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中山道一人-11



    【中山道】

 中山道は日本橋から板橋、大宮、熊谷、高崎を経て碓氷峠を越えて信濃国へ軽井沢、岩村田、和田峠、下諏訪、奈良井、鳥居峠、木曽福島、妻籠・馬籠を経て美濃国へ、さらに加納、赤坂、関ヶ原をすぎて近江国の草津で東海道に合流し京都に至る。全長は約533kmで69の宿場がある。
 東海道と並び江戸と京都を結ぶ大幹線で、芭蕉が往来し、剣客や幕末の志士が駆け抜け、皇女和宮の3万人近い大行列が25日間かけて江戸に下ったという。女の人は大井川(徒歩)をはじめ、浜名の渡し、桑名の渡しといった水難所の多い東海道を嫌っていたので中山道は姫街道とも呼ばれている。
 東海道と同じ江戸時代の五街道の一つ。前身を「東山道」とも呼んで古代から中世にかけて畿内と中部・奥州を結ぶ重要な街道であった。

「街道ウォーカー・第3弾」(=右のイラスト)と一緒に歩いてみませんか。楽しいですょー、本当に、本当です。

第11日目
和田宿→古峠(和田峠)→下諏訪宿

月 日;

2011年11月22日

区 間; 和田宿〜和田峠〜下諏訪宿
時 間; 7時間05分
費 円;

20,975円

歩 数; 36,200歩、21,6km

05:30 起床(ペンション「サイレント・スノー」)
部屋は暖房が良く効いて、ぐっすりと眠ることが出来た。
07:30 

ペンション・「サイレントスノー」発
寒い。ペンションの周囲はうっすらと雪が積もっている。オーナーの山本氏に中山道まで車で送って貰う。
途中、旧石器時代から始まった黒曜石の採石場跡などを見学。

<ペンション「サイレントスノー」山本夫人>
山本夫妻は旅人に、とても親切だった。話し好きでもあった。
<左が旧中山道、右は国道>
08:00

唐沢下(上記、右の写真=昨日の終点)
寒い。とても寒い。ファイトーッ!
快晴。足下の草地には10センチ程の霜柱が立っている。

08:15

唐沢の一里塚(江戸から51里)。立派すぎる塚が残っている。
この旧街道を往来する人は他にない。寒い。気温4度

                  唐沢一里塚>
 この塚は、江戸より51番目の一里塚である。
 一里塚は、江戸日本橋を基点として1里(約4キロメートル)ごとに道の両側に5間(約9メートル)四方の塚を築き、多くはその上に榎や松を植えて旅人の目印とし、また、憩いの場所ともしたものである。
 和田、下諏訪宿間に一里塚は6ヶ所あったが、これはその一つである。
 この塚は、中山道の一部路線変更により山中に取り残されたもので、天保2年(1831)の絵図面ではすでに路線からはずされている。
 現在樹木は残っていないが、塚は2基ともほぼ原型をとどめている。
               文化庁 長野県 和田村

<これが旧中山道だ!現代の国道から離れて静かな、快適な山道が続く>
08:40

男女倉口
ここから国道を外れ山道に入る。「熊に注意」の看板がぶら下がっている。
他に誰もいない。寒い、さびしいよー!誰か、一緒に歩こうよー!気温ー2度
看板には標高1,100m
         0.2kmで33体観音
         1.5kmで永代人馬施行所
         3.6kmで東餅屋って書いてある。

<旧中山道の難所の一つ和田峠への入口>
<旧熊野権現社の前に並んでいた石仏群。現在は29体がここに集められた>
    【33体観音】
 かって、この山の中腹にあった熊野権現社の前に並んでいた石像である。
 旧道の退廃とともに荒れるにまかせていたが、昭和48年(1973)の調査発掘により29体が確認され、ここ旧道ぞいに安置された。内訳は、千手観音13体、如意輪観音4体、馬頭観音10体、不明2体で4体は未発見である。
 峠の難所を往来する人馬の無事を祈って祀ったものであろうか。
          文化庁 長野県 和田村
09:20

接待
水飲み場の水が冷たくて、とても美味い。

<史跡・永代人馬施行所・江戸時代から続く接待小屋>
    【接待(和田峠施行所)】
 江戸呉服町の豪商かせや与兵衛(有隣)が、中山道の旅の難儀を幾分でも助けようと金千両を幕府に寄付した。その金の利子100両を二分して、碓氷峠の坂本宿とこの和田宿に50両づつ下付し、文政11年(1828)に設置された施行所の一つである。
 11月から3月まで峠を越える旅人に粥と焚火を、牛馬には年中小桶一杯の煮麦を施行した。
 その後、山抜けにより流失したが嘉永5年(1852)現在地に再建され明治3年まで続けられた。
          文化庁 長野県 和田村
09:35 近藤谷一郎巡査殉職の碑
<近藤谷一郎巡査殉職の碑>
09:45

避難小屋
この付近、昔の石畳が残っている・・・・が、とても歩きにくい。

<石畳>
09:55 広河原一里塚
もうすぐ峠だ。霜柱が10センチ程に発達している。
寒いょー、助けてぇー。
    【広原一里塚】
 このあたりを広原といった。その名のとおり昔は笹と葦の生い茂る原であった。
 冬の降雪期には山頂より吹きおろす吹雪で一面の雪の原と化して道も埋まれるとき、5間(9メートル)四方のこの塚は旅人の道しるべとなったであろう。
 この塚は江戸より52番目の一里塚に当たる。
          文化庁 長野県 和田村
<広原一里塚・江戸から52里> <長い霜柱が美しい>寒ーぃ!
10:05

ビーナスライン到着
和田峠遺跡群

    【和田峠遺跡群】
 旧石器時代の石器の材料とされた黒曜石は、和田峠周辺に多く産出されている。
 平成2年〜4年の分布調査により、その黒曜石の露頭は10箇所ほど確認された。さらに、和田川の段丘には数多くの後期旧石器時代の遺跡群が形成されていることが明らかになった。特にキャンプ場から一里塚、そして湿原の周辺に、たくさんの遺跡が集中している。出土した石器は黒曜石石器資料館に保管されている。
          長和町教育委員会
10:10 東餅屋
<東餅屋が崩壊している>
    【東餅屋】
 標高1531メートルの和田峠は急坂が多く降雪の際はもとより、雨や霧の日も旅人は難渋した。この峠の唐沢、東・西餅屋、樋橋、落合に茶屋があり人馬の休息所となっていた。
 この東餅屋では、五軒の茶屋が名物の餅を売っていた。寛永年間(1624〜1643)より、1軒に一人扶持(1日玄米5合)を幕府から与えられ難渋する旅人の救助にもあたっていた。幕末には大名休息のための茶屋本陣もおかれ土屋氏が勤めていた。鉄道が開通するとともに往来も途絶え、五軒の茶屋も店をたたみ、今は(ドライブイン以外に家はなく)石垣を残すのみである。
          文化庁 長野県 和田村
10:20 ビーナスラインのトンネルを越す。
旧中山道がビーナスラインの下のトンネルとなって潜っている。情けない!         もう直ぐ和田峠だ
10:35 もうすぐ峠だ。ファイトーッ!
10:37

古峠(和田峠)到着
バンザイ!見晴台から右側にこれから進む木曽御岳が展望出来る。でも、遠い。
寒い。気温7度。
早めの昼食とする。昨夜泊まったペンション「サイレントスノー」で用意してくれた弁当をいただく。冷たいけど、ウマーイ!でも、サムーイ!
下諏訪方面への展望が素晴らしい。快晴、風は冷たい。

<古峠(旧;和田峠)・標高1,600m>
    【古峠】
 中山道設定以来、江戸時代を通じて諸大名の参勤交代や一般旅人の通行、物資を運搬する牛馬の往き来などで賑わいをみせた峠である。頂上に、遠く御嶽山の遥拝所がある。冬季は寒気も強い上に、降雪量も多く、冬の和田峠超えの厳しさは想像を絶するものがあったであろう。
 明治9年(1876)東餅屋から旧トンネルの上を通って西餅屋へ下る紅葉橋新道が開通したため、この峠は殆ど通る人はなくなり古峠の名を残すのみである。
          文化庁 長野県 和田村
11:00 古峠(旧・和田峠)発
ここからは急な下りが続く。山道だ。
11:10

石小屋跡
昔は小屋が有ったらしい痕跡があるが今は石がゴロゴロしているだけ。何もない。

<石小屋跡>江戸時代には避難小屋が有ったらしい
    【石小屋跡】
 中山道の古峠は、標高1,600メートルの峠で難路で知られていた。下諏訪側の峠近くは急坂で風雪の時は旅人も人馬も難渋した。大雪の時には雪割り人足も出動した。下原村の名主勝五郎は、安政2年(1855)に避難場所と荷置場を造ろうと、郡御奉行所に口上書を差し出し、馬士の出金、旅人等の援助を乞うて、50両ほどで石小屋を築いた。
 石小屋は、山腹を欠いて高さ約2メートルの石積みをし、この石積みを石垣壁として片屋根を掛けたもので、石垣からひさしの雨落ちまで2・3メートル長さ55メートルという大きいものであった。
 人馬の退避所や荷置場には絶好の施設であった。
 その後、慶応3年に修理したが、現在は石垣の一部を残すのみである。
        平成9年5月           下諏訪町教育委員会
11:40

牛頭大王石碑
100m程で国道に合流する。車がうるさい。随分と暖かくなってきた
西餅屋茶屋跡
完全に和田峠を越えた。
ここからは国道(車道)を歩く

    【西餅屋茶屋跡】
 西餅屋は江戸時代中山道下諏訪宿と和田宿の5里18丁の峠路に設けられた「立場」(人馬が休息する所)であった。中山道は江戸と京都を結ぶ裏街道として重視されていた。ここは茶屋本陣の小口家と武居家、犬飼家,小松家の4軒があり,藩界にあったので,ときには穀留番所が置かれた。幕末の砥沢口合戦のときは、高島藩の作戦で焼失されたが、すぐに再建された。現在は道の「曲之手=まきのて」(直角な曲り)と茶屋跡が残っている。
          昭和45年9月16日 指定   下諏訪町教育委員会
11:55

中山道一里塚
江戸より53里

<一里塚>江戸から53里
12:45 浪人塚
<浪人塚>   ゴミ焼却場の煙
不思議なくらい煙が真っ直ぐに、モウモウと上がっている
    【史跡 浪人塚】
 ここは浪人塚といい、今から120年前元治元年(1864年)11月20日に、この一帯で水戸の浪士武田耕雲斎たち千余人と松本・諏訪連合軍千余人が戦った古戦場でもある。
 主要武器はきわめて初歩の大砲10門くらいづつと猟銃少しだけで、あとは弓、槍刀が主要武器として使われた。半日戦に浪士軍に10余、松本勢に4、諏訪勢に6柱の戦死者があり、浪士たちは、戦没者をここに埋めていったが、高島藩は塚を造って祀った。碑には、当時水戸に照会して得た6柱だけ刻まれている。明治維新を前にして尊い人柱であった。
12:55 芙蓉パーライト工場
13:30 54里塚
工場の裏手にある。
他人の土地を通過しないと見に行けない。誰もいない、「ゴメンナッスッテ!」って断って通過させて貰う。
    【54里塚】
 一里塚は、徳川幕府が江戸日本橋を起点とした五街道に、一里ごと築いた道標である。道の両側に基底5間(9メートル)四方に、まるく土を盛りあげその植えに榎や欅など大きく成長する木を植え、遠くからも目立つような塚をつくった。
 中山道一里塚は、慶長9年(1604)に長居伯元等が一里塚奉行として築き、ここは54番目の塚でながく旅人に親しまれてきたが、明治維新に取り壊されたものを近年復元した。
          昭和47年1月町文化財に指定 下諏訪町教育委員会
<旧中山道は山の中>
13:55

木落坂
御柱祭の最大の見せ場として知られる諏訪大社下社「木落し坂」。長さ100m、斜度35度の難所で、砥川の対岸には観覧席が設けられるそうだ。
想像以上に急な坂だ。毎年、怪我人や死人が出るのに・・・・どうしても止められない7年おきの祭り。

                    <諏訪大社の木落坂>
 以前に見た甲州街道沿い韮崎付近の「木落し坂」と違い、ここは想像以上に急な坂だ。危険だ。ヤバイのだ。
 こんな急な坂を丸太を引きずり下ろす、その上に人が乗るなんてムチャだ!
 即刻やめた方が良い!って関係者に忠告したい、人間の行いとして間違いだとも云いたい!
    【諏訪大社 御柱木落し坂】
 諏訪大社の御柱祭りは7年目、毎申・寅年に行います。規模の大きさ、勇壮・豪快なことは比類なく、天下の大祭として知られています。
 樅の巨木を奥山から切り出し、社の四角に建てるのですが、山から引き出す「山出し祭り」が御柱年の4月、町内を曳行し建立する「里引き祭り」を五月に行います。

 曳行途中、木落し坂と呼ぶこの急坂で、御柱を引き落とすのが下社山出し祭最高の見せ場「木落とし」です。男意気に駆られる若者たちが、群がりうちまたがった御柱を、100メートル余り、傾斜度45度近い崖のようなこの木落とし坂頂上から一気に引き落とします。落下の反動で、若者たちの大半は放り出され御柱とともに転がり落ちる、一帯を埋めつくす大観衆は一瞬息をのみ、驚声と大歓声が湧き上がり、その豪壮さは筆舌に尽くせません。
    「男見るなら七年一度 諏訪の木落とし坂落し」
と唄われてきました。この木落し坂での木落としは、下社春宮・秋宮の御柱八本を3日にわたって行います。
          下諏訪観光協会

14:25 道祖神
14:40 諏訪大社
14:48 万治の石仏
説明によると、春宮の近く、田んぼの中に鎮座する阿弥陀如来の石仏、高さ2m余の自然石にちょこんと頭を乗せた姿が興味深く、各界著名人が絶賛したころから広く知られるようになった。
<万治の石仏> <一里塚の碑>
    【万治の石仏と伝説】
 
伝説によると諏訪大社下社(春宮)に石の大鳥居を造る時この石を材料にしようとノミを入れたところ傷口から血が流れ出したので、石工達は恐れをなし仕事をやめた(ノミの跡は現在でも残っている)その夜石工の夢枕に上原山(茅野市)に良い石材があると告げられ果たしてそこに良材を見つける事ができ鳥居は完成したというのである。石工達は、この石に阿弥陀如来をまつって記念とした。尚、この地籍はこの石仏にちなんで古くから下諏訪町字石仏となっている。
          下諏訪町
15:00 一里塚(江戸から54里)
15:08

下諏訪本陣(=今日のゴール)
学生時代からの友人Hさん、Mさん、Fさんの出迎えを受ける。

 
shukuba

      木曾街道六拾九次之内 下諏訪  (広重)
旅籠屋の内部である。風呂から上がり、手拭いを掛け竿に掛けた旅人が6人が、女中の給仕で夕食をとっている。各々の前に一汁二采を乗せた足付膳が並ぶ。左奥の湯殿では、旅客が一人入浴中である。この時代はまだ、旅籠に温泉は引かれていない。温泉に浸りたければ共同浴場まで行かなければならない。風呂場の手前に柄杓の投げ込まれた手水鉢があり、後ろの連小窓は厠であろう。

  ◎下諏訪宿 長野県諏訪郡下諏訪町
和田宿から下諏訪宿まで約21・2キロもある。天保14年の人口は1345人、総戸数315軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠40軒であった。ここから十数キロ隔てたところに、江戸内藤新宿から発する甲州街道の終点上諏訪がある。甲州街道との分岐点にあたり、塩尻峠と和田峠に挟まれた交通の要衝であった。また古くから諏訪大社下社の門前町として栄えた。

<下諏訪宿本陣前>
    【史跡 本陣遺構】
 江戸時代中山道の大きな宿場として殷盛をうたわれた下諏訪宿の問屋兼本陣の大半がそのままここに残っている。
 維新前は公卿や大名たちの休泊所になり、文久元年(1861)11月には関東へ御降嫁の和宮さまのお泊所になり明治13年6月24日、明治天皇ご巡幸のときにはお小休所になった。
          昭和47年2月23日指定  下諏訪町教育委員会
15:45

「紅屋」(上諏訪)にチェックイン
7種類の温泉があるホテル。あー、生き返る。
36,200歩

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