| 07:15 |
野尻フォレスパ木曽発
曇り、気温6℃。寒い
前方の中央アルプスが冠雪している。寒い。 |
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| 07:30 |
JR野尻駅
駅前に車を駐車
ここから今日は歩き始める。ファイトーッ!
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| <野尻宿>現在も旅館として営業している |
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41景 渓斎渓斎英泉
木曽路驛 野尻 伊奈川橋遠景
須原宿から南へ行くと伊奈川に架かる伊奈橋に出る。この伊奈川橋は、激流に押し流される大石のために杭が打てず、両側に石垣を設け、せり出して掛けた長さ26メートルの反橋である。白い波頭が急流を印象的に表現している。薄墨で描かれた階段を上り、橋を渡ると「岩出観音堂」がある。馬頭観音が祀られていて、旅の安全を願う旅人を、馬主たちの信仰を集めていた。
◎野尻宿 長野県木曽郡大桑村
須原宿から野尻宿までは約7・2キロ。天保14年の人口は986人、総戸数108軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠19軒であった。木曽11宿の中で、奈良井宿に次ぐ長さがある。外敵を塞ぐためにくねらせた「七曲り」の町並みが特徴である。檜の産地として栄えた宿場であるが、度重なる火災で、現在昔の面影は少なく、わずかに格子窓をつけた低い家並みが残るのみである。 |
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野尻宿
野尻宿は、現在の大桑村の南側にあって、木曽川左岸段丘上の集落地である。
京方八人石、江戸から関山をもって、それぞれ三留野宿・須原宿の境としていた。町部は上町・本町・横町・荒田(現在は新田)となっており上町と、新田の端に「はずれ」という屋号をもつ家がある。
宿の長さは6町3尺。家数は108軒。本陣問屋森徳左衛門。脇本陣庄屋木戸彦左衛門。旅籠の数は19軒であった。本町・横町を鍋底に江戸方の上町と、京方の新田に向かって坂道となり曲がりくねっている。これは「野尻の七曲り」といって他の宿場に見られる「枡形」に代わるものとして注目をひくところである。 |
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| 07:35 |
野尻宿はずれ |
| 08:20 |
南木曽(なぎそ)町に入る |
| 08:30 |
熊野神社
十二兼北交差点
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| 08:40 |
JR十二兼駅 |
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| <ここで二つの川が合流している。右が木曽川> |
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| 08:50 |
柿其(かきぞの)橋
ここで二つの川が合流している。美しい渓谷美をみせている
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| <木曾の春はいっぺんに・ドサッとやってくる・・・・> |
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| 09:00 |
国道に合流 |
| 09:20 |
与川入り口
国道からはるか眼下にある木曽川に向けて豪快なオシッコ。男に生まれて良かった!途中で霧となる。
エーと、ここは上水道の取水するところだそうだ。ご免なさい、ギフ市民の皆様。
この付近何も見るべきものがない。オシッコしてただ歩くだけ。 |
| 09:45 |
JR南木曽駅入り口
役場入り口
自動車が往来する国道から離れる。ホッとする
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南木曽町史跡かぶと観音
かぶと観音は、平安末期の源氏の武将木曽義仲が、以仁王や源頼政の平家打倒の呼び掛けに応じ、治承4年(1180)に挙兵して北陸道を京都に向かう際、木曽谷の南の押さえとして妻籠城を築き、その鬼門に当たる神戸に祠を建て、義仲の兜の八幡座の観音像を祠ったのがおこりと伝えられています。境内には、義仲が弓を引くのに邪魔になるので、巴御前が袖を振って倒した「袖振りの松」や、義仲が腰かけたという「腰掛石」が残されています。
・・・・以下省略
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| 10:23 |
園原先生の碑 |
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| 園原先生碑
園原古富は、三留野村和合の東山神社の神官の家に元禄16年(1703)に生まれ、長じて京都に遊学し、吉田兼敬(神○○)に師事して神学を学び、「神学則」を著わすまでになった。その後も「木曽古道記」「神心問答」「御坂越記」「木曽名物記」などを著して、尾張・美濃・信濃に門人多数を擁する大学者となった。
この碑は彼の死後5年目の天明元年(1781)に、学徳を慕う門人たちによって建立されたもので、碑文は当時有数の学者である松平君山が書いている。なお、国原家住宅(非公開)は、江戸時代中期の神官の家の姿を伝える貴重なものである。
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巴御前の袖振りの松
平安末期の武将木曽義仲と巴御前の伝承の残る松だったが、平成21年に松食い虫により立ち枯れしたため残念ながら伐採となった。
「袖振りの松」は義仲が弓を引こうとした際に邪魔になった松を巴御前が袖を振って横倒しにしたが、また芽が出て何代目かの松と伝えられていた。
この度巴御前が晩年を過ごした富山県南栃市福光の「義仲巴ら勇士讃える会」と縁があり、「巴塚の松」として親しまれている樹齢750年程の黒松の実生苗木を譲り受けて植樹することとなった。
木曽義仲の歴史ロマンに想いを馳せるとともに義仲が結んだ縁を大切にしながら両地域の発展を願う次第である。
平成22年9月吉日 南木曽町教育委員会
神戸神親会 |
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| 10:40 |
そでふりの松
今は代わりの小さな松が成長している。 |
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42景 歌川広重
木曽海道六拾九次之内 三渡野
街道を直接の課題にせず、少し離れた畑地を描いている。風にそよぐ麦の間で、農夫は煙草をくわえて草むしりをする。農夫の女房は昼飯を入れた飯台を頭に載せ、畦道を行く。旅人が一服しながら野良仕事を眺めている。丘の上に立つ鳥居は最も古い形の神明鳥居である。この奥にあるのは天照大神をまつる神明社であろうか。鳥居脇の桃の木は満開で、木曽路に春が訪れる。
◎三留野宿 長野県木曽郡南木曽町
野尻宿から三渡野宿までは約10.1キロ。天保14年の人口は594人、総戸数77軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠32軒であった。木曽氏の屋敷があり「御殿」と呼ばれていたことから付いた地名。このあたりは木曽路の中で最も危険な道とされ、貝原益軒は『木曽路の記』で「殊更、野尻とみととの間、尤もあやうき路なり」と書いている。 |
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| 11:00 |
追分 |
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| 11:05 |
妻籠城跡 |
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妻籠城址(町史跡)
妻籠城は、いつ誰によって築かれたか明らかではないが、室町中期には築城されていたと推察される。妻籠城は、天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いの折、ここも戦場となり、木曽義昌の家臣山村甚平衛良勝(=たかかつ)が籠って、徳川家康配下の菅沼、保科らの軍勢を退けている。また慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの時も、軍勢がはいってここを固めたが、元和2年(1616)には廃城となった。妻籠城は典型的な山城で、空堀・帯曲輪、さらには南木曽岳にのびる妻の神土塁という土塁も備えており、規模の大きな構えであったことが知れる。
主郭へは徒歩十分で、北は木曽川と遠く駒ケ岳を望み、南は妻籠宿から馬籠峠まで一望できる
枡形の跡(町史跡)
江戸時代のはじめに制定された宿場は、一種の城塞の役割も持たされて整備され、宿場の出入り口には必ず枡形が設けられた。宿場の枡形とは、街道を2度直角に曲げ、外敵が侵入しにくいようにしたものである。
この妻籠宿の枡形は、明治32年から大平街道の改修工事により、その上部斜面をロり割られているが、よく当時の姿をつたえてくれている、 |
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| 11:30 |
脇本陣奥谷
ここから大量の観光客が湧き出した。
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寺下地区の復原保存工事
妻籠宿は全国でも初めての集落保存に着手し、長野県の明治百年記念事業として、昭和43年から45年にかけて寺下地区を中心に26戸の解体復元工事等を実施した。これによって江戸時代の面影をそのまま残すことができた。妻籠宿は、全国に注目されるに至り、51年9月4日国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。(面積1,245.4ヘクタール)現在この地区には、町の有形文化財に指定されている、上嵯峨屋、下嵯峨屋をはじめ、馬屋跡(現在地)を一般に公開している。
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| 11:35 |
本陣 |
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| <妻籠宿本陣跡> |
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43景 広重
木曽海道六拾九次之内 妻籠
七折り八折りの峠道。街道上に描かれた緑や墨の横線は道が平坦でなく、歩きにくい凸凹道であることを現わしている。峠道を何人もの旅人が行き交う。天秤を担いだ人足、白装束の六十六部は仏像を入れた逗子を背負い難儀そうである。蓙(=ござ)と風呂敷包みを背負った老人の旅人も峠を越える。三渡野からきた二人連れが峠にさしかかる。右上方の山道には、芝を担ぎ家路を急ぐ農夫が見える。
◎妻籠宿 長野県木曽郡木曽町
三渡野宿から妻籠宿までは約5・6キロ。天保14年の人口は418人、総戸数83軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠31軒であった。この地は伊奈路との分岐点にあたり、光徳寺の門前町として発展した。三渡野から妻籠への途中、小さな峠があり、峠の西の木曽川を臨んだ小峰に妻籠城址がある。戦国期の山城であったが、大阪夏の陣の後廃城となった。このあたりには古戦場跡がある。 |
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| 12:00 |
妻籠宿をスタート |
| 12:05 |
石柱道標 |
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立場茶屋
立場茶屋は宿と宿の中間にあって、旅人に休息と利便を与えた。一石栃は妻籠宿と馬籠宿の中間に位置し、往時は7軒ほどの家があって栄えていたが、今ではこの牧野家住宅1軒だけになっている。
牧野家住宅は、江戸時代後期の建物で、当初は間口が10間半もある大きなものであったが、現在は南側が切り取られて8間に縮小されている。 |
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| 12:15 |
大妻籠 |
| 12:35 |
倉科祖霊社
この付近から小雨が降り出す。
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| 13:05 |
一石栃の白木改番所跡 |
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一石栃の白木改番所跡
白木改番所は、木曽から移出される木材を取締るために設けられたもので、檜の小枝に至るまで、許可を示す刻印を焼いてあるかどうかを調べるほど厳重であったといわれている。木曽の森林資源は、嶺主たる尾張藩にとって、それほど重要なものだったのである。
番所は最初下り谷に設置されていたが、蛇抜け(=じゃぬけ)によってここ一石栃に移転した。「木曽谷諸事覚書」には、寛延2年(1749)のことと記されている。
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| 13:22 |
馬籠峠頂上
標高801m、ここが長野と岐阜の県境。ここから岐阜県に入る。
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| 13:38 |
十返舎一九の碑 |
| 14:00 |
馬籠上陣場 |
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馬籠宿
木曽11宿のうち最も南の宿場で、東に恵那山を望みつつ南西の美濃平野に向かって下る坂道沿いの集落です。昔ながらの枡形と復元された家並みや水車などが宿場風情を醸し出しており、往時の宿場のにぎわいや暮らしを伝える「馬籠脇本陣資料館」もあります。馬籠は文豪・島崎藤村の生誕地で、本陣跡の「藤村記念館」や「清水屋資料館」には、自筆原稿やゆかりの品々が数多く収蔵・展示されています。少し足をのばせば、菩提寺の「永昌寺」もあります。
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44景 渓斎英泉
木曽街道 馬籠驛 峠ヨリ遠望之圖
馬籠峠から南を見下ろした図。下に見える家々は峠村である。英泉はこの峠より妻籠寄りに下った谷間にある男滝と女滝を、この位置まで引き上げて描いた。手前は空の山駕篭を担いだ駕篭かき。相棒はかがんで緩んだ草履の紐を締め直している。風呂敷包みを背負い、村を見下ろすのは行商人であろうか。滝の先の山道を、牛方が牛に横乗りして行く。
◎馬籠宿 岐阜県中津川市
妻籠宿から馬籠宿までは約7.9キロ。天保14年の人口は717人、総戸数69軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠18軒であった。馬籠宿は文豪島崎藤村誕生の地である。小説「夜明け前」はここを舞台に書かれた。旧本陣跡に「藤村記念館」が建てられている。妻籠から中山道を進むと、新明辺りから上り坂になり海抜800メートルの馬籠峠にさしかかる。 |
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| 14:10 |
馬籠高札場 |
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| 14:20 |
藤村記念館 |
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木曽馬籠・清水屋資料館
清水屋は島崎藤村の作品「嵐」に出てくる「森さん」(原一平)の家です。
この清水屋には藤村の書簡、掛け軸、写真などをはじめ江戸時代に宿場として栄えたころよりの文書、書画(尾形光琳、土佐光則、富岡鉄○)九谷、伊万里、唐津などの陶磁器、輪島の漆器類をはじめ宿場「馬籠」の生活文化史ともいえる数々の遺品が2階の資料館に展示してあります。 機械文明の流れの中にある今日、遠い昔のわたし達の先祖が残してくれた素朴な故郷の心に深い郷愁を感じます。
馬籠を訪れた思い出にお立寄り下さい
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| 14:30 |
阿弥陀堂 |
| 14:40 |
諏訪神社 |
| 14:55 |
正岡子規の句碑 |
| 15:00 |
新茶屋一里塚
「是より北 木曽」
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「是より北 木曽路」の碑
ここは長野県と岐阜県の境、木曽路の入り口にもあたる。昭和15年(1940)7月、当時68歳だった藤村が、地元の要請によって揮毫したものである。藤村は60歳ごろから自らを「老人」と記すようになった。
この碑は藤村記念館の落成10周年を記念して、昭和32年(1957)11月に藤村記念館建設の実行母体である「ふるさと友の会」によって建立された。
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| 15:15 |
落合の石畳 |
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落合石畳遊歩道(全長120m)
平成17年2月、当市は恵北地区6町村と長野県山口村との越県合併により新中津川市として誕生し、中山道の宿場も中津川宿落合宿、馬籠宿の三宿場となりました。
この場所から旧長野県境までの約120m間を合併記念事業により、落合石畳遊歩道(新茶屋遊歩道)として整備いたしました。
平成17年10月 中津川市
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| 15:25 |
山中薬師 |
| 15:40 |
高札場跡 |
| 15:45 |
上町の常夜燈 |
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上町の常夜燈
落合宿には昔、防犯を兼ね各戸順廻りの燈明番により火の災難から救われようと祈願しながら、ほのかな明かりがともされていた4基の常夜燈がありました。
現在は4基とも移設され、この寛政4年(1792)に建立された上町の立派な常夜燈はすぐ前の道の中央にあったといわれています。あとの3基のうち1基は善昌寺の境内,2基はおがらん公園の愛宕社に移されています。文化年間(18世紀はじめ)に2回も大火に見舞われたことは、落合宿に多くの常夜燈があったことが要因と考えられます。
中津川市・中津川市観光協会
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| 15:47 |
脇本陣 |
| 15:50 |
落合宿本陣跡
直ぐ近くに大釜がある。
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45景 歌川広重
木曽海道六拾九次之内 落合
十曲峠から落合川を渡る落合橋、その先の落合宿が描かれている。落合宿を早立ちした大名行列が坂を下り橋にかかる。弓持ちと鉄砲持ちが先頭を切り、両掛を担いだ2人の中間の後ろの駕篭に大名が乗っている。駕篭の後ろはやはり両掛を担いだ中間、槍、竹馬を担いだ中間と続く。行列が通り過ぎた後、ずっと向こうに一般の旅人が見える。高く見える山は恵那山である。
◎落合宿 岐阜県中津川市
馬籠宿から落合宿までは約4.5キロ。天保14年の人口は370人、総戸数75軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠14軒であった。十曲峠を下った新茶屋部落は信州と美濃の国境になる。その先の落合橋を渡ると落合宿である。この宿場は映画「十三人の刺客」の戦場に選ばれた。落合宿は古代からの重要な宿場で、豊臣秀吉が草津に湯治に行く途中、ここに一泊している。 |
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落合宿助け合い大釜(由来)
文久元年(1861)、皇女和宮の大通行時には、4日間で延べ約2万6千人余が落合宿を通りました。当時、暖かいおもてなしをするため、各家の竈は引きも切らず炊き続けられたといわれてきました。
ここに展示してある「大釜」は「寒天」の原料(天草)を煮る時に使用されたもので、容量は1,000リットルを超えます。(口径約1・54m)
日本の食文化を支えてきたこの煮炊き道具を後世に伝え遺すと共に、この釜を今に再利用するため、「落合宿助け合い大釜」と命名し、様々なイベントに活用しています。
落合宿祭りには「千人キノコ汁」を作り、多くの方々に振舞う「ふれあい」活動を推進してきましたが、この活動は落合宿の人々が古くから旅人に対して礼節を重んじてきたことに由来します。
「大釜」と共に手押しポンプを備えた井戸も設置され、この大釜と井戸は緊急時に活用できると共に、防災意識を高めることにも役立っています。
平成17年3月・落合まちづくり推進協議会
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善昌寺
落合宿は中山道69次の内、江戸から数えて44番目の宿である。
幕末頃の「中山道宿村大概帳」の記録では、宿の長さは約390m、宿内の家数は75軒であった。ここ下町にある曹洞宗の善昌寺は慶長5年(1600)の創建といわれ、武儀郡関村(関市)にある龍泰寺の末寺である。明治24年の道路改修工事で寺の一部が道路となり、寺は東側へ移設された。境内にあった松はそのまま残され、現在「路上の松」と称されている。
中津川市・中津川市観光協会
善昌寺の「門冠の松」
この松は、創建当時の山門を覆っていたころから門冠の松と呼ばれている。
道路新設拡幅・寺の移転などで根が痛めつけられて来たのか、凡そ450年の年を経ているといわれているが、さほど大きくなく、宿場の入口には格好の風采を添えている。
落合まちづくり推進協議会
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| 15:52 |
松ノ木
中津川の宿に入ってから道に迷う。
途中で地元の親切な婦人に、同乗を勧められ中津川駅まで送ってもらう。
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46景-2 歌川広重
木曽海道六拾九次之内 中津川(雨の中津川)
「雨の中津川」の図は現存が確認されている枚数がきわめて少なく、この「望月義也・木曽街道六拾九次コレクション」を含め、僅か9点とされる。広重の描く雨の絵には傑作が多い。この絵も「木曽街道六拾九次」中五本の指に入る傑作。広重は遠景に恵那山を、近景に街道沿いの家並みを配した構図をとっている。ここは宿を出て西に向かう宿場のはずれ、山の見え方から千旦林を過ぎた坂本集落辺りであろうと説がある。坂本には図のような、灌漑用の溜池が多くあった。風はなく、垂直にしとしとと降る雨の街道を、青色の桐油を塗った和紙(桐油紙)で作った雨合羽を着た3人の武士が行く。先頭の武士が主人で、後ろの2人は供である。1人は雨避けに荷を覆った竹馬(竹で作った4本足の篭)を担ぎ、1人は槍を担いでいる。明りのついた立場茶屋に客を見送る女が見え、その前で、馬子と荷主が雨支度をする。溜池では、ここに生息する白鷺が餌を漁っている。 |
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| 16:40 |
JR中津川駅
明日の天気予報は「雨」、予定より1日早く今晩中に東京へ引き上げることにする。
45,231歩
9時間10分
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| 16:54 |
中津川駅発 |
| 17:25 |
JR野尻宿駅帰着
ここからNさんの車で岡谷経由で東京に戻る。途中、下諏訪で今回も「児湯温泉」に入る。
甲州街道の途中のSAで仮眠、東京へ午前6時到着 |