| 06:43 |
自宅発
台風が八丈島辺りを通過する予報。
昨日までの予報では、今日の天気は雨だった。
今朝6時のラジオでは曇りに変わったため急いで旅仕度を整え出発する。
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| 07:15 |
新宿駅
この時間、京王線はものすごい混みよう、新宿駅も通勤・通学客で雑踏している。
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| 07:45 |
赤羽駅発 埼京線
埼京線は中山道とほぼ平行して延びている。
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| 08:53 |
深谷駅着
曇っているが雨の心配はなさそうだ。
深谷駅は赤レンガ造りで東京駅に似たシャレた駅舎である。
早速、駅前にある「マック」に入る。
メガマフインセット490円。ウマーイ!、街道歩きではマックに限るのだ!
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| 09;22 |
仲町交差点(中山道)
前回の終着点、今日の出発点。ファイトーッ! |
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| 09;30 |
本陣跡
現在は飯島印刷所の工場となっている(下の写真)。
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10景 英泉
【深谷之驛;岐祖街道六拾九次(渓斎英泉画)】
天保6- 8年(1835-1837年)
深谷宿(ふかやしゅく)とは、中山道六十九次(木曽街道六十九次)のうち江戸から数えて9番目の宿場。
現在の埼玉県深谷市にあたる。深谷宿は中山道で最大規模の宿場で、本陣1(飯島家)、脇本陣4、旅籠80余。商人が多く、また飯盛女も多く、遊郭もあり、江戸を出立して2晩目の宿を求める人で大いに栄えた。 五の日、十の日に市が立った。(壬戌紀行)
◎深谷宿 埼玉県深谷市
熊谷宿から深谷宿までは約10・8キロ。天保14年(1843年)の『中山道宿村大概帳』によれば、深谷宿の宿内家数は525 軒、うち本陣1軒、脇本陣4軒、旅籠80軒で宿内人口は1,928人であった。
深谷は深谷城を中心に栄えた古い城下町で、農業や養蚕業が盛んであった。多くの人が江戸を出て2泊目をこの宿場で過ごし栄えた。江戸末期には商家の3割近くが旅籠屋で、その各戸には1人から5人ぐらいの飯盛り女がいた。 |
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(深谷)本陣
本陣は、脇本陣並びに旅籠と違い、一般人は利用できず、即ち公儀の厳重な制約を受け続けました。
中山道筋の貴人の通行の例としては年間、泊まり10件、休憩40件ほどで誠に少なく、為に本陣職の大半は、他に主たる職業を持っていました。飯島家は宝暦2年(1752)より明治3年まで、足かけ6代に亘って、已むなく本陣職を続けざるを得ませんでした。
上段の間(晩翠堂)次の間、入側(いりかわ)がこの奥に現存しております。
平成8年5月 深谷上杉顕彰会 第36号
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| 09;32 |
映画館(木造)「深谷シネマ」=下の写真
こんな古びた木造の建物のどこに「映画館」なるものが存在し得るのか?実に不思議なシネマである。
この木造建物の左側には現在上映中と次週予告の映画の看板、右の木戸を通って奥に「映画館」なるものが存在する・・・らしい。
普通、映画といえば芸能界であり、憧れ、華やか、赤ジュウタンそして聖子ちゃんでありノリカでもある。
ところがこの「深谷シネマ」それらを一切無視、これで良いんだ!と開き直っている。
まるで江戸時代から続く映画館?・・・・暗く、薄汚れそして悲惨なんて言葉をも連想させる。
ついで、立小便、ぬかるみや嘔吐なんて言葉が連想させる雰囲気を漂わせている。
これでも映画館か?って感じ。
関係者の皆様、ごめんなさい。 |
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| <古い大きな民家にある「深谷シネマ」・・・・オドロオドロして、だけど何だか懐かしい> |
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| 09;40 |
旧深谷宿常夜灯 |
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旧深谷宿常夜燈(田所町)
江戸時代、中山道・深谷宿の東と西の入口に、常夜灯が建てられ、旅人の便がはかられた。
天保11年(1840)4月建立。高さ約4メートルで、中山道筋最大級の常夜燈である。
深谷宿の発展を祈願して、天下太平・国土安民・五穀成就という銘文が刻まれている。これを建てたのは、江戸時代の中頃から盛んになった富士講の人たちで、燈身に透かし彫りになっている「三」はこの講の印である。 毎夜点燈される常夜燈の燈明料として、永代燈明、田、三反が講の所有となっていた。
天保14年には、深谷宿は約1・7キロの間に80軒もの旅籠があり、近くに中瀬河岸場をひかえ中山道きっての賑やかさであった。東の常夜燈は稲荷町にある。
平成6年4月
深谷上杉顕彰会(第28号) |
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| 09;50 |
清心寺 |
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| 10;00 |
宿根
国道17号線とXに交差
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| 10;15 |
| 17号線を進む
「二十二夜塔」
正明寺入り口
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| 10;20 |
POST80km(日本橋から80km)
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| 10;50 |
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| <とてもりっぱな郷社・島護産泰神社>
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| 11;05 |
百庚申
この付近、なんだかオドロオドロして、少々気味悪い。 |
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【百庚申】
百庚申は、岡の坂下への降り口、旧中山道に沿う坂道に建てられている。
百庚申が建立されたのは幕末、万延元年の庚申の年(1860)で、岡の有志13人により計画され、翌年の万延2年にかけて完成を見た。
このことは、庚申塔群の中に大杉の板石に庚申と記した庚申塔があり、その裏面に刻まれている文字によりうかがい知ることができる。これによれば、百庚申造立の中心人物は「田島新兵衛、田島喜蔵、田島直右衛門、田島武左衛門、田島利三郎、坂爪治兵衛、小暮弥一右衛門、小暮半次郎、小林常七、小林□兵衛、柳田熊次郎、山口竹次郎、発起人中野屋宗助」という人々であったことがわかる。
もともと、この場所には、享保元年(1716)に造立された庚申塔があって、二十二夜待塔、馬頭観音の石碑も立っていた。
万延元年は、徳川幕府の大老井伊直弼が江戸城の桜田門外において水戸浪士達により、暗殺されるという大きな事件があったり、黒船来航により永い鎖国の夢をやぶられた日本の国情は騒然としたもので、民衆の生活も不安なものであった。このような状況にあって神仏に頼ろうという心理と、万延元年(庚申の年)がかさなり百庚申が造立されたと言えよう。
平成3年3月 埼玉県 岡部町 |
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| 11;15 |
小山川
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| 10;35 |
小さな「中山道」の指導標を見つけてホッとする。
この付近、中山道を辿るのがとても難しい。
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| 11;40 |
八幡大神社
この区間の道は非常に判り難い。不安。
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| 11;50 |
子育地蔵尊
庚申
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| 12;25 |
本庄市
「中山道交差点」
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| 12;30 |
本庄駅入り口交差点 |
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11景 英泉
『支蘓路ノ驛 本庄宿 神流川渡場』
天保6- 8年(1835-1837年)、渓斎英泉 画
宿より5.5キロ離れた神流川渡し場を題材としている。背景の山は上毛三山であり、右から赤城・榛名・妙義山である。土橋は初代戸谷半兵衛こと光盛が架けさせたものであり、長さ30間(約55メートル)、幅2間(約3.6メートル)。出水で橋が流された場合に備え、別に長さ5間5尺(10.6メートル)、幅7尺の渡し船も用意された。光盛は無賃渡しとする為に金100両を上納した[1]。また、右手前(および向こう岸)の常夜燈は3代目戸谷半兵衛こと光寿が寄進したものである(在地豪商である戸谷半兵衛家の経済力と影響力がうかがえる浮世絵となっている)。本庄宿(ほんじょうしゅく)は、中山道六十九次(木曽街道六十九次)のうち江戸から数えて10番目の宿場。
◎本庄宿 埼玉県本庄市
武蔵国児玉郡の北部国境付近[2]に位置し、武蔵国最後の宿場。現在の埼玉 県本庄市に当たる。江戸より22里(約88km)の距離に位置し、中山道の宿場の中で一番人口と建物が多い宿場であった[3]。それは、利根川の水運の集積地としての経済効果もあった。江戸室町にも店を出していた戸谷半兵衛(中屋半兵衛)家は全国的に富豪として知られていた。
市街地の北西端には、中山道と信州姫街道の追分がある。場所は、現在の千代田3丁目交叉点付近。追分はT字路状で、江戸側から見ると、左折すれば信州姫街道、右折してすぐ左折という枡形ルートで中山道京都方面、となっていた。 |
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| 12;45 |
本庄金鑚(=かねさな)
近くのスーパーマーケットでランチのアンパン、牛乳、リンゴ、レーズンを買う510円。これを歩きながら食う。これがうまいんだな!
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本庄市指定文化財・【金鑽(かねさら)神楽 宮崎組】
神楽は、天照大神の岩屋のかくれ神話がその起こりとされており、神をよろこばせる舞楽(まい音楽)として各地にそれぞれのいわれをもって伝えられてきた。金鑽神楽、宮崎組の起こりについてはまだ明らかでないが、使われる面は江戸時代正徳年間(1711年〜1715年)以前の作であり、この地の神楽が古くから行われてきたことを物語っている。宮崎組は変わり面ねどの珍しい舞い方も伝えられまた遠くは信州上諏訪など各地に出かけて神楽を奉納してきた、なお座(出し物)は、いま25座伝えられている。
昭和35年11月10日 本庄市教育委員会 |
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| <金鑽神社境内のクスノキとカヤの大樹> |
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| 13;30 |
浅間山古墳
この付近何も見るものがない。ひたすら歩くだけ。
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<浅間山の古墳>
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| 13;55 |
庚申塚/庚申塔
ただ歩くだけ。
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| 14;00 |
八幡神社 |
| 14;05 |
八窪館址入 |
| 14;10 |
陽雲寺
境内に入るといきなり豚舎あり、参堂はとても臭くて早々に退散する。
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| 14;20 |
| 「中山道」標識 |
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| 14;30 |
一里塚跡 |
| 14;35 |
神流川
古戦場跡。東京から94kmのポスト。
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【神流川合戦】
天正10年(1582)6月19日、織田信長が本能寺に倒れた直後、関東管領瀧川一蓋は信長の仇を討たんとして京へ志し、これに対して好機至れりと北条氏は5万の大軍を神流川流域に進めた。瀧川一蓋は義を重んじ勇猛の西上州軍16,000を率いて、石をも燃ゆる盛夏の中死闘を展開し、瀧川軍は戦死3760級の戦史に稀なる大激戦で「神流川合戦」と呼んでいる。後生古戦場に石碑を建立し、首塚、胴塚も史跡として残され東音頭にもうたわれ、神流の清流は今も変わることなく清らかに流れている。 |
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| 14;45 |
高崎市に入る。 |
| 14;47 |
神流川合戦跡遺跡 |
| 14;50 |
新町宿
八坂神社
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| 15;00 |
諏訪神社 |
| 15;05 |
明治天皇新町行在所 |
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【明治天皇新町行在所(行在所公園)】
明治天皇は、明治11年8月から11月にかけて、北陸・東海地域のご巡幸(視察)を行いました。その途中の9月2日に新町に宿泊された施設がこの行在所です。
当時は木造瓦葺き平屋建の本屋と付属家の2棟で、旧中山道に面して設け、周囲は高さ9尺の総板塀で囲い、庭には数株の若松を植えてありました。
昭和55年1月に新町の史跡文化財としての指定を受けました。 |
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| 15;07 |
新町駅入口交差点 |
| 15;15 |
小林本陣跡
少し行って藤岡市に入る。
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12景 歌川広重(このシリーズ広重最初の作品)
【新町之驛;木曾街道六拾九次(渓斎英泉画)】
天保6- 8年(1835-1837年)
新町宿の北はずれ(上の絵図の左端)、温井川(ぬくいがわ)に架かる弁天橋を遠望、描画。左の富士に似た山は赤城山。
木曾街道六拾九次 新町(歌川広重画)新町宿(しんまちしゅく)とは、中山道六十九次(木曽街道六十九次)のうち江戸から数えて11番目の宿場。
現在の群馬県高崎市新町にあたる。はじめ本庄宿と倉賀野宿との間は、烏川北岸の玉村を経由するルートだったが、慶安4年(1651年)に落合新町、承応2年(1653年)に笛木新町(いずれも烏川南岸)に伝馬役が命ぜられ、ルートが変更された。これに伴い、中山道で最も遅く新町宿が成立した。これにより67宿となったが、東海道と重複する草津宿、大津宿を加えて中山道六十九次(または木曽街道六十九次)と呼ばれた。
天保14年(1843年)の『中山道宿村大概帳』によれば、新町宿の宿内家数は407軒、うち本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠43軒で宿内人口は1,473人であった。 |
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【中山道】
中山道は、江戸と京都を結ぶ街道で江戸時代以降五街道の一つとして整備が進められました。
金窪村(現上里町大字金久保)は、江戸から23里余。文政期(1818から)の家数は162軒。絵図では陽雲寺や八幡宮が見られます。新町宿への直路ができるまでは、陽雲寺の東で北へ向きを変えて角淵(現群馬県玉村町)を経て倉賀野宿へ向かっていました。この地は、三国街道とか伊香保街道と呼ばれていました。新町宿が設けられたのは、中山道中最も遅い承応2年(1653)頃です。
勅使河原村(現上里町大字勅使河原)家数は280軒。絵図では、武蔵国最後の一里塚が見えます。現在の街道は、ここで国道17号線と合流します。川のたもとには一般の高札と川高札が並んでいたことが判ります。左奥には神流川畔に建てられていた見透燈籠が移築されいる大光寺が見えます。
上里町教育委員会 |
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| 15;55 |
柳瀬橋 |
| 16;00 |
からす川を渡る。
再び高崎市に入る。
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| 16;13 |
倉賀野宿へ1・0km」のポスト |
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定
きりしたん宗門ハ累年の御禁制たり
自然不審の者有らば申出べし
御ほうびとして
ばれてんの訴人 銀5百枚
いるまんの訴人 銀3百枚
立かへり者訴人 同断
同宿并、宗門の訴人銀1百枚
右之通り下さるべし、たとひ同宿宗門之内たりと云ふ共申出る品により銀五百枚下さるべし、かくし置き他所よりあらわる々に於てハ其所の名主五人組迄一類共ニ罪科おこなハるべき者也
正徳元年(1711)五月 奉行
右之通り被仰出候畢領内之輩可相守もの也 越前
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定
1、人たる者五倫之道を正しくすべき事
1、鰥寡孤独廃疾之者を憫むべき事
1、人を殺し家を焼財を盗等悪業あるまじき事
慶応四年三月 太政官 |
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| 16;30 |
例幣使と常夜灯。追分 右・江戸道、左・日光道 |
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13景 英泉
木曾街道六拾九次 倉賀野宿 烏川之図
倉賀野宿(くらがのしゅく)とは、中山道六十九次(木曽街道六十九次)のうち江戸から数えて12番目の宿場である。日光へ向かう「日光例幣使街道」が分岐している。かつては江戸時代、烏川を利用した舟運搬の河岸があった。
現在の群馬県高崎市倉賀野町にあたる。
閻魔堂前の常夜灯
◎倉賀野宿 群馬県高崎市
新町宿から倉賀野宿までは約5・9キロ。わずか1里半の行程だが、途中温井、柳瀬川と2か所の渡しがあり、旅は容易でなかった。
天保14年(1843年)の『中山道宿村大概帳』によれば、倉賀野宿の宿内家数は297軒、うち本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠32軒で宿内人口は2,032人であった。信州や越後からの物資は碓氷峠を越え、牛車で倉賀野宿まで運ばれてから、利根川を経て江戸に運ばれた。 |
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【例幣使街道と倉賀野常夜灯】
中山道は、倉賀野宿東、下の木戸を出ると日光例幣使街道と分かれる。そこには、道しるべ、常夜灯、閻魔堂がある。
道しるべには左:日光道、右:江戸道とある。ここから日光例幣使街道は始まる。
日光例幣使街道は、13宿中、上州5宿(玉村・五料・芝・木崎・太田)野州8宿となっている。正保4年(1647)に第1回の日光例幣使の派遣があって以来、慶応3年(1867)の最後の例幣使派遣まで、221年間、1回の中止もなく継続された。また、この常夜燈は、県内では王者の風格を持っており、文化10年(1814)に建てられ、道標の役割も果たしていた。
高崎市 高崎観光協会 |
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| 【日光例幣使街道】
江戸時代
朝廷の衰微とともに次第に縮小・形骸化され、応仁の乱以降は伊勢神宮への奉幣を除いて行われなくなった。17世紀半ばから江戸幕府が朝廷の祭儀を重んじるようになり、延享元年(1744年)、約300年ぶりに二十二社の上七社への奉幣が復興された。正保3年(1646年)より、日光東照宮の例祭に派遣される日光例幣使の制度が始まった。江戸時代には、単に例幣使と言えば日光例幣使を指すことの方が多かった。
日光例幣使にとって、当時日光へ出向くことは大変な「田舎道中」であり、一刻も早く行って奉幣を済ませて帰りたいという心理があり、また道中で江戸を経由することとなると幕府への挨拶など面倒も多かったため、例幣使は往路は東海道・江戸を経由せず、中山道〜倉賀野宿〜例幣使街道という内陸経由で日光に向かった。帰路はに日光街道で南下し江戸を経由して東海道にはいり帰京するのが慣習であったが、安永5年(1776年)と天保14年(1843年)には帰路も中山道を使っている。また、明治初期の迅速測図では日光西街道(壬生道)が「旧例幣使街道」と呼ばれている。
日光例幣使
日光例幣使は普段は貧乏な下級公家であるが道中では朝廷と幕府の権威を一身に背負ったため大変な権勢を誇った。公務であるため宿場や助郷村は無賃で道中に協力させられ大変な迷惑をこうむったという。以下のような話が伝わっている。
・駕籠が少しでも揺れると自ら駕籠の中から飛び出して『人足の不調法で駕籠から落とされた、この無礼を幕府に訴える』と主張し宿場や人足から示談金をせしめた。この行為は強請の語源になったという。
・大量の空の長持を用意しそれに対し六人持ち(人足六名で担ぐ)、八人持ち(人足八名で担ぐ)などと指示を行い宿場が用意できる人数を大幅にこえる人足数をそろえるよう主張した。これは不足した人足分について宿場側より補償金をせしめるためである(例幣使側が直接人足を雇用したという建前)。勿論宿場側もしたたかであり値引きの交渉も盛んに行われた。
・江戸では幕府が用意した屋敷に滞在するが出立時には家財道具一式、それこそ漬物石にいたるまで前述の空の長持に詰め込んで出発したという
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| 16;40 |
倉賀野駅入口交差点
少し暗くなり始めた。疲れた。この付近にはホテルが無い。高崎まで頑張ることとする。ファイトッ!
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| 16;45 |
脇本陣
向かいに高札場
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| 16;55 |
安楽時 |
| 17;50 |
高崎・新田町交差点
今日の歩きはここまでとする。高崎駅方面へ向かう。
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| 17;55 |
東横イン高崎へチェックイン Rm.1251
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