【中山道】

 中山道は日本橋から板橋、大宮、熊谷、高崎を経て碓氷峠を越えて信濃国へ軽井沢、岩村田、和田峠、下諏訪、奈良井、鳥居峠、木曽福島、妻籠・馬籠を経て美濃国へ、さらに加納、赤坂、関ヶ原をすぎて近江国の草津で東海道に合流し京都に至る。全長は約533kmで69の宿場がある。
 東海道と並び江戸と京都を結ぶ大幹線で、芭蕉が往来し、剣客や幕末の志士が駆け抜け、皇女和宮の3万人近い大行列が25日間かけて江戸に下ったという。女の人は大井川(徒歩)をはじめ、浜名の渡し、桑名の渡しといった水難所の多い東海道を嫌っていたので中山道は姫街道とも呼ばれている。
 東海道と同じ江戸時代の五街道の一つ。前身を「東山道」とも呼んで古代から中世にかけて畿内と中部・奥州を結ぶ重要な街道であった。

「街道ウォーカー・第3弾」(=右のイラスト)と一緒に歩いてみませんか。現在「北国街道」挑戦中。

第5日目
高崎宿→板鼻宿→安中宿

月 日; 2010年9月25日(月)、天気;曇り
区 間; 高崎=安中宿(=自宅) 10.4km
時 間; 3時間40分
費 円;

合計3,520円
(内訳)ミカン8個510円、昼食・牛丼500円、JR安中=高崎230円、JR高崎=新宿1890円、新宿=つつじヶ丘190円、バス200円

歩 数; 17,421歩

07;40

東横イン高崎発

07;50 新田町交差点(=今日の出発点)
 
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 14景 歌川広重
  【高崎宿;木曾街道六拾九次 高崎(歌川広重画)

 遠景の藍で描かれた山は榛名山、正面の川は烏川で左から碓井川が流入する。烏川左岸は豊岡村、右岸の土手は高崎城を囲む岸の一部で城はこの上に築かれている。中山道は烏川上流に見える橋を渡っている。夫婦連れの旅人に物乞いが合力(施し)をせびり、それを見て人足も手を差し出して駆け寄る。広重は子の絵で旅先での注意を試みている。山に見とれる男の姿が広重らしい。

 ◎高崎宿 群馬県高崎市
 倉賀野宿から高崎宿までは約6キロ。 天保14年(1843年)の『中山道宿村大概帳』によれば、高崎宿の宿内家数は837軒、本陣および脇本陣は設けられておらず、旅籠のみ15軒が設けられ、宿内人口は3,235人であった。宿場の大きさとしては中山道随一である。江戸時代には松平左京領8万2千石の城下町として発展した。三国街道との分岐点の宿場として毎日市が立ち、大変賑わった。名物は煙草や絹と伝えられる。川が合流するこの場所は、現在の高崎市役所にほど近い烏川と碓井川の合流点と見られる。

07;55

諏訪神社
ガイドブックによると江戸時代から続く、古い由緒ある神社のはずだが・・・・ビルの谷間にかろうじて存在する、真新しい小さな社・・・・デッカイ御輿って感じ。
これじゃ、お賽銭あげて拝んでも、ご利益はあまり期待出来ない・・・・かな?

<あら町 諏訪神社>
    【新町(あらまち)諏訪神社本殿及び御宝石】

  新町諏訪神社は、江戸時代の高崎について記した地誌『高崎志』によれば、慶長4年(1599)、箕輪城下の下ノ社を勧請したことにはじまるという。本殿は土蔵のような外観を持つ珍しい総漆喰の塗籠造(ぬりごめづくり)で、しばしば大火に見舞われた高崎の町にあって、大切な社を火災から守るための工夫だったとも考えられる。平入り・入母屋造の建物は一見すると二層のように見えるが、実は裳腰(もこし)をつけた平屋建で、外壁の下半は海鼠壁(なまこかべ)となっている。本屋根と裳腰の間には手に込んだ七賢人の漆喰彫刻が施されている他、波しぶき、飛龍、四隅の牡丹、正面の鳥居に付けられた躍動感あふれる昇り龍・下り龍など、随所に見事な漆喰彫刻を見ることができる。
 この神社は享保14年(1729)、文化4年(1807)の2度に渡って火災に遭っており、近年の修復工事の際にも屋根材や彫刻の骨木の一部に、その痕跡が確認されている。礎石背面には文化11年(1814)の刻銘があり、建築的な特徴などを考え合わせ、この建物が元の社殿の部材を利用して再建が行われたことが推測される。高崎城下の名所のひとつでもあったらしく、太田蜀山人の『壬戌紀行』(じんじつきこう)の中でも紹介されるなど、当時から町の人々、往還を行く旅人たちの目を和ませていたことがわかる。
 信州諏訪にゆかりのある御宝石は、重さ約8キロの鶏卵型の石で、宝篋印塔(ほうきょういんとう)の屋蓋(おくがい)を裏返ししにしたものを使った台座に安置されている。

     所在地 高崎市あら町85−1
     指 定 平成2年2月26日
                高崎市教育委員会

08;20

長松寺
上記の諏訪神社と違い、随分とりっぱなお寺。
三代将軍家光の弟定長の墓があり、彼が幽閉され、自刃した部屋がこの寺に移築された。

08;25

岡醤油醸造
「日本一しょうゆ直売」ののぼりがある。

<岡醤油醸造>
08;35 君が代橋
<水面が全く見えない川に架かる橋>
     【君ヶ代橋親柱】
 君ヶ代橋という名は、明治11年9月、明治天皇が北陸東海御行幸のとき、馬車で木橋を渡られたことを記念して銘銘されました。
 この君ヶ代橋親柱は、昭和6年に木橋から鋼橋に架け替えられたときのものですが、昭和52年より10年の歳月をかけて、三層構造のインターチェンジが建設され君ヶ代橋も新たに架け替えられた為、ここに移設されたものです。
          昭和62年3月 建設省高崎工事事務所
08;55

信州分岐
手前で間違いそうになった。

     【連雀町の由来】
 
連雀町の由来は、行商人が各地から「れん著」(荷物を背負う道具で連尺とも書く)で荷物を背負って城下町に集まり、商いが行われた町を「れん著町」と名付けられ、俗に連著町・連雀町と書かれるようになったと伝えられおり、時の城主井伊直政が箕輪から高崎へ移城とともに高崎城大手門前に移し、旧名をそのまま変えず連雀町とした。
 ここは高崎城下の中央に位置し城主から特に優遇された町で、町割りを決める時、最初に連雀町の位置を決めそれから南北に各町の地割りをした。
 
さらにこの町の店は、清潔な品物を売買するよう城主から決められていた。また一時この地に本陣がおかれ、ここを通過する諸大名が休憩したり宿泊をした。
                             「高崎の散歩道」より
中山道指導標
    左;板鼻宿(進行方向)
    右;高崎宿(後方)
09;10

若宮幡宮
青空が見え始めた。
キバナコスモスが満開。

<若宮八幡宮>
    【若宮八幡宮御由緒】
             高崎市下豊岡町字若宮甲1,428
 
当社は平安末期、永承6年(1051年)源頼義・義家父子が建立したと伝えられている。即ち、前9年の役が勃発するや、頼義・義家勅命を奉じ奥州の安部氏の反乱を鎮圧する途次、この豊岡の地に仮陣屋を設けて暫く逗留、軍勢を集めると共に、戦勝を祈願するために当社を建立、乱収り帰還の折に再び当社に寄り戦勝を報告、額を奉納したという。
 以来、武将、兵士、一般大衆の尊崇厚く、鎌倉時代には里見太郎義俊の三男豊岡三郎という者、この地におり当社を崇敬した。
 寛文2年(1662年)2月、幕府代官諸星惣左エ門政明らが中心となり、社殿を大修築し、盛大な祭典を挙行した。
 江戸末期には江戸の火消し新門辰五郎、明治期には乃木大将の参拝などがあり、常時参拝者が絶えなかった。
 境内には義家の腰掛石、社宝として市重要文化財蕨手太刀がある。
 なお当地区には「土用寒村」「十八日村」などの伝説、古跡が多い。

    境内地 806坪2合
    祭典日 3月15日 春季例祭
         
7月30日 夏祭(みそぎ大祓い)
         10月15日 秋季例祭
         その他、七五三祭り、2年参り、初詣もにぎやかである。
             昭和54年7月29日
                    若宮八幡宮宮司 竹林文彦
                        同      氏子総代表
                               外総代一同

09;15

庚申塔
進行方向の手前から青空が広がっていく。

    【百庚申】
 百庚申は、岡の坂下への降り口、旧中山道に沿う坂道に建てられている。
 百庚申が建立されたのは幕末、万延元年の庚申の年(1860)で、岡の有志13人により計画され、翌年の万延2年にかけて完成を見た。
 このことは、庚申塔群の中に大形の板石に庚申と記した庚申塔があり、その裏面に刻まれている文字によりうかがい知ることができる。これによれば、百庚申造立の中心人物は、「田島新兵衛、田島喜蔵、田島直右衛門、田島武左衛門、田島利三郎、坂爪治兵衛、小暮弥一右衛門、小暮半次郎、小林常七、小林兵衛、柳田熊次郎、山口竹次郎、発起人中野谷屋宗助」という人々であったことがわかる。
 もともと、この場所には、享保元(1716)年に造立された庚申塔があって、二十二夜待塔、馬頭観音の石碑も立っていた。
 万延元年は、徳川幕府の大老井伊直弼が江戸城の桜田門外において水戸浪士達により、暗殺されるという大きな事件があったり、黒船来航により永い鎖国の夢をやぶられた日本の国情は騒然としたもので、民衆の生活も不安なものであった。このような状況にあって神仏に頼ろうという心理と、万延元年(庚申の年)がかさなり百庚申が造立されたと言えよう。
      平成3年3月      埼玉県・岡部町
09;25

豊岡本陣跡
中山道筋では日本橋を出て始めて旧本陣の建物が残っている。
太陽が強くなり始めた。暑い。ファイトーッ!

    【茶屋本陣のあらまし】

 上豊岡の茶屋本陣は、19世紀のはじめにすでにあった居住用の主家(18世紀中頃築造)と接続する離れ座敷として増築されました。中山道の高崎宿と板鼻宿との間に設けられ、大名の参勤交代や上級武士・公卿の喫茶や昼食などのために用いられた休憩施設です。宝暦7(1757)年には日光例幣使であった。五條宰相菅原為成がまた、文久元(1861)年には皇女和宮御下向の際に公卿などが客人として立ち寄った由緒ある文化遺産としても知られています。
 この茶屋本陣を代々所有してきた飯野家に残される天保6(1835)年の家相図には、主家、お座敷、前蔵、大門のほかに、現存しませんが文庫蔵、味噌蔵、穀蔵、外便所なども描かれ、広大な屋敷構えであったことがうかがわれます。
 大名などが休息をとる「お座敷」は8畳2室からなっており、北側の部屋は上段の前、南側の部屋は次の間と呼ばれています。上段の間には書院造の様式をとどめる違棚、書院を設け、部屋の北側及び東側には幅1間の入側を巡らし、その外側には濡縁を配しています。また、上段の間・次の間を上屋、床の間・入側などを下屋とし、屋根は当初上屋では瓦葺、下屋では板葺であったと考えれています。
 なお、県指定の茶屋本陣は松井町の五料と横川にも現存しますが、これらは創建当初から主家と一体に造られたものです。

街道筋のたいていの記念館の管理人の方はそうだが、「街道一人旅」にとても親切に応対していただいた。
訪問者台帳に記帳させていただく。
09;50

少林山達磨寺入口。
街道(国道18号線)から700mほど離れているのでパスする。

<山門入口付近にある達磨の記念館>
10;00

八幡大門
太陽が強くなり始めた。暑くなりそうだ。
ここから安中市に入る。

<少林山達磨寺に通じる大鳥居>
10;15 板鼻宿跡
 
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    15景 英泉
 木曽海道六拾九次之内 板鼻

 板鼻宿[1](いたはなしゅく)とは、中山道六十九次のうち江戸から数えて14番目の宿場。日本橋より28里24町40間(112.7km)、京より107里7町20間。現在の群馬県安中市にあたる。人口1,422人、総軒数312軒、本陣1、脇本陣1、旅籠54(天保14年(1843年))。碓氷川の川止めが多く、中山道上州七宿の中では最大級の宿場であり、かつ旅籠の数50軒を数えるのは板鼻宿より京方面では塩尻宿以外にない。
最寄り駅; 東日本旅客鉄道(JR東日本)信越本線 安中駅
本陣跡が板鼻公民館近くにある。この本陣の書院に孝明天皇の皇妹和宮親子内親王が、文久元年(1861年)11月10日宿泊し、初潮が確認され、その遺物を祀ったとされる塔がある。

ご宿泊所隣の駒崎家(旧須藤家)の土蔵造の防火建物は、和宮ご宿泊当時から存在したとされる。

 ◎板鼻宿 群馬県安中市
高崎宿から板鼻宿までは約7・2キロ。慶長末頃(1610年頃)には家並みも完成していた。天保14年の人口は1422人、総戸数312軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠54軒であった。次の安中宿へ向かう途中の碓氷川は「徒歩渡し」で、増水時には多くの旅人が足止めされた。そのため旅籠の数が多く、宿場女郎も多数いた。この先、旅籠が50軒以上ある宿場は塩尻までない。

10;25

板鼻下町交差点
しまった!カメラの電池が切れた。予備電池の充電も不十分だ。
次の安中宿まで進んで今日の前進を諦めることにする。残念!

10;40

板鼻宿交差点
ほとんど雲が無くなった。
暑いが気持ちが良い。板鼻宿は昔の面影が少し感じることが出来る。

11;20

JR安中駅
中山道はこの安中駅のすぐ脇を通っている。
直ぐに、高崎駅行きの電車がある為、そのままの服装で乗車。
駅前には大きな工場がある。
せっかくの好天気である。次回からは充電器を持参すべし。
今日はたったの17,421歩だ。車内は通学の高校生で混んでいる。

 
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    16景 歌川広重
  安中宿;木曾街道六拾九次 案仲(歌川広重画)
安中宿(あんなかしゅく)とは、中山道六十九次のうち江戸から数えて15番目の宿場。天保14年(1843年)の『中山道宿村大概帳』によれば、安中宿の宿内家数は64軒、うち本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠17軒で宿内人口は348人であった。
場所は現在の群馬県安中市、JR東日本安中駅の真西方向、碓氷川と九十九川に挟まれた台地上に安中宿があった。また、駅北東側・碓氷川南岸にも安中中宿と呼ばれる宿場町が存在していた。
最寄り駅;JR安中駅

◎安中宿 群馬県安中市
 板鼻宿から安中宿までは約3・3キロ。天保14年の人口は348人、総戸数64軒、本陣』1軒、脇本陣2軒、旅籠19軒であった。板倉伊予守3万石の城下町である。中山道沿いの安中原市に天然記念物の杉並木があり、高さ40メートルもの杉の大木が約1キロに渡り310本も続いていた。今日では老衰や排気ガスのため本数が減っているが、他の旧街道にはない壮観さが残されている。

11;35

JR高崎駅着
トイレに入り、急いで街道歩きの衣類を下着と普段着に替える。
高崎駅構内の吉野家で牛丼セットを食べる。ウマーイ、実に美味い。街道歩きには絶対、牛丼に限るのだ!
こんな美味い牛丼をグルメで美食家のうちのカミさんに食べさせたい!

12;17

高崎発
「湘南新宿ライナー」に乗る。

14;00

新宿駅着。
早い。昔の高崎は東京からはもっと遠かった・・・・距離もあった。
太ももが痛い。歩くたびにズキンと痛さが響く。両足の人差し指が血豆になっている。とても気に入っていた帽子を高崎の「吉野家」に忘れてきた。口惜しい。

14;50

自宅に帰り着く。早速銭湯に行く。

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