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| 第6日目 |
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| 月 日; | 2013年7月1日(月) |
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| 区 間; | 柏原=二本木 23.5km | ||
| 時 間; | 6時間17分 | ||
| 費 円; | 12,660円 | ||
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歩 数; |
41,282歩 |
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長野駅前にある「Hotel A Best」に泊まる。夕食付で9,950円(2泊で)、安い。 |
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| 07:45 | JR長野駅発「妙高高原」行き |
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| 08:07 | 牟礼(むれ)駅 ここで高校生がドッと降りる。 ほとんどがダメ高校生としか見えない。 ここから車内は4人だけとなった。 |
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| 08:20 | 黒姫駅 曇り、気温25度 とても気持ち良い気候 駅から同じ方向へ黒服の素敵な女性が先行する。 |
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| 08:35 | 柏原本陣跡(前回の終点=今回の出発点) | ||||||||
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| 08:50 | 村の鍛冶屋の石碑 | ||||||||
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| 09:05 | |||||||||
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| 09:10 | 高速自動車道を通過 | ||||||||
| 09:13 | 信濃町IC入口交差点 ここで右折。 ここから野尻湖方面へ向かってダラダラ下る。 |
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<野尻一里塚> 中山道「追分宿」から分岐して越後「出雲崎宿」に通じる街道を北国街道といい、脇街道を含めると39の宿場がありました。加賀金沢藩・越後高田藩などの北陸大名の参勤交代や、佐渡の金銀を江戸に運ぶ重要な通路でした。 あとどもはかすみ引きけり加賀の守 一茶 |
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| 09:35 | 芭蕉の句碑 野尻湖が見え始めた。 |
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| 09:40 | 野尻宿 「日ぐらしや 急に明るき 湖の方」 一茶 あのー、これって、名句 なの? |
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| <歴史の道・北国街道 野尻宿> 北国街道は中山道追分宿で分岐して越後の出雲崎宿にいたる街道で、野尻宿は信越国境に位置する 重要な宿場でした。 佐渡の金銀を江戸へ運ぶ輸送路にあたり、安養寺境内には御金蔵(おかねぐら)がありました。柏原・古 間・野尻の三宿の村役人が御金荷の警固を務め、牟礼宿まで運びました。 1781年(天明1)年ころの野尻宿には、公用通行人に人馬を提供する76軒の伝馬屋敷があり、両側に 土堤が築かれていました。宿場の中心部は間口の広い屋敷(馬役)がならび、10軒余の旅籠屋がありました。 また、糊光・関之・魯堂など俳句をたしなむ者が多く、一茶はしばしば野尻宿を訪れました。 1823(文政6)年には、一茶門人によって芭蕉句碑が建てられました。 そば所(とこ)と人はいふ也赤蜻蛉 一茶 |
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| 09:45 | 野尻湖 未だ観光シーズンには早く、誰もいない。寒々とした風景。 |
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| 09:50 | 野尻宿本陣跡 | ||||||||
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| 10:00 | 安養寺((藤の木山)と書いてある。 この付近から車の通行が無くなった。 |
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| 10:45 | 赤川一里塚。 途中で一〇頭ほどの猿の群れに出会う |
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| うば坂 別名「五文坂」 坂が急勾配であったため人足が五文の駄賃で荷物を運んだという。 |
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| 10:50 | 関川の関所(長野と新潟の県境) |
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| 関川の関所 江戸時代、幕府は全国に54か所の関所を設けました。 ここ関川の関所は、高田藩の有する越後三陥関の一つで加賀藩などの参勤交代行列と佐渡産金の両方が 通過するため、非常に重要な関所で取り調べが激しかったといわれます。 関所は幕府の支配を受け、その土地の大名や代官が行いました。 関川の関所は、藩士・足軽数名と現地採用の郷足軽など十数名が勤務しその中に「出女」の取り調べをするため、常勤の人見女がいました。 関所の開門時間は日出から日入までとしあ閉門後はなんびととも通れませんでした。 関所破りは重罪で極刑に処さられました。 |
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| 関所の改め 関所は朝六つ時に木戸が開かれ、暮れ六つ時に閉じられた。夜間の通行は原則的に禁止されていたが、加賀、富山、大聖寺の3藩の飛脚と佐渡の御金荷は例外とされ通行が許された。 関所の主な任務は、幕府の道中奉行より下された「幕府条目」に則って行われ、それらは主に女性通行人の取り締まりが中心となっていた。また穀物や産物などの物品の通過についても細かく定められ、取り調べられた。 しかしながら「入鉄砲」についてはこの関川関所では特に厳しく改められていなかったとある。 |
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| 11:20 | 関所出発 ここからは新潟県である |
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| 11:50 |
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| 11:50 | 妙高高原中学校 | ||||||||
| 11:54 | 神明神社 | ||||||||
| 12:00 | 毛祝坂三差路信号 | ||||||||
| 清き泉の由来 北国街道、毛祝(粧)坂集落は近江国佐和山城主、石田治部少輔三成の一族で関ヶ原の戦い (慶長5年、600年)に敗れ、かねて親交のあった、春日山山麓、茶畑上杉氏旧城地に浄国寺(現上越市寺町3)を訪ね来る・加賀藩主、前田利家とも盟友で以後、前田家は代々、参勤交代で毛祝坂集落を通行の際、この清水で身を清め毛祝坂神明神社に参拝し、関川関所に向かった。 前後190余回の参勤交代で通行のたびに参拝を欠かせなかった。 盟友の子孫に対しての敬意と石田治部少輔三成に対して特別な好意を感じさせるのである。 地籍 妙高市毛祝坂18番地 |
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| 12:08 | 「ふかざわばし」 直ぐそばに天然ガスタンク」(ガイドブックの通り、正しい古道を歩いている) |
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| 12:15 | 田切橋を渡る | ||||||||
| 12:18 | 田切交差点 | ||||||||
| 12:35 | 二保宿 |
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| 12:50 | 大田切橋 100m以上ある長い橋。暑ーいよー!助けてぇー人殺しー! |
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| 12:57 | 無名戦士の碑 | ||||||||
| 13:00 | 神明神社 | ||||||||
| 13:10 | 農産品産直売店 | ||||||||
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| 13:30 | 再スタート 雲が多くなった |
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| 13:40 | 小野沢信号 ここから左の旧道へと進む |
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| 13:50 | 興善寺 小雨が降りだした。 |
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| 14:00 | 泉地蔵尊 関山宿 |
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| 14:05 | 関山神社 | ||||||||
| 14:20 | 一本松 |
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| 14:45 | 覚願寺 この付近、ずっと緩い下り坂が続く。 |
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| 14:50 | 上越市片貝縄文資料館 街道からは100m以上も離れているのでパスする |
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| 14:55 | 筆塚
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| 15:00 | 片貝橋 踏切、松崎宿に入る |
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| 15:30 | 白山神社 | ||||||||
| 15:50 | 坂本信号と踏切を越える | ||||||||
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| 15:52 | JR二本木駅 |
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| 16:19 | JR二本木駅発 | ||||||||
| 17:15 | JR長野駅着 改札口を出る時に気が付いた。 現金、JR切符(=大人の休日クラブ)、クレジットカード等を入れた、定期入れが無い!私の全財産だ! 間違いなくズボンの後ろポケットに入れていたのだ。呆然とする。身体中から血の気が無くなった。 遺失係や駅員に訴える。一生懸命捜索してくれる。 もしも「紛失」となると、これからの変更や失効手続きを考えると山ほどの届出を踏まなければならない。 最後の望みを託して、次の運行の為に、一旦車庫に入った列車が再びホームに入ってきた。5分間も無い。 急いで乗ってきたボックス付近を探す。その付近には乗客が座っている。 と、30歳代のサラリーマン風の男性が「これじゃないですか?」と私の黒い定期入れを差し出してくれた! 身体が震えた。ヘナヘナとなった。良かった!バンザイ! その時の嬉しさは、残り少ない私の人生では絶対に忘れない出来事の一つになった。 日本人と長野県人に感謝!ありがとう! お尻のポケットのストッパーが効いていなかった。 |
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