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    【中山道】

 中山道は日本橋から板橋、大宮、熊谷、高崎を経て碓氷峠を越えて信濃国へ軽井沢、岩村田、和田峠、下諏訪、奈良井、鳥居峠、木曽福島、妻籠・馬籠を経て美濃国へ、さらに加納、赤坂、関ヶ原をすぎて近江国の草津で東海道に合流し京都に至る。全長は約533kmで69の宿場がある。
 東海道と並び江戸と京都を結ぶ大幹線で、芭蕉が往来し、剣客や幕末の志士が駆け抜け、皇女和宮の3万人近い大行列が25日間かけて江戸に下ったという。女の人は大井川(徒歩)をはじめ、浜名の渡し、桑名の渡しといった水難所の多い東海道を嫌っていたので中山道は姫街道とも呼ばれている。
 東海道と同じ江戸時代の五街道の一つ。前身を「東山道」とも呼んで古代から中世にかけて畿内と中部・奥州を結ぶ重要な街道であった。

「街道ウォーカー・第3弾」(=右のイラスト)と一緒に歩いてみませんか。楽しいですょー、本当に、本当です。

第8日目
軽井沢宿→沓掛→追分→小田井→岩村田

月 日;

2011年9月22日(木)、晴れ一時小雨

区 間; 軽井沢=岩村田
時 間; 6時間30分
費 円;

8,650円
【内訳】バス代190円、京王線190円、JR東京=軽井沢新幹線 5,240円、朝食(天セイロ) 750円
傘750円、飲み物600円、蕎麦(昼食)750円、JR岩村田=中込 180円

歩 数; 18.3km、35,635歩

06:41 自宅発
6時に目を覚ましたら、台風一過の快晴。
あわてて旅支度を整える。
バス停では出勤途中の隣に住むSさんと一緒になり、混雑する京王線を新宿駅まで同道する。
07:20

新宿駅着
急に旅支度したため、JRの運賃が30%割引になる「JRジャパン倶楽部」の会員証を忘れ、通常料金で軽井沢
まで向かうことになる。

08:36

東京駅発 あさま509号
窓際の席に座れる
万歩計が電池切れて全く作動しない。予備の万歩計を使用することにする。

09:45

軽井沢駅
快晴、空気がひやりとする。今夏初めての体験。さすが軽井沢は爽快だ。絶好の街道歩き日和。

【上・左】JR信越線・軽井沢駅

【上・右】CHURCH通りの向かい側にあるファミリーレストラン。

【左】このCHURCH ST.辺りが軽井沢宿の旧本陣跡とのこと。昔の面影は全く無い。

10:35

Church St.(旧・軽井沢本陣跡)
それらしい軽井沢本陣の痕跡は全く見あたらない。
向かいには前回食事した「ケンタッキー・フライドチキン」の店がある。
今日のスタート
すぐにロータリーを通過、カラッとした快晴の中、唐松林、別荘地の中を快適に進む。最盛期は過ぎても相変わらず
人通りは多い。ファイトーッ!

 
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<軽井沢宿の宿はずれらしい。手前の樹は杉らしい。遠景は愛宕山>

    【軽井沢宿;「木曽街道六十九次・軽井澤」 (歌川広重画)】
 軽井沢宿(かるいさわしゅく)とは、中山道六十九次のうち江戸から数えて十八番目の宿場。
現在の長野県北佐久郡軽井沢町の軽井沢駅北側一帯。一般に軽井沢と呼ばれる場所とは2〜3キロ離れており、旧軽井沢と呼ばれるあたりが該当する。中山道有数の難所であった碓氷峠の西の入口にあたり、六十九次で最も栄えた宿場であった。本陣と脇本陣合わせて5軒、旅籠は最盛期には100軒近くあったとされ、数百人の飯盛女が働いていたという。宿場の東にある矢ヶ崎川にかかる二手橋は、旅人と飯盛女が別れを惜しんだ場所。

 天保14年(1843年)の『中山道宿村大概帳』によれば、軽井沢宿の宿内家数は119軒、うち本陣1軒、脇本陣4軒、旅籠21軒で宿内人口は451人であった。

 明治時代以降は欧米人宣教師に避暑地として広く紹介され、それまで「かるいさわ」であった当地の名を英語などで発音しやすい「かるいざわ」と読むようになった。多くの外国人が滞在する街として変貌を遂げたため、現在宿場町の面影を残すものは少ない。

中山道;軽井沢・銀座通りは相変わらず人通りが多い
中山道;唐松林の別荘地帯の中を進む
11:20 右側に庚申塔
雲が出始める。急に天候が怪しくなってきた。
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 20景 英泉
 木曾街道 沓掛ノ驛 平塚原雨中之景
 この辺りは浅間山の南の裾野で、ここを通る中山道の左右は原野である。右の集落は沓掛宿で、左の川は湯川であろう。強い雨の中、街道を行くのは旅人と中馬。馬は信州から上州倉賀野宿まで米を運んで行き、その帰りに塩、干し魚、茶、日用品などを信州に運んでいた。浅間山から吹き付ける強い風と雨に立ち木・葉が飛び、旅人の合羽の裾が煽られている。

 ◎沓掛宿 長野県北佐久郡軽井沢町
軽井沢宿から沓掛宿までは約4・5キロ。天保14年の人口は502人、総戸数166軒、本陣1軒、脇本陣3軒、旅籠17軒であった。現在の中軽井沢駅近くに本陣跡の碑がある。山に囲まれ水運に恵まれない信州で、農民たちが駄賃稼ぎに自分の馬で荷を運んだのは、商人たちから「岡船」とも呼ばれ重宝された。

11:25

離山交差点
ここで国道に合流する。車の往来がうるさい。

11:30 市村記念館
11:35

前方に浅間山
頂上付近は雲を被っている。

11:50 中軽井沢(沓掛宿)
黒い、雨雲が広がった。途中のカインズホームで傘を買う。
      <宮前の一里塚碑>
   辛うじて、塚らしい痕跡が残っている。
12:10

宮の前一里塚の碑
急に雨が降り出した。どうしよう。こんな状況では直ぐに東京へ引き返そう、と結論を出したくなる。
東京から着たばかり、もう少し、頑張って歩いてみよう。ファイトッ!

12:40

古宿
秋葉神社
この付近、水が豊富に流れている。何だか嬉しくなる。

       <秋葉神社>
  住宅地帯に飲み込まれそうになっている
           <馬頭観音>
         やたらデカイ「馬頭観音」
12:45

馬頭観音
国道18号線に合流。
雨は何とか止んでくれた。

12:55 女街道入口
<女街道入口>

    【女街道】
 江戸時代に「入り鉄砲」「出女」といって当時恐れられていた武器鉄砲の動きや江戸屋敷に住まわせていた諸大名の奥方は人質的意義をもっていたので女人の出入りは厳重に取り締まった。したがって女人は関所を避けて裏街道を通るようになった。これを女街道、または姫街道ともいう。
 この街道はこれより本街道と分かれ由井釜ヶ淵橋を渡り風越山広漠たる地蔵ヶ原をよこぎり和美峠または入山峠を往来したものである。
 「関所さけて女人が多く往来せし
                女街道と いふは寂しも」
    軽井沢町教育委員会
    軽井沢町文化財審議委員会

13:00 遠近宮
広い境内に巨木が生茂っている
借宿
13:13

馬頭観世音
3mほどの高さがある。

13:20

国道18号線と再び合流する

馬鹿でかい「馬頭観世音」の石碑 国道18号線、標高1003mの道標
13:25

信濃追分出入り口交差点
標高1003mの看板。追分宿

<国道18号線の両脇にある追分一里塚>どうやら移動・再建されたものらしい
    史跡 【追分一里塚】
 慶長9年徳川家康の命により江戸を起点とし、主要街道に1里ごとに塚を築造させた。この中山道には一里ごとに街道の左右に塚がつくられ旅人往来の道標として重要な使命を果たしたのであった。
 今はこの街道の塚が大部分崩壊してしまったが、この追分一里塚はその原型を保って当時をしのぶことのできる貴重なものである。
    軽井沢町教育委員会
    軽井沢町文化財審議委員会
13:40

浅間神社
芭蕉句碑

 この句碑は、大自然石に雄揮な文字で、更科紀行中の句が刻まれ、芭蕉の百年忌にあたる寛政5年に佐久の春秋庵の俳人たちにより建立されたもとのいわれています。
  吹き飛ばす 石も浅間の 追分哉
    【浅間神社】
 本殿は室町時代のもので、町内の木造建築としては最古の物である。浅間大進遙拝の里宮で大山つち神と磐長姫神の二神が祀られている。明治2年5月より浅間山の鳴動が特に激しく鎮静祈願のため同年9月明治天皇の勅裁が行われた社として勇名である。
 境内にある「ふきとばす石も浅間の野分かな」の芭蕉句碑は寛政5年(1793年)春秋庵二世長翠の書で浅間焼石におおわれた追分原に野分吹くころの風情がしのばれる。
  軽井沢町教育委員会
  軽井沢町文化財審議委員会
13:45 堀辰雄文学記念館。たいそう立派な門構え。見学する時間は無いので素通りする。
13:50 追分高札場
 
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    21景 英泉
 木曾街道 追分宿 浅間山眺望
 追分原立つと、この絵のように浅間山が眼前にそそり立って見えた。頻繁に火山灰を吹き上げるこの辺りは不毛の地であったが、落葉松だけは育ち、春夏は美しい緑を見せていた。図は落葉松の並木道を日本差の武士が2人、人足に長持ちの荷を担がせてて、小田井宿に向かって行く。その後ろを、馬子が緑色の明け荷を積んだ馬を引いて行く。明け荷の中味は茶であろうか。

 ◎追分宿 長野県佐久郡軽井沢町
 沓掛宿から追分宿までは約1・3キロ。標高1000メートル、中山道宿中の最も高地の宿場である。天保14年の人口は712人、総戸数103軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠35軒であった。北国街道(北国脇往還。善光寺を経て直江津で北陸道に合流する)との分岐点であることから、「追分」と称された。交通の要衝地であり、現在も信濃追分の名を残す。

<追分宿と追分宿の高札場>
    【追分宿高札場】
 追分宿の高札場は、問屋前の路中央にあった。法度、掟書きなどを記した。また、さらし首、重罪人の罪状を記し、高くかかげた板札を高札という。
 寛永10年(1633)の古文書によると、広さ9尺、横1間、高さ3尺の芝土手を築き、高札場の柱は5寸角のものを使用し、駒よせ柱は4寸角で、高さ6尺の規模であった。
 昭和58年、当時の古文書等から、高札場を復元した。
 ここに掲示したある高札は、複製品で、現物は追分宿郷土館に保管展示されている。
  軽井沢町教育委員会
  軽井沢町文化財審議委員会
13:55

泉洞禅寺
追分宿
美味しそうな蕎麦屋があり、素通りすることが出来ず、フラフラと店に入る。街道歩きの昼飯は「蕎麦」に限るのだ!
「蕎麦セイロ」が洋皿に盛られている。そば汁だって陶器の器に入っている。うまいには美味いが、何だか・・・・ねぇ。
蕎麦だけは木と竹で出来た木製のセイロに盛ってもらいたいのだ!750円

    史跡 【追分桝形の茶屋】
 寛永12年徳川家光の代、諸大名の参勤交代の制度が実施され、ここを往来する諸侯のため、宿内には問屋、本陣、脇本陣を設置し、宿の西入口、この辺に桝形の道と土手(高さ約2.5メートル)を築いて宿内の警備取り締まりをした。
  今、その面影をみることはできないが当時桝形の地域内にあって茶屋つがるや(桝形の茶屋=上の写真)の建築にその昔をしのぶことができる。
  軽井沢町教育委員会
  軽井沢町文化財審議委員会
14:20 分去(=わかさ)れの道標
<追分宿の分去れ>左;中山道、右;北国街道、
    史跡 【追分宿の分去れ】 
 
中山道と北国街道の分岐点である。
   「さらしなは右
      みよしのは左にて
          月と花とを 追分の宿」
とうたわれているように、ここを右すれば北国街道月の名所の更科や越後路に、左すれば桜の名所吉野や関西方面に分かれたところである。ここに幾多の旅人がさまざまな感慨をこめて左右に袂を分ったことである。
 安置された石仏、石碑、石燈篭等に昔がしのばれる。
        軽井沢町教育委員会
        軽井沢町文化財審議委員会
14:25 国道から別れ小田井へと向かう道へ進む
14:40 御代田町に入る
15:05 御代田の一里塚
                          <御代田の一里塚>
 見事に一里塚の原型をとどめている。現在の旧中山道から少し離れている(約7m)ため、原型を留めることが出来た。周囲には畑と住宅が迫っている。まぁー置いといてやるかって感じ。
    長野県史跡 【御代田一里塚】
 中山道、御代田の一里塚は、軽井沢町追分一里塚の次に位置するもので、これを経て中山道は小田井宿へと至り、さらに佐久市鵜縄沢の一里塚、岩村田宿へと向かう。
中山道は、江戸幕府の置かれる前年の慶長7年(1602年)に整備され、寛永12年(1635年)に改修されるが、本一里塚はその改修以前に構築されたものである。
 本一里塚は、西塚で径13m、周囲40m、高さ5mを測る。隣接するのは東塚で径13m、周囲40m、高さ4・5mを測る。
 これらは現中山道より7m離れた畑中に位置するため、遺存状態もよく貴重である。
 ちなみに、国道18号線の北には北国街道に沿う一里塚「馬瀬口の一里塚」が2基が保存されており、町指定の史跡となっている。
  昭和39年8月20日
  長野県教育委員会指定
15:37 小田井宿入口
少し寒くなってきた
 
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    22景 広重
 木曾海道六拾九次之内 小田井

 次の宿場岩村田に向かう途中、一面のすすきの原から浅間山を望む。浅間山の麓から引いた用水が流れている。「本堂造立」の幟を杖代わりにした勧進僧がすすきの原を行く。寺の本堂建立の浄財をもとめて諸国巡りをしているのだ。先の巡礼の笠にある「同行三人」は抱いた赤子と失った女房を含めてである。後ろは母親と息子の親子で、息子の笠にも「同行三人」とある。

 ◎小田井宿 長野県北佐久郡御代田町
 追分宿から小田井宿までは約5キロ。天保14年の人口は319人、総戸数109軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠5軒であった。天正年間(1573〜92年)に誕生し、慶長年間(1596〜1615年)以降に宿駅として整備された。浅野宮や皇女和宮が宿泊したことから「姫の宿」と呼ばれた。当時はすすきや落葉松などが目立つ、あまり人家のないこの図に近かった。

    【中山道小田井宿跡】
 小田井宿は、中山道69次の宿場の一つで、板橋宿から数えて21番目、追分宿と岩村田宿の間に位置し、日本橋からは40里31町(約160キロ)の距離にあった。皇女和宮をはじめとして、宮家や公家の姫君の休泊に利用されることが多かったことから「姫の宿」ともよばれた。
 
天正16年(1588)3月「小田井町割諸事之扣」に」よればこのとき町割りがおこなわれ、その家数は26だったというからこのころから小田井宿の整備がはじまったといえよう。そして、慶長7年(1601)には各宿間の「駄賃」などがさだめられているので、このころまでには宿場としての形態を整えたものと思われる。
「中山道宿村大概帳」によれば、天保14年(1843)には、109軒の家があり、319人が住んでおり、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠5間、問屋場二ヶ所などがあった。
 小田井宿が宿場としての役割を終えたのは明治3年(1870)だが、その遺構は現在も随所に残されている。現在地は高札場跡である。
  昭和53年6月1日
  御代田町教育委員会 指定
15:42 小田井宿本陣
<本陣> <問屋跡(尾台家)>
    町指定史跡 【中山道小田井宿 本陣跡(安川家住宅)】
 
安川家は江戸時代を通じて中山道小田井宿の本陣を勤めた。現在、その本陣の客室部を良好に残している。
客室部は切り妻つくりで、その式台・広間・三の間・二の間・上段の間・入り側などは原型をよく留めており、安川家文書で宝暦6年(江戸時代1756年)に大規模改築が行われたと記されていることから、その際の建築と考えられる。(長野県)また、湯殿と厠は、幕末の文久元年(1861年)の和宮降嫁の際に修築されたものであろう。
 厠は、大用所・小用所ともに2畳敷となっている。
    昭和53年6月1日
      御代田町教育委員会
15:45 小田井・問屋場
    【中山道 小田井宿】
 小田井宿は天正年間(1573−92)に誕生し、慶長(1596−1615)以降、宿駅としての機能が整えられました。昭和に入って数度の工事で、道の中央を流れていた用水路も南側に寄せられましたが、東・西の入口にあった枡形もわずかにその形を留め、上の駅・下の駅は茶屋など小商売が多く、中の駅にあった本陣・問屋・旅籠などが残り、当時の面影をしのばせてくれます。
 文久元年皇女和宮のご昼食休みに代表されるように、多くの姫君の休泊に利用され、「姫の宿」とも称されています。街道の繁栄期であった。文化・文政期には、文政5年(1822)で199戸・人口524人を数えていますが、他の時代には小さな規模のお伝馬に生きた宿場であったようです。町並みは寛延元年(1747)で7町23間(805米)ありました。和宮より拝領の人形が残され、それにちなんで8月16日には小田井宿祭りが行われます。
 現在地は東の枡形です。
15:50 尾台家住宅(=小田井問屋跡)
16:15 鶏縄澤端一里塚
 市文化財 【旧跡鵜縄沢端一里塚】

 この一里塚は慶長年間(1596〜1614年)中山道開通の当初に設置されたものである。その後道路改修によって街道からはづれてしまったが両塚の間の道路は中山道の旧い道筋を示すもので貴重なものである。
  平成2年3月31日
       佐久市教育委員会

16:40 住吉神社
16:45 龍雲寺
武田信玄は信濃路に出兵する際は必ずこの寺に詣で戦勝祈願した。境内には信玄廟があって、信玄の遺骨と
副葬品と伝えられるものが納められている。
<龍雲寺> <住吉神社>
16:55 岩村田着
岩村田宿は、善光寺道、上州下仁田道、佐久甲州街道を分岐する佐久平の交通の要衝として、多くの旅人がこの地に宿泊し、旅を続けた。
街の北部に、石の道標「従之善光寺道」がある。
 
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    23景 英泉
 木曾道中 岩村田

 英泉画これまで絵に添えていた副題がない。なぜ、図中の盲人同士の喧嘩が起きたのかの手がかりがない。後の研究者の間では、版元と英泉、広重のあいだで起きたいざこざが英泉を苛立たせ、このような絵を描かせたと解釈するものもいる。財布や小銭が散らばり、金銭がらみの座頭の喧嘩であろうか。場所は後ろの土盛りから、岩村田宿の西にある一里塚とみられる。

 ◎岩村田宿 長野県佐久
 小田井宿から岩村田宿までは約4・7キロ。天保14年の人口は1637人、総戸数350軒、本陣・脇本陣なし、旅籠8軒であった。内藤豊後守1万5千石の城下町である。佐久甲州街道、下仁田道、善光寺道が交差し米穀の集散地で商人が多かった。城下町の堅苦しさが旅人に敬遠されたのか、高崎とともに本陣・脇本陣がない。現在、宿場の面影はないが、名物の鯉料理が残る。

<現在の岩村田宿の商店街> <相生町交差点>
17:00 相生町交差点。ここで中山道は右折する
17:05

小海線と中山道の踏み切り
寒くなってきた。今日の前進はここまで。小海線・岩村田駅へ向かう。
中込駅前の旅館・柏屋に向かう。
35,635歩

17:45 JR中込駅着
18:00 柏屋旅館
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