| 06:41 |
自宅出発 京王バス
所々に青空がのぞく、まずまずの天候だ。昨日までは暖かだったが今朝は少々肌寒い。気温8℃ |
| 06:52 |
つつじヶ丘駅
京王電車で新宿へ。通勤通学で混雑している「急行」を遠慮して「普通」に乗る。
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| 07:25 |
新宿駅
相変わらず混雑している。
JR東京=佐久平駅の切符を購入。
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| 08:36 |
東京駅発
新幹線あさま509号 長野行き
大宮付近から雲一つ無い青空が広がった。バンザイ!
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| 09:56 |
JR佐久平駅
上空には雲一つ無い、街道歩きには絶好の日和に恵まれた。
気温17℃。実に気分が良い。
駅で昼食の弁当を購入する。
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JR佐久平駅前
浅間山はうっすらと冠雪している。多少の雲があっても絶好の街道歩き日より |
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| 10:25 |
佐久平発 千曲バス
バス代800円
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| 10:55 |
立科町役場前・バス終点
頭上に雲が少し出始めた。風もあるがまだ暖かい。浅間山がくっきり見える。山頂付近はうっすらと雪を被っている。
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| 11:00 |
立科町役場前バス停から直ぐの中山道をスタート |
| 11:05 |
江戸時代からここにある水飲み場
とても美味い水。嬉しいことに大好きなコスモスがこの日も咲いている
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| 11:10 |
本陣・土屋家 |
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【芦田宿】 長野県北佐久郡立科町
望月宿から芦田宿までは約4・8km。天保14年の人口は326人、総戸数80軒、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠6軒であった。諏訪道、上田に通じる脇街道との分岐点で、中山道の整備が始まる前の慶長4(1597)年に地元の土屋、岩間氏が願い誕生した宿である。西には難所のひとつ「笠取峠」がある。中山道のこのあたりは立科山の尾根裾を行くと起伏に富んだ地形が見られる。 |
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【芦田宿】(あしだじゅく)
慶長年間、徳川幕府によってつくられた中山道は、近世五街道の一つであり、江戸と京都の交流を結ぶ役を果たしていた。
芦田宿は中山道26番目の宿として、宿の町並みは、6町20間(約700メートル)文化元年(1804)には本陣、茶屋6軒、商科2軒、医師3軒、髪結2軒、按摩1軒、などがあり農家は45軒であった。
文久元年(1861)11月7日、徳川14代将軍家茂に、公武合体のため降嫁された、孝明天皇の妹「和宮」の行列が芦田宿を通過された。
笠取峠は長久保宿に向かって(芦田宿に向かって)急な上り坂を過ぎると、標高887メートルの笠取峠の茶屋跡に今は松林の中に立て札が立っている。峠に吹き荒れる風に笠が吹き飛んだことからついた。
中山道の松並木は慶長7年(1602)頃徳川幕府は、東海道などの主要街道の整備を始めた。冬は風雪を避け、夏は木陰で旅人を休ませるために、沿道に松や杉を植林した。この松並木は当時の物で、中山道ではここだけに残されており、県の天然記念物に指定されている。国道に沿って約100本の松並木が200メートル続いている。本陣は寛政12年(1800年)の再建で芦田中央交差点の右に白い漆喰壁を見せているのが本陣土屋家。門の奥には、式台の付いた玄関、間口5間奥行き11間の切妻造り、京風上段の間ほか広間、小姓部屋、湯殿、雪隠、など客室の原型がほぼ完全に残されている。
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| 【本陣 土屋家】 |
脇本陣 山浦家】(上の写真)
脇本陣跡の山浦家は始祖が芦田宿開祖者の一人岩間忠助(1597年)であり、本陣跡の向かいに位置し参勤交代等の際、中山道の宿泊施設及び問屋としてその役割を担っていた。
昭和52年に隣家からの火災により主家は消失し現在は土蔵1棟のみが残っています。
(えがおのふれあい「芦田宿」
保全・活性化事業 立科町町区) |
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| 11:15 |
酢屋茂店
【庄屋 山浦家】
庄屋跡の山浦家は慶長から明治年間に山浦権助によって建築されたと云われている。問屋としてもその役割を担っていた。現在は、建物は老朽化により取り壊され、跡地の奥には土蔵のみ残っている。
(立科町町区) |
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【金丸土屋旅館】
文化元年(1804年)頃より旅籠屋で、軒の西側に「津ちや」東側に「土屋」の看板を掲げる、今も旅館を営む金丸土屋旅館。2階の部分が表通りに少し出ている出張り造りで腕木に彫刻、煙だしを持つ大屋根など多くの特徴を持っている。
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| 11:25 |
芦田宿入口(京口) |
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【石打場公園】
「石打場」の地名は奈良、新潟、群馬などにあり、『石打」は当て字で、「石内」が本字らしい。(吉田東伍大日本地名辞書)すなわち、「石内」とは「境界」または石敢当(セキカントウ)の意味があり、「災害除け」または防御示のための場所というのが本来の意味である。(地名源語辞典)ちなみに本町芦田の石打場は旧芦田村と横鳥村の「境」であり、芦田八ケ略誌よれば「住吉、山部と芦田の子供戯れし所也」とある。
(立科町町区)
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| 11:30 |
松並木入口
ここからゆるやかな上り
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| 11:50 |
142号線に合流
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【従是東小諸領】(左の写真)
この石標は、小諸藩が文化3年(1806)に領分境の東西へ建立したうち、西側のものである。
藩領の西端、中山道笠取峠(ここより西1・7キロメートル)にあったものの復刻である。これを境に西は幕府領である。
藩領東端の石標は「従是西小諸領」と刻まれ、中山道・小田井宿と追分宿との間、追分原(現御代田町)あった。 |
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| 12:10 |
笠取峠
ここから長和町に入る
先ほどまで小さな雨だったが、峠からは雪になった
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【笠取峠(=左の写真)立場図版木】
長門町竪町の釜鳴屋に保存されている版木には、峠の斜面に建てられた江戸期の立場茶屋の様子が写実的に描かれている。当時の峠は、現在の国道142号の峠より数メートル南に位置し、路面も今より数メートル高所にあった。今では、ぐみの古木以外に面影はない。
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| 12:37 |
長久保入口
標高780メートル
小雪は止んだ。時折日差しが出る。
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| <この付近では「中山道」がすっかり山道に埋もれてしまっている> |
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| 12:50 |
松尾神社
たいそう立派な、古い神社
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【松尾神社本殿】
この本殿は諏訪の宮大工、三代立川和四郎富重の建築で、万延元年(1860)に再再建したもので総欅で三社の高何処造りである。
本殿の欄間には龍がまきおこす波に亀が泳ぎ、鶴が舞い遊んでいる姿や、貫の木鼻には象のはななど、実にみごとな彫刻がしてある。
神社は旧郷社で、祭神は大山昨命であり、本社は京都市右京区松尾町の官幣大社・松尾神社で、酒造守護の神として往古より酒造家の尊信あつく遠くより参詣する人が多かった。
以前は長久保の町裏地籍にあり、その当時は大欅の森があったが小学校校庭拡張のため昭和33年5月現在地に移転した。その際略式の四神の祭祀のあることが発見された。
長門町教育委員会
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| 13:05 |
長久保
長久保から和田宿まで6・5kmの道標
古い民家の軒先で、佐久平駅で買ってきたイナリ弁当(¥480)を急いで食べる。ウメー!街道歩きにはイナリ弁当に限るのだ。
グルメで美食家の内のカミさんにも食べさせたい。
気温9度。日光が出て温かい。
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28景 広重
木曾海道六拾九次之内 長久保
橋は依田川に架かる依田橋である。腰の曲がった馬子と天秤で荷を運ぶ農夫が橋を渡る。手前の街道は月に照らされて明るく、背景はすべて影絵風に描かれている。馬の尻掛けにある「山形に林」の紋章は、版元錦樹堂の商標である。子どもが2人、犬の取り合いをしている。風の強いこの辺りの家は、屋根をとばされないように、屋根に石を乗せた板張りである。
◎長久保宿 長野県長野市
芦田宿から長久保宿までは約5・7km、天保14年の人口は721人、総戸数187軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠43件であった。浅間山をのぞむ笠取峠を下ると長久保宿である。寛永8(1631)年依田川の洪水で、川沿いにあった宿場を現在の丘陵地に移した。大門道(武田信玄の戦略路)と北国脇街道往還の分岐点で、笠取峠と和田峠の上り口にあり旅籠の数が多い。 |
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| <長久保宿> |
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| 13:30 |
長久保を出ると田園と山の風景が開ける。 |
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| <「和田峠」へ向かってひたすら歩く> |
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| 14:00 |
大和橋交差点
ここで一旦152号線に出る。車の往来が激しい。
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<バス停> |
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| 14:20 |
上深山口バス停
茅葺きの可愛いバス停
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| 14:25 |
天王夜燈 |
| 14:27 |
馬頭観世音 |
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【馬頭観世音の碑】
「馬頭観世音」は、六観音八大明王の一つで、江戸時代馬の守護神として広く信仰されました。
この馬頭観世音は江戸時代、中山道の往来の多かった頃のものです。
古代和田峠の黒耀石は、星糞の地で加工され、川沿いをたどり運ばれ、各々の集落ごとに物々交換の的となり、北は青森の三内丸山へ西は阪神方面へと運ばれ、やじり・刃物などに使われ、古代の人の重要な役割をしたものです。
江戸時代の江戸五街道の一つ中山道は、江戸と京都を結び、東海道は大きな川に幾たびかぶつかるが、中山道は峠はあるけれど安全な道として「女街道」「姫街道」の別名もあり、参勤交代の大名行列もよく通った道で、降嫁する皇女和宮も東下した道でした。
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| 14:25 |
ミミズの碑
随分色っぽい蚯蚓(=みみず)の石碑 |
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【ミミズの碑】
ミミズの碑は、この地、蚯蚓(みみず)に住む人々の希望により祭られました。
蚯蚓は土壌動物の代表です。みみずは枯れた落ち葉や木の枝などをよく食べ糞をします。その糞は「土」となります。「生まれたばかりの新鮮な土」「植物がよく育つ土」なのです。
少し残酷ですが、蚯蚓の地区では「みみずのひもの(はらわたを出して板の上にはりつけた)つくり、解熱剤として煎じて使いました。
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| 14:32 |
道祖神の碑 |
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【道祖神の碑】
道祖神は、多くは江戸時代に、集落や村の境などに祭られております。
悪霊を防ぐ神、旅の安全をもつかさどる神、婚姻や出産の神ともいわれております。
「さえのかみ」「手向けの神」「道陸(どうろく)神」とも呼ばれています。
この地では、正月の飾り物やだるまなどを焼き、一年の家族の無事を祈ります。
下の歌川広重の版画図は、中山道29番目宿場「和田」のものです。
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| 14:35 |
三千僧接待碑
中山道指標 |
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【三千僧接待碑】
信定寺別院慈眼寺境内に建立されていたものだが、寛政7年(1795)この地にうつされた。諸国遍歴の僧侶への接待碑で一千人の僧侶への供養接待を発願して見事結願し、躍二千を増した三千の僧侶への供養接待を発願したと碑文に刻まれている。
碑を見れば誰の目にもわかるように一千僧の一の字を三千僧の三の字に改刻した後が歴然としている。当時三千という僧侶への接待用の食べ物は米飯ばかりでは到底賄いきれないところから麦飯、麺類、栗飯、ひえ飯等雑穀にても賄い、更に天保年間の6年に亘る凶作続きの際にはじゃが芋の粥などで賄ったことがあるといわれる。
和田村・長野県・文化庁
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| 14:50 |
若宮八幡神社本殿 |
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【若宮八幡神社本殿】
和田城主大井信定父子の墓
祭神は、仁徳天皇である。
本殿は、一間社流造の間口1・5メートル、奥行1・7メートルの大きさで棟札には享保6年(1721)建立とある。正面と側面に廻縁をつけ隅組擬宝珠混用の高欄をめぐらし、脇障子には、輪違文に六辨花が彫刻された各部分の調和がとれた建築である。
天文23年(1555)和田城主大井信定と武田信玄が矢け崎で合戦、信定父子を始め、一族郎党ことごとく戦死しその父子の首級がここに埋葬された。元禄6年(1693)その回向の為信定寺第6世来安察伝和尚が当境内に墓碑を建立した。
長和町教育委員会
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| 14:52 |
一里塚
江戸より49里
全くその形は無い
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| 15:10 |
是より和田宿 |
| 15:23 |
歴史の道資料館・かわちや |
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【かわちや 歴史の道資料館】
文久元年(1861)3月10日の大火で焼失したが、その年の11月、本陣、脇本陣等と同じく再建されたものである。和田宿の旅籠のうちでは規模が大きい方である。出桁造りで格子戸のついた宿場建物の代表的な構造であり、江戸末期の建築様式をよく伝えている。
昭和56年度、歴史の街整備事業の一環として総工費3,000万円で、延床面積422平方メートルを復元し、歴史の道資料館としたものである。
文化庁 長野県 和田村 |
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| 15:25 |
信定寺 |
| 15:28 |
和田宿本陣
たいそう立派な建物
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木曽海道六拾九次之内 第29景 広重
和田と下諏訪の間の、和田峠の雪景色。最大の難所とされ、冬季の積雪は3メートルにもおよぶことがあり、牛馬での運行ができず、人足が徒歩で荷駄を担ぎ上げたという。だが、この絵では路上の積雪はさほどなく、行き交う旅人に難渋さはみられない。行く手正面に見える山は、御嶽山である。土が露出した街道の横線は峠道のでこぼこを表している。
和田宿(わだしゅく)とは、中山道六十九次のうち江戸から数えて二十八番目の宿場。
現在の長野県小県郡長和町和田の中心部一帯。難所であった和田峠の入口にあたり、標高820メートル余りの高地にある静かな山里である。次の下諏訪宿まで五里十八町(約23km)と距離があったため、荷駄を運ぶための伝馬役が最盛期には70軒ほどあった。現在も旧本陣や古い家屋が現存し、修理保全されている。宿周辺の産物に黒曜石がある。 |
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【中山道和田宿本陣御入門】
中山道和田宿本陣は、文久元年(1861)3月の大火で焼失したが、同年11月の皇女和宮降嫁にそなえてただちに再建された。その後明治期に座敷棟は、丸子町流願寺へ、また座敷棟の正面にあった御入門は丸子町向陽院へとそれぞれ移築された。ここに復元した御入門は、移築されている門の実測調査により作成した復元図に基づき、平成元年度、「潤いのあるまちづくり」優良地方公共団体自治大臣表彰記念・村制施行100年記念事業の一環として、日本宝くじ協会の助成を受けて再建した。
居室棟・冠木門は旧位置に復元したが、御入門は、既に整備された道路の関係から、旧位置とは異なるこの場所に再建した。
また、座敷棟については同じく敷地等の関係から復元することはできなかった。
長和町教育委員会
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| 15:30 |
脇本陣 |
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【脇本陣】
本陣に次ぐ格式をそねえ、本陣差し合いの際、一方の大名が休泊した。平素は上級武士などの宿泊所にあてられた。和田宿には翠川氏と羽田氏の2軒があった。
文久元年(1861)3月10日の大火で和田宿内109戸を全焼した際、脇本陣も類焼した。
同年11月、皇女和宮降嫁の際、和田宿宿泊のため、昼夜兼行で宿内復旧工事がなされた。この脇本陣もその時の建築である。
現存の建物は翠川家の御殿部分のみであるが、上段の間,二の間、脇上段、次上段の間のほか風呂場、厠等江戸末期の姿をよく伝えており、上田、小県地方における脇本陣唯一の遺構である。
文化庁 長野県 和田村
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| 15:32 |
よろずや |
| 15:35 |
高札場跡
太陽は山陰に、寒くなってきた。
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【高札場跡】
幕府の高札を掲示した場所である。記録によればここに正面3間(約5・5メートル)、奥行7尺(約2・1メートル)の一段高い敷地に正面2間(約3・6メートル)の屋根つきの高札場があった。
高札は交通量の多い場所に掲げて、法度・次宿までの駄賃定書・犯罪人の罪状などをしるし、人々に周知徹底させるためのものであった。旅人はここでは、笠など、かびるものを取るのが習わしであった。
ここに掲げられていた高札は、
正徳元年(1711)5月 定6枚
享保6年(1721)2月 定1枚
享保6年(1721)7月 定1枚
明和7年(1770)4月 定1枚
などである。
文化庁 長野県 和田村
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| 15:45 |
一里塚跡
和田カジ足交差点
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| 「中山道一里塚跡」 |
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| 16:07 |
東邦パーライト工業を通過
寒い、心細い。助けてー、腹も減ってきた。ファイトーッ!
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| 16:25 |
依田川
車は通るが、通行人は全くない。寒い! |
| 16:35 |
唐沢下
薄暗くなってきた。寒い。ここで今晩の宿、サイレントスノーの山本氏の出迎えの車に拾われる。あー助かった。
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| 17:30 |
ペンション・サイレントスノー着
中山道からは15km程も離れている。
ペンションの周囲はうっすらと雪。とても寒い。
早速、温かい風呂に入れてもらう。
ペンション「サイレントスノー」のオーナー・山本一雄氏はスキー界では超有名な人だった。
深夜までスキーの話を聞く。
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