| 06:31 |
JR長野駅発
信越本線
直江津駅行きに乗る
昨日の紛失に懲りて、定期入れはしっかりポケットに入れる。何度も確かめる。
雲はあるが薄く太陽も出ている。絶好の街道歩き日和だ。
暑くなりそうだ。
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| 07:27 |
二本木駅着
風があり、実に気持ちの良い気候だ。気温は既に27度ある。 |
| 07:40 |
駅前の北国街道を高田に向けて出発。ファイトッ!
直ぐ駅前に「北国街道」が延びている |
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| 二本木宿 |
道端にもたくさんの花が植えられている |
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| 07:45 |
お地蔵さん
道はダラダラと下っている。
遠くに高田平野が見え始める。
この付近では、冬の多い時には積雪が3mにもなるそうだ。
家の構造が雪対策になっている。どこの家も豪雪への備えが出来ている。一度積雪の時期に歩いてみたい |
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| お地蔵さん |
この付近の家は積雪に備え、高床式の建物 |
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| 08:05 |
藤澤一里塚 |
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| 藤沢の一里塚 |
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| 08:20 |
神明神社
大きな杉木立の中、立派な神社が存立している。 |
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| 昔は相当立派な神社だった・・・かな? |
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| 08:20 |
小出雲坂
史跡・ 小出雲坂と松並木
上越市指定文化財 史第223号
平成19年6月1日指定
小出雲坂は、上越市中郷区板橋と妙高市小出雲との間にある坂です。門の道は、「北国街道」と呼ばれ、江戸時代の五街道の一つ中山道追分宿から分岐し、高田までをさします。
坂を登る途中、振り向くと高田平野と日本海、米山が望めます。さらに進むと目の前には妙高山がそびえます。かって「越後見納め小出雲坂よ。ほろと泣いたをなんじ忘られよ。」と里歌に歌われたように、その場所が、高田平野を一望できる最後の場所だったのでしょう。
坂を登りきると、「かしわもちや」の屋号をもつ「立場茶屋跡」がありました。加賀藩前田公の参勤交代の折、休息所にもなったと伝えられています。
板橋集落には、茶屋のほかにも物資の運搬にあたる人や馬を泊める宿の「馬宿跡」や、馬を守ったり亡くなった馬の霊を慰める「馬頭観音」など街道にまつわる文化財があり、人びとの往来が盛んであったことを物語ります。
先人の残した景観、文化財を大切に後世に伝えていきたいと思います。
板橋町内会
上越教育委員会 |
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| S字状に小出坂を下る |
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| 08:20 |
小出雲坂を下りきる。
ここから高田平野が始まる |
| 08:34 |
小出雲2丁目交差点 |
| 08:38 |
賀茂神社
実に美味い水を飲む |
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門前にこんこんと清水が湧いていた
とても美味しい水だった |
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| 08:50 |
小出雲(=こいずも)
交差点の脇に追分(下の写真・左)
右;善光寺道(北国街道)
左;飯山道
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| 追分 |
新井宿 |
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| 08:55 |
新井宿 |
| 09:00 |
上町延命地蔵尊
上町延命地蔵尊の由来
江戸時代の初め、地蔵堂の尼僧が上町南端の溜池で人を呼ぶ声を聞き、上町の住民に頼んで池を浚ってもらったところ、二体の地蔵が見つかりました。
尼僧は洪水で死亡した夫と子供の身代わりとして、池のそばに安置して毎日供養しました。やがて関係者が子の夜泣きや夜尿症が止まり、病気が治る、母親の乳の出がよくなると噂し、人びとの人気を集めるようになりました。
明治に入って堂が建てられ、大正9年にその堂を改修しました。
昭和7年、上越日報社の「寺社効験顕彰投票」で当選し、近隣でも最もご利益なる地蔵として知られるようになりました。同9年に石垣を改修し、翌10年に荒井町、小出雲村、姫川原村の人々の寄進で堂を改修し、玉垣を新設しました。
昭和52年から地蔵庵に代わって上町が管理し、毎年8月17日にお祭りし、その後安置された2体と合わせて4体になった地蔵を開帳しています。
平成19年8月17日
上町町内会
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| 上町延命地蔵尊 |
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| 09:05 |
市神社
気温31度。風があるので助かる。
新井宿に入ってから急に「北国街道」のカンバンが増える。 |
| 09:11 |
新井別院 |
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| <新井別院> |
<康源寺> |
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| 09:30 |
康源寺 |
| 09:35 |
大崎
この付近、やたらと石屋さんが目につく |
| 09:45 |
筆塚
「慶応元年七月」と彫ってある。 |
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| <「筆塚」慶応元年七月と彫ってある> |
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| 10:00 |
18号線をくぐる。この付近、田園風景が展開する。 |
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| <のどかな田園風景が続く> |
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| 10:10 |
諏訪神社
この区間特記すべき風物が何もない。
暑い。助けてー。手持ちの寒暖計は35℃、道路上ではそれ以上となる。ファイトーッ!
三つの顔をもつ大黒さん
○仏教の中の大黒天(原名マハーカーラ)
○江戸時代の七福神信仰としての大黒天
○出雲大社の本尊(大国主命の化身)としての大黒天(私どもの成願大黒天は勿論、大国主命の尊像を 表したものです。)
大黒さんの魅力
○苦労と試練を克服したものだけがもち得る「自信の笑顔」を離さない。
○生きるための重い荷物を肩代わりしてくださる「神恩」
○生命の源泉である米の豊作を約束してくださる「神力」
○良い采配や優れた知恵を「打ち出の小槌で示現」してくださいます。
成願大黒天に祈りを捧げましょう!
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| 10:35 |
「西田中」道標
ルートの不安が解消する。 |
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| <西田中の交差点> |
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| 10:40 |
出雲神社本殿跡地 |
| 10:45 |
北陸新幹線(平成27年開通予定)の高架下を通過
明治天皇のお休所の石碑 |
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「明治天皇石澤御小休所址と平成27年、開業予定の「北陸新幹線」 |
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| 10:55 |
石沢
瀬渡橋。江戸時代には北国街道では一番に幅広の川だったそうだが、現代では何てことない普通の橋。
瀬渡橋と矢代川改修記念碑
北国街道一の大橋といわれる瀬渡橋は、矢代川に架かる橋で、石沢と荒町を結び、古くは「今泉橋」とも呼ばれていました。
記録によれば貞享年間(1684〜1687)までは橋がなく、歩渡りでした。その後、宝永7年(1710)まで舟渡しとなっていましたが、翌、正徳元年(1711)に高田城主松平越中守定重の時、長さ32間(57・6m)・幅9尺(2・7m)の板橋が完成しました。以来、参勤交代の行列をはじめ旅人の往来が楽になりました。
この橋の付近は、昔から矢代川の氾濫するところで、洪水の被害が絶えませんでした。
大正3年から2年がかりで、延べ12万人を動員して築堤工事が行われ、完成を記念して碑が建立されました。
昭和8年に上越地方で最初の永久橋となりました。
平成4年 上越市 |
| 11:00 |
茶屋町信号
ここで右折する |
| 11:05 |
新幹線予定駅前の信号を通過 |
| 11:08 |
大和神社
今泉城と大和神社
今泉城は今から約650年程前建武年間の頃、後醍醐天皇の命によりこの地の地頭職であった村山義信一族の居館であったと言われている。
その当時の城は自然を利用して造られ、願清寺裏の高地や矢代川が自然に流れて出来た段丘を利用して造られた平城であった。その後、時代の変わる毎に城主も変わったことと思われるが明らかでない。
現在は城址の一角と思われる大和神社横の高台や神社境内の土手は当時の土塁でこれを取り巻く堀の跡も見える。土塁の上の大欅も当時のものと思われる。
大和神社はいく百年前、今泉の人々は、城址に稲荷社を祀って氏神様としていたこの地に明治40年に旧大和村各字の氏神様を合社して大和神社を創立し村社に昇格したこともあった。意義深き神社である。
平成3年10月8日
大和神社
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| <大和神社> |
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今泉城跡
今泉城の中心部は現在の大和神社周辺ともられています。
願請寺裏から大和神社境内の南側に土塁遺構の部分が残り、これに沿って堀の跡があったと伝えられています。
今泉周辺は今泉郷と呼ばれ、南北朝時代に南朝方の村山義信・隆義親子が居城を構えていました。その後、上杉謙信の跡目を争った「御館の乱」に敗れた上杉景虎が、御館から鮫ケ尾城へ逃れる途中に今泉城に立ち寄っています。
なお、神社境内には、南北朝から戦国期にかけての石仏があります。
また、周辺の小字名に、立(舘)の内・立の腰・馬場前・堀の西・乙館など館の存在を意味する地名が残っています。
平成3年
上越市 |
| 11:18 |
弘法の清水
今は鉄の蓋がしてある。
弘法の清水
昔から北国街道は多くの旅人が往来しました。
ある時、一人の旅僧が諸国巡錫の途中、今泉で水を求めましたが、たいへん水が悪く、人びとが困っていることを知り、持っていた錫杖で土を掘ったところ、こんこんと清水が湧き出たという伝説が残っています。
この旅僧が弘法大師(空海)だと言われています。真言宗の開祖として全国行脚をして社会事業に尽くしました。なお、不思議にもこの井戸は、汚いものを洗ったり、粗末な使い方をすると水が濁ったと言われています。
江戸時代には、北国街道の名物水として利用され、旅人の休み場となり、長年地域の生活水として愛されていました。
平成3年
上越市
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<弘法の清水>
今は鉄筋の蓋で全く飲むことが出来ないようになっている。飲んでみたかった、残念! |
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| 11:20 |
荒町交差点
市道と合流 |
| 11:28 |
馬頭観世音 |
| 11:30 |
伊勢町一里塚の題目塔
ここから高田名物「雁木(=がんき)」通りが始まる。気温35℃
雁木通りは涼しくて助かる
ただし、到る所に段差があるから注意しないと危ない。
雁木通りは年寄は注意して歩く必要がある。
伊勢町一里塚の題目塔
江戸時代、幕府によって主要な街道には、旅の目印として1里(約4キロ)ごとに塚がたてられました。
高田城下の南と北の出入り口にあたる伊勢町(南本町)と陀羅尼町(北本町9にも一里塚のあったあたりで、ここには、「南無妙法蓮華経」と刻まれた題目石塔も建てられました。題目の下に日蓮宗の本山、身延山久遠寺第64代日仲上人の署判があり、その在任期間からして弘化年間(1844〜47)に建てられたものと推測されます。一方、北の陀羅尼町にも題目塔が建てられましたが、藩政資料によれば寺町の久遠寺から寛政12年(1800)6月に藩宛に建立願いが出されています。
これらの題目石塔は「南の宝塔、北の宝塔」と称し、今日まで市内の日蓮宗寺院で護持してきました。
特に僧俗一体となって行われる寒中修行の唱題行脚ではこの題目宝塔まで巡拝しています。
このたび、道路新設に伴い、旧地より北西約30メートルの現在地に、一里塚・番所跡の史跡標柱と共に移設しました。
平成14年10月
高田日蓮宗寺院会 |
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| <一里塚の題目塔> |
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| 11:45 |
南本町2丁目信号 |
| 11:55 |
十辺舎一九ゆかりの地
「高橋」. |
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十返舎一九
誕生
明和2年(1765年)
駿河国 府中(現静岡県 静岡市 葵区)
死没
天保2年8月7日
武蔵国 江戸(現東京都)
戯作者
代表作
『東海道中膝栗毛』
十返舎 一九(じっぺんしゃ いっく、明和2年(1765年) - 天保2年8月7日(1831年9月12日))は、江戸時代後期の戯作者、浮世絵師。日本で最初に、文筆のみで自活した[要出典]。『東海道中膝栗毛』の作者として知られる
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| 12:00 |
春日大社
高田宿着 |
| 12:10 |
札の辻
雁木の町
雁木の町、高田は独特の雰囲気が満ちていた。 あまりの大雪に家並みが見えなくなり、旅人のために 「この下に高田あり」 という札が建てられたという話が残っているとか。 正式に記録を取り始めてからの最大積雪深さが3.7メートルという。 寛文5年(1665)の大地震のときの積雪はさらに多かったようで、その時に起きた大火によって街が失われ、幕府から借りた資金で復興したときに雁木が完備されたらしい (上越市文化振興課パンフレット: 「高田まちなみ歴史散策」 )。
もともとは、平屋の軒先を道路側に延長して柱で支える構造だったものが、雁木上部を物置などに利用できる「造り込み式」雁木といわれものになった。そのころは、天井の低い 「つし二階建て」 式だったが、明治以降、母屋自体が2階建てとなって、平屋の雁木を付け足す 「落とし式」 の雁木が主流になったいう (前出資料)
伝統k的な雁木(左上)だけでなく
商店街(上)にも、マンション(左下)にもモダンな雁木がある
なくてはならない生活上の工夫が、今もそのまま使われているところが素晴らしいし、近代的商店街に生まれ変わってモダンな雁木、いや、アーケードになった部分もあるが、まだ多くは、形や高さもまちまちのままで、各家の個性になっているところが面白い。青森県黒石市で見た「コミセ」よりも素朴である。
雪国に住む人たちの、お互いの心遣いが伝統となった、飾り気のない仕組みであるように思う。 信州の木曽路などに見られた深い庇の町家も同じように、町を歩く人を心遣って生まれたものでないかと思われるが、3メートル以上も雪が積る高田では、しっかりと、通路としてつながって、システムとして機能させる必要があったのだろう。
ぬくもりを感じる仕組みであり、町である。 |
| 12:20 |
本町5丁目交差点
JR高田駅前交差点。ゴールは近い、ファイ〜トー!
城下町高田歴史的町名 府古町
現本町2丁目の一部は府古町と呼ばれていました。
高田城下時代、宿場町の一つとして栄え、関町、出雲町と共に伝馬町の1つとして役馬を負担していました。また、宿場を統括する馬問屋が置かれていました。
この辻標が立つ村山商店は、大きな蝋燭の看板の通り、かっては蝋燭の製造と販売を生業としていました。
蝋燭は高田の特産物のひとつでした。
平成21年 社団法人上越青年会議所 |
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| JR高田駅付近の商店街。この付近の雁木通りは心配はない。 |
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| 12:30 |
本町7丁目交差点
北国街道の一応の終点。終わった。バンザイ!
史跡 道標
江戸時代、幕藩体制の整備がすすみ高田城下を往来する旅人も多くなると、加賀街道(五智、糸魚川方面)と奥州街道(稲田、柏崎方面)の交差点、現本町7丁目の角に「右 おおしう道 左 かかみち」の道標が建てられた。これは福島城の石垣の石を用い彫り込んだものである。
しかし、交通の障碍となったので、昭和10年、この現在地に移された。
昭和58年 上越市 |
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<史跡 高田の道標> |
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| 12:40 |
高田駅
29,187歩
駅前の中華店でラーメン500円を食う。
ジーさんとバーさんが経営する昔風なラーメン屋さん。ウマーい、実に美味い・・・・かな |
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ウメー!こんなに美味しいラーメンがこの世にあったのか?
空腹は最高の調味料である |
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| 13:21 |
高田発 長野行き
70%位の乗客。半分以上は高校生。
北国街道は一応歩き終えた。
疲れと満足感で眠気が襲ってくる。 |
| 15:26 |
JR長野発
新幹線「あさま 534号」 |
| 17:10 |
東京
未だ、明るい時間に東京に帰ることが出来た。 |