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大変なことになった。
昨日まで、旅には常に持ち歩いていた街道歩きのバイブル「中山道ガイド・ブック」が見つからない。
昨日、写真を撮る時又はノートに記録する時にでも何処かに置き忘れたらしい。どうしよう。実に困った。大海原を羅針盤無しに船が航海するようなものだ・・・・かな?
ここ横川から坂本宿を経て軽井沢宿までは、旅館においてある観光案内のパンフレットの地図で何とかなりそうだ。実に詳細な地図が置いてある。ありがたい。前進することにする
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| 07:45 |
東京屋発
この宿には現代の中山道歩きの旅人が大勢泊まった、その写真集や記録集が残っている。
晴れ、今日も暑くなりそうだ。ファイトーッ!
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| JR横川駅前にある、江戸時代から続く旅籠「東京屋」。まだ改築して間もない。 |
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| 07:50 |
碓氷関所跡
江戸時代の関所は現在のそれより約5m程右側、90度反転した位置(中山道の京口、江戸口)にあったらしい・・・・?? |
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| <碓氷関所跡> |
<おじぎ石> |
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【碓氷関所の門】
醍醐天皇の昌泰2年(899年)に群盗を取締るために、関所が碓氷坂に設けられた。
この地に関所が移ったのは、元和年間(1615〜1623年)といわれ、幕藩体制を中心とした、徳川幕府の確立・安定という政治的意味をもつものとなり、いわゆる「入鉄砲に出女」の取締りをねらいとしたものになった。明治2年(1869年)廃関されるまで中山道の要所となった。
門柱および門扉は当時使用されていたもので、総ケヤキ材の要所に金具を用いた堅固なものである。ほかに屋根材6点と台石も当時のもので、昭和34年1月、東京大学教授工学博士・藤島亥治郎氏の設計により復元された。
この位置は番所跡にあたり、復元された門は東門である。
松井田町教育委員会
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| 07:55 |
霧積川
ここ薬師坂から碓氷峠に向かって登りが始まる。
気温32℃。今日も暑くなりそうだ。セミがうるさいほどに鳴いている。ファイトーッ!
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| <薬師坂> |
<前方に碓氷峠が見える> |
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| 08:15 |
坂本宿(昨日の到着点)
下木戸跡
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| <坂本宿> |
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【下木戸跡】
慶長7年(1602)、江戸を中心とした街道整備が行われたとき、五街道の一つとして江戸・京都を結ぶ中山道132里(約540km)が定められ、この間に69次の宿場ができた。その一つに坂本宿が設けられ宿内の長さ392間(約713m)京都寄りと江戸寄りの両はずれに上木戸・下木戸が作られた。本木戸は下木戸と称せられ当事の設置場所に一部復元したものである。木戸は軍事・防犯などの目的のため開閉は、明け六つ(現在の午前6時)から暮れ六つ(現在の午後6時)までであった。実際には木戸番が顔が識別できるころで判断したようである。
文久元年の絵図によると、八間一尺巾(約14・8m)の道路に川幅4尺(約1・3m)の用水路が中央にあり、その両側に本陣、脇本陣に旅籠、商家160軒がそれぞれ屋号看板をかかげ、その賑わいぶりは次の馬子唄からもうかがい知れる。
雨が降りゃこそ松井田泊まり 降らにゃ越します坂本へ
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【原村を潤した水神】
当祠は水神を祀ってある。もとは、現在地よりやや東の当時の原村(現在の松井田町大字原)のはずれにあったという。坂本宿が整備される以前に原村は、40戸あまりの集落があって、中山道間延絵図によると、道路の端に流れてきた堀を屈折させて村のはずれから道路中央に流れている様子がみえる。これを原村の住民は生活用水として使用していた。この用水路の起点に、清浄と安全と豊富を願って水神を祀ったものと思われる。
水神は、川・井戸・泉のほとりに設け、飲み水や稲作の水とを司る民間信仰から生まれた神である。現在、水は容易に安全に得られることからともすれば粗略に扱い勝ちである。水神を詣でることで水への再確認と深めたいものである。
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| 08:20 |
武井宏自宅前 「武井九夏の説明文」がある
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【多才だった武井九夏】
「九夏」は、文化12年(1815)ここ「こんどうや」に生まれる。
幼いときから学問に励みその多才ぶりは以下の自伝でもうかがい知ることができる。
「われ7歳にして学問に入り、九歳にして歌俳諧に志し、12歳より書画に心を書しかく如く老年に至るまで風雅をすてずと雖も何一つとる所なし」
ある時、竹を画きて其譛に呉竹の千尋のかげは写しても世にとどむべき一ふしもなし竹を好むによりて、またその名を竹翁と号し一筋に直なるかげを写しおく。
竹のおばなをあわれにも見る。
真弓逎舎翁 九夏
明治37年89歳で没す。 |
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| 08:25 |
坂本本陣
すぐ隣に脇本陣「みまがや」がある。
斜め向かいには脇本陣『永井」がある。現在ではこれが1番りっぱに昔の面影を残している。
坂本宿では真っ直ぐな道が一路軽井沢方面へと向かっている
その隣にも脇本陣、現在は「坂本公民館」
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18景 英泉 渓斎英泉
木曾海道六拾九次之内 坂本
坂本宿を俯瞰した図。背景の山は刎石山で、中山道はこの宿場を通過すると刎石山の峠道を経て碓氷峠に達する。したがって、実際の刎石山は、この図と異なり街道の正面に見えていた筈である。道の中央にある水路は、馬の飲み水や防火用水に使われた。さらに、家庭用の用水が家並みの裏を通っていた。間口の狭いうなぎの寝床のような家が連なっていた。
◎坂本宿 群馬県松井田町
松井田宿から坂本宿までは約9・5キロ。碓氷の関所から約1キロばかり上った位置にある。天保14年の人口は732人、総戸数162軒、本陣2軒、脇本陣2軒、旅籠40軒であった。本陣、脇本陣を中央に配し、大小の旅籠屋を含め700メートルほどの街道の両側に間口約6.3から12.7メートルの家160軒が計画的に建てられた。俳諧や短歌が盛んな文化の高い宿場であった。 |
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| <坂本宿本陣跡> |
<坂本宿> |
【坂本宿・佐藤本陣跡】
坂本に二つある本陣のうち当本陣は、「佐藤本陣」また「上の本陣」と呼ばれていた。3代将軍家光は、寛永19年(1642)譜代大名にも参勤交代を義務づけた。そのため、文政年間では31大名が坂本宿を往来した。寛政2年8月8日、坂本宿で加賀百万石といわれた松平加賀守が江戸へ、信州松代真田右京太夫は帰国のため信州へ、で擦れ違いそれぞれ宿泊している。東に碓氷関所、西に碓氷峠がひかえているため、坂本泊まりが必然となり本陣が2軒必要だった。寛政6年(1859)2月、安中藩主板倉主計頭が大阪御加番(大阪城警備)を命ぜられ登城するとき佐藤源左衛門と組頭の善左衛門は安中藩の役人宅にお祝いに参上している。そして、御本陣番へ(御休所)は佐藤甚左衛門宅(佐藤本陣)で、諸荷物の伝馬継ぎ立ては問屋番の金井三郎左衛門宅(金井本陣)である。宿割りは脇本陣はじめとして16宿、板倉侯はじめ藩士二百余名は、7月17日朝五つ半(午前9時)坂本に到着した。大名はじめ宮様、日光例弊使、茶壷道中で坂本宿はたいへんな賑わいであったがその反面難渋も少なくなかった。
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| 08:35 |
「かぎや」とか「たかさごや」などの看板が下がっている
「たかさごや」はすっかり現代風の建物になっている。
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| 【小林一茶の定宿「たかさごや」】
信濃の国柏原が生んだ俳人小林一茶(1763〜1827)は、郷土と江戸を往来するとき中山道を利用すると、「たかさごや」を定宿としていた。寛政・文政年間、坂本宿では俳諧・短歌が隆盛し、旅籠、商人の旦那衆はもとより馬子、飯盛女にいたるまで指を折って俳句に熱中したという。
それで、ひとたび一茶が「たかさごや」に草鞋を脱いだと聞くや近郷近在の同好者までかけつけ自作に批評をあおいだり俳諧談義に華咲かせ近くから聞こえる音曲の音とともに夜の更けることも忘れたにぎわいを彷彿させる。碓氷峠の刎石山の頂に「覗き」と呼ばれるところがあって坂本宿を一望でできる。
一茶はここで次の句を残している
坂本や 袂の下は 夕ひばり
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| 08:45 |
芭蕉句碑
この付近から道路は急に狭くなる
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| <芭蕉句碑> |
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【芭蕉句碑】 安中市指定重要文化財
所在地 松井田町坂本乙930
寛政2年(1790)に旧中山道の覗(のぞ)きに建てられた。現在は坂本の八幡宮入り口付近に移されている。句の出典は芭蕉が近辺を旅した時の句集「笈の小文」である。碓氷路にふさわしいものとして坂本の俳人達が建てたものである。
「ひとつ脱いで うしろにおひぬ 衣かへ」 芭蕉 |
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| 09:00 |
峠道入口
旧国道18号のカーブ9(C-9)が旧中山道の坂本宿側の発着点。 |
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<国道から碓氷峠への入口(C-9)
ここから山道となる> |
<かなりな急坂が続く> |
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| 09:25 |
柱状節理
手前に高さ2mほどのケルンが積まれている
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スレート状の石が重なっている。
石を1個積む |
<石仏群>
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| 09:30 |
刎石(はねいし)坂
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| 09:35 |
覗(のぞき)。ここから坂本宿が一望できる。どうやらここが峠らしい
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| <覗(のぞき)。眼下に見えるのが坂本宿> |
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| 09:45 |
弘法の井戸 |
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刎石茶屋に水がないのを憐れみ、弘法大師が掘り当てたという伝説の井戸。
江戸時代に整備されたはずの中山道、弘法大師伝説がここでも出現・・・・うーんこの手の話、時代のずれが気になるが・・・・まぁ、良いかぁ。 |
<刎石茶屋跡>(4軒茶屋)
昔、こんな山の中に数軒の茶屋があったとは・・・・ |
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| 09:47 |
刎石茶屋跡 |
| 09:50 |
碓氷坂の関所跡 |
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<碓氷坂の関所跡>
こんな山の中にも関所が設けられていたのか? |
「安政遠足」の
コース |
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| 10:05 |
掘切り
この付近、とても快適な山歩きが楽しめる。風も下から吹いてくる
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| 天文18年、豊臣秀吉の小田原攻めの折り、北陸・信州軍を防戦するため、街道の尾根道を掘って塞いだ場所。 |
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| 10:10 |
南向馬頭観世音 |
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【南向馬頭観世音】
この切り通しを南に出た途端に南側が絶壁となる。
昔、この付近は山賊が出たところと言われ、この険しい場所をすぎると、左手が岩場となり、そこにまた馬頭観世音が道端にある。
寛政3年12月19日 坂本宿 施主七之助 |
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| 10:14 |
一里塚 |
| 10:20 |
座頭ころがし(釜場)
この付近、実に気持ちの良いハイキングコース。昔は大変難儀したに違いない。 |
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「座頭ころがし」左側が急斜面になっている。
座頭だけでなく普通の人でも油断すると、やばい。 |
『安政遠足」のコース案内 |
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■「安政遠足 侍マラソン」とは”遠足”と書いて”とおあし”と読みます。
毎年5月の第2日曜日に開催される行事で、毎回たくさんの仮装したランナーが走ります。
この遠足の歴史は古く、江戸時代(西暦1855年)に当時の安中藩主「板倉 勝明」(いたくらかつあきら)公が藩士の鍛錬のために碓氷峠の熊野権現まで7里余りの中山道を徒歩競走をさせ、その着順を記録させたことがはじまりで、日本のマラソンの発祥です。
参加者は午前8時に市長が叩く「明け六つ」の大太鼓を合図に安中城址(安中市文化センター)をスタートします。(安中市ホームページより)
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上州路碓氷峠のみち
この道は安政「遠足マラソン」のコースとして使われ、5月の第2日曜日に例年開催される。
ただし、今年(2011年)の開催は中止されたようだ。 |
| 10:25 |
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誰だ!
こんな山の中にどうして?という場所にこの自家用車が捨てられている。どうやってこんな山奥までこのボロ車を運んできたのだろうか?
更にこの先には大型バスが捨てられていた。 |
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| 10:30 |
栗が原
親子連れのハイカーと出会う。今日の通行中では2組目。
『熊出没に注意』の看板が気になる。
!この付近、実に気持ちの良い峠道。風も心地よい。持参した水が残りコップ1杯になった。心配だ。ファイトーッ!
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| <栗が原>この付近とても気持ちの良い尾根歩き |
とても気持ちの良い街道歩きが楽しめる |
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現在は、廃道となっている、明治天皇が馬車で御巡幸した道路と中山道の分岐地点。
明治8年、群馬県で最初の「見回り方屯所」があったポイント。これが交番のはじまりである。 |
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| 10:55 |
入道くぼ
山中茶屋の入口に線刻の馬頭観音がある。
赤土のなだらかな坂が続く
手帳にヒルが付いていた。鳥が鳴き、林の美しさが感じられる。
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| 11:00 |
山中茶屋、山中部落跡、山中学校跡
今は、ただの山林が展開するだけ。特別に何もない杉林。
こんな山の中に部落や学校があったのか・・・・食料や水は一体どうやって調達したのだろうか
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明治の始め頃まで13軒程の茶店があり、往来する人でにぎわっていた。
峠道の中心的な場所であった。この先の山中坂は急な坂で、山中茶屋で腹ごしらえしてから上ったことから「飯喰い坂」と呼ばれた。坂本宿から登ってきた旅人は空腹ではとても駄目なので、手前の山中茶屋で飯を喰って登った。山中茶屋の繁盛はこの坂にあった。 |
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「山中学校跡」
明治11年、明治天皇御巡幸の時、児童が25人いたので25円の奨学金の下附があった。供奉官から10円の寄付があった。 |
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| 11:05 |
山中坂
きつい、腹がへった。昔の旅人も同じだったようだ。
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| 11:08 |
こんな山の中にどうして?と思うような辺鄙な場所に突然別荘が出現、明らかにあまり使われていない。
近くには大型バスが捨てられている。
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| 11:15 |
一つ家跡
茶屋からダラダラと登りが続く
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| <一つ家跡> |
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【一つ家跡】
めし食い坂を上り、中山道一里塚があったといわれている子持ち山麓に、一つ家はあった。
ここに老婆がいて旅人を苦しめたと言われている。
ここより250メートルほどで陣場が原分岐 |
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| 10:20 |
子持山
陣場が原
ここから先の道、特に左側の旧中山道にはたくさんのヒルが出現する、と聞いている。
予定通り、左道(=中山道)を選ぶ。
全く人通りは無い。道は「侍マラソン」開催の為にコースはよく整備されている。
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<陣場が原>
ここで道はY字に分かれる。左が旧中山道、右は御巡幸道、左の道にはヒルが出現するという。当然、左の旧中山道を進む。 |
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「陣場が原」
太平記に新田方と足利方のうすい峠の合戦が記され戦国時代、武田方と上杉方のうすい峠合戦記がある。笹沢から子持山の間は菅野原でここが古戦場と言われている。 |
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| 11:30 |
化粧水跡
暑い、山の中だから昨日ほどではないが、暑い。ファイトーッ!
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化粧水跡
峠町へ登る旅人が、この水で姿、形を直した水場である。 |
| 11:33 |
人馬施行所跡 |
| 11:55 |
長坂道
ここからは平坦な道となる |
| 12:00 |
思婦石(おもふいし)
日本武尊の故事を歌った碑「思婦石」の前の分岐を、東に向かうと旧中山道、北へ向かうと御巡幸道
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「思婦石」
群馬郡室田の国学者、関橋守の作で安政4年(1857)の建立である。
ありし代に かえりみしてふ 碓氷山
今も恋しき 吾妻路のそら |
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| 12:05 |
力餅
それまでの山道から突然、車道に飛び出した。
熊野神社。「侍マラソン」の折り返し
ここから観光客が急に湧きだした。
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| ようやく「軽井沢」へ着いた |
<熊野神社> |
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| 【熊野神社】(中山道(碓氷峠道)軽井沢側発着地点
碓氷峠の頂上に位置し、昔は「碓氷権現」または「熊野権現」といわれました。県境に建つこの神社、群馬県民は「熊野神社」と呼び、長野県民は「熊野皇大神社」と呼ぶ。この神社に残る古鐘は、鎌倉時代に松井田一結衆により寄進されたもの。境内には三本社が。中央の本宮は境界上に、右手新宮は群馬側、左手長野側に那智宮がある。「日本書紀」にある、第12代景行天皇の皇子日本武尊(やまとたける)が妃の弟橘姫をしのび、「吾妻はや」と嘆かれたのも、この神社の境内。
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| 12:15 |
見晴台
県境。ここから群馬県から長野県に入る。京都が少し近くなる。残り387キロだ。ファイトーッ!
小雨、ダゴールの石碑がある。
ここから旧中山道は自動車道路に寸断されて沢筋を歩く、途中で急に別荘地帯にはいる。旧街道がとても分かり難い。
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<県境>
左;群馬県、右;長野県> |
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| 12:40 |
中山道が軽井沢の高級別荘地帯に入る
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| 12:55 |
芭蕉の句碑
この付近高級別荘地の真っ只中、
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| 13:00 |
つるや旅館
ここから商店街が始まる。
軽井沢銀座が始まる
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| 13:15 |
ケンターキーにて昼食
この付近に軽井沢宿の本陣が在ったらしい。
軽井沢銀座の真っ只中、観光客がウジャウジャいる。
ジャリジャリした氷が入ったコーラが実にうまい!こんな美味いもんは他に無い!チキンバーガーをあっという間に食う。ヒィャー・うめぇー!旧街道歩きの昼食は「チキン・バーガーとコーラのセット」に限るのだ!
グルメで美食家の内のカミさんにもこれを食べさせたい!感動するだろうな。きっと。
間断なく、目の前を人が通る。
暑いけれど、湿気が少なく、快適である。動きたくない。ファイトーッ! |
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<軽井沢宿の宿はずれらしい。手前の樹は杉らしい。遠景は愛宕山>
【軽井沢宿;「木曽街道六十九次・軽井澤」 (歌川広重画)】
軽井沢宿(かるいさわしゅく)とは、中山道六十九次のうち江戸から数えて十八番目の宿場。
現在の長野県北佐久郡軽井沢町の軽井沢駅北側一帯。一般に軽井沢と呼ばれる場所とは2〜3キロ離れており、旧軽井沢と呼ばれるあたりが該当する。中山道有数の難所であった碓氷峠の西の入口にあたり、六十九次で最も栄えた宿場であった。本陣と脇本陣合わせて5軒、旅籠は最盛期には100軒近くあったとされ、数百人の飯盛女が働いていたという。宿場の東にある矢ヶ崎川にかかる二手橋は、旅人と飯盛女が別れを惜しんだ場所。
天保14年(1843年)の『中山道宿村大概帳』によれば、軽井沢宿の宿内家数は119軒、うち本陣1軒、脇本陣4軒、旅籠21軒で宿内人口は451人であった。
明治時代以降は欧米人宣教師に避暑地として広く紹介され、それまで「かるいさわ」であった当地の名を英語などで発音しやすい「かるいざわ」と読むようになった。多くの外国人が滞在する街として変貌を遂げたため、現在宿場町の面影を残すものは少ない。 |
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| <軽井沢銀座通り、これも中山道・軽井沢宿本陣跡付近・・・それらしい跡は見当たらない> |
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| 13:55 |
JR軽井沢駅
まだ時間は早いがガイドブックを無くした為、この先の中山道が分からない。
今日はここから引き返すことにする
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| 14:24 |
JR軽井沢駅発 新幹線
通勤電車並み、ものすごい混雑。自由席のデッキにどうにか乗り込むことが出来た。
大宮駅でようやく座席を確保できた。
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| 16:00 |
新宿着
早い、新幹線は早い、早過ぎる。東京駅=新宿駅間で猛烈な雨が降る。
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