【中山道】

 中山道は日本橋から板橋、大宮、熊谷、高崎を経て碓氷峠を越えて信濃国へ軽井沢、岩村田、和田峠、下諏訪、奈良井、鳥居峠、木曽福島、妻籠・馬籠を経て美濃国へ、さらに加納、赤坂、関ヶ原をすぎて近江国の草津で東海道に合流し京都に至る。全長は約533kmで69の宿場がある。
 東海道と並び江戸と京都を結ぶ大幹線で、芭蕉が往来し、剣客や幕末の志士が駆け抜け、皇女和宮の3万人近い大行列が25日間かけて江戸に下ったという。女の人は大井川(徒歩)をはじめ、浜名の渡し、桑名の渡しといった水難所の多い東海道を嫌っていたので中山道は姫街道とも呼ばれている。
 東海道と同じ江戸時代の五街道の一つ。前身を東山道とも呼んで古代から中世にかけて畿内と中部・奥州を結ぶ重要な街道であった。

街道ウォーカー(=右のイラスト)とこれから「例幣使街道」を一緒に歩いてみませんか。歓迎します。

第13日目
(下諏訪)=日出塩→贄川宿→奈良井宿→鳥居峠→薮原 =(塩尻)

月 日; 2010年5月3日(月)、天気;晴れ
区 間; 本山=薮原 20.5km
時 間; 8時間10分
費 円;

合計11、130円
(内訳)駐車料1,000円、JR下諏訪=日出塩駅400円、JR藪原=塩尻駅480円、ホテル8,000円、夕食1,250円

歩 数; 38,000歩

05:00

JR下諏訪駅構内の駐車場の車の中で起床。
昨日の街道歩きの疲れと温泉に入ったせい、夜は良く眠れた。
寒い。今日も良く晴れている。
まずはJR下諏訪駅へ行き、今日の自動車駐車料1,000円を支払う。

05:45

JR下諏訪駅発。車は駅構内の駐車場に置き電車で日出塩駅へ向かう。
下諏訪=日出塩駅 400円

06:00

JR塩尻駅
木曾方面の電車への乗り換えに53分も待たねばならない。

06:53 JR塩尻駅発
07:00 JR日出塩駅
07:05

日出塩駅入口
今日の出発点。ファイトーッ!
ここから木曽路が始まる。間もなく「是より南、木曽路」の碑がある。
この石碑が「木曽路」の入り口を示すもの

     「これより南 木曽路」(上の写真・右)
 この地は木曽路の北の入り口であり、江戸時代には尾張藩領の北境であった。この石碑は、桜沢の藤屋百瀬栄が昭和15年に建立。裏には「歌ニ絵ニ其ノ名ヲ知ラレタル、木曾路ハコノ桜沢ヨリ神坂ニ至ル南二十余里ナリ」とある。
08:15 若神子(みこがみ)一里塚
国道脇に追いやられ、かろうじてその存在を残している。
   「若神子一里塚」
 一里塚は、街道の里程の目安として一里おきに道の両側に設置された塚で、榎や松が植えられ往時の旅人の休息の場ともなっていた。
 この若神子一里塚は、中山道に設けられた一里塚のうち楢川地域内の五箇所の一里塚のうちのひとつで江戸時代には道の両側に2基あり、それぞれに榎が植えられていたが、明治43年の中央線の鉄道敷設時に1基が取り壊され、現存する1基も国道19号線の拡幅によって切り崩されて、現在は直径約5m、高さ1mほどを残すのみとなっている。
       塩尻市教育委員会
<若神子一里塚>
08:35 伊藤孫太郎商店
08:45

JR贄川(にえかわ)駅。駅の直ぐそばに贄川宿がある。
気温16度、晴れ、とても快適な気候。
贄川関所址

 
宿場

    34景 広重
 木曾海道六拾九次之内 贄川

夕暮れ時、繁忙時の旅籠の店先である。入口から奥に向かって土間があり、左側に部屋、右の台所にはかまどと棚に整理されたお膳や食器が見える。2人の武士が、足を洗うタライの前で草履を解く。店頭には宿場役人、一服する籠屋、2階にはくつろぐ客が見える。掛札にある「松島房二郎刀」「摺工松邑安五郎」「仝亀多市太郎」は、このシリーズの制作に関わった職人の名前である。

 ◎贄川宿 長野県塩尻
本山宿より贄川宿までは約7.9キロ。天保14年の人口は545年、総戸数124軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠24軒であった。古くは温泉が湧き「熱川(=にえかわ)」と称したが、温泉が枯渇して現在の「贄川」となった。諏訪大社の神事に、ここで獲れた魚を「贄」として献じたことから、この文字が当てられた。贄川宿の手前の関所では、「上下女改め、檜細工改め」が行われた。

<贄川関所跡>

     中山道」
 中山道は慶長7(1602)年、徳川家康によって定められた五街道の一つで東海道に合流するまでの間に67の宿場が設けられました。江戸と京都を結ぶ主要街道としての定期的な御用通行、諸商人、御嶽詣や伊勢詣・善光寺詣などの旅人に利用され、江戸時代を通じて重要な役割を果たしてきました。旅行者以外にも木曽谷から移出される木材や木材加工品、外から木曽に運ばれてくる米を中心とした食料品なども往来しました。
 中山道のうち木曾路と呼ばれるのは、桜沢から馬籠・蟹川・奈良井・薮原・宮越・福島・上松・須原・野尻・三留野・妻籠・馬籠の宿があり、これを木曽十一宿と呼びました。

     贄川宿」
 贄川宿は木曾路に入って最初の宿場町です。
 中山道の中では小さい宿場町ですが、宿場の北端に福島関所の副関にあたる贄川関所が置かれ、檜物や曲物、漆器を生産する平沢・奈良井が近かったことにより、商業も活発でした。

     にえ川関所 木曾考古館」
 にえ川関所は明治2年福島関所とともに閉止され原型は残っていないが、明治9年のにえ川村誌の「古関図」や寛文年間のものの「関所番所配置図」により現在の位置に復元したものであります。また木曾考古館は村内簗場遺跡等で出土した土器石器類を展示してあります。

<贄川宿入り口>
09:10 深川家住宅
10:25

平沢

<芭蕉の碑>
     「木曽漆器の街 平沢」
 平沢は、贄川と奈良井宿の中間にある間の宿で、江戸時代から奈良井宿とともに木工品や漆器の産地として発展して来ました。特に漆器製造は奈良井よりも盛んになり、現在では村の基幹産業となっています。平沢の町並みには、漆器関連の店舗が数十軒以上も軒を連ねています。
10:40

二十三夜の碑

<二十三夜の碑>

「神に願かけ叶はぬならば
二十三夜さまお立ち待ち」
と云う民謡があるように下弦(二十二日二十三日)のおそい月の出を待ってこれを拝む風習があり宿(当番の家)に参集して飲酒談笑して月の出るまで待つのであるが、 特に「お立待ち」といって月の上がるまで腰をおろさず立ちつづけているという願かけをする者があり、うっかりして座ってしまったり立っているだけでは苦痛なので この晩集まっているものが踊りを踊ってまぎらわすことがあったという。
亦、御嶽山の中興の祖として信者から崇敬された覚明行者の命日を二十三日として供養したことが伝えられ1月・5月・9月・11月の4回その晩は頭(世話人)が先にたって 集まり茣蓙を敷いて経を読んでおつとめをしたと云う。
 これらの伝説を後世に残すため文化7年、今から約180年前、宮原六蔵氏他碑の裏側に刻まれてある8氏により二十三夜の碑を建てられたものである。
また、この付近の石垣はその頃の中仙道のあとで、手甲脚絆姿の旅人達が往来した当時の面影を残している。
昭和49年5月 平沢十二日同志会

11:35 橋戸一里塚
     「橋戸一里塚」
         指定 昭和60年3月15日
         所在地 塩尻市大字木曽平沢
         所有者 橋戸氏
 中山道を含む五街道の一里塚整備は、慶長9年(1604)に出された江戸幕府の命により大久保長安の指揮のもと行われた。江戸日本橋を起点として一里(約4キロメートル)ごとに街道を挟んで2基設置され、松屋檜が植えられた。
 橋戸一里塚は、市内に9ヶ所ある中山道一里塚のうち江戸側から8番目の1つである。
文化3年(1806)に完成した「中山道分間延絵図」には、「此辺り古往還一里塚」と記載されている。このことから、当初中山道は、奈良井川左岸にあり、そこに橋戸一里塚が設けられていたが、江戸時代のいずれかの時期に中山道が奈良井川右岸に移され、橋戸一里塚は、使われなくなったと考えられる。
 この一里塚は、経路変更の経緯を示す貴重な交通史跡であり、地区住民により平成19年に周辺整備が開始され、中山道の歴史をしのぶ公園として親しまれている。
        塩尻市教育委員会
11:55

JR奈良井駅
すごい数の観光客が出ている。まるでJR原宿駅の商店街のようだ。
ちょうど「御柱祭り」で木曳きが行われていた(下の写真)

     「奈良井宿」
 奈良井宿は、鳥居峠をひかえた木曾路の中でも最も標高の高い位置(約940m)にある宿場町です。
 木曽11宿中一番賑わいを見せた様子は「奈良井千軒」といわれ、独特の工夫をこらした家造りと千本格子が往時の面影を色濃く残しており、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。
 宿場内は上町(かんまち)・中町・下町に分かれ、中町には本陣・脇本陣がありました。
<奈良井宿>
 奈良井は、戦国時代に武田氏の定めた宿駅となっており、集落の成立はさらに古いと考えられる。
慶長7年(1602)江戸幕府によって伝馬制度が設けられて中山道67宿が定められ、奈良井宿もその宿場の一つとなった。
 選定地区は中山道沿いに南北約1km、東西約200mの範囲で南北両端に神社があり、町並みの背後の山裾に五つの寺院が配され、街道に沿って南側(=京都方)から上町、下町の3町に分かれ中町に本陣、脇本陣、問屋などが置かれていた。
 奈良井宿は、中山道最大の難所といわれた鳥居峠をひかえ、峠超えにそなえて宿をとる旅人が街道の両側に建ち並んでいる。
 建物の大部分は中二階建で、低い二階の前面を張り出して縁とし、勾配の緩い屋根をかけて深い軒を出している。屋根は石置き屋根であったが、今日はほとんど鉄板葺きである。二階正面に袖壁を持つものもあり、変化のある町並みを構成している。
宿場

    35景 渓斎英泉
 岐祖街道 奈良井宿 名産店之図
 名産品「お六櫛」を商う店の図。昔、吾妻村に脳を患うお六という娘がいた。お六は御嶽山のお告げに従い「みねばり」の木で櫛を作り髪を梳いたところ、病が治った。次の藪原宿の特産品となった「お六櫛」は、「みねばり」の木が多かった奈良井宿でも名産品になった。店には櫛の材料が陰干しされている。店の中では職人が櫛の目を刻む。彼方の山は駒ケ岳である。

 ◎奈良井宿 長野県塩尻市
 贄川宿から奈良井宿までは約7.3キロ。天保14年の人口は2155人、総戸数409軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠5軒であった。木曽路一番の賑やかで、歌にも謳われたほど栄えた裕福な宿場である。裕福な理由としては名産品の販売が考えられる。曲げ物(檜・杉などの薄く削った材を円形に曲げて作った容器)、櫛、漆器などが旅の土産として人気があった。

     「水場(奈良井宿)」
 奈良井宿の町並みを特徴づけている水場は生活にかせない生活用水の確保や、火災が発生した場合に連なる家々への延焼を防ぐために、山からの豊富な沢水や湧き水を利用して設けられた。また、中山道を歩く多くの旅人が難所、鳥居峠を越えるために水場で喉を潤した。現在、奈良井には六箇所の水場が整備され、それぞれに水場組合を作り、維持・管理を行っている。
     「重要伝統的建造物群保存地区」
 奈良井宿は「周囲の環境と一体となって歴史的な風致を形成している伝統的な建造物群」として、南(=京都方)から上町(かんまち)、中町、下町の3地区の延長約1kmにわたる町並みを中心とした面積約17.6haが、昭和53年に国の重要伝統的建造物群保存地区として選定されました。
 保存地区内には、旧中山道に面して約200軒の建造物が並び、この中で江戸時代から明治時代にかけて建築された160軒あまりの建造物が保存の対象に指定されています。奈良井宿ではそのほとんどの家々で住民が生活しながら保存・修景に取り組む生きた宿場として隅々にその生活感と暖かみを感じることができ「奈良井千軒」と謳われた往時の町並みは今も健在です。
12:20 マリア地蔵尊
探しても、それらしい十字架は見つからない・・・・首が無い地蔵尊、夜間に見ると、きっと・・・・不気味?
     「マリア地蔵尊」
 この石像は、昭和7年(1932)の夏に、地元の人が藪のなかになかば埋もれているところを掘り出したと伝える。抱かれる嬰児が手にもつ蓮華の先が十字状になっているところから、隠れキリシタンが観音像をよそおってひそかにまつったものではないかと言われている。
<マリア地蔵尊>
12:40 マキ神社
12:43

鳥居峠入口
さすがにここから峠を登る人は少ない。

13:20

葬沢(中の茶屋)
古戦場の跡。昔、ここで大勢の兵が死んだと書いてある。何となく寂しくて、気味が悪い。こんな沢筋は早く抜け出したい。ファイトーッ!

<葬沢(中の茶屋)・古戦場の跡>
     「本沢自然探勝園(葬沢)」
 天正10年(1582)2月、木曾義昌が武田勝頼の二千余兵を迎撃し、大勝利を収めた鳥居峠の古戦場である。このとき、武田方の戦死者五百余名でこの谷が埋もれたといわれ、戦死者を葬った場として、葬沢(ほうむりさわ)と呼ばれる。
13:45

鳥居峠(1,197m)中山道の難所の一つ。ヤッター!
きっと昔と同じ風景であろう真っ白に雪を被った木曾御嶽山が眼前に広がる。天気も良く、美しい。
なだらかな登り坂だった。実にさわやかな気候だ。
峠には立派な無人の休憩小屋があり、シュラフされあれば、きっと冬でも宿泊できる。

 
宿場

    36景 渓斎英泉
 木曾街道 藪原 鳥居峠硯ノ清水

 この図の副題である「硯の清水」は、その昔、木曽義仲がこの清水で墨をすり、願文(神仏祈願の文)を書いた縁起による。腰を下ろしている男2人は、羽織の下の腰掛けから飛脚であろうか。村の母娘は母は大量の柴を背負い、娘は頭に載せて峠を越えて行く。女2人の場違いに派手な服装は英泉の好み。遥かに見える山は木曽御嶽山である。

 ◎藪原宿 長野県木曽郡木祖村
 奈良井宿から藪原宿までは約5・3キロ。天保14年の人口は1493人、総戸数266軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠10軒であった。鳥居峠は奈良井宿と藪原宿の間にある。御嶽山を遥拝する鳥居が立っていたころからこの名がある。街道の左脇立つに芭蕉の句碑には「雲雀より、うへにやすらふ、峠かな」とある。芝に覆われた頂上に、石造りの鳥居が残っている。

     「鳥居峠」
 奈良井宿と藪原宿を結ぶ旧中山道最大の難所。明応年間(1492〜1500)松本の小笠原氏との戦いで、木曾義元はこの頂上に鳥居を建て、御嶽権現に戦勝を祈願したといわれています。今では信濃路自然歩道として石畳の道も復元され、昔ながらの中山道を堪能することができます。
<中山道・鳥居峠(1,197メートル)>
14:00 子産の栃
     「子産の栃」
 昔、この穴の中に捨て子があり、子宝に恵まれない村人が、育てて幸福になったことから、この実を煎じて飲めば、子宝に恵まれると言い伝えられている。
14:05 丸山公園
14:40 天降社の大もみじ
樹幹が随分とひねくれている。随分と苦労して今日まで生き延びたに違いない。ご苦労さん!と声をかける。
<天降社の大もみじ>
14:50 飛騨街道追分
     「飛騨街道追分(分岐点)」
 藪原は中山道の宿駅として発達した。
 この場所は十王堂(薬師堂)があって、奈川を経て野麦峠・飛騨高山へ通ずる飛騨街道(奈川堂)の追分だった。左手の細い道が旧奈川道で、小木曽地域を抜けると、美濃と信濃との国境であったことから境峠といわれるようになった峠がある。
 当時この峠は険しい道で、木曽側は湿地であり板橋を懸けてわたった。いっぽう、奈川側も岩石だらけの悪路で馬を使うことが困難であった。かわりに、もっぱら尾州陸舟(おかふね)と呼ばれた奈川の牛が飛騨ぶりの魚介物や塩などの荷物の運搬に使われていた。
 明治44年に中央西線が開通すると、この街道は岡谷の製糸工場で働く飛騨の女工達がひんぱんに往来するようになった。
<飛騨街道追分>
14:55 防火高堀跡
     「防火高塀跡」
 元禄8年7月(1695)藪原宿のほとんど全部が焼失する大火があった。その後、防火対策として宿再建の際各戸1間につき一寸の割合で提供し合って上横水と下横水(現在の二又)の二か所に四辻の広小路を作った。
 文化年間にはさらに中心街の火災に配慮して、上横水の広小路には北側に土を盛り石垣を築きその上に高い土塀をつくって防火壁とした。当時、これを「高塀」と呼んでいた。宮田畝の「岨俗一隅」にはその様子が伺える絵図が載っているが、現在、その石垣の一部のみが残されている。
 消火設備が十分でないどの宿場も火災には神経を使っており、用水路の工夫や建物に卯建(うだつ)を付けるとか火除け広場を確保するなどしている。
 この藪原宿のような防火高塀によるのは少ない例である。
<防火高堀跡>
15:00 薮原宿高札場跡
     「藪原宿高札場跡」
 江戸期になると、幕府中心の幕藩体制が確立した。その情報伝達方法として「高札場」が都市・宿場・在郷等に設けられた。
 初期には法度や掟書など老中交代の都度、高札として出された。正徳年間以降(1711〜)変更のないのはそのまま「定札」として幕末まで推持された。他に「覚」等の高札もあって時期により掲示枚数が違う。
 藪原宿の高札場(旧中山道)一帯を出口といって京方から宿場の入り口のあたり、ここが鍵の手(枡形)のような道になっているため、人々が集まり目につき易い所だった。掲示の高札は宿場町らしく、定三札(人倫・徒党・切支丹)と駄賃札等が主だったと思われる。木祖村郷土館には、当宿場に掲示されていた幕末期の定三札の一つがある。
<薮原宿高札場跡>
15:10 中山道一里塚
     「中山道一里塚」
 一里塚は江戸時代、主要街道に江戸日本橋を起点として一里(約4、000メートル)ごとに設けた里程の塚である。
 築造は慶長9年(西暦1604)とされ道路の西側5間四方に高さ1丈(約3メートル)ほどの土を丸く盛り上げその上に檜や松を植えた。
 村内の一里塚は、この藪原と、吉田(江戸から67里、京から69里)の二か所にあった。日本橋と京都三条大橋を結ぶ中山道69次、百三十五里二十三町の凡そ中程にあたり旅人の安息と利便を与えた場所である。
 現在は時代の推移により、その原型は見られない。この位置を一里塚と呼びその名を留めている。
               木祖村教育委員会
<中山道一里塚>
15:15 JR薮原駅 ここまで38,000歩
15:55

JR薮原駅発 JR薮原=塩尻駅 480円
2両連結の電車、驚いたことに混んでいる。

16:30 JR塩尻駅
17:00

JR下諏訪駅
日帰りの湯「児湯」220円
今夜は塩尻駅前にあるビジネスホテルに泊まることにする。

19:30

塩尻ビジネスホテル「よこ山」
今夜は安眠できそうだ。

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