| 23:10 |
(4月25日)、池袋駅前・高速バス発着所発、5,400円
車内は80%位の乗車率。予想していたより混んでいる。 |
| 05:20 |
JR高田駅着(深夜バス)
寒い。雁木の街・高田は未だ眠っている。
こんなイナカ街(高田の皆様ゴメンナサイ!)に、駅前には10階以上の建物(たぶんマンション)が何棟も建っている。何だか不釣り合いな風景だ。高田の駅前には、期待した「田舎の風情」はまるでない
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| <JR高田駅>何だか北海道をイメージするしゃれた駅舎 |
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| 05:45 |
駅から歩き始める。少しうす暗く、寒い。ファイトーッ! |
| 05:50 |
本町通り(=北国街道)
有名な「高田の雁木通り」が続く。
良く見ると歩道は車道側に傾斜しており、石と石のつなぎ目には溝や窪みもある。
雁木通りは慎重かつゆっくり歩かないとつまずいたり、思わず車道へよろけ出す恐れさえある。
乳母車や「ショッピングバック付歩行補助シルバーカー」(=?)を押しながら歩く高齢者にはとても危険だ。
積雪のない季節は出来れば、あまり歩きたくない通りだ。 |
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雪国高田の生活に溶け込む共有通路 雁木(がんぎ)
総延長約16km。日本一の長さを誇る雁木と町家の景観は後世に残したい高田独特の都市景観です。
「この下に高田あり」
上越市高田地区は冬期の降雪量が多く、昔から豪雪地帯の街としてその名を知られてきました。江戸時代には、雪に埋まった街の位置を知らせる為に「この下に高田あり」という立て札が立てられていたという話が残っています。
雪深い地方の知恵、「雁木」の成り立ち
このような豪雪の冬期に、連なる町家の生活通路を確保するため、江戸時代に考え出されたものが「雁木」です。
雁木は町家の軒先を延ばして道に屋根をつけた空間あり、個人所有の土地を皆の為に歩道としたのです。これは公道のアーケードとは異なり、人々がお互いに私有地を提供し合い「ゆずり合い・助け合い」の精神で生きる雪国人の「心のシンボル」でもあります。
「日本一の長さを誇る雁木の街なみ」
高田地区では、江戸時代に作られ始めた雁木の街なみが総延長16kmも連なり、日本一の長さを誇るとともに、高田独特の都市景観を形成しています。
この風土に合わせて歴史ある建築景観を、後世に残す貴重な財産として積極的に保存・活用を図っていこうとしています。
「雪国に不可欠な雁木」
高田の町は、江戸時代の町割りが築城当時そのまま残っています。雪・雨・日ざしから人々を守る「天候に左右されない通路」であるだけでなく、車交通から歩行者を守る「飛地にやさしい通路」でもあります。地域で暮らす人々にとっては、憩いやコミュニケーションの場にもなっています。高田の街での日常生活にとって不可欠なものであり、人と人、人と地域を結ぶ多様な機能と役割を有しているのです。子どもたちや、お年寄りにも便利で安全な通路としてつかわれています。この高田を代表するおもてなしの心がいっぱい詰まった景観を楽しみながら街を散策してみてください。 |
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| 06:00 |
下小町。この時間、未だ人通りはほとんど無い。 |
| 06:07 |
本町7丁目交差点 |
| 06:25 |
善念寺 |
| 06:35 |
直江津八幡宮
なんとなく閑散としている。昔はさぞや壮大な神社だった・・・・はず。
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| 直江津八幡宮。本宮までは遠い。 |
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| 06:45 |
史跡・稲田口番所跡/
史跡・高田銭座跡
昔は相当に賑わった様子がうかがえる。 |
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| 06:50 |
保倉川(関川)を渡る
近郊の山は五合目あたりまで積雪がある。北国の春は美しい。 |
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| 保倉川(直ぐ川下で関川に合流する)。近郊の山々は積雪に覆われていた。
地図で見るとこの付近にはやたら河川が多い。 |
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| 06:55 |
上越信用金庫
ここで北国街道は左折する
この間、ひたすら歩くだけ |
| 07:55 |
北陸自動車道を横切る |
| 08:10 |
「かに池」交差点 |
| 08:50 |
春日新田宿場跡(交差点)、JR
直江津駅まで約500m
村社・春日神社
本宮に至る参道の途中にはJR信越本線の線路が横切っている。とても壮大な神社である。
街道の入口から奥社まで日本海の方へ向って100m以上も離れている。直進すると直ぐに直江津港(日本海)。
ここで、初めて太平洋側の江戸・日本橋から日本海へと本州を横断したことになる
北国街道・奥州道はここで右折して北上する。十日町方面へと向かう。
コンビニで鳥の唐揚げ1本(180円)とコーラを購入。歩きながら食うのだ。実に柔らかくて美味いんだな、これが!街道歩きにはなんたって「鳥の唐揚げとコーラ」に限るのだ!実にウマい。
グルメで美食家のうちのカミさんにこの唐揚げを食べさせたいなぁ。
ひょっとしたらこのニワトリの食材も日本から近い外国、例のあの国から・・・・かな? |
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「春日新田宿場跡」
慶長19年(1614)高田城の築城により、福島城は廃城となり、多くの施設が高田へ移りました。
それ以後、高田を起点とした街道が設けられ、稲田大橋を渡って稲田から富岡・藤野新田・下門前・春日新田へと通じていました。
さらに佐内・黒井に通じる北国街道の重要な拠点である春日新田には宿場がありました。
宿場は、幕府の指定した場所に限られ、かってに旅人や荷物の運搬をすることや、茶屋や旅館営業も禁止されていました。
春日新田には本陣(間口8間(間口8間=14・4メートル)をはじめ、旅館が6軒、角の茶屋・中の茶屋・蔵番などの名前が残っています。
また、道路上に井戸がいくつかあって、馬つなぎ場もつくられていました。
平成5年 上越市
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| さすが「越後の春」は違う!この季節いたる所に花を鑑賞することができる |
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| 09:00 |
史跡 春日新田の馬市跡 |
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| 馬喰又左衛門は春日新田宿を馬市で繁栄させたため、苗字帯刀が許された。 |
春日神社があるため、「春日山城」と呼ばれた |
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| 09:10 |
小町橋通過 |
| 09:20 |
鳥居 |
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| 野球場の隅においやられている「雅子妃の森」 |
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| 09:30 |
追分の碑
付近は新興住宅地ばかり。この道標を見つけられたのは実にラッキーだった。 |
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<奥州道道標>
この道標は消滅した街道の位置を確認できる貴重な存在である。右・「さいみち」と書いてある。
右の石碑は「筆塚」 |
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| 09:50 |
JR黒井駅
駅前には信越化学の工場が延々と続く。まるで「信越化学」専用の駅のようだ。 |
| 10:10 |
村社・黒井神社 |
| 10:13 |
黒井交差点
黒井宿入口
海が近い |
| 10:20 |
本敬寺
「黒井宿」の説明。
快晴に近い。薄曇り。暑くなってきた。ファイトーッ!
「黒井宿」
黒井宿の始まりは、今から約400年前の天正年間頃とされ越後府中(直江津)と奥州(東北地方)とをつなぐ一番目の宿場として栄えました。
高田に城が築かれた江戸時代には、街道も高田城下を通るように変えられましたが、それでも黒井は春日新田の次の宿場として、多くの人達に利用されていました。宿場には、大名や重臣の泊まる本陣、脇本陣や人が泊まる旅籠、木賃宿などがありました。これらは、町並みの中で幕府の決めた一定の場所に造られ、街道の道幅より広く道が造られていました。また、道には井戸があって主に馬に水を飲ませるために、使われていたそうです。
明治以降になると、交通機関が発達し、次第に黒井宿もその使命を果たすことがなくなりました。他の街より広い道幅が黒井宿のただ一つの名残と言えます。
平成三年 上越市 |
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| <本敬寺> |
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| 10:35 |
ハチ浦小学校
反対側には「順徳天皇御駐輦所」の石碑 |
| 11:25 |
新堀川
暑い。途中見るべきものが何もない。余計に暑い。アクエリアス1本を一気に飲む。ファイトーッ!
海まで100m「**浜」と書いてあっても、この付近は防潮堤が高く、道路から日本海は見ることが出来ない。 |
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| 12:00 |
土底浜
この付近の防潮堤は随分と高台になっている。海は全く見えない。
村社・諏訪神社 |
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| <村社・諏訪神社> |
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| 12:25 |
潟町宿
ここには、いにしえの風景と空気がたくさん残っている。 |
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| 12:35 |
追分 |
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| 追分;右「米山道/左「奥州道」 |
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| 12:40 |
どんどの石井戸 |
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「どんどの石井戸」
1660年潟町に北国街道の宿場がつくられたが、宿場の東端に清水が沸き出して水車のある酒店があったと越後頚城郡誌稿に記されています。
いまでも一部利用していますが、昭和25年ごろまでは村人の飲料水として多く利用され、夕刻には水運びの人で賑わったものです。
上越市教育委員会 |
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| 13:00 |
人形伝説の碑
この付近には高い、無愛想な高い防潮堤は無く、実に穏やかな日本海の風景が楽しめる
「砂防林と温泉」
暴風に耐えて樹齢約240年になる黒松です。
1760年(宝暦10年)旧吉川町尾神の地主の家に生まれた藤野粂助は庄屋を継ぎ川浦代官所へ出仕する様になり、そこで代官萩原藤七郎から砂丘に松を植えて利益を得ることを聞き、飛砂で荒れる犀浜に自ら松を植ることを考えた。しかし、砂地で松の苗木を育てることは大変難しいことであった。
1787(天明7年)佐渡より黒松の苗木500本を購入して植えたものの、苗木は全部が枯れてしまった。それでも粂助は困難にひるまず家財を投じて松苗を買い込み、今度は竹簾や葦簾で砂防をして松苗を保護し、苗木の根を赤土で固めて水持ちを良くした結果、松の植林に成功したのは1791年(寛政3年)頃の事であった。
この粂助の成功をうけて、代官所は犀浜の村々に植林を命じたのだった。
その後、犀浜が高田藩領になると、藩主 榊原政令(まさのり)が粂助の功績を讃え植林を奨めるようになっ
たのは、今から240年前のことである。
この鵜の浜温泉は、昭和33年帝国石油のガス・石油の掘削によって開発され出来た温泉です。地下700mより温泉が噴出しております。 |
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「人魚塚伝説」
「人魚は、南のほうの海にばかり住んでいるのではありません。北の海にも住んでいたのです。北方の海の色は、青うございました。あるとき、岩の上に女の人魚があがってあたりの景色を眺めながら休んでいました。・・・・」
小川未明先生の「赤いローソクと人魚」の書き出しです。先生は、上越市に生まれ、多くの童話を発表して「童話の父」と言われています。
この「赤いローソクと人魚」は嗣子浜の人魚塚にまつわる人魚の伝説にヒントを得て、書かれたと伝えられていますが、雁子浜に伝わる人魚塚の伝説は、次のようなものです。
「松林に包まれた神明様の境内、崖下には青々した日本海の波が押し寄せ、・・・・(以下省略)」
平成4年12月
新潟県大潟町 |
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| 13:25 |
マリンホテル入口
行く手前方に米山が望まれる。 |
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| 雪を被った越後のシンボル・米山(標高993m)が美しい |
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| 13:30 |
了蓮寺
すごく大きなお寺
小林富次郎翁とライオン株式会社
小林富次郎翁はライオン株式会社の創始者です。
小林家の祖先は馬正面村の旧家でしたが、宝暦4(1754)年に直海浜に移住しました。小林富次郎は嘉永5(1852)年1月15日、埼玉県の与野市(現・さいたま市)で生まれ、4歳から16歳までの13年間は、ふるさと海浜で祖父母に育てられました。再び与野町に戻った富次郎は、明治4(1871)年、20歳で柿崎村の馬場仁右衛門の4女はん子と結婚しました。
その後、いくつかの事業を展開する中で何度も窮地に陥り、眼病にも悩まされました。しかし、「艱難は必ず自己を守る」とその身を奮い立たせた富次郎は、ついに明治24年10月、後のライオン株式会社の前身である小林富次郎商店を開業しました。そして、明治29年7月「獅子印ライオン歯磨」を発売しました。
キリスト教を信仰していた小林富次郎は、幾多の苦境から救われた恩を「事業を通じて社会に貢献する」との心情から、各種の慈善事業に力を注ぎました。
日本初の連合艦隊司令長官・伊藤祐亨元帥は、この小林富次郎翁の不屈の努力を讃え「堅忍遺慶」と表しました。その「堅忍遺慶の碑」が小林家の菩提寺である直海浜・光徳寺の入口右側に建てられています。石碑の表面には、富次郎の偉業を讃えた碑文が刻まれています。
平成24年8月 柿崎まちづくり振興会 |
| 14:05 |
功徳山福城寺
この付近にはやたらお寺が多い |
| 14:15 |
自動車学校
快晴、実に爽快な気候 |
| 14:25 |
ハマナス群生地の指導標 |
| 14:55 |
柿崎橋 |
| 15:00 |
善道寺(柿崎宿)
妙蓮寺 |
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<妙蓮寺>
いかにもご利益がありそうな立派なお寺だ。
「いつの日か宝くじが当たりますように。もしも宝くじが当たったら必ずお賽銭を挙げにきます。きっと!」って拝んでおこう。
ありがたい!ありがたい! |
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| 15:10 |
JR柿崎駅着。疲れた。
47,443歩 |
| 15:43 |
JR柿崎駅発 |
| 15:55 |
直江津駅着
駅前の「ホテルセンチュリー・イガヤ」へチェックイン
夕食は駅前の屋台でラーメン・餃子のセット。ウマーい! |