| 08:00 |
若宮の踏み切り
昨日の終点(=岩村田宿)
佐久中込の割烹旅館「柏屋」のご主人・大塚美登さんにここまで車で送迎していただく
気温15度、寒い。 |
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23景 英泉
木曾道中 岩村田
英泉画これまで絵に添えていた副題がない。なぜ、図中の盲人同士の喧嘩が起きたのかの手がかりがない。後の研究者の間では、版元と英泉、広重のあいだで起きたいざこざが英泉を苛立たせ、このような絵を描かせたとかいしゃくするものもいる。財布や小銭が散らばり、金銭がれみの座頭の件かであろうか。芭蕉は後ろの土盛りから、岩村田宿の西にある一里塚とみられる。
◎岩村田宿 長野県佐久
小田井宿から岩村田宿までは約4・7キロ。天保14年の人口は1637人、総戸数350軒、本陣・脇本陣なし、旅籠8軒であった。内藤豊後守1万5千石の城下町である。佐久甲州街道、下仁田道、善光寺道が交差し米穀の集散地だ商人が多かった。城下町の堅苦しさが旅人に敬遠されたのか、高崎とともに本陣・脇本陣がない。現在、宿場の面影はないが、名物の鯉料理が残る。 |
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| <若宮の踏切> |
<小海線(小淵沢=小諸駅)> |
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| 08:15 |
相生の松(3代目) |
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| <相生の松(三代目)> |
<実りの秋> |
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| 08:30 |
高速道路の下
曇り、肌寒い。気温14度。ファイトーッ!
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| 08:45 |
塚原根々井塚原 |
| 09:10 |
駒形神社
入口には小川が流れ、小高い丘の上にある古い神社、昔は国宝だったそうだが再建によって現在は重要文化財に格下げになった、と書いてある。
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<駒形神社> |
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<駒形神社 説明文>
駒形神社の創立については記録に乏しく明らかではないが、この地方は、いわゆる信濃牧の地であり、祭神には騎馬の男女2神像を安置しているので牧に関連した神社と推定されている。
昭和24年5月30日、国宝保存法により国宝の指定を受けたが、文化財保護法の施行により現在は重要文化財に指定されている。
再建は文明18年(1486)と伝えられているが形式手法からみてもその頃の建物と考えられている。
その後の沿革については棟札により寛永11年、延宝4年、元禄12年、宝永元年および寛保2年にそれぞれ修理、宝暦8年および安永7年に屋根葺替、寛政4年に再び修理、ついて寛政10年、文政8年、および万延元年にそれぞれ屋根葺き替えが行われたことが知られる。(以下略)
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| 09:25 |
塩名田宿(交差点)。この時間帯、人の往来がほとんどない。 |
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<塩名田宿を西へ出ると千曲川。『延絵図』には橋が描かれているが、しばしば流された。そのときは舟渡し。 舟人足たちがたむろしている図。対岸は御馬寄(みまよせ)村>
24景 広重
木曾海道六拾九次の内 塩なた
塩名田宿[1](しおなだしゅく)とは、中山道六十九次のうち江戸から数えて二十三番目の宿場。
現在の長野県佐久市塩名田。暴れ川であった千曲川の東岸にあり、旅籠が10軒以下の小さな宿場にも拘らず、本陣と脇本陣が合わせて3軒あった。橋も掛けられたが洪水の度に流失し、船や徒歩で渡るのが専らであった
天保14年(1843年)の『中山道宿村大概帳』によれば、塩名田宿の宿内家数は116軒、うち本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠7軒で宿内人口は574人であった。
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| 09:35 |
本陣 丸山善兵衛
問屋・本陣跡
(丸山新左衛門家、本棟造、切り妻で入口が妻側にある)
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塩名田宿は、江戸から43里13丁、23番目。中山道筋が定まるのは慶長のはじめころ、塩名田宿は岩村田と望月の中間に位置し、街道筋でも難所のひとつ、千曲川を前に一宿が必要として北方の岩下通りや南方段丘上の町田や舟久保の住民を現位置に40軒ほど移して形成した(慶長7年=1602)。問屋新左衛門・文左衛門、名主彦兵衛、本陣新左衛門。善兵衛、脇本陣文左衛門で丸山氏の同族が主に勤めた。寛政12年(1800)の宿内総家数は126軒。
問屋・本陣新左衛門家は宿のほぼ中央にあり、宝暦6年(1756)に再建されたが、現在は御殿部分が改装した住宅になった。丸山家には宿場関係資料が多数保存されている。 |
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| <本陣(現在は八百屋さんを経営)> |
<問屋・本陣> |
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| 09:50 |
塩名田宿道祖神
お滝・十九夜塔。水準点がある。
大きな道路と分かれ、急に細い道になる。少し暑くなる。気温20度
ここで半ズボンに着替える。わずか100m程古い町なみが残っている。 |
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【お滝・十九夜塔・道祖神・水準点】(下の写真)
ここは、もと瀧大明神の境内で、ケヤキの大木の根本から大量の清水がわき出ていて、江戸時代中山道を往来する旅人ものどを潤した。塩名田の住民の中には茶屋・湯屋や佐久鯉を飼育するなどにも使っていた。傍らの休茶屋の看板は、「かどや」の名が残る3階建ての家である。
昭和28年(1953)4月、塩名田区川原宿簡易水道組合ができ、組合員各戸へ給水もした。現状は水量が減少して利用者もわずかになっている。
十九夜塔は、暦で4月21日ころ、女性が集まって(講)、十九夜念仏を唱和して、健康の増進や出産の無事を祈念した行事があったことを示している。碑の裏面に、「天保10年(1839)乙亥四月穀雨講中」とある。この穀雨の日を女性の「遊び日」と決め、年に1日の楽しみを確保したのである。
この道祖神石造は、明治40年(1907)頃建立したと思われる。そのころできた黒い幕に「川原町 道祖神」の文字と芸妓屋7軒の名が染め抜かれていて、この頃の事情をものがたる。
水準点は、ここの地点の高さを測ったら622.7メートルであるとの標識である。 |
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| 10:00 |
【つなぎ石と千曲川】
3階建て住居群
塩名田の「川原宿」には所どころに情緒豊かな3階建て住居がある。通称「お滝通り」に立ち止まると気づく。
昭和6年(1931)に中津橋が従来の木造橋から、鋼プラットトラス橋に架け替えられた。そのため、国道が以前より高い場所を通過することになって純粋な3階建て住居とは別に、国道沿いの家では既存の2階建てに更に2階を増築し4階建てとして国道に出入り可能にした住居もある。また、橋や国道へ上がるための階段も所どころに設けられた。
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【舟つなぎ石・千曲川舟橋】
明治初年水害で千曲川橋が落ちた。6年(1873)舟橋会社に通行を請負制で運営させた。このとき通行には橋銭が必要であった。その後運営が官営になって無料、このころやや上流から舟つなぎ石の辺へ移動している。明治25年県営になり翌年4月に中津橋(長さ70間・幅3間)が架けられた。その後、同44年3月に架け替えられた。それまでは木橋であったが、昭和6年(1931)に鉄橋の中津橋に架け替えられて現在に至っている。
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| 10:10 |
御馬寄大日如来
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| 10:20 |
中山道一里塚跡(八幡)
藪の中にかろうじて見ることが出来る |
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| <一里塚跡(八幡)> |
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| 10:35 |
八幡山・常泉寺 |
| 10:40 |
八幡宿
重要文化財高良社本殿
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| 10:45 |
八幡本陣 |
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<宿場の東の入口の中沢川から、来た方角を振り返ると、経塚村>
25景 歌川広重
木曾海道六拾九次之内 八幡
八幡宿の手前を流れる中沢川にかかる板橋である。竹藪の背後の山は浅間山。川岸には無数の根杭が打ち込まれ、岸が侵食されるのを防いでいる。対岸の丘の上には吹き抜けの出茶屋が建つ。蓆を背負った年老いた旅人に握り飯を入れた藁包と農作物を天秤で担ぐ農夫が続く。子どもは小枝を入れた竹籠を背負って家路を急ぐ。煙草をくわえた農夫、赤子を背負った女房が行き交う。
◎八幡宿 長野県北佐久郡浅科村
塩名田宿から八幡宿までは千曲川を渡り約2・9キロ。天保14年の人口は719人、総戸数143軒、本陣1軒、脇本陣4軒、旅籠3軒であった。塩名田から望月間が悪路であったため、慶長7(1602)年に造られた宿である。朝鮮からの渡来人も住んだ地で、八幡神社は旧名を「高羅社」(現「高良社」)といい、渡来人を祀ったといわれる。社の北に勅使牧の御牧ヶ原が続く。 |
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| 11:00 |
八幡出口
馬頭観世音
国道142号と合流
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| 11:10 |
百澤東の交差点 |
| 11:17 |
祝言道祖神 |
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| <祝言道祖神(百沢)> |
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【祝言道祖神】
長野県安曇地方で発生した道祖神で、宮廷貴族の装いをした男女が酒を酌み交わす華麗な祝言像である。
安曇系は主尊が日本神話の神々で、着衣も神々の装束で造像されるのが通例であるが、この道祖神は宮廷貴族風の精微な造像である。
発祥地安曇地方にも類例のない貴重な遺産である。
望月町教育委員会 |
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| 11:37 |
中山道瓜生坂の一里塚
左側だけがかろうじて残っている。
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瓜生坂の石碑
【中山道瓜生坂の一里塚】
慶長9年(1604)徳川家康は、大久保長安を総奉行として五街道の大改修をし、江戸日本橋を起点として1里(約4キロ)ごとに道の両側に方5間の一里塚を築き、その上に榎を植えさせた。ここは南方の一里塚跡で北方の塚は道路で半分削られているが、斜面上方に位置している。瓜生坂の一里塚の手前は、塩名田宿のはずれにあり、先方は、芦田宿手前の茂田井間の宿に位置している。
望月町教育委員会 |
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| 11:46 |
瓜生坂を下る
望月宿が一望
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| 11:50 |
中山道長坂石仏群 |
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| <石仏群(坂の途中に多数の石仏がある)> |
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| 11:55 |
鹿曲川・長坂橋
望月宿に入る
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| 12:07 |
望月宿・御本陣
現在は大森小児科医院 |
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<望月宿の手前の赤松並木と右手に浅間山を描くとされている>
【望月宿;木曽街道六十九次(歌川広重画)】
望月宿(もちづきしゅく)とは、中山道六十九次のうち江戸から数えて二十五番目の宿場。
天保14年(1843年)の『中山道宿村大概帳』によれば、望月宿の宿内家数は82軒、うち本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠9軒で宿内人口は360人であった。
現在の長野県佐久市望月にあたる。平安時代からこの地を収めていた豪族望月氏の姓や、その望月氏が朝廷や幕府に献上していた馬の名産地として蓼科山裾野の「望月の牧」から、「望月」の名が付いたとも言われる。(なお、望月氏の由来は、望月の牧からであり、望月の牧の由来は、一族が毎年旧暦8月15日の満月の日(望月)に馬を朝廷や幕府に献上していた為である。)
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| <本陣跡(現;大森小児科医院)> |
【釣瓶沢の「水割場石」と「木樋」】
蓼科山の五斗水水源から引いた用水に設置されていた。全水量の九分(一尺八寸)を布施村(現望月布施)へ流し一分(二寸)を五郎兵衛新田村(現浅科 甲)へ分けられた。
明治11年から17年にかけて水争いが起こり、その結果、9分と一分の分水が決められた。木樋は昭和18年に畳石用堰として布施村によって設置された。天然カラマツを刳り貫いたみごとな樋で、これによりはるか村まで水が運ばれた。
教育委員会 |
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| 12:15 |
大伴神社
望月宿のはずれ
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| 12:44 |
中山道茂田井宿入り口
人通りがほとんど無い。
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立科町文化財・一里塚跡(茂田井)
一里塚は、信長の時代に設けられ、徳川家康・秀忠が引きついで慶長9年(1604)に完成した。(慶長見聞集)中国の路の側に一里毎に土を盛り、その崩れ去るのを防いてエンジュの木を植え旅人に木陰をあたえたという例にならって榎が植えられたと云われている。
また、三代将軍家光が「一里塚には「余の木」を植えよ、」と言ったことから老臣が榎を聞き違えて国中の塚に植えたという(現代教養文庫中山道より)が、ともあれこの頃一里を36町と決定され、五畿七道残るとこなく一里塚が築かれたとされている。 天保年間の、茂田井村差出帳には、当時の両側に戸塚があり、榎の根本が残っていたとある。
立科町教育委員会
立科町文化財保護委員会 |
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| 12:51 |
茂田井宿神明社
武重本家酒造
茂田井宿は昔の面影が色濃く残る、白壁の古くりっぱな建物が多く存在する
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| 13:07 |
大澤酒造
この建物もものすごい |
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| <ここ茂田井宿には並外れて立派な造り酒屋が2軒もある> |
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| 13:10 |
茂田井村下組・高札場跡
【茂田井村下組高札場跡】
江戸時代、庶民に法令を徹底させるため、ここに高札を掲げた。高札場は名主宅前に設けられることが多い。
大澤家は天文2年(1737)より明治4年(1871)に至るまで茂田井村名主を務め、元治元年(1864)11月19日、水戸浪士(天狗党)中山道通過の際、それを追って来た小諸藩兵士の本陣となった。
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| 13:22 |
茂田井村上組
高札場跡
コスモスが満開
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| 13:24 |
石割坂
シュウメイ菊が美しい |
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【一里塚跡・立科町文化財・一里塚跡(茂田井)】
一里塚は、信長の時代に設けられ、徳川家康・秀忠が引きついで慶長9年(1604)に完成した(「慶長見聞集」)。
中国の路の側に一里毎に土を盛り、その崩れ去るのを防いてエンジュの木を植え旅人に木陰をあたえたという例にならって榎が植えられたと云われている。
また、三代将軍家光が「一里塚には「余の木」を植えよ、」と言ったことから老臣が榎を聞き違えて国中の塚に植えたという(「現代教養文庫中山道」より)が、ともあれその頃一里を36町と決定され、五畿七道残るとこなく一里塚が築かれたとされている。
天保年間の、茂田井村差出帳には、当時の両側に戸塚があり、榎の根本が残っていたとある。
立科町教育委員会/立科町文化財保護委員会 |
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| 13:32 |
茂田井間の宿出口 |
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| <はるか遠くに、これから向かう和田峠が見える> |
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| 13:40 |
芦田宿入口 |
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| <芦田宿入口の常夜燈> |
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| 13:55 |
芦田宿本陣・土屋家
立派なお屋敷、昔のままの姿を留め、中庭まで自由に見学できる。現在は玄関が改修中だった。
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<芦田宿の先にある笠取峠を描いている。>
「笠取峠に住む古狸(ふるだぬき)ゆえ、怖いものなんかありゃしないのだ」
という。その笠取峠である。峠の立場茶屋からは芦田30丁、長窪へ22丁というから、峠の区間は1里あるかないか。『延絵図』 の解説書によると、幕府から小諸藩へ贈られた赤松753本。大正13年には229本が健在だったが、 昭和46年には129本にまで減っていたと。
笠取峠の松並木も壮観であった。
【芦田宿;「木曽街道六十九次・芦田」 (歌川広重画)】
芦田宿(あしだしゅく)とは、中山道六十九次のうち江戸から数えて二十六番目の宿場。
現在の長野県北佐久郡立科町芦田にあたる。難所であった笠取峠の東の入口にある。生糸の産地でもあった。
天保14年(1843年)の『中山道宿村大概帳』によれば、芦田宿の宿内家数は80軒、うち本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠6軒で宿内人口は326人であった。
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【芦田宿本陣・土屋家】
芦田宿は中山道26番目の宿として、宿の町並みは、6町20間(約700メートル)文化元年(1804)には、本陣、茶屋6軒、商家2軒、医師3軒、髪結い2軒、按摩1軒、などがあり農家は45軒であった。
文久元年(1861)11月7日、徳川14代将軍・家茂に、公武合体のため降嫁された、考明天皇の妹「和宮」の行列が芦田宿を通過された。
笠取峠は長久保宿に向かって(芦田宿に向かって)急な上り坂を過ぎると、標高887メートルの笠取峠の茶屋跡に今は松葉林の中に立て札が立っている。峠に吹き荒れる風に笠が吹き飛んだことから付いた。
中山道の松並木は慶長7年(1602)頃、徳川幕府は、東海道などの主要街道の整備を始めた。冬は風雪を避け、夏は木陰で旅人を休ませるために、沿道に松や杉を植林した。この松並木は当時のもので、中山道ではここだけに残されており、県の天然記念物に指定されている。国道に沿って約100本の松並木が200メートルつづいている。本陣は寛政12年(1800年)の再建で芦田中央交差点の右に白い漆喰壁を見せているのが本陣土屋家。門の奥には、式台の付いた玄関、間口5間奥行き11間の切妻造り、京風上段の間ほか広間、小姓部屋、湯殿雪隠、など客室の原型がほぼ完全に残されている。 |
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| <芦田宿本陣・土屋家> |
【芦田宿本陣・土屋家】
芦田宿は、慶長2年(1597)に設立、江戸幕府の交通政策施行(慶長6年)より4年前で北佐久では一番早くできた。本陣・土屋家は、問屋を兼ね芦田宿の開祖でもあった。
本陣御殿(客室)は寛政12年(1800)に再建されたもので、イチイの木を使った京風上段の間があり、大名の宿泊を今に伝える「宿札」も残され、往事をそのまま伝える建物は、中山道唯一と云われている。 |
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【蓼科の水】
古来より、蓼科の山の湧き水は中山道を行き交う旅人ののどを潤してきました。
現在、この蓼科山の湧き水は上水道として整備され、立科町の水道水として利用されております。
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| 14:00 |
芦田市役所前・バス停
もう少し前進したいがこれから先の街道は、鉄道の駅へのバス便がとても少ないとのことで、ここから東京へ引き返すことにする。気温29度、少し暑いが湿度が低く、とても快適な気候。
30,478歩。今日も2本の足の爪が血豆になっている。ファイトーッ!
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| 14:30 |
芦田バス停発
千曲バス、乗客は私一人だけ、 |
| 15:10 |
JR佐久平駅
予定していた小淵沢方面への小海線は事故のために不通、新幹線で帰ることにする。
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| 15:35 |
佐久平発 新幹線
新幹線は早い、早すぎる。
高崎付近では雨。
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| 16:53 |
東京駅着 晴れ |
| 18:00 |
帰宅
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