22:30
(2/27) |
2月27日、夜。Nさんの車で東京を車で出発、深夜の雨の中、中央高速を一路JR下諏訪駅へと向かう。 |
| 03:00 |
JR下諏訪駅前駐車場到着(駅前に車を駐車して電車で今日の出発点・青柳駅まで東京方面へ戻ることにする)。
雨、車の中で仮眠。友人・Nさんと二人、今回の街道歩きで初めて連れが出来た。
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| 06:40 |
JR下諏訪駅発「立川行き」
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| 07:30 |
JR青柳駅
ミゾレ交じりの小雨。寒い。他に誰もいない。駅前は閑散としている。ウー寒い。
でも今回は同行者がいるので、気分が少しははずむ。そして甲州街道のゴールが待っている。
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<JR青柳駅前> |
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| 07:45 |
旧甲州街道と20号線との合流地点。
前回の終着点=今回の出発点(金沢宿の少し手前)。
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| 07:50 |
泉長寺 |
| 07:55 |
金沢宿本陣跡
冷たい雨が降り続く。 |
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<金沢宿本陣跡> |
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【金沢宿本陣跡】
五街道は幕府直轄で道中奉行の支配下に置き、約4里(約15キロメートル)おきくらいに宿場を設け、大名の参勤交代や公用旅行荷物の継ぎ建ての業務にあてさせた。甲州街道の宿場には25人の人足と25匹の馬を常駐させその任に当たらせた。
本陣は大名や公家が泊まったり、休憩する施設で、公用の書状や荷物の継ぎたてをおこなっていた。金沢宿には2軒の問屋が置かれ主は名字帯刀が許されていて世襲であった。金沢宿は慶安年間の初めまでは現在地の北方権現原にあって青柳宿と称していたが、度重なる水害と前年の火災で焼失したのを機に、慶安4年(1651)現在地に移転し金沢町と改称した。
本陣の敷地は約4反歩(約40アール)あって、敷地内には高島藩や松本藩の米倉などがあった。小松家は青柳宿当時から代々本陣問屋を勤めていたが、隣村茅野村との山論で家族も顧みる暇もなく、寝食を忘れ町民の先に立って働いた4代三郎左衛門は延宝6年(1678)高島藩は伝馬を怠ったとの廉(かど)で、町民の見守る中ではりつけの刑に処され家は闕所(けっしょ)断絶した。その後明治初年まで白川家が本陣問屋を勤めた。金沢宿を利用した大名は高島藩、飯田藩、高遠藩の3藩であったが、江戸後期になると幕府の許可を得た大名が東海道や中山道を通らず甲州街道を通行し金沢宿に泊まっている。
平成11年 5月吉日 金沢財産区・金沢区 金沢歴史同好会
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| 08:05 |
秋葉常夜灯
現物は見あたらない。この付近には古い民家が随分と残っている。
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| 08:10 |
谷の口交差点
権現の森
ここにも直ぐ近くに昔の処刑場「はりつけ場所」がある。
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<常夜燈> |
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| 08:45 |
常夜灯(=上の写真)。ただし現代作。
雨は相変わらず降り続く。時々雪に変わる。
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| 09:45 |
宮川坂室
ここで20号線と再び合流。
雨が小雪に変わった。寒い。ファイトーッ!
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| 10:10 |
縄作りの現場を見学。
4月始めに開催される「諏訪大社の御柱祭り」の為のしめ縄作りの現場を見学する。
大勢の人が、法被を着て騒いでいる。
聞くところによれば、直径10ミリ程の稲縄を15本束ねて1本の縄とする。
15本に束ねた縄を3本にまとめる。更にそれを3本を1本の縄に締め上げる。
合計45本でしめられた縄3本を更に1本の大きな縄にする。最後は45本で撚られた縄3本を更に1本の縄に仕上げる。
合計135本で綯われた。
祭り当日、この135本で編まれた縄も切れることがあるという。 |
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| <木落し公園> |
この小さな丘の上から御柱を曳きづり落とす、それだけのことに大の大人が夢中になっている・・・・かな?年によっては死人も出るとのこと。 |
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【木落し公園】
信濃国一之宮と呼ばれる諏訪大社は上社の本宮、前宮、下社の春宮、秋宮の2社4宮からなり、氏子は諏訪地方の6市町村にわたっています。
この諏訪大社の最も勇壮で熱狂的な祭りが「御柱祭」であり、天下の大祭として広く全国に知られています。
御柱祭は、申と寅の年にあたる7年目毎に行われ、4月の山出し、5月の里曳きにより曳行されます。茅野市は上社の曳行ルートになり、壮観な見せ場としては山出しの「木落し」「川超し」、里曳きの「建御柱」があります。この見せ場の一つである「木落し」の場所が「木落し公園」です。
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| 10:35 |
木落し公園(上の写真)
御柱落としの現場を見学。
風が止んだ。 |
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【姥塚(うばづか)古墳】
この古墳は、茅野駅前広場のあたりに古くからあり、明治38年(1905)11月、中央線の開通により、茅野停車場の開設にともなって取り壊された。
記録によれば、水田の中にあった円墳で、築造年代はおよそ8世紀末と推測され、墳丘上には石祀(せきし)があり、台座石には花崗岩の天井石3枚が用いられていた。石室は、羨道(せんどう)が南に開口していて、羨道奥が左右にのびてT字形となっており、羨道と玄室の区別のつかない形式で、玄室の左右に副室があった。
出土品は、直刀・鉄鏃(てつぞく)・桂甲小札(けいこうこざね)・金銀環・玉類・細かい紋様つきの和鏡・須恵器・土師器(はじき)・青銅鍔などであった。
昭和41年11月、駅庭の大整理に際して、散存する積み石を集め、この地に姥塚古墳の石標を建立した。
今回、茅野駅周辺再開発事業の一環として、姥塚古墳の一部地籍を残し、この地の古代文化を偲ぶよすがとした。
昭和62年10月 茅野市教育委員会 |
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| 10:55 |
JR茅野駅
早い昼食。ソバと地元特産の旱天(かんてん)から作った心太(ところてん)のセットランチ。これが予想以上に美味かった。雨と風が止んだ。晴れ間が見え始める。バンザイ!
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| 11:40 |
八幡神社 |
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| <瀬岳寺> |
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| 11:55 |
【瀬岳寺】
諏訪市史跡 頼重院境内
諏訪市有形文化財頼重院供養塔
天文11年(1542)7月、諏訪頼重は武田信玄に攻められて桑原城に破れ、甲府において自害した。墓は東光寺(甲府市)にあるが、この地に菩提寺として頼重院が建立され、境内には宝塔を立てて中に宝篋印塔(ほうきょういんとう)を納めその霊を供養した。宝篋印塔は総高95cmで、基礎・燈身・笠・相輪の各部分の大きさの調和がとれていて美しく、関西形式と関東形式が混在したこの地方特有の作りである。
宝塔は、石造りのふく塔ともいうべきもので、方形の平面の燈身に4注状の笠を乗せ、露盤に請花、宝珠をおく。
境内にはこのほかにも古い墓碑が多く見られる。
指定 昭和43年4月10日 諏訪市教育委員会 |
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| 12:15 |
【甲州道中51里塚】
江戸時代の初めに、幕府は「5街道」の改修を行って一里塚の制を敷き、江戸日本橋を起点として36町(一里,約4km)ごと道の両側に塚を築いて、エノキかケヤキの木を植えさせた。ここ神戸には日本橋からの51里塚が築かれ、西には上諏訪の片羽に52里塚があった。
塚上のエノキは大人の5(8〜9m)倍くらいある大木で、旅人にとってはよい目標や休憩所となり、野良に働く里人達にも親しまれたが、明治時代に入ってから取り崩された。
諏訪市教育委員会 |
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| 13:30 |
元町交差点
造り酒屋「眞澄」
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| <この町内でも御柱祭りの準備をしている> |
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| 御柱を曳航する為の縄を編んでいる。 |
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| 子供のお囃子。全国大会で入賞するレベルだそうだ。 |
親切に案内してくれた町内会の役員さん。お祭りの時は是非見に来るようにと云われた。 |
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| 13:35 |
貞松院 |
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| <貞松院> |
<手長神社> |
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| 113:42 |
手長神社
ここの手水鉢には温泉が流れている。あー入りたい。
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| 13:50 |
吉田の松
(一里塚跡52里塚) |
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| <吉田の松> |
<甲州街道52里塚> |
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【甲州街道52里塚】
甲州道中は、江戸から甲府が表街道、甲府から下諏訪が裏街道と呼ばれ、下諏訪宿で中山道と合流していた。各街道とも江戸日本橋より36町(1里、約4km)ごと路の両側に盛り土をして頂上にケヤキ・エノキなどを植えて一里塚とした。ここに1里塚ができたのは慶長15年(1610)頃と言われている。この塚は江戸から52里で西は下諏訪町富部の53里塚、東は四賀神戸の51里塚へと続いている。
諏訪市教育委員会
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| 14:05 |
先宮神社 |
| 14:50 |
一里塚
甲州街道53里塚(最終)
下諏訪宿まで残りの距離約1,100m
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一里塚(53里塚) |
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【一里塚】
起点の日本橋から道の中央を計って一里毎(4km)に、道の両側に大きく土を盛りエノキ等を植え一里塚として旅人の便とした。
この塚は江戸(現・東京)より53番目。
甲州街道中最終のもの。
あと11町(千百m)で賑やかな下諏訪宿に着き、中山道につながる。 |
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<承知川橋> |
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| 15:05 |
【承知川橋の記】
この1枚石は長く甲州道中の承知川にかかっていた橋石である。
輝石安山岩 重量約拾参屯
伝説によると永禄四年武田信玄が川中島の戦いの砌、諏訪大明神と千手観音に戦勝祈願を約し出陣したと言う。しかし戦いに利あらず帰途この橋を通過せんとしたが、乗馬は頑として動かず信玄ふと先の約定を思い出され馬上より下りて跪き「神のお告げ承知仕り候」と申し上げ帰国したと言う。
爾来承知川と呼びこの1枚石の橋を承知橋と呼ばれるようになったと伝えられている。
この1枚石の煉瓦模様は防滑とも又信玄の埋蔵金の隠し図とも言われてきた。
表面がこのように滑らかになったのは人馬など交通が頻繁であったことを物語っている。
この度新橋掛替に当ってこの橋石を永久に此処に保存する。
昭和52年 久保海道町
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| 15:10 |
諏訪大社
大きい神社である。参拝する。御柱が立っている。 |
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| <諏訪大社> |
<諏訪大社本殿> |
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手洗いの水は温泉が流れている。手を洗うよりも全身で浸かりたい。 |
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【神話と伝説 錦の湯】
諏訪大社は、上社の本宮・前宮と、下社の秋宮・春宮の総称です。
その昔、上社の地にお住まいの諏訪明神建御名方神のお妃八坂刀売神が、日頃お使いになっておられたお化粧用の湯を綿に湿し「湯玉」にして下社の地へお持ちになりました。その湯玉を置かれた所から湧いたのがこの温泉で、綿の湯と名付けられました。神の湯ですから神聖で、やましい者が入ると神の怒りに触れて、湯口が濁ったといい、「湯口の清濁」は下社七不思議の一つに数えられています。
下諏訪宿は中山道と甲州街道が交わるところ、全国1万余の諏訪神社総本社の門前町で、湯の湧く宿場として親しまれ街道一賑わいました。下諏訪宿の中心が錦の湯界隈です。
松尾芭蕉と門人近江国膳所藩士菅沼曲水の連歌
入込みに諏訪の湧き湯の夕まぐれ 曲水
中にもせいの高き山伏 芭蕉
入込みは共同浴場のこと、夕暮れの宿場の賑わいがしのばれます。
壁面の陶板レリーフは文化2年(1805)の木曽路名所図会に描かれた下諏訪宿の情景です。
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<下諏訪宿本陣跡> |
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下諏訪町文化財
【史跡 本陣遺構】
江戸時代中山道の大きな宿場として殷盛をうたわれた下諏訪宿の問屋兼本陣の大半がそのままここに残っている。維新前は公卿や大名たちの休泊所になり、文久元年(1861)11月には関東へ御降嫁の和宮さまのお泊所になり明治13年6月24日明治天皇ご巡幸の時にはお小休所になった。
昭和47年2月23日指定
下諏訪町教育委員会
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【高札場跡】
この地は江戸時代、下の諏訪宿高札場として、幕府の法令や禁令が版札に書かれ掲示されていた場所である。当初は下ノ本陣前の中山道と甲州道中の合流する所にあったが、人通りが激しく高札場前が混雑したものと思われる。宝永年中(1705頃)には友之町との境8現在地に移転された。
法令や禁令の掲示は、古くは奈良時代からあったが、高札としてその名にふさわしい物となったのは室町時代頃からである。江戸時代には宿辻・街道の追分・湊・関所などの人目につきやすい場所に設置された。
高札に掲示された内容は、幕府の基本姿勢で、まず忠孝親子・キリシタン・毒薬・にせ金・駄賃・火付けなどの5枚が大高札とよばれて全国の宿駅で掲げられた。また後にはこれ以外に鉄砲・新田・ばくち・徒党・浪人などの高札も出されている。
高札場は高い石垣や土盛りをして柵をめぐらし管理も厳重にした。高札の禁令に違反したものは厳罰にするなど、庶民に法を知らせこれを守らせようとする幕府の権威を示す場としての役割も果たしていた。明治になり新政府も受け継ぎ太政官の名をもって高札を立てたが、明治6年(1873)2月に撤去された。
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下諏訪宿の中心部
巨大なモニュメント「御柱の綱(かな?)」 |
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| 15:25 |
甲州街道と中山道の合流地点。(ゴール)バンザイ!
下諏訪本陣跡の直ぐ近くにある公衆浴場「児湯温泉」に入る。
疲れて冷えた身体には温泉が最高。
カボチャ入りの信州名物「お焼き」が美味い。 |
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