| 06:00 |
塩尻駅前・ビジネスホテル「よこ山」発。同行者のNさんの車で出発
19号線を木曽方面へと進む
朝食。コンビニで牛乳と菓子パン2個を買い、歩きながら食べる。うまい、街道歩きにはこれが美味いのだ!
グルメで美食家のうちのかみさんにも、この朝食を食べさせたいなぁ。
|
|
 |
|
<自動車道の脇、古道が残っている>
|
|
| 06:50 |
JR薮原駅着
昨日の最終地点、駅前の駐車に車を止めてここから歩く。
曇り空、少し肌寒い。
|
| 07:00 |
JR薮原駅前出発。ファイトーッ!
|
| 07:40 |
吉田通過 |
| 07:55 |
山吹トンネル
国道のトンネル内を歩く。歩道があるから助かる。横を車がビュンビュン通り過ぎる。排気ガスをしこたま吸う。情けない。
|
|
|
| 08:00 |
木曽町に入る。
国道361号との合流、少し温かくなってきた。気温12度。
すぐ脇をJR中央線が通っている。
あー電車に乗りたーぃ!
|
|
|
| 08:20 |
巴渕。ここから木曾義仲の郷が始まる |
|
日義八景巴ヶ淵の晴嵐
美人何地去 千戴水悠々
中有盤渦処 猶作巴字流
木曽の代官山村良由公の詩にあるように、この淵に水流が巴を作ってうずまいていた。義仲公の養父
木曾三川 三十六景の一
伝説の残る巴が渕
歴史が漂うこの渕は、巴状にうずまき、巴が渕と名づけられた。
伝説には、この渕に龍神が住み、化身して権の守中原兼遠の娘として生まれ、名を巴御前と云った。義仲と戦場にはせた麓将巴御前の武勇は、痛ましくも切々と燃えた愛の証でもあった。巴御前の尊霊は再びこの渕に帰住したと云う。法号を龍神院殿と称えられ、義仲の菩提所徳音寺に墓が苔むして並ぶ。
絶世の美女巴は、ここで水浴をし、また泳いでは武技を錬ったと云う。そのつややかな黒髪のしたたりと乙女の白い肌元には、義仲への恋慕の情がひたに燃えていた。
岩をかみ蒼くうずまく巴が渕、四季の風情が魅する巴が渕。木曽川の悠久の流れと共に、この巴が渕の余情はみつみつとして、今も世の人の胸にひびき伝わる。
蒼蒼と巴が渕は岩をかみ
黒髪愛しほととぎす鳴く
木曽町
|
|
|
|
| 08:50 |
義仲館
この付近、木曾谷にはめずらしく平坦地が多い。
|
|
|
|
日義村指定文化財
「徳音寺山門」
昭和57年3月10日指定
この鐘楼門は、木曾義仲二十四代の孫木曾玄蕃尉義陳の発願により、尾張藩の犬山城主成瀬隼人正藤原正幸の母堂が施主となって,享保8年(1723)に巾番匠棟梁藤原朝臣大和流狩戸弥兵衛久正の手によって建立されたものです。
この門は、桁行3間梁行2間の重層楼門で、軸部の構成、組物は唐様(禅宗様式)であり、全体に調和がとれ安定した楼門です。しかも、装飾的な無駄がなく簡素の美を構成している点が賞せられます。
弘化2年(1845)と、平成8年(1996)に修理はされているが、木曾における江戸時代中期の楼門建築を代表するものとして、よくその姿をとどめています。
日義村教育委員会
つらぬきいし
巴御前は、巴が渕の龍の化神と言う。
中原兼遠の娘にて、保元2年木曾館に誕生す。
生来怜悧,文武を学び並の男子の及ばぬ勇婦なり。
義仲公はこの地で兼遠公に養育され、智仁勇三徳を備え、殊に兵法を良くし一角の大将と成人す。
雄しき殿と麗しき姫の轡を並べて清流に水飼う様は一幅の名画にも勝るやと想わる。
巴二八ともなれば、木曾殿を恋う心も深まりし一日、巴が渕の野駆けす。義仲、巴に、「姫、彼岸に鞭打ちて見よ。打たば吾が女にせん」と申さる。無二の天険断崖絶壁奔流渦巻く数間余の渕の彼の岸、「南無や八幡」と一心に念じ愛馬に鞭打って彼岸に到る時に、力余りて蹄が巌を貫ぬけりと。年経りてこの石正に流失せんとするを手塚氏普請して家宝となすを此処に移す。
古伝に、蹄跡の溜まり水に手を清め、姫の墓前に祈念せば、満願成就すと、特に疣に妙効あり直にとれると言伝う。絶世の美女巴姫の因縁により美しくなるという。
宝治元年9月15日 91歳の天寿を全うし此の地に眠る。
木曾義仲公霊廟
木曾義陳公の発願により、天明年間に建立されたという。
昭和50年笹村草家人先生の絶作となる義仲像(木曽檜寄木造り等身大)が奉納された。旗挙げの雄姿が目に浮かぶ力作である。
八百年祭を記念して一部改築し像を中央に安置し、木曾一族郎党の御位牌をお祀りしている。
天井の絵は、郡下の中学生の諸君が八百年を奉賛して奉納してくれた傑作で像を荘厳するにふさわしい一大絵巻である。
|
|
| 09:15 |
宮ノ越本陣跡
現在は全く建物等は残っていない。 |
| |
 |
37景 広重
木曽海道六拾九次之内 宮ノ越 |
|
|
|
|
宮越宿本陣
宮越宿は、中山道のちょうど中間地に位置し、脇街道の伊那へぬける権兵衛街道との追分ともなっていました。
宮越宿本陣は、徳川幕府による中山道69次ぎの宿駅制度確立とともに整備され、明治3年(1870)宿駅制度廃止まで続きました。
天保14年(1843)の本陣絵図では、往還に沿って、間口9間奥行18間、16坪の中庭と裏に庭園と土蔵1棟があって、敷地面積194坪となっていました。表構えは、西に表口、中央式台を上がった処に15坪の板の間を置き、左に門玄関、北側に仮門を構え、その正面奥に、式台玄関があって、18畳の大広間の奥が上段の間という本陣の基本形を備えた規模の堂々たる屋敷を構えていました。
建物は、明治16年(1883)大火で全焼し、それ以後のものですが、中山道木曾街道に於いて、江戸時代のままの遺構が現存するのみです。
木曽町 |
|
|
 |
| <山吹山の追分> |
|
| 09:35 |
宮ノ越一里塚
今ではその痕跡さえも消えてしまっている。
|
|
|
| 09:55 |
松沢(JR原野駅)
左手に雪を被った木曽駒が岳大きく見える。
|
|
 |
|
<雪を被った木曽駒ケ岳>
|
|
| 10:35 |
薬師堂・手習天神
田口誠氏に会う。巴御前の血筋だそうだ。
|
|
|
手習天神
このお宮は、古くは山下天神とよび、木曾義仲を養育した中原兼遠が義仲の学問の神として勧進したものと伝えられています。
源平盛衰記に義仲を木曾の山下に隠し養育したことが記されていますが、山下は上田の古名で、付近には兼遠の屋敷跡、義仲の元服松等の史跡があり、このお宮の古さを物語っています。境内の「一位(イチイ)」の古木は名木として知られ、中山道を往来する旅人は必ずここに杖をとめ参拝したものといわれています。
このお宮の祭りは、毎年8月24日、25日の両日で、境内の土俵では青少年の相撲大会が大正の初期より行われています。
木曽町
|
|
|
 |
 |
|
<中山道中間地点>
|
|
|
中山道中間点
ここは、中山道の中間点、江戸、京都双方から67里38町(約268キロ)に位置しています。
中山道は、東海道とともに江戸と京都を結ぶ2大街道として幕府の重要路線であったことはいうまでもありません。
木曽路というと深山幽谷の難所と想われがちですが、木曾11宿が中山道69次の宿場として指定された慶長6年(1601)ころからは整備も行き届き、和宮などの姫宮の通行や、日光例幣・茶壷道中などの通行に利用されていました。
英泉、広重をはじめ多くの文人墨客が数多くの名作を残していることからも変化に富むこの街道は旅人の目を楽しませてくれたに違いありません。
また、江戸時代に木曾一円を治めていた代官山村氏は、中央との結びつきを深め、代々向学の士を輩出して政治、経済はもとより、文学にもその才を発揮し、木曾をして中山道のいう東西文化の接点ならしめたのです。
木曽町 |
|
| 11:30 |
福島関所址
昼食にざるソバを食べる。1,100円
期待したほどに美味しくない。木曾といえば蕎麦が本場のはず・・・・だのに?
グルメで美食家のうちのカミさんには食べさせられないな!
|
|
国史跡 福島関所跡 昭和54年3月13日指定
福島関所の創設された年代は明らかでないが、中山道の開かれた慶長7年(1602)をあまりくだらない頃のことと考えられ中山道の重要な守りとして碓氷、箱根、新居とともに当時天下の4大関所と称していたものである。
当初から木曾地方の代官山村氏が代々その守備に任じ明治2年6月までその機能を果たしてきた。
この関所は、各藩堺等に見られる番所の類と機能を異にし、特に「女改め」と「鉄砲改め」とに重点が置かれていた。
中山道が東海道とともに当時江戸と京都を結ぶ幹線の道路とされていたことや「女改め」の手形の本紙はこの関所に留め下り(江戸へ向うもの)のものについては、ここから碓氷関所へ「書替手形」を発行する、とされていたことなどからみて、この関所が、徳川幕府による交通政策上、いかに重大視されていたかがうかがわれる。。廃関後、関所の諸施設は、全部取り壊されてしまったので、当時の面影はほとんどとどめていなかったが、昭和50年、夏に行われた発掘調査の結果、寛文年間(1661)〜(1670)頃のものと推定される。
関所古絵図にみられる
1、御関所敷地 25間三尺
1、敷地是より大道北の柵迄16間
1、御関所口5間 奥行5間
1、下番所間口3間 奥行6間
1、東門外に駒寄 15間1尺5寸
1、捨門(西門)外に柵7間5尺その先端駒寄4間4尺
1、南側根の井山迄東門のつづき柵を39間4尺
の規模にわたる、関所遺構の全容を確認することができた。
これを史跡公園として整備保存する計画が立てられ、史跡公園に隣接して、昭和52年4月27日、当時の御番所建物を再現、関所資料館が完成し、昭和54年3月13日文部省より国史跡として指定された。
平成2年史跡内の民地の公有化にともない第2次発掘調査を実施し史跡保存、環境整備の一環として平成4年度に東西両門と木柵および武家屋敷跡の公園化復元修景整備をしたものである。
木曾福島町教育委員会
|
|
| 12:20 |
福島本陣跡
木曽町木曽 福島支所
|
| |
 |
38景 広重
木曽海道六拾九次之内 福し満 |
|
|
福島宿 本陣
福島宿は木曾谷の中心地として栄え、宿泊客で賑わっておりました。
福島宿本陣は、徳川幕府による中山道69次の宿駅制度確立とともに整備され、明治3年(1870)の宿駅制度廃止まで続きました。
大名等高貴な御方の宿泊のために設けられた宿を本陣といい、現在の役場及び役場前広場がその敷地で150坪の大きな旅館でした。敷地の入り口に門があり番所もあって警護され、玄関から左奥に4つの部屋がつながってあり、その奥に殿様が泊まる上段の間がありました。上段の間には、専用の広い便所や6畳ほどの御湯殿もありました。中央に勝手と廊下があり両側にそれぞれ二通りの部屋が並んでいる堂々たる宿でした。
諸大名が泊まるときには、門前に「誰様御本陣」と立礼を掲げ、玄関に幕を張りました。また夜になると高張り提灯を立てたといいます
本陣は明治半ばに壊され、明治39年に役場庁舎が建てられましたが、昭和2年の福島大火で焼失し、その後現在の庁舎が建てられております。
福島宿本陣 白木十郎左衛門 |
|
|
 |
|
<福島宿本陣>
|
|
|
高瀬家資料館
ここ高瀬家は、文豪島崎藤村の姉”園”の嫁ぎ先で、作品「家」のモデルとして知られています。”園”は作品「家」に登場する”お種”であり又「夜明け前」の”お粂”です。
高瀬家は、藤原氏の出で、菊池肥後守則澄を祖としその後高瀬と改め、則澄より4代目にあたる高瀬四郎兵衛武浄が大阪冬の陣のろ木曾福島に入りその子八右衛門武声が山村代官に仕えて以後幕末まで山村家の家臣として代々お側役、鉄砲術指南役、勘定役として仕えました。
大火により土蔵、庭園の一部を残し焼失してものの旧家の風情を今も覗うことができます。
島崎父さんに関わる史料と関所番や生活に関わる道具類が所蔵、展示されています 木曽町 |
|
|
沓掛一里塚 上松町史跡指定
この一里塚は上松の北の入口である沓掛にあります。昔は中山道の両側にありましたが、明治43年(1910年)中央本線の鉄道施設工事の折に、山側(西側)の一基は取り壊され川側(東側)の一基が残っています。上松で原型をとどめているのは、この一基だけで貴重な存在です。
この一里塚の位置は
京へ66里
江戸より71里です。 |
|
| 12:20 |
沼田野
|
|
ここは沼田野(ぬたの)です
沼田は湿地を意味する地名として全国的に分布している。享保9年(1724)の「岩郷村家数書上帳」には「家数7軒」とある。沼田野の木曽川べりには、木曾氏の墓地と伝承されている御墓島という地字があり、戦後農地解放までは長福寺の寺領であった。
水田の一角に文化年間(1804〜1817)建立の「朝日将軍苗*(=漢字不明)木曾弾正小弼伊予守義元公墓」と刻んだ石碑が建っている。
木曾福島町史より |
|
| 13:45 |
御嶽山遥拝所 |
| 14:00 |
木曽の桟(かけはし)
|
| 14:45 |
上松宿入口
十王橋交差点
|
| |
 |
39景 広重
木曽海道六拾九次之内 上ヶ松 |
|
|
本町一里塚跡
江戸時代には、本町(枡形の町並み)の角を曲がり、中町に入ったところの左右に2基の一里塚がありました。(碑より30メートル下方)。一里塚は土を丸く山に盛って造られているので、南に向って右側を下の山と呼び、左側を上の山と呼んでいました。この一里塚の位置は
京へ65里
江戸より72里です。
残念ながら現存しません。 |
|
|
 |
|
<上松宿>
|
|
| 14:55 |
JR上松駅着
この日まで連続3日間の中山道歩きは終わった。一旦、東京へ帰ることにする。
気温27度、暑い。快適な気候に恵まれた。
JR上松=薮原 400円
|
| 15:50 |
JR薮原駅発
同行のNさんの車で東京へ向け出発。大型連休中の為、中央高速は深夜まで渋滞する。
八王子から横横道路で戸塚へ向かう。
途中、道の駅でトマトと夏みかんを購入。
甲府が近くなって行列が出来ているトンカツ屋に寄る。
30分程待って夕食1,550円。これが馬鹿でかいトンカツ。皿からはみ出している。美味いことは美味いんだが・・・・とにかくデカイ、デカ過ぎる!
グルメで美食家のうちのカミさんに食べさせたいな。
|
03:00
(5月5日) |
戸塚着
|