北国往還

【北国脇往還】(=北国街道)

 北国街道(ほっこくかいどう)は日本の街道である。江戸幕府によって整備された脇街道で、北国脇往還(ほっこくわきおうかん)、善光寺街道(ぜんこうじかいどう)などとも呼ばれる。

追分で中山道と分かれ、善光寺を経て直江津で北陸道に合流する。

概要 [編集]

本道は、善光寺への参拝のために整備され、佐渡の金を江戸に運ぶ道として五街道に次ぐ重要な役割を果たした。軽井沢町から上越市までの区間は現在の国道18号にほぼ相当する。

善光寺平の入り口屋代宿(矢代宿とも書く)を過ぎて雨宮の渡しで千曲川を渡るが、川を渡らずに東岸の松代宿や福島宿を経由して、牟礼宿で本道と合流する松代道と呼ばれる脇道があり、谷街道の一部と重なる。この路は、犀川の川止めで本道が足止めされた場合、布施の渡しで千曲川を渡って福島宿へと迂回し、足止めを回避することを目的としている。

北国街道

第3日目
<(自宅)=坂木宿〜屋代宿〜篠ノ井宿>
月 日; 2013年5月16日(木)
ojisan
区 間; (自宅)〜さかき〜篠ノ井(矢代宿)
時 間; 6時間55分、11.8km
費 円; 13、266円

歩 数;

44、500歩

 


06:23

自宅発 京王バス始発.。190円
この時期は未だ、朝方には寒さが残る。快晴。

07:13 新宿発
東京=上田駅間、JR往復乗車券と片道新幹線とで6,460円
07:52 東京駅発
自由席あさま507号、乗客はほとんどがサラリーマン風、満席。
雲はあるがまずまずの晴天。
09:32 JR上田駅
とてもさわやか、晴天。バンザイ!
09:47

上田駅発
しなの鉄道に乗る。 とても懐かしい。

09:55 テクノさかき駅
たった一人の駅員(=高年の方)に話しかけられる。
街道歩きを「いいなぁーうらやましい」と云ってくれる。良かった!この人は、きっと良い駅員さんだ。
10:05 18号線「谷川交差点」(=前回の終着点)
ファイトーッ!
 
hokkokukaidou hana
テクノさかき駅から10分ほど18号線の交差点
今回の出発点。今日も快適な天候に恵まれた。前方は善光寺方面
  色鮮やかなポピーの群落
  信濃地方の花はとても色鮮やかだ
10:15 中之条信号
旧北国街道を歩く
10:17 文化の館(=下の写真・左)
 
bunkanoyakata kaidou
<文化の館> <北国街道は続く>
北国街道はほぼ18号線と並行する
    文化の館
 中之条ご出身で、東京在住の塚田通明氏より、生家の由緒ある建築物及び屋敷をご寄贈いただきました。
 往時の建築と庭園の美を生かし町民の文化創造の場として「文化の館」と名づけました。
        平成7年1月  坂城町
             坂城町教育委員会
10:20 諏訪の庭の松
藤と共に見事な松
 
fuji <藤の花が見事な前庭>
10:30 善光寺常夜灯(=下の写真)
 
kaidou jouatou
左が旧北国街道、右は国道18号線、その分かれ目にあるのが「善光寺常夜灯」(=上の右の写真)
10:35 四ツ屋の信号
10:37 甘泉。旅人が水を飲んだ石碑
道路脇に、昔は水が湧いていたらしい。飲んでみたい!今ではすっかり空井戸になっている。
 
kansen dousosin
<甘泉> <堂叡山道>
10:50 庚申塔/道祖神
 
dousosin murakami
<庚申塔と道祖神> <古い民家の連なる旧街道>
 
    田町十王堂(閻魔道)
 閻魔堂とも呼ばれている田町十王堂。十王とは人の死後、初七日から三周忌までの間に冥途の10人の王が10回の裁判をして、来世の行き先を決めるという、十王信仰に由来するものです。
 これは、中国の道教の影響によるもので、十王のうち怒った顔で有名な閻魔王の本当の姿が地蔵菩薩であることから、その信仰が盛んになるにつれて、閻魔王が十王の中心になったと云われています。
 生前に十王に御参りすると、死後の裁判のとき手心を加えてくれるとされ、信仰は人々の間に広まり江戸時代は各村落に十王堂が設けられていました。十王の祭りは正月と盆の16日、つまり藪入りの日で、閻魔の祭日と呼ばれていました。田町の祭りは盆(8月16日)のみですが、地域住民により現在もにぎやかに引き継がれています。
 明治初年、新政府の廃仏毀釈政策で檀家のない十王堂はすべて廃されました。そのころ田町の堂は、火災に見舞われましたが、諸像は運び出されて無事でした。庶民の十王に対する信仰は根強く、地区の公会堂を設けたときに、十王像などを安置し、やがて祭も復活しました。地獄の沙汰も金次第と云われますが、人々にとって、来生で地獄に落とされることは最大の恐怖だったのです。田町十王堂は、近隣の十王堂が廃されたことから多くの参拝客を集め、当地でもっとも人出の多い祭りと云われました。また十王堂は遊郭の少女たちの教育の場としても使われ、出浦氏の墓地にあったお堂を利用して祀られたと考えられています。
          平成19年3月  
                        田町区
                        坂城町教育委員会
10:55

村上義清公墓所

 
murakami murakami
<村上義清の墓所>

    村上義清公墓所
 この墓所は、第3代坂木代官長谷川安左衛門利次が、名家遺跡の亡失を憂え、戦国の雄将村上義清公の墓所建設を思い立ち、明暦3年(1657)義清公の玄孫善豊や村上氏の臣出浦氏の子孫、正左衛門清重らにはかり、自ら施主となって出浦氏所有の墓地に、義清公供養のための墓碑「坂木府君正四位少将兼兵部小輔源朝臣村上義清公神位」を寄進によって設立したものである。その後、寛保2年(1742)清重の子清平が玉垣を築き、寛政3年(1791)清平の子清命が、石柱「御墓所村上義清公敬白」を建てた。昭和45年以来諸整備補修が行われ、昭和47年墓碑の上屋と鉄柵が設置された。平成8年には全面的改修となり、現在の諸施設になった。
          平成8年3月
                     坂城町教育委員会

11:00 西宮神社
ここで左折する
 
jinnja honnya
<西宮神社> <しなの鉄道・坂城駅>
11:05 坂城駅前
11:07 旧坂木宿本陣表門
たいそう立派なお屋敷。内部は記念館として解放されている。(有料)
 
sakaki-honjin skaki

    旧坂木宿本陣表門
 ここは江戸時代の初め、坂木宿本陣の宮原家が置かれたところです。
 この本陣は、寛政11年(1799年)の火災により焼失してしまいました。脇本陣の中沢家が代わって本陣となりましたが、天保4年(1833年)に宮原家が再建され、参勤交代での、加賀藩の本陣は交代で勤めることとなりました。
 この本陣の表門は、間口6間、奥行2間半で、入母屋造り、桟瓦葺です。
 門扉以外は土壁による大壁造りで、扉には八双金物という飾り金具の痕跡があります。このことから、江戸時代の中ごろに建てられたものと考えられます。
 以後、何度か改築が繰り返されましたが、坂木宿本陣の跡として唯一残った遺構として、平成16年3月25日坂城町指定有形文化財に指定しました。
           平成17年3月 坂城町教育委員会

11:30

一部を手入れされた古い民家
たかさ?・・・・さかた?まさか、???なんなんだぁー、このデカい表札は?

 
sakasa furuiminka

    鼠宿(ねずみじゅく)
 北国街道において、上田領から松代領にはいる最初の玄関口が鼠宿になります。鼠宿は元和8年(1622)、松代藩の私的な宿場として成立しました。翌年にはとなりの新地村も鼠宿と同様に宿としての役割を命ぜられます。
 鼠宿は坂木宿と上田宿のあいだに位置し、松代藩と上田藩の境界にありました。公(おおやけ)の宿場ではなく、あくまでも松代藩のみの利用に限定され、松代の殿様が休憩・宿泊するときや藩の荷物を継ぎ立てるときに対応しました。
 鼠宿は藩境の場所になり、脇には「鼠の岩鼻」とよばれる交通の難所をひかえていたことから、鼠宿で宿泊する者も多くなり、坂木宿からうったえられることもありました。
 宿場の入口には口留番所とよばれる関所に準じた施設が万治年間(1658〜60)、藩によって設置されました。ここでは女性の出入りと物資の領外流出を監視することがおもな任務として、代々長谷川家がその役をつとめました。

11:38 善光寺常夜灯
 
joyatou     北国街道について
 中山道追分宿(軽井沢町)から分かれ、坂木宿をとおり、越後国高田(上越市)で北陸道とむすばれる道を北国往還あるいは北国街道とよび、五街道につぐ重要な街道でした。この道筋は古くから使用され、上杉景勝の時代に越後府中(上越市)と海津城(長野市)むすぶ伝馬制がしかれました。その後、慶長8年(1603)2月に坂木宿へ伝馬朱印状がだされ、慶長16年には矢代(千曲市屋代)以北の北国街道諸宿にたいし、越後福島城主松平忠輝から伝馬条目が配布され、街道としての整備がすすみました。
 北国街道の各宿場には常時25人・25疋の人と馬をそなえることがさだめられ、それ以上臨時に必要とするときは、近隣の助郷村から人馬をあつめました。北国街道は佐渡の金山から産出する金銀の江戸への輸送や、加賀の前田家をはじめとする北陸・信越の諸大名の参勤交代に利用され、信越地方と関東方面との物資の交流路としても重要で、善光寺参りなどの人々の往来もおおく、重要な街道でした。
11:55 横吹新道づくり案内板
 
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    旧北国街道・横吹道跡
 坂木宿を抜けた所から苅屋原榎並木地籍までを結んで山腹の断崖を旧北国街道が通じていた、横吹八丁とも言われた所である。大部分当時の形跡を失い、坂城側からの登り道、それから山腹を西に進む横道の一部分が明らかな遺構として認められるだけである。
 この道は中世においては極めて危険な細道であったが、慶長16年(1611)北国街道全通に当り道幅を広げて交通の便にした。しかし、十分な道幅がどれず往還の大名さえ籠からおりて通ったという北国街道最大の難所であった。
 明治10年(1877)1月山下の千曲川沿いに、新国道が開通し、以後往還の使用がなくなった。
           昭和47年11月 坂城町教育委員会

    横吹新道づくり
 江戸から明治にかけて、人々の往来が自由になり、商売や仕事で上田や長野方面へ行き来する人も増えてきました。しかし、坂木から戸倉へ行くための「横吹坂」(よぼぶきざか)はとても険しく、人びとは大変困っていました。
 そこで1876(明治9)年4月、坂木村は長野県令(現在の知事に相当する職)に次のような願い書を出しました。
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 北国街道の横吹坂は、高い山の中腹を通っている険しい道で、山の下は千曲川が突き当たって急な流れとなっている。風雨や雪の日には人や馬がたびたび怪我をしたり、中には落ちて命を落とす人もいて大変困っている。そこで荷車や人力車なども通行できる平らな道を、横吹坂下の千曲川の川縁につくりたい。どうかみんなのためになる新しい道づくりを許可していただきたい。
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 この願いは同年8月に「今ある横吹の坂は壊さずにいつでも通れるようにしておくなら、新しい道をつくってもよい。」と国から許可が出ました。
 新しい道路づくりには坂木村の人々が交代で参加し、岩を落としたり石を運んだりしました。山を崩すための火薬が不足していたため、硬い岩にくさびを打ち込み、水をしみ込ませて割るなど、苦労が絶えませんでした。洪水で割り落とした大石や泊まり用の小屋などが流されるなどの被害も乗り越え、1877(明治10)年に横吹新道は完成しました。
 最初の6年間は有料道路として一人7厘、馬一疋1銭4厘でしたが、これによって馬車や牛車、人力車なども通行できるようになり、村の発展につながりました。
          平成20年3月    坂城町・坂城町教育委員会

12:00 笄の渡し
 

 

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     笄(こうがい)の渡し
 時は戦国、室町末期。村上義清は幾年にもわたって武田信玄と激しい戦いを繰り広げていましたが、天文22年(1553)4月、ついに居城の蔓尾城が陥落し、敗走の混乱の中、奥方と別れ別れに城を後にしたのでした。
 義清夫人は数人の腰元を従えて着のみ着のまま暗い山道を下っていきました。
 千曲川辺に来た義清公の奥方たちは、この川を渡って村上の支城である上山田の荒砥城へ逃れようと、船と船頭を探して訳を話したところ、船頭は快く引き受けて無事に向こう岸の力石につくことが出来ました。奥方は、我が身の危険をかえりみず舟を出してくれた船頭に心打たれ、お礼として髪にさしていた笄を手渡しました。
 村人たちは義清公夫人を偲んで、この渡しを「笄の渡し」と呼ぶようになったということです。
  中部北陸自然歩道
         環境省 長野県
12:05 泉徳寺
「虎杖の句碑」
  toratue
12:15

セブン・イレブンでミルク紅茶、カレーパン、コロッケパン、鳥の唐揚げ1本、合計466円、豪華にして華麗なこの昼食。歩きながらこれを食べる。 ウメーッ!
東京のミシュラン・三ツ星レストランなんて目じゃない! こんな贅沢をして世間から許されるのだろうか?
グルメで美食家のうちのカミさんにも食べさせたいなぁー!コロッケと鳥の唐揚げ

12:55

戸倉上山田温泉入口交差点
この付近には何も見るべきものがない。18号線をひたすら歩くだけ。ファイトーッ!
長野まで19kmの標識

13:00 戸倉駅入口交差点
 
ekimae 国道18号線(=北国街道)
戸倉駅入口交差点
sobaya

交差点の角にある古い、有名な蕎麦屋
食べてみたい!
豪華な昼食を歩きながら食べたばかり、残念ながら蕎麦屋の前を通過する。残念!

13:10 御岳行者碑
塀の上、高台にある。ここで右の細い旧道に入る。
13:25 百万編供養塔
小さな石碑
13:27 信濃宮御古跡
二町の石碑
13:33 四基の石碑
13:58 寂蒔水除土堤・・・・な、なんて読むんだろう?
 

      寂蒔水除土堤(じゃくまみずよけどて)
 この土堤は、千曲川の氾濫から田畑や家屋を守るために、元禄6年(1693)寂蒔・鋳物師屋・打沢
・小島の四か村によって築かれたものです。
 市道埴生本線(北国街道)と土堤が交差するところは、非常時には土のうや石で道を部分を埋めて、ひと続きの土堤として水害を防いだものです。
 当時の四か村民の水害に対する苦労と、工夫がしのばれること土堤は、この地域にとって貴重な文化財です。
          千曲市教育委員会

 
jinja jinja
     <屋代宿脇本陣跡>
14:30 屋代駅前
 
yasirojuku

    北国街道矢代宿
 今から4百年前の慶長16年(1611)江戸幕府により北国街道が制定され、矢代宿がつくられました。
 屋代宿は、北国街道と松代街道の分岐点で、この地点から松代街道が始まります。
 この街道の両側には本陣と脇本陣があり、加賀藩の殿様の大名行列や佐渡からの金銀の輸送にも使用され、多くの人や荷物でにぎわいました。
 このように、屋代は昔から栄えた歴史と伝統を誇る町です。

          平成23年3月20日  屋代を語る会

14:37 大きな筆塚
14:45 須?岐神社
横町交差点
14:55 本陣・脇本陣跡
 
hakusansan

    歯瘡医殿(しそういでん)はくさんさん
          所在地 長野市篠ノ井御幣川343

 徳川11代将軍家斉の天明、寛政の時代、御幣川の小市家に信心奇特の人がいた。このころ難病の苦しみを行力によって癒してくれた行者がいた。
 行者は、歯瘡(しそう)(現在の歯槽膿漏)がひどく、他の人々にはこの悩みをさせたくないと誓願をたて、幾日も艱難苦行をし、行人塚で生きたまま入定した。
 小市家では、居宅の土地へ石祠を建て「はくさんさん」として勧請した。
これに讃行する村人は、寛政9年(1797)に小林元右衛門、宮入兵右衛門が領主となって、「諸法一万講」を作り、社殿や夜燈を奉献し、毎年9月1日に祭事を行っている。
現在の社殿は、平成の初めに改築され、入母屋造妻入り瓦葺で、間口1間半、奥行き2間で拝殿の奥に石祠がある。全国的にも珍しい歯の神様である。
なお修行した場所は、行の橋、行人塚として今も残っている。
          小市家・御幣川区

15:35 同上に戻る
16:15 篠ノ井橋
千曲川
16:30 見六橋
 
nusakamajinja
<御幣川神社>
16:37

御幣川(=おんべがわ)五差路

16:50 JR篠ノ井前
川田家前
  kawadake
17:00 JR篠ノ井駅
ホテルの近くにあるビジネスホテルにチェックイン。朝食付き6,150円
17:20 ルートイン篠ノ井、何はともあれ、まずは風呂、あーぁ天国!
今日の歩行は 44,500歩
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