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【北国脇往還】(北国街道)

 北国街道(ほっこくかいどう)は日本の街道である。江戸幕府によって整備された脇街道で、「北国脇往還」(ほっこくわきおうかん)、善光寺街道(ぜんこうじかいどう)などとも呼ばれる。
追分で中山道と分かれ、善光寺を経て直江津で北陸道に合流する。
 本道は、善光寺への参拝のために整備され、佐渡の金を江戸に運ぶ道として五街道に次ぐ重要な役割を果たした。軽井沢町から上越市までの区間は現在の国道18号にほぼ相当する。
 善光寺平の入り口屋代宿(矢代宿とも書く)を過ぎて雨宮の渡しで千曲川を渡るが、川を渡らずに東岸の松代宿や福島宿を経由して、牟礼宿で本道と合流する「松代道」と呼ばれる脇道があり、谷街道の一部と重なる。この路は、犀川の川止めで本道が足止めされた場合、布施の渡しで千曲川を渡って福島宿へと迂回し、足止めを回避することを目的としている。

北国奥州道-02

第3日目
<北国奥州道は「出雲崎宿」まで、ついで「北国西街道」も歩き、「北国街道」の全てが終わった>

月 日; 2014年4月28日(月)
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区 間; 柏崎=出雲崎(=柏崎)
時 間; 7時間15分、29.3km
費 円; 6,550円

歩 数;

47,115歩

07:15

柏崎駅前ホテル「αー1」
曇り空。今日は「北国・奥州道」歩きの最終日、ファイトーッ!

 
07:20

西本町交差点
ここが北国街道
ここで右折して旧北国街道をファイナルステージである「出雲崎」へ向かう

 
07:43 えんま市発祥の地
閻魔堂。かなり迫力がある。
現代においても参拝されている。祭壇がとてもきれいに飾られている。若い女性が御参りに来た。
 
 

 

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柏崎市の文化財 閻魔堂
          <閻魔堂の言い伝え>

 これは、閻魔堂に残されていた宝永7年(1710)の「越後国柏崎町閻魔堂縁起」の一部を、今の言葉に直し、わかりやすくしたものである。

○この堂は、聖武天皇の願いにより建立されたものであり、閻魔大王や秦広王などの十王は行基 の作、ほかに奪衣婆や多くの仏像があり、かつては七堂伽藍を誇っていた。
○当町の街道にある地蔵菩薩と薬師如来は、伝えによると自然湧出の霊石で造立者はわからない が、泰澄禅師の開眼供養後、この堂の本尊として崇められた。
○堀河天皇、寛治の頃(1087〜94)、境内に伝法の道場を構え、弘法大師の像を安置し、毎年 正月15日から7日間、国家豊穣を祈った。この時の大師が今もある。
○護念上人がこの堂にこもって修業をして以来、阿弥陀如来の名号を唱える念仏会が今もなお絶 えることなく続いている。毎年5月15日、6日には多くの人々が集まる。この辺りの人々は閻魔祭り といっている。
○お堂の鎮守は、山王権現と熊野権現であり、社地霊泉が湧き、薬湯に用いると効き目があるとい い、近郷の人々は、薬の水といっている。
○お堂の南は、米山の裾が海に延び、鵜川・黒姫の地から流れ出る川は、広大な円形の田園を造 っている。これを鏡ヶ沖と呼んでいるのは、諸仏の功徳が及ぶ地にあり、閻魔堂の正面にあるか らである。そしてここは、月が西の海に傾けば、白い?が橋のようになって佐渡の沖に渡り、太陽 が東の山に昇れば、人馬は功徳の浜を行き交い、弥彦の森・国上寺・有明の浦もほど近く、信濃・ 奥羽の遠山も木の間雲間に見え隠れし、絶景の地という、また神々は不思議を現し、竜神が毎夜 お堂に灯明をあげたなど古事記にある。
○当堂には古くからの記録が多く、そのすべてを記されないが、今、閻魔大王はじめ十有余の仏が 目を光らせ、街道を往来する人々と縁を結んでいる。このお堂こそ、北海を鎮め護り、この世もあ の世も安楽にすごせるようにする道場である。

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07;46

東本町交差点
ここで左折する

 
08:00

無漏寺

 
08:20

安政橋
日本海まで凡そ500m
ここは新潟県、久しぶりに「田中角栄」の名が刻んだ石碑を見る

 
 
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    <悪田(=あくだ)の渡し>
 天正年間(1586頃)、謙信の死後景虎との相続争いに勝ち、地歩をかためた景勝が、領内の宿場の整備や道路交通対策に力を入れ、その施策の一つとして設置。舟を作る費用や舟守りの給料は地頭から支給し、ここを利用する近隣の村々に協力を求める定めを作ったり、船渡し賃を定めたりしたと伝えられている。
 安政年間になってここの渡し守たちが自費で、悪田の渡しの下流に橋を架け、渡し料をとって交通の便をはかったという。安政年間にかけられたので安政橋と呼ばれているこの橋は、現代の有料道路事業の先駆的方法を実施した例ではないかともいわれている。
 
09:00 荒浜信号
ドンヨリと曇っている。いかにも日本海地方の天候だ。
 
09:07 柏崎刈羽原子力発電所・展示館前
ここで右折、国道を進む。「旧北国街道」はこの原発敷地内を通っており迂回する他にない。暫くは旧北国街道から外れることになる。
 
09:10 青山稲荷神社。ゆっくりした登り坂が続く。  
 
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道路の左側が「刈羽原子力発電所」。建設当時は世界一だったそうだ。
ガイドブックによると「旧・北国街道」は発電所の敷地内を通っていたはず。現在はもちろん通行禁止になっている。随分大回りさせられる。
 
09:25 刈羽村へ到着  
10:02

刈羽トンネルを抜ける
再び海岸近くの旧道を進む
刈羽原子力発電所は現在は操業停止中だ。 道路脇に「現在の放射能濃度測定器」の掲示板がある。何だか判らん 数字が表示されている・・・・うーん安心だ・・・・きっと。

 
10:05 刈羽村から再び柏崎市へ?  
 
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<柏崎市>
 
10:15 大湊
旧北国街道を大きく迂回して、ようやく日本海側に着いた。そして旧道に戻る
突然目の前に日本海が現れる。湘南の海より黒い、そんな感じだ
 
 
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10:25 不動明王
ここには昔からある湧水が今でも流れている
水道が普及するまでは宮川宿の飲み水となっていたが、現代でも豊富な清水は利用されている。
 
 

 

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<不動妙王>
どうした訳か厳重な板塀に囲まれている
 
10:30 宮川宿
庚申塔と二十三夜搭
 
 
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右は海の家、この時期はもちろん営業していない
 
10:40

宮川天満宮
国道から30m上段にある。災害時の避難所にもなっている

 
11:03 椎谷入口  
11:07

ご膳水
不動堂

 
 
新潟県指定文化財・史跡
          <椎谷陣屋跡>
 椎谷陣屋跡は、柏崎市大字椎谷字打越に所在する。江戸時代に椎谷地区ほか刈羽郡の一部などを領した椎谷藩(1616−1871年)が設けた陣屋跡である。藩祖の堀直之は、草創期の幕閣に参画し、江戸町奉行や寺社奉行などの重要な役職に就いた。歴代の藩主も若年寄りや大番頭、奏者番などの要職を勤めている。石高は5,500石であったが、のちに一万石となった。藩主は江戸定府であったため、領内の統治は陣屋にて行った。当初、椎谷藩は西山町妙法寺の超願寺を仮陣屋としていたが、元和5年(1619)には椎谷に陣屋を設けた。その後、元禄年間には椎谷字「唐見の前」に移されたという。現在の字「打越」に構えたのは、正徳5年(1715)、5代直央(なおなか)の時代である。
陣屋は、日本海を望む独立丘陵上にあり、麓には北国街道(現国道)に沿って展開した椎谷の町屋が広がっている。丘陵は約150mX約300mの大きさで、内部には郭状の平坦地が造成されている。約3千坪の範囲に、かっては陣屋を構成する各施設が築かれていた。
 
 
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<椎谷宿>ここも動いている人がまるで見当たらない
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表門跡 砲術稽古場跡 神社
<椎谷陣屋敷跡>
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芝桜が満開 長屋跡
 
11:25

馬市の墟

 
 
     <椎谷の馬市>
  椎谷藩初代藩主の堀 直之は幾度となく戦場に臨んだ武勇の誉れ高い武将でした。戦場で馬が活躍した事は当然の事であり、直之は着任早々、良馬の育成と馬匹の改良を奨励し農民に種馬を貸し与え、毎年7月1日に駿馬を買い取っていた。その後、一般にも馬の売買が許されると、次第に盛んになり、椎谷の馬市と呼ばれる様になった。馬市は毎年6月24日から7月2日まで開催され、馬市に集まった馬の数は安政年間の記録では8,000頭とも云われる様になった。椎谷の馬市は安芸の広島・奥州の白河と共に「日本の三大馬市」と言われた。馬市の開かれた場所は、寛永年間の記録では、水戸川(すいどがわ)から椎谷観音の登り口までの広さで、道路両側の民家の前には馬を繋ぐ為の柵が作られ、海岸の広い砂浜にも小屋掛けして多くの馬が繋がれ、馬のせり場も設けられていました。馬市に集まる売り方の博労は青森・秋田・盛岡・福島地方や県内は蒲原方面からで、買い方の博労は長野・栃木・埼玉・富山・石川・静岡・愛知や県内は頚城方面からで最盛期に集まった博労の数は約10,000人とも言われている。しかし、環境の変化によって馬の需要も次第に減少し、昭和初期には300頭程しか集まらず、多くの馬小屋が建てられていた広大な海岸の砂浜も波浪に侵食され、ついに椎谷の馬市も幕を閉じた。
 
11:35 香取神社入り口
これから先は中越沖地震により崩壊している。通行が不可能なため引き返す
昨日は強引に通行したが、ここは無理だ。
 
11:45

椎谷岬トンネル

 
 

          <帆船北前船の係留地として明治初期)>
 宮川の麻ロープ、網や椎谷瓦などを佐渡ヶ島や北海道にこの地より運んだ。
当時、自然港として(安藤の間)現在の灯台沖約1キロの陸続きであったが椎谷地震で陥没。
今も当時の会談や井戸さらに、船の係留石杭(5本)が海の中にみることが出来る。
その宿場として「上の茶屋」、「中の茶屋」、「下の茶屋」があった。
帆立観音 「十一面観音」現在は、真蔵院にて管理。 中越沖地震で倒壊
石上神社 「布都魂神」文政三年(1820年) 北前船や航海船、商売の安全祈願や、海上陸路の守護神として尊崇深いものがある。(山の中)

 
11:56 トンネルを抜ける
机立観音堂
 
 
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12:20

大崎城址

 
 

    <大崎城址>
    柏崎市西山町指定文化財
昭和44年9月1日

 大崎城址の愛宕山は標高103メートルである。
上杉氏の享禄年間公卿仁位某の後裔という大崎筑前守高清が岩根山(現在の愛宕山、愛宕神社を建立したところから愛宕山とよんでいる)に大崎城築いたという居城跡がある。
東側や山、西は急斜面で海岸に臨む。山頂からの眺望は実に素晴らしく南に米山薬師、北に弥彦山、眼下に佐渡ヶ島を望むことができる。大崎筑前守は代々上杉家の武将であり、春日山にも居館を持ち「鳴る環が池」の伝説を生むほどの武将であったと伝えられる。

       柏崎市教育委員会   太田地区コミュニティー振興協議会

 
12:34 雪割草の湯(下の写真)
温泉に入りたーい!
ここで温泉に入るとその後は絶対に歩けなくなるな。我慢しよう、ファイトーッ!
 
 
sentou 絶滅の危機にあった山野草を地元の雪割草保存会が育て、30万株の群生を見るに至った。平成18年の「花の観光地づくり大賞」に選ばれ、開花期の3月は里山が大変賑わう。
 
12:54

石地海水浴場

 
13:10

御島石部神社
参道に見事な八重桜並木

 
 
        <御島石部(いそべ)神社>
 御影石の参道を350mほど進むと、御島石部神社にたどり着きます。
現在の社殿は弘化3年に再建されたもので、本殿・幣殿・中電・拝殿・廊下、ともに総欅破風造り。江戸末期の建築の粋を集めた、近郊では見られないほど荘厳な社です。
社殿の壁面を数々の素晴らしい彫刻が飾っています。拝殿の子持ち龍は諏訪の住人「立川和四郎」、本殿の鶴や鳩、鯉等の彫刻は、幕府のお抱え木彫り師「熊谷の小林源太郎」の作といわれています。
延喜式内社で祭神は大己貴命。
柏崎市指定文化財
石地地区コミュニティ振興協議会
平成21年3月
 
 
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13:15 久覚え荘
石地宿
ここから北国街道・奥州道の最終ステージ
ファイトーッ!
 
 

 

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<石地宿の大庄屋長屋門>
 
13:20 形蔵院
白亜の山門
 
 
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<形蔵院>
この付近では場違いなほど立派な寺院である
 
13:30 源九郎稲荷神社  
 
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  どうした訳か?稲荷神社付近の畑の中に5メートルもある大きなボーリングのピンが1本倒れている。
きっと北国街道の神様達が忘年会の後でボーリングを楽しんだに違いない・・・・かな?
 
13;45

獄門跡
旅立の丘

 
 
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13:55 獄門跡。怖ーい!何となく、寒気を覚える。昔、ここで数えきれないほどの処刑が行われたという。
出雲崎宿入口
 
 

 

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 <尼瀬獄門跡>
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 当町は元和2年(1616年)徳川幕府の直轄地となり、代官所が置かれた。付属機関として牢屋もつくられた。ここは極刑の執行をする刑場であった。おそらくは幾千もの斬首がなされたことであろう。特に重罪人の生首は浜辺のほうにさらされたと伝えられている。供養塔は天明年間の建立であり数対の地蔵尊と老榎は当時を偲ばせるものがある。地元では現在も毎年9月1日に供養祭を行っている。
              出雲崎町
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<出雲崎よもやま話>
    <餌にまつわる話(其の1)>
 昔、竜神様がボラとオコゼを呼んで一緒になれ、とお命じになったがボラには将来を誓い合ったキミヨ(ホウボウ)という美魚がいた。ボラは嘆き悲しんだ末、いっそ、あの世で思いを遂げようと、思い切り空に向かって身を躍らせたが、すぐに海に落ちてしまった。それでも竜神様にあわせる顔がないと、またポーンと富んではポチャンと落ちた。一方キミヨ(ホウボウ)も愛しいボラと一緒になれないならその肉を食べて、その皮をかぶって砂にもぐろうと心にきめた、という。昭和も30年代までキミヨ縄という延縄漁があった。その餌にはボラやナイシ(ボラの若魚)が良く漁期には争って手に入れたという。
今でも並みの静ではボ
ラがポーンとトン是はポチャンと落ちている。
    <餌にまつわる話(其の2)>
 いつの頃か、いつも大漁で裕福な家と、漁が少なくいつも貧しい家があった。裕福な家には逞しい息子が、漁のない家にはやさしい娘がいた。縁あってその娘が裕福な家のお嫁さんになった。或る晩、皆んなが寝床に入った頃、父子がこっそり船小屋へ向った。不審に思った嫁はそっと後をつけた。
船小屋で父子は餅をついてそれに若いめん鶏の生血をそそいで餌として丸めていた。その夜更けに父子は漁に出て、昼近くに帰って来た。船にはイシナギ、アラ、ムツ、など高価な魚が大量であった。なぜかその後嫁の実家でも大漁が続くようになった。そんなある日、父子が嫁に船に乗るように言った。嫁は一瞬、とまどったが黙って船に乗って沖へ出て行った。
その後嫁の姿を見たものはなく、今でも遥か沖合に誰が名づけたか嫁が瀬とか嫁ぐりと呼ばれる岩礁があるそうだ。

    <名主の家は千畳敷>
 安政10年9月、出雲崎町は大火で多くの家が焼失した。
そのころ江戸の元役人で文才のあった「新楽間?」(にいら かんそう)という人が書き残したの野の中にこの火事のことが記されている。それによると、わけても尼瀬町の名主の家は土蔵を残し全焼した。町の人達はもちろん、近郷近村から大勢の人たちが駆けつけて名主の家の畳を運び出したが、出された畳の数が700枚ほどで残りの300枚は間に合わなかったという。
当時の名主の暮らしぶりは10万石の大名と同じくらいであったと記されている、これは佐渡奉行の送迎や、将軍の代替りに行われた諸国巡見、御料巡見などで数百人の役人を宿泊せる時の本陣をつとめたからでそれにしても名主の家の畳千枚は驚きである。

    <蛸の供養>
 出雲崎では、漁師で一年中蛸獲りを仕事にしている磯見衆がいます。獲ったばかりの蛸を生きたまま釜茹でにするため、蛸に対して可哀そうだと心に思っていました。そのため春と秋の彼岸に蛸の供養をしています。この蛸供養については、ずいぶん古くから行われていたようで、江戸時代の記録にも残っています。
蛸供養は、その年の蛸供養の当番になった人が、仲間の磯見衆の家を朝から回り、米、味噌、野菜などを集め、お寺で蛸供養の後のお斎の用意をした。
午前10時頃から読経が始まり、年功順に焼香し、読経が終わると参加者でお斎をいただいた。お斎の後は、家族も集りお寺の住職の和讃や法話を聞いたり、五色軍団による演芸を楽しみ1日を過ごした。現在もこの蛸供養は続いていますが、漁師の数も年々減少し、高齢化に伴い蛸供養も8月の下旬か9月の上旬の漁の休みの日に磯見衆だけで静かに行われています。

    <廻船問屋 熊木屋跡>
 嘉永元年(1848)勤皇家頼山陽を父にもつ三樹三郎がこの町へ来た。酒豪で剣を取らせても一流で、父の影響で若くして勤皇思想を抱き、幕政を常に批判して酒がすぎると口論のあげく刀を抜くという性格であった。
しかし頭脳明晰で、心ある人は彼に詩分を頼み教えをうけた。京都へ帰った彼は安政の大獄に連なり、安政6年(1860)江戸で処刑された。
大正から昭和にかけては画家の安田靫彦、中村岳陵、小川芋餞、郷倉千靭らも訪れている。
良寛研究家の相馬御風、津田青楓らは幾度も来泊した。

 

        出雲崎の「妻入りの街並」

 江戸時代、出雲崎は徳川幕府の天領となり、佐渡の金銀陸揚げ港として、また、北前船の発着港として栄えました。また、北国街道の宿場町として多くの人々が行き交い、この地方一帯の政治、文化、好悪通の中心都市でもありました。
その間、良寛がこの地に生まれ、芭蕉が訪れ「荒波や佐渡によこたふ天河」の名句を残し、十辺舎一九・吉田松陰など数多くの文人墨客の往来がありました。
海岸線に沿った3・6キロメートルにおよぶ「妻入り」の家並みは、北国街道の名残であり、当時の面影を今に伝えています。「妻入り」とは、切妻側面の三角形の壁面方向に出入口を設け、これを正面とする建築様式のことです。
平成8年3月には、建設省の歴史国道として選定され、同年6月には新潟県の「景観形成推進地区」に指定されました。その後、「ふるさと新潟の顔づくり事業」として道路の景観舗装や照明灯などを整備しました。
この妻入りの街並は全国的にも珍しく、訪れる人々に安らぎを与えてくれる光景であり、末永く後世に伝えていきたい風景です。
北国街道は、出雲崎から江戸へ佐渡の金を運ぶ道として利用され、信州追分宿から中山道を経て江戸に通じていた。この北国街道は、会津街道・三国街道と合わせて「佐州三路」といわれるうちの一つの街道で、多くの人や物資の往来がありました。
江戸幕府は、佐渡の金銀を重視し金山の開発にあたらせました。このため、北国街道は佐渡で産出された金の輸送や、佐渡奉行や巡見使の通行など、江戸と佐渡を結ぶ主要幹線として再編成され、東海道など五街道に次ぎ重要視されました。

      平成12年2月  新潟県与板土木事務所   出雲崎町

 

 
14:20 芭蕉 園  
 
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ここ出雲崎で松尾芭蕉は
「荒海や佐渡によこたふ天河」
を詠んだ
<出雲崎の中心地>
 
 

    <俳諧伝灯塚 妙福寺境内

 元禄2年(1689年)7月出雲崎に奥の細道の杖をとめて1泊した芭蕉は「荒海や佐渡によこたふ天河」の名句を残した。その後芭蕉門下2世の東華坊は2度までこの地を訪ねた。3世蘆元坊もまたここに杖をとどめて感慨にふけった。出雲崎が生んだ俳人近青庵北?は宝暦5年(1755年)3代にわたる俳人が当地で詠んだ句を刻して俳諧伝灯塚が建てたと伝えられている。
新しい石碑は大正年間に再建されたものである。

       碑文
    荒海や佐渡によこたふ天河     芭蕉
    雪に波の花やさそうて出雲崎    蘆元坊
    五月雨の夕日や見せて出雲崎   支考

        出雲崎町

 
 
<出雲崎よもやま話>
    <ツルがカメを拾った話>
 ツルという少女は、年とり(大晦日)の夜、神棚に手を合わせ「良い夢をみますように}と祈った。その夜、大きな明るい波に乗って宝船がツルの家に馳せ込んで来る夢を見た。
 朝起きて、両親に夢の話をすると漁師の父が「浜でも見て来い。」と言った。家の裏へ出るとツルの家の裏へ大きな海亀が、流れ寄っていた。大喜びで両親に話すと父は、酒を以って浜へ出て海亀に酒を飲ませた。話を聞いて近所の人達も酒を持って来た。
 海亀は、龍宮の使者として漁師達は、大切にして沖へ帰した。
 ツルがカメを拾った。縁起が良いと評判どおり、その年、ツルの父は、大漁続きで、酒を振舞った近所の人達も良いことが続いた。
ツルとカメのめでたい話である。
    <餌にまつわる話(其の3)>
 江戸時代も半ばを過ぎた文化年代(1800)北前船が各地との交易を行い、豊かな富と文化を出雲崎へ運んできた。なかでも、北の他ら運ばれてきた「油漬」という餌は、魚の好きな臭いがするためいろいろな漁に使うことができた。特に鯛や小鯛が良く釣れる夢のような餌だった。
 しかしこの餌の入手先もその使い方も一集落の漁師衆の秘密になっていたため、他の集落の嫉みと恨みをかうようになり果ては海上において海戦さながらの乱闘にまで発展してしまった。
 この事は、地元だけではおさまりがつかず江戸の評定所の採決を仰ぐことになり江戸から役人がきて2年間の実情調査の結果、現在の漁業権の原形ともいえる裁定が下されたのであった。
 
14:30 バンザイ!北国街道(奥州道)を歩き終える  
 
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北国街道の終わり「出雲崎宿」
ここ出雲崎の沖合いが「・・・・よこたう佐渡島」がある。江戸時代にはこの島から江戸までこの街道を金が運ばれた。
北国街道・合計329.1km
   *北国・脇道;137.4km
   *北国・松代; 39.2km
   *北国・奥州; 79.6km
   *北国・西道: 72.7km
北国街道の全てを歩き終えた
 
14:43

出雲崎宿発
北越観光バス。1日4便、午後は2便しかない柏崎行きバスに10分ほど待って乗ることができた。ラッキー!
たった今歩き終えたばかりの北国街道を柏崎宿に向けて戻る。途中は居眠り

 
15:50

柏崎駅前着
出雲崎=柏崎まで料金は550円。料金箱に600円を投入したところ、つり銭は出ないと運転手が云う。
あー、何としたことか!北国街道を無事に歩き終えた感謝の「お賽銭」としよう。
夕食は今日もホテルの近くにある「イトーヨーカドウ」地下食料品売り場で「寿司弁当とお菓子」を買ってホテルの部屋で一人で食う。ウマーい!1,050円。「北国奥州道」を歩き終えた記念に贅沢した・・・・かな?

 

 
  (第4日目)  
 

2014年4月29日(火)
柏崎=(高速バス)=池袋(東京)、4,900円

 
08:15 高速バス・池袋行き。
薄曇り、バスは90%位の乗客。なんと隣の席には若い女性が座った!ヤッター
 
09:55 湯沢
リゾートマンションらしい、10階建ての高い建物が林立している。
麓まで残雪が残る。三国峠付近は真っ白だ。里山にはソメイヨシノが満開だ。
 
10:00 関越トンネルを抜ける。途端に雪が無くなった。関東地方に入る。  
12:30 池袋駅前着。柏崎から4時間15分、早い。  
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