結地蔵)の由来
むかし加賀の国のお殿様に年頃の姫がおりましたが、なかなか良縁に恵まれませんでした。
ある時縁結びのお地蔵さんが海野にあると聞いて参勤交代の道中に御参りしたところ、姫は立派な男性に巡り合い、結婚することができお殿様も大変お喜びになられたという、こんな逸話があります。
海野氏の家臣、赤石藤治友信が媒地蔵菩薩を小庵に安置したことに始まる。創建年不詳、天文年間に衰退、寛永2年に中興開山、地蔵寺と称した。元禄4年、この地に移転再建された。昭和26年焼失、間もなく廃寺となった。
江戸時代には北国街道を通行する多くの人々、海野宿にゆかりのある人々に心の支えとして、また心のよりどころとして厚く信仰されたという(通称縁結地蔵)
この文化財を惜しむ声があり残った山門、常夜灯脇に新たに建立したもの。
媒は仲立ち、間にたって取り持つこと(人)。
心してご参拝ください。
平成7月6月4日
媒地蔵尊建立委員会
海野宿保存会 |
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| 09:55 |
海野宿西端 |
| 10:00 |
海野宿出口
見事な干し柿と白菜の天日干ししている家がある。日本の秋の風景は美しい
反対側には千曲川 |
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| 10:10 |
しなの鉄道・大屋駅 |
| 10:45 |
千曲川沿い |
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太鼓岩
名称の由来
千曲川の真ん中に直径数十メートルの丸型の巨大な岩(角礫火山岩)があるのは珍しく、昭和3年(1928)には上田八景に選ばれました。この岩は対岸の小牧山の火山活動があった頃の噴火物が残った、と云われています。
古文書によりますと水量も多く「水勢、岩に激しく轟々として音あり」とか、、岩にとか、「水流が岩に当り、ドーンと響く」故に太鼓岩と呼ぶとしてあります。また、一説には岩の両側が川(皮)であることからとも言われています。なお、北側が淵になり、太鼓淵とも呼ばれてもいました。
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吊り橋
昭和5年(1930年)に岩下の有志が金を出し合って、右岸と太鼓岩の間に吊り橋(約27メートル)を架け、漁や近辺住民、観光客の便を図りました。
この吊り橋は昭和34年(1959年)の伊勢湾台風の折り災害を避けるため、切り落としてしまいました。今は両端の鉄枠がその名残です。
岩の下流は中州でかっては簗場・釣り場、水泳場として人気がありました。
太鼓岩と雨乞い
寛永18年(1641年)大干ばつの際には近郷の農民が太鼓岩に集りかがり火を焚き、天災除けの天神様の礼祭を行い「雨降らせ給え」と祈願したようです。
それ以降太鼓岩が雨乞いの場所とされたといわれています。
平成21年11月
岩下自治会
岩下ふるさと文化保存会 |
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| 10:00 |
神川橋 |
| 11:03 |
信濃国分寺駅 |
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信濃国分寺跡史跡公園(国指定史跡)
国分寺は天平13年(741年)聖武天皇発布の詔勅にあるように「造塔の寺は、兼ねて国の華なり、必ず好処を択びて、実に長久なるべし」と、国の華である国分寺はその国の最も良い場所が選ばれ、信濃の国では、今の上田市が選ばれた。
昭和38年から同46年までの発掘調査の結果、中門・金堂・講堂・回廊・塔・僧坊・築地塀・尼房・経蔵・北門などの遺構を確認あるいは推定することができ、寺域は、僧寺がおよそ東西176メートル、南北178メートル、尼寺は東西148メートル、南北150メートルと判明した。
これらの遺構の保存と活用のため、信濃国分寺跡史跡公園として整備され、全国で最初の史跡公園に指定された。
また、公園内の上田市立信濃国分寺資料館には、国分寺や上田地方の原始・古代の資料が展示され、国分寺跡から出土した瓦窯跡の観察施設も全国的に珍しいとされている。
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信濃国分寺三重塔(国指定重要文化財)
「将門記(=しょうもんき)」という本に、平将門(=たいらのまさかど)と平貞盛(たいらのさだもり)が信濃の国の国分寺川原で戦ったと記されている。
信濃国分寺が今の場所に移ったのは、この合戦で焼失されてからとも云われている。
境内に建つ三重塔は、源頼朝が善光寺参詣の途中寄進したという伝説を持つが、様式からみて室町時代に建てられたものだろうという。
1月7日、8日の縁日には、全国で唯一の珍しいお守り蘇民将来符(=そみんしょうらいふ)が売られ、土地の人は、この縁日もこの寺も親しみをこめて「八日堂(ようかどう)」と呼んでいる。 |
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| 11:10 |
資料館
入館料 250円 |
| 11:25 |
同上発
国道18号線を進む |
| 11:50 |
「大阪・王将」という看板がある。
どうして、大阪の王将がこの上田にあるのだ?という疑惑や疑問が沸いてくるが
「餃子」の文字にフラフラと足が店へ向いてしまった。
焼き飯、餃子、半ラーメンのセットで990円。ウマーい!実にウマい!
大阪・王将のラーメンは世界一だ!
街道歩きには、何が何でも「大阪・王将ラーメン」に限るのだ!グルメで美食家の内のカミさんにも上田の「大阪・王将」のラーメンを食べさせたいな! |
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| 12:15 |
同上発 |
| 12:45 |
上田神社 |
| 12:55 |
上田城入口交差点 |
| 13:00 |
上田城跡
上田城見学 |
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上田城の歴史
上田城は、真田幸村(信繁)の父、真田昌幸によって天正13年(1585)には一応の完成をみたものと考えられている。
この上田城はまもなく、天下にその名を知られるようになった。それは、この上田城に拠った真田氏が、2度にわたって徳川大軍の攻撃をうけ、みごとにそれを撃退してしまったからである。
最初の合戦は天正13年に行われた。攻め寄せた徳川勢は7千人余、迎え撃つ真田勢は2千人弱であった。しかし、真田氏の巧妙な戦術によって、徳川軍は思わぬ大敗となり、死者千3百人余もだした。これに対し真田方の死者は40人ほどであったという。
2度目の戦いは、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦に際してのものであった。関ヶ原へ向かう途中、上田へ押し寄せた徳川秀忠軍は、3万8千人という大軍。これに対し、昌幸・幸村父子の率いる上田城兵は、わずか2千5百人ほどであった。しかし、この時も徳川勢は上田城を攻めあぐね、この地に数日間も釘づけされただけに終わり、関ヶ原での決戦におくれるという大失態を演ずることになる。
上田城は、いわば地方の小城であった。石垣も少なく、一見したところ要害堅固な城とも見えない。しかし実際は、周囲の河川や城下町を含めた全体が、きわめて秀れた構造となっていたことが、現在、学術的研究によって明らかになってきている。全国に数多い近世城郭のなかで、2度も実戦を経験し、しかも常にこのような輝かしい戦果をあげた城は、ほかに見ることはできない。
上田城はその後、徳川軍の手で破却されたが、真田氏にかわって上田城に入った仙石氏によって復興された。(寛永3年、1626)この時復興された上田城は、真田氏時代そのままであったとみてよく、仙石氏の後、松平氏の世となってもほとんど変化はなかった。
廃藩置県後、明治7年、上田城は民間に払い下げられ、再び廃城となった。
この際、本丸付近を一括して購入した丸山平八郎は、明治12年、松平神社(現 真田神社)創建にあたり本丸南側の土地を神社用として寄付、ついで、明治26年には、残りの土地を遊園地用として寄付した。これが上田城跡の公園化への第1歩となった。
現在、三の丸地域は改変しているが、本丸・二の丸には土塁・塀跡などがあり、かつ本丸の三基の隅櫓は昔の姿を留めている。
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真田井戸
この井戸からは、抜け穴があって城北の太郎山麓の砦に通じていた。敵に包囲されてもその抜け穴より兵糧を運び入れるにも、城兵の出入りにも不自由しなかったという。
上田市木 一位の木 製
御神木眞田杉由緒
信州上田城は信州眞田藩眞田幸隆候の後継者眞田昌幸公によって天正11年(1583)に築かれ、息子眞田幸村や城下の住民らの活躍も有って徳川の大軍を二度にわたって退けた明城として、歴史にその名をとどめております。
かって城址には老杉が林立しておりましたが、今は数本を残すのみとなりました。そのうちの1本が大風等により倒木の恐れ
があり、伐採やむなきにいたりました。年輪を数えましたところ、450年に及び、まさに築城当時より眞田3代を始め仙石、松平とこの城の栄枯盛衰を見てきた老木であることが判明いたしました。
上田城と眞田三代の歴史であり、「心と魂」でありますこの杉を、何かの形で後世に残そうとその切り株を「赤備え兜」で風雨から守り御礼、表札等各種木製品を記念に制作した次第です。
時あたかも、上田城本丸に鎮座し、代々の城主をお祀り申し上げます眞田神社では平成の大修理に着手しております。この時に当り、ご寄進頂きました篤信の方々や参拝の皆様に老木の杉をまって作りました品をお分けすることにいたしました。
眞田魂はふるさとの大自然の智恵、人や命をすべて愛し助ける仁愛、逆境に立ち向かう勇気の「智、仁、勇」の三つとその基となる「愛と和と義」の六つの六連魂で出来ています。長く城を見守りました大樹をもって作りました品にはこれらの真田魂が宿っております。
ご尊家の繁栄をお守りし、ご子孫の宝となると存ずる次第です。
駕篭(かご)
旅の途中、鴻巣宿(埼玉県鴻巣市)で死去した真田信之の妻大蓮院の遺骸を、上田まで運んだと伝える駕篭。
大蓮院は徳川家康の重臣本田忠勝の娘で、小松殿(小松姫)と呼ばれ、死後は大蓮院と追号された。賢婦人で女丈夫の聞こえが高かった。
元和6年(1620)、48歳で病没。墓は上田の芳泉寺のほか、沼田(群馬県)と鴻巣にもある。 |
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長野県宝 上田城 西櫓
上田城西櫓は、江戸時代初期の寛永3〜5年(1626〜1628)にかけて真田氏の後に城主となった仙石氏によって建てられ、上田城で建築当初のままに残されている唯一の建物です。
建物の大きさは、1階が桁行9.85m(5間)、梁間7.88m(4間)の大きさで、2階は桁行8.64m、梁間6.66mと少し小さくなっています。
外壁は、雪の多い地方で用いられる腰下見板(=こししたみいた)が張られ、壁の上部から軒廻りにかけては防火のために白漆喰で柱などを塗りごめた大壁造りとなっています。また、壁に設けられている穴は、弓矢や鉄砲を撃つためのもので、長方形の弓狭間と方形の鉄砲狭間があります。窓は縦格子の付いた突き上げ板戸です。
建物の内部は、中央に丸太材の芯柱が立ち、仙石氏の「仙」の字の焼印が押されています。壁は柱を残して漆喰を塗った真壁造りで、幕末期に補強のために取り付けられた筋違が見られます。
屋根は、丸瓦と平瓦で葺いた本瓦葺きで、鬼瓦には最後の城主となった松平氏の五三桐紋がついています。なお、鯱瓦は昭和3年に徴古館として改修された際に寄付されたもので、江戸時代の上田城の櫓には鯱瓦は無かったようです。
西櫓は、上田城本丸の西虎口(出入口)を固める重要な櫓でしたが、戦争のなかった江戸時代には、もっぱら倉庫して使用されていました。また、櫓の名称も江戸時代には特になく、「西櫓」の名称は、南櫓と北櫓が復元された後につけられた新しい名称です。
上田城西櫓は、昭和18〜24年に移築復元された南櫓、北櫓とともに、長野県内では数少ない江戸時代初期の城郭建築の貴重な遺構として、昭和34年に長野県宝に指定されました。
上田市教育委員会 |
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| <上田城(=写真左)における真田一族の案内する可愛いお嬢さん> |
真田氏 2代 40年間
天正11(1583)●真田昌幸、上田城を築き始める。
13(1585)●第1次上田合戦
真田勢、徳川勢7000人余を撃退。
慶長 5(1600)●第2次上田合戦
上田に籠城した真田昌幸・幸村父子、徳川勢を退ける。
●真田信之、上田城主となる。
上田6万5000石、沼田3万石計9万5000石
慶長19(1614)●真田幸村、大阪入城。冬の陣で活躍。
元和 元(1615)●大阪夏の陣で幸村奮戦ののち戦死。
元和 8 (1622)●真田信之、松代へ移封さる。
真田一族の精神
我らが掲げし六道千銭は
俗に言う三途の川の渡し銭
そして六道とは仏道における
地獄 餓鬼 畜生
修羅 人間 天上の途
一切の衆生は善悪の
業によって赴く
六つの冥界をあらわす
すなわち
六道銭を旗印とする
我ら真田の志は
六道いずれの世界にも
いつ何時なりとて
陥る大覚悟
家紋「六連銭」の由来
眞田家の家紋として名高く六文銭とも呼ばれるが仏教では死者が三途の川を渡る時、渡し守に払う渡り
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| 14:00 |
同上発 |
| 14:10 |
山極博生の地 |
| 14:20 |
北向観音堂 |
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| 14:35 |
野菜、果物の市場
安い、買いたい!ぜぇーんぶ、買い占めたい! |
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| 15:15 |
和合城跡まで40分と書いてある。
現在の地形ではとんでもない山奥にある。 |
| 15:22 |
坂城町
道の両側から岩山がせまる。
寒くなってきた。
標高415m |
| 15:25 |
くらかけ橋 |
| 15:30 |
ねずみ宿。へんてこな名前だ。
会地早雄(かおちはやお)神社 |
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北国街道鼠宿跡
ここは鼠宿は、北国街道の上田宿と坂木宿の間宿であった。
真田氏は元和8年(1622)上田から松代に移ると、当時南条村と称していた金井村以南の地を鼠宿村と改め、翌9年に鼠宿村の北部と金井村の南部を合わせて新たに新地村を作ると共に、鼠宿・新地両村の共同経営とする「鼠宿」の宿場造成に着手した。
上田・坂木の両宿は幕府公認の本宿で、鼠宿は、松代藩が設けた私宿であった。
藩主の参勤交代・領内見分、藩士の日常出張などの際の宿泊所を設けて人や物の出入りを取り締まった。
岩鼻は松代領と上田領の境界で、東・北信を結ぶ交通・経済・政治上の要衝であり、鼠宿の口留番所における人と穀物・酒・漆等に対する取り締まりは関所なみの厳しさであった。
岩鼻はまた坂木の横吹坂と並ぶ街道一の難所で、加賀の前田候は参勤交代の際岩鼻を通過すると、飛脚をたてて無事を国許に伝えたという。
宿場の南北の入り口に桝形があり、道路は鼠宿・新地両村境でカギ形に屈曲し、道路の中央に用水を通し、川の東に沿って柳・柘榴・海棠等の並木があり、井戸がその間に点在した。
本陣(正式名は御茶屋)、脇本陣、問屋、馬宿のほか、一般旅人の休息する茶屋もあって、宿場はにぎわった。
宿場南端の会地早雄神社は由緒深い社で、境内に江戸時代に建立の万葉歌碑と明治に建立の芭蕉句碑が並ぶ。
明治維新を迎えて宿場は廃され、明治9年(1876)に北国街道は国道となったが、後信越本線の開通により街道交通はさびれていた。
以来幾多の変遷を経、今岩鼻の国道は新たな車時代の難所となり、建設省によって急崖が削られ、国道の拡幅、歩道の新設、緑地帯の造成の画期的な工事が竣工した。
これを記念し、昔日の面影をしのび、これを記して後世に伝えるものである。
平成6年8月 坂城町
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| 15:35 |
ねずみ交差点
明治天皇小休止の石碑 |
| 16:00 |
谷川(やがわ)交差点
今日はここまでとする。寒い
34,891歩 |
| 16:10 |
テクノさかき駅
なんとも不釣り合いな駅名である
しなの鉄道 230円 |
| 16:25 |
しなの鉄道・上田駅 |
| 16:40 |
駅前の「上田スティ」にチェックイン
昨夜と同じRm809に入る。
明日の新幹線も取れた。
夕食900円/ホテル代4700円/
新幹線座席指定380円 |