北国街道

【北国脇往還】(北国街道)

北国街道(ほっこくかいどう)は日本の街道である。江戸幕府によって整備された脇街道で、北国脇往還(ほっこくわきおうかん)、善光寺街道(ぜんこうじかいどう)などとも呼ばれる。
追分で中山道と分かれ、善光寺を経て直江津で北陸道に合流する。
本道は、善光寺への参拝のために整備され、佐渡の金を江戸に運ぶ道として五街道に次ぐ重要な役割を果たした。軽井沢町から上越市までの区間は現在の国道18号にほぼ相当する。
善光寺平の入り口屋代宿(矢代宿とも書く)を過ぎて雨宮の渡しで千曲川を渡るが、川を渡らずに東岸の松代宿や福島宿を経由して、牟礼宿で本道と合流する松代道と呼ばれる脇道があり、谷街道の一部と重なる。この路は、犀川の川止めで本道が足止めされた場合、布施の渡しで千曲川を渡って福島宿へと迂回し、足止めを回避することを目的としている。

北国街道

第6日目
<北国街道は「出雲崎宿」まで歩き終え、ついで「北国西街道」を予定>

月 日; 2013年7月1日(月)
ojisan
区 間; 柏原=二本木 23.5km
時 間; 6時間17分
費 円; 12,660円

歩 数;

41,282歩

 

長野駅前にある「Hotel A Best」に泊まる。夕食付で9,950円(2泊で)、安い。
JR「大人の休日クラブ」を利用して東北地方を周遊、今日はその第3日目。
駅前のマクドナルドでフレッシュ・マフィン・セット460円の朝食。美味いんだなぁ、これが。街道歩きの朝食は断然マックに限るのだ!

07:45

JR長野駅発「妙高高原」行き
6時35分に長野駅に駆けつけると、直江津行は5分前に出発した直後だった。
車内にはパラパラと高校生らしい乗客がある。

08:07 牟礼(むれ)駅
ここで高校生がドッと降りる。
ほとんどがダメ高校生としか見えない。
ここから車内は4人だけとなった。
08:20 黒姫駅
曇り、気温25度
とても気持ち良い気候
駅から同じ方向へ黒服の素敵な女性が先行する。
 
黒姫駅 furui-ie
     <JR黒姫駅>
 目の前に黒姫山が望まれる
<古い民家がたくさん残っている>
08:35 柏原本陣跡(前回の終点=今回の出発点)
 
本陣

    歴史の道 北国街道 柏原宿

 柏原宿は鳥居川の南にある古間宿と 合宿で、月の前半を柏原、後半を古 間宿で分担して、人馬の輸送を行いました。南北土手の内側に52軒分の 伝馬屋敷と、街道の中央に用水と松 並木がつくられました。1819 (文政2)年ごろは、旅籠屋10軒・茶屋4間・酒屋2軒などがあり、一茶の家は宿場のやや南よりにあり、本陣の観国・桂国は俳句をたしなみ、一茶と親しく交流しました。
1827(文政10)年閏6月、大火のため一茶家をふくむ92軒が焼失しました。一茶は仮住まいの土蔵に半年ほどくらし、そこでなくなりました。
 宿場はその後復興し、江戸末期には、再び加賀金沢藩などの参勤交代の宿所になりました。

  中山八宿
   我宿は朝霧昼霧夜霧哉 一茶

柏原宿本陣跡
 北国街道は、加賀金沢藩・大聖寺藩などの参勤交代や、佐渡の御金荷などの重要な交通路として栄えました。この付近は、雪深い信越国境に位置し、中山八宿と呼ばれた難所でもありました。柏原場宿の中央には松並木と町用水があり、本陣の前に高札場がありました。
 本陣には、御門や御殿が設けられ、御殿の天井は、加賀藩の紋所「梅鉢」の格天井で飾られていました。代々中村六左衛門が世襲し、桂国(利和)・観国(利賓)は、俳句をたしなみ、一茶と親しく交友しました。明治・大正時代には、第13代六左衛門利貞(瑞鷹)と弟の六郎利謙(蘿月・らげつ)が、一茶顕彰に力を尽しました。
石碑
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<柏原は小林一茶の故郷>  
08:50 村の鍛冶屋の石碑
 
石碑  この「村の鍛冶屋」は大正元年(1912年)
信濃教育会の推薦で文部省唱歌に採用され
昭和17年(1942年)4年生の強化賞に掲載
された。
 祖父の敬吉は此の地で内弟子を抱える程
の大鍛冶屋で「かねきち印」の高品質な鎌は
全国に流通されていた。然し大正中期類焼火
災に逢い全てを失い失意のうち廃業を余儀な
くされた。
 村で作られた唯一のこの詩と村の発展に
大きく寄与された鍛冶職全員の方の功績を
心から賞賛し後世に誇りを以って伝える為に
この碑を建立した次第である。
  平成21年(2009年)5月吉日
         岩崎屋当主 若月敬夫
09:05  
 
sekiwaka 柏原を出て約500m。「関川の関所」のカンバン
09:10 高速自動車道を通過
09:13 信濃町IC入口交差点
ここで右折。
ここから野尻湖方面へ向かってダラダラ下る。
  ichirizuka
 

                             <野尻一里塚>
 一里塚は、江戸時代のはじめ、江戸の日本橋を起点として一里(3・9km)ごとに、主要な街道の両側につくられました。北国街道の一里塚は、宿駅が確定した1611(慶長16)年ころに築かれたものと思われます。塚の上には榎や松・桜などが植えられ、旅の目印とされました。信濃町には、赤川・野尻・古間の三か所にありましたが、野尻の一里塚は、一対で残された貴重なものです。塚の大きさは直径約12m、高さ約2・6m、塚と塚の間は約17mです。

 中山道「追分宿」から分岐して越後「出雲崎宿」に通じる街道を北国街道といい、脇街道を含めると39の宿場がありました。加賀金沢藩・越後高田藩などの北陸大名の参勤交代や、佐渡の金銀を江戸に運ぶ重要な通路でした。

      あとどもはかすみ引きけり加賀の守   一茶
                信濃町教育委員会

09:35 芭蕉の句碑
野尻湖が見え始めた。
 
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                    <芭蕉の句碑>
          うめが香に
             のつと日の出る
                 山路かな   はせお(=芭蕉)翁
   文政6年未年9月
   痩垣も見所有もの還りばな     湖元舎 魯堂
   むだ歩行せよ迚(とて)扇貰いけり 六如亭 関之

 俳人松尾芭蕉の130回忌にあたる1823年(文政6)9月、野尻宿仏心庵前に建立されたもので、信濃町で一番古い句碑です。表面に芭蕉の句、裏面に一茶門人魯堂と関之の句があります。野尻宿は俳諧がさかんなところで、多くの一茶門人がいました。魯堂は池田伝九郎といい、伝九郎用水開さく者の末裔、関之は池田十郎といって旅籠屋を営んでいました。

09:40

野尻宿

   「日ぐらしや 急に明るき 湖の方」  一茶

あのー、これって、名句 なの?
なんて言うか、小学生の作文でもこの程度の・・・・文章は見たような気がするのだが。
「さすが、一茶の俳句は素晴らしい!」って感動する為には、何ていうか・・・・一工夫が必要だ。

 
石碑 句碑
<故郷に近いせいか、この付近には「一茶の句碑」がやたら多い>
ついで、「芭蕉の句碑」が目立つ
                      <歴史の道・北国街道 野尻宿>
 北国街道は中山道追分宿で分岐して越後の出雲崎宿にいたる街道で、野尻宿は信越国境に位置する
重要な宿場でした。
佐渡の金銀を江戸へ運ぶ輸送路にあたり、安養寺境内には御金蔵(おかねぐら)がありました。柏原・古
間・野尻の三宿の村役人が御金荷の警固を務め、牟礼宿まで運びました。
 1781年(天明1)年ころの野尻宿には、公用通行人に人馬を提供する76軒の伝馬屋敷があり、両側に
土堤が築かれていました。宿場の中心部は間口の広い屋敷(馬役)がならび、10軒余の旅籠屋がありました。
また、糊光・関之・魯堂など俳句をたしなむ者が多く、一茶はしばしば野尻宿を訪れました。
1823(文政6)年には、一茶門人によって芭蕉句碑が建てられました。
そば所(とこ)と人はいふ也赤蜻蛉  一茶
09:45 野尻湖
未だ観光シーズンには早く、誰もいない。寒々とした風景。
 
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<野尻湖入口にある看板> <野尻湖ボート乗り場>
09:50 野尻宿本陣跡
 
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<「野尻宿」本陣址>
10:00 安養寺((藤の木山)と書いてある。
この付近から車の通行が無くなった。
10:45 赤川一里塚。
途中で一〇頭ほどの猿の群れに出会う
 
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<赤川の一里塚> <街道に猿の群れが出没した>
       <歴史の道  赤川一里塚跡>
 街道の両側に1里(3・9km)ごろに築かれた塚を一里塚といい、赤川は信越国境に位置していました。関川を越えると、越後の国に入る関川の関所がありました。一茶の妻きくの実家常田家はこの後方にあり、一茶はよく訪れました。
              信濃町教育委員会
  うば坂
別名「五文坂」
坂が急勾配であったため人足が五文の駄賃で荷物を運んだという。
 
sekibutu flower
flower flower
10:50

関川の関所(長野と新潟の県境)
関所入場料 500円
気温23度、晴れてとても快適。足が痛い。
この関所、きれいに再建されている。関所の周囲には住宅地と川が流れている。JRも通っている。
小休止、パンと牛乳で早めの昼食。

 
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        <関川の関所。かなり厳重だったらしい> <あまりにリアルで少々不気味だ>
      関川の関所
 江戸時代、幕府は全国に54か所の関所を設けました。
 ここ関川の関所は、高田藩の有する越後三陥関の一つで加賀藩などの参勤交代行列と佐渡産金の両方が
通過するため、非常に重要な関所で取り調べが激しかったといわれます。
 関所は幕府の支配を受け、その土地の大名や代官が行いました。
 関川の関所は、藩士・足軽数名と現地採用の郷足軽など十数名が勤務しその中に「出女」の取り調べをするため、常勤の人見女がいました。
 関所の開門時間は日出から日入までとしあ閉門後はなんびととも通れませんでした。 関所破りは重罪で極刑に処さられました。
      関所の改め
 関所は朝六つ時に木戸が開かれ、暮れ六つ時に閉じられた。夜間の通行は原則的に禁止されていたが、加賀、富山、大聖寺の3藩の飛脚と佐渡の御金荷は例外とされ通行が許された。
 関所の主な任務は、幕府の道中奉行より下された「幕府条目」に則って行われ、それらは主に女性通行人の取り締まりが中心となっていた。また穀物や産物などの物品の通過についても細かく定められ、取り調べられた。
 しかしながら「入鉄砲」についてはこの関川関所では特に厳しく改められていなかったとある。
11:20 関所出発
ここからは新潟県である
11:50
suki-jinjya kurohime-yama
<「スキー神社」の鳥居>
さすが日本におけるスキー発祥の地だ
<麓にはスキー場が見える黒姫山>
11:50 妙高高原中学校
11:54 神明神社
12:00 毛祝坂三差路信号
      清き泉の由来
 北国街道、毛祝(粧)坂集落は近江国佐和山城主、石田治部少輔三成の一族で関ヶ原の戦い (慶長5年、600年)に敗れ、かねて親交のあった、春日山山麓、茶畑上杉氏旧城地に浄国寺(現上越市寺町3)を訪ね来る・加賀藩主、前田利家とも盟友で以後、前田家は代々、参勤交代で毛祝坂集落を通行の際、この清水で身を清め毛祝坂神明神社に参拝し、関川関所に向かった。
前後190余回の参勤交代で通行のたびに参拝を欠かせなかった。
盟友の子孫に対しての敬意と石田治部少輔三成に対して特別な好意を感じさせるのである。
 地籍 妙高市毛祝坂18番地
12:08 「ふかざわばし」
直ぐそばに天然ガスタンク」(ガイドブックの通り、正しい古道を歩いている)
12:15 田切橋を渡る
12:18 田切交差点
12:35 二保宿
 
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<暑い。気温34度。車が行き交う国道を歩く>
12:50 大田切橋
100m以上ある長い橋。暑ーいよー!助けてぇー人殺しー!
12:57 無名戦士の碑
13:00 神明神社
13:10 農産品産直売店
 
soba
農産物直売所(「道の駅」みたいな店)で「10割蕎麦天プラセット」1,300円を食う。
ウマい!実に美味い。さすが蕎麦の本場だ!
こんなにウマい蕎麦を最近食べたことが無い。グルメで美食家のうちのカミさんに食べさせたいな!
本物の蕎麦を食うつもりなら、「柏崎宿」から約20km歩いたこの蕎麦屋に限るのだ!
13:30 再スタート
雲が多くなった
13:40 小野沢信号
ここから左の旧道へと進む
13:50 興善寺
小雨が降りだした。
 
kouzenji jizou
<興善寺> <泉地蔵尊>
14:00 泉地蔵尊
関山宿
14:05 関山神社
14:20 一本松
 
ichirizuka 国道18号と斜めに交差。左に一里塚公園
100m程手前に本物の一里塚が残っていた
   
14:45 覚願寺
この付近、ずっと緩い下り坂が続く。
 
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<覚願寺>
14:50 上越市片貝縄文資料館
街道からは100m以上も離れているのでパスする
14:55 筆塚
sato flower
太平洋側の関東地方より随分と遅い 東京で見るフヨウよりもずっと新鮮なような気がする
15:00 片貝橋
踏切、松崎宿に入る
15:30 白山神社
15:50 坂本信号と踏切を越える
 
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15:52

JR二本木駅
41,282歩

16:19 JR二本木駅発
17:15 JR長野駅着
改札口を出る時に気が付いた。
現金、JR切符(=大人の休日クラブ)、クレジットカード等を入れた、定期入れが無い!私の全財産だ!
間違いなくズボンの後ろポケットに入れていたのだ。呆然とする。身体中から血の気が無くなった。
遺失係や駅員に訴える。一生懸命捜索してくれる。
もしも「紛失」となると、これからの変更や失効手続きを考えると山ほどの届出を踏まなければならない。
最後の望みを託して、次の運行の為に、一旦車庫に入った列車が再びホームに入ってきた。5分間も無い。
急いで乗ってきたボックス付近を探す。その付近には乗客が座っている。
と、30歳代のサラリーマン風の男性が「これじゃないですか?」と私の黒い定期入れを差し出してくれた!
身体が震えた。ヘナヘナとなった。良かった!バンザイ!
その時の嬉しさは、残り少ない私の人生では絶対に忘れない出来事の一つになった。
日本人と長野県人に感謝!ありがとう!
お尻のポケットのストッパーが効いていなかった。
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