【中山道】

中山道は日本橋から板橋、大宮、熊谷、高崎を経て碓氷峠を越えて信濃国へ軽井沢、岩村田、和田峠、下諏訪、奈良井、鳥居峠、木曽福島、妻籠・馬籠を経て美濃国へ、さらに加納、赤坂、関ヶ原をすぎて近江国の草津で東海道に合流し京都に至る。全長は約533kmで69の宿場がある。
 東海道と並び江戸と京都を結ぶ大幹線で、芭蕉が往来し、剣客や幕末の志士が駆け抜け、皇女和宮の3万人近い大行列が25日間かけて江戸に下ったという。女の人は大井川(徒歩)をはじめ、浜名の渡し、桑名の渡しといった水難所の多い東海道を嫌っていたので中山道は姫街道とも呼ばれている。
 東海道と同じ江戸時代の五街道の一つ。前身を東山道とも呼んで古代から中世にかけて畿内と中部・奥州を結ぶ重要な街道であった。

「街道ウォーカー」(=右のイラスト)と一緒に歩いてみませんか。
現在、北国街道を進行中。(2013-02-28)

hennaojisan
第17日目
中津川宿〜大井〜大湫宿〜細久手(大黒屋)

月 日; 2011年10月16、17日
区 間; 中津川=細久手
時 間; 11時間30分、29.4km
費 円;

6,290円

歩 数; 55,443歩

21:25 10月16日(日)
自宅出発
京王バスに乗る。他に乗客は無い。こんな時間に自宅を出発するには大いなる決断を必要とする。 悲壮感さえただよう。
20:30まではダンスのレッスンを受けた。少々疲労感が残る。出来れば直ぐにベッドに入りたい。
今日の昼間は気温が29度、この時間でも夏の服装で出かける。
23:20 南新宿バスターミナル発。JR関東バス・可児車庫行き。バス代は新宿=可児間・4470円。
04:55

10月17日(月)
JR中津川駅
車中は薬のお陰でぐっすり眠ることができた。バスを降りたら少々フラフラする。
寒くて暗い。5時になって駅舎に電気がついた。まずは熱い缶コーヒーを飲む。ウメーェ!

05:25

新町交差点
ここで旧中山道が交差している。前回の終着点。
今日はここからスタート、ファイトーッ!

05:35  中津川宿 往来庭
この時間、未だ薄暗くて寒い。出来れば歩くのを止めて休みたい。
 
17-nakasendo

中山道69次のうち、江戸から数えて45番目に当たるのが中津川宿。周辺の商業の中心地として栄えていました。
町並みは長さ10町7間(約1,100m)、道幅3〜4間(5.4〜7.2m)で、東から茶屋坂、淀川町、新町、本町、下町と続き、宿の中心あたりを四ツ目川が流れています。町の中枢に当たる本町には本陣・脇本陣と2軒の問屋、庄屋があり、洪水にあわないように、地形的に小高いところとなっていました。また、旅籠屋は大小29軒あったとされています。

   中津川宿本陣

本陣の入口には5軒続きの長屋が建ち、その中央の1軒分が門となっていた。門右手の1軒分は問屋場で、門をくぐると表庭があり、その奥に建坪283坪の本陣があった。
表庭の右手に長屋があり、その奥が厩(馬屋)になっており、表門の正面は内玄関と縁3間半の荷置場があった。その奥が台所、貴人一行自らが調理した所や御膳所があった。その奥が勝手向きで、勝手の諸施設や多くの部屋もあった。
表庭の左手に中門があり、その右に番所も置かれ、庭は高塀で囲まれていた。玄関の奥には玄関の間、ついで三の間・次の間・中の間・上段の間へと続いた。上段の間は9畳で、床の間を設け、備後表で大紋縁付きの上畳が2畳おかれていた。上段の間には湯殿、上がり場、雪隠などがついていた。裏にも庭となり高塀で囲われ、御退道の門戸があり、非常の時は近くの大泉寺へ避難できた。

 
shukuba

    46景-2 歌川広重
 木曽海道六拾九次之内 中津川(雨の中津川)

 「雨の中津川」の図は現存が確認されている枚数がきわめて少なく、この「望月義也・木曽街道六拾九次コレクション」を含め、僅か9点とされる。広重の描く雨の絵には傑作が多い。この絵も「木曽街道六拾九次」中五本の指に入る傑作。広重は遠景に恵那山を、近景に街道沿いの家並みを配した構図をとっている。ここは宿を出て西に向かう宿場のはずれ、山の見え方から千旦林を過ぎた坂本集落辺りであろうと説がある。坂本には図のような、灌漑用の溜池が多くあった。風はなく、垂直にしとしとと降る雨の街道を、青色の桐油を塗った和紙(桐油紙)で作った雨合羽を着た3人の武士が行く。先頭の武士が主人で、後ろの2人は供である。1人は雨避けに荷を覆った竹馬(竹で作った4本足の篭)を担ぎ、1人は槍を担いでいる。明りのついた立場茶屋に客を見送る女が見え、その前で、馬子と荷主が雨支度をする。溜池では、ここに生息する白鷺が餌を漁っている。

05:37 四っ目川橋
恵那山の方からかなりの水流がある。
 
Mystle
「栗は栗の味で・・・・」って、右から左に訳の判らんことがことが書いてある。
どうやら羊羹の店らしい、この時間未だ開店していない。
05:45 中津川宿資料館・旧本陣跡(現在は駐車場になっている)

中津川村庄屋跡
木造のりっぱな建屋が残っている。

 

  中津川村庄屋居宅

屋根に取り付けられた「卯建」があるこの建物は、江戸時代は中津川村の庄屋を勤めた肥田家が所持し、構造体の部分は江戸中期にさかのぼると想定される。
肥田家は代々「九郎兵衛」と名乗り、屋号は田丸屋といい、島崎藤村の「夜明け前」には小野三郎兵衛として登場している。
江戸の後期から旅籠(旅館)を経営し、明治26年(1893)には、恵那山を登ったウェストンが宿泊されている。
明治30年代になると曽我家がこの建物を譲り受け、中津川では最初に開業した医院となった。
以後、曽我家が大切に建物の保存管理に務められ、現在市有形文化財(建造物)に指定されている。
                中津川市観光協会

荘園 庄屋

  旧庄屋屋敷

この中津川村庄屋屋敷の卯建を待つ風格は往時を偲ばせ、本町かいわいでは当時の面影を最もよく残している建物です。

 卯建(うだつ)

卯建とは火事の際、類焼を防ぐための防火壁で、隣家との境に高い壁を設け、その上端に小屋根を置きました。

05:55 下町界隈
常夜燈がある。ようやく明るくなってきた。
昔はこの辺が宿場の賑わった所らしいが、この時間は未だ町は眠っている。
 

  下町かいわい

中津川宿の西口にあたるここ下町から、広重が画いた「中津川」(旧・川上川)までの中山道の道すじは現在はなく、昔の姿をほとんどとどめていません。
時の道中奉行により、文化3年(1806)に完成した「分間延絵図」には見られないが、かってこのあたりにも高札場があったと伝えられています。
中津川市教育委員会

05:58 中津川橋
06:15 東光山 福昌寺
 

 

寺
たいそう立派なお寺だ

06:17 中津川市立西小学校
ここからしばらく中山道を見失う
07:25 旧中山道に戻る
 
はな かりん
花梨が美味そうだが、ちょっと食べる気がしない

 

07:35 中平神明神社
子供たちが集団登校している。片道2−3kmは歩くという。
とても元気に挨拶をしてくれた。
 
集団登校 柿 コスモス
07:50

坂本立場跡

07:55 坂本観音様
  17-nakasendo
<坂本観音様>
 
茄子川立場跡 茄子川村
07:58

   茄子川村の高札場
   茄子川
江戸時代初期の茄子川村は、御三家筆頭の尾張徳川家・その給人の山村氏(木曾方)・千村氏(久々利方)・それに旗本馬場氏ら8名の入相支配地であり、村高1368石余は、この付近でも大きな村の1つであった。
中山道は村内を東西に縦貫し、中町通りの西はずれにある常夜燈は、安永5年(1776)に建てられ「是よりあきはみち」と刻まれている。この常夜燈が、遠州秋葉道との分岐点となっていた。
ここから、中津川宿まで1里23町11間(約6.4km)、大井宿までは1里(約4km)の距離であった。両宿間2里半6町(約10・5km)、中津川、落合両宿間1里弱とくらべると、長丁場のため、ここに茄子川御小休所(篠原家)がおかれ、大名,姫宮通行などの休憩所の役割を果たした。
中津川市教育委員会

妻籠宿あたりからやたら高札場が復活している

08:00 尾州白木番所跡
 
番所跡
08:05 篠原家
茄子川小休所 篠原家
 
篠原家 茄子川村
篠原家は、加賀前田家の重臣篠原一孝の子、弥右衛門が、17世紀の初め頃当地に移り住んだことに由来します。
篠原家の当主は代々「長八郎」と名乗り、茄子川村の村方役人、尾張領の庄屋、戸長等を歴代にわたり務めていました。
ここから中津川宿へは1里23町(約6・4km)、大井宿までは1里(約4km)の距離があり、家の脇には中山道から遠州秋葉道への分岐点を示す大燈籠が置かれています。
篠原家は中山道通行時の休泊施設として本陣や脇本陣と同様な役割をにない、様々な文人、墨客の足跡も残されています。
和宮、明治天皇が御小休した建物が現存し、休憩した部屋、厠、表門等は当時のままに保存されています。
08:10 茄子川説明板
 
この番所がいつ設けられたかは詳しい記録はないが、尾張藩が享保16年(1731)茄子川下新井に「川並番所」を設置した記録があるのでこれに対応して設けられたものであろう。
寛政元年(1789)の「中山道筋路之記」には「番所錦織(にしこうり)役所支配」とあります。尾張藩の直轄地であった木曾山から伐採した材木の輸送は重量材(丸太類)は木曾川を利用して流送し、軽量材の槫木(くれ)、土居等白木類は牛、馬による駄送の方法が採られていました。
 木曽川筋には各所に「川番所」が、中山道には「白木改番所」が設けられ、抜け荷の監視と量目の点検など厳しい取締りが行われていました。
これ等の施設は明治4年(1871)廃藩置県の処置によって廃止されました。
  平成6年4月15日  坂本地区文化遺産保存会
08:25 中山道の石碑
中津川市から恵那市に入る。
大井宿まで2.3km
 
中山道
08:35 社宮司の話
08:40

濁川条々
とても清んだきれいな水

   岡瀬沢と濁川
 私たちの岡瀬沢は恵那市大井町の東部一帯をしめる農家と住宅の多い地域です。
 この岡瀬沢が一つの集落として独立したのは江戸時代のはじめ頃といわれています。
それ以来、岡瀬沢を東西につらぬく中山道と保古山山系から流下する濁川によって、生活と生産と維持し、発展させてきました。
濁川は約4km(一級河川の部分のみ)の小河川ですが、流域面積約7・7キロ平方を占めていて、私たちにとっては、かけがえのない大切な川です、この川の流れと水質に今こそ関心を高め、守っていきたいものです。
08:50 甚平坂
08:55

神社
ここから街道は平坦になる

09:00

関戸一里塚跡
それらしい塚は全く見当たらない

09:10

中央高速を横断
菅原神社
ここから大井宿
JR大井駅で弁当を飲み物を購入する。これから先の街道筋にはお店が無いらしい。

09:15 寺坂
上宿の石仏群
 
馬頭観音 石仏群

  中山道大井宿・上宿石仏群

昔の人は神仏に病気の治ることを祈ったり,村境に地蔵菩薩や塞神を立てて、病魔が村へ入らないように願うことが多かった。
ここは上宿で大井宿を一望できる位置である。そこで宿の人達はここを宿場外れとして数多くの石仏を立て、病気平癒とともに悪病や悪人の侵入を防ぎ、宿内の無事息災を祈ったのである。
特にここにある痰切地蔵は「がいき(風邪)をひいたらたんきり地蔵さまを拝め」といい昔から多くの参拝者があった。
一番左側に立つ碑の徳本は、紀州(和歌山県)日高で宝暦8年(1758)に生まれ、文化・文政’(1804〜1830)の頃この地方に来て念仏教化を行い、多くの信者を得た高僧である。
恵那市・恵那市教育委員会

09:20

高札場
向かい側にあるはずの本陣が見当たらない。

09:25 延喜寺
枡形
 
延喜寺
09:30

大井宿本陣跡

大井宿
 
shukuba

    47景 歌川広重
 木曽海道六拾九次之内 大井

 雪の降りしきる中、2組の商人と馬子と馬が黙々と甚平坂を上って行く。商人も馬子も頭を下げて寒さに耐えている。重量制限いっぱいの40貫(150キロ)を背負って峠を越える背の低い馬は木曽駒であろう。馬上の旅人は木綿の合羽で身を包んでいるが、馬子の1人はご座かけ、1人は桐油紙の合羽である。遠く木曽駒ヶ岳の連山、街道脇の松の木、降り積もった雪で白一色である。

 ◎大井宿 岐阜県恵那市
 中津川宿から大井宿までは約9.8キロ。天保14年の人口は、466人、総戸数110軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠41軒であった。ここ大井で木曽路は美濃平野に入る。現在の恵那市。この地は西行法師ゆかりの地で、長国寺には「西行法師葬送之寺」の石碑が建つ。西行塚を過ぎると西行坂、みたらしの坂、うつ木坂など坂が多く、道も狭くなり起伏に富んだ地形が続く。

09:33 宿役人の家
09:35 大井宿
下問屋場
(脇本陣・高木家跡)
09:38 大井村庄屋古屋家
すごいりっぱな家
 
大井宿
09:40 市神神社
09:42 阿木川を渡る
09:45 恵那駅
10:05

中野村庄屋の家

10:20

上町観音堂

10:23 西行硯水公園
 
西行湧水
昔は貴重な飲み水だったに違いない。
10:30

中央線(単線)を渡り、ここからハイキングコースを行く

10:35 十三峠入口
 
十三峠 十三峠

見事な石畳が続く

10:40

西行塚
ここから石畳の登りが延々と続く

   西行塚
 ここから東、1.3km先に西行塚があります。西行法師は、大井で死んだという伝説が古くからあり、中山道すじに室町時代の供養塔だといわれる五輪の塔があります。また西行葬送の寺といわれる大井町の長国寺には西行の最後の模様をくわしく記した慶長19年(1614年)の古文書があります。
10:48

槙ヶ根一里塚
両側が残っている。とても珍しい。
この付近、桜が植えられ公園となっている。とても展望が良い場所。
誰も通行人がいない。

  一里塚
11:00 国道に出る
11:03

茶屋水戸屋敷跡

   槙が根立場の茶屋
 江戸時代の末頃ここには槙本屋・水戸屋・東国屋・松本屋・中野屋・伊勢屋などの屋号を持つ茶屋が9戸あった。そして店先にわらじを掛け餅を並べ、多くの人がひと休みしてまた旅立って行ったと思われる(旅人の宿泊は宿場の旅籠屋を利用し、茶屋の宿泊は禁止されていた)
これらの茶屋は、明治の初め宿駅制度が変わり、脇道ができ、特に明治35年大井駅が開設され、やがて中央線の全線が開通して、中山道を利用する人が少なくなるにつれて、山麓の町や村へ移転した。
そして今ではこの地には茶屋の跡や古井戸や墓地などを残すのみとなった。

11:10

槙ヶ根立場

11:22 姫御殿跡
 
姫御殿
11:25 首なし地蔵跡
 
首なし
11:25 乱れ坂と乱れ橋
この付近、他に誰もいない。少々薄気味悪い。
 
坂

   乱れ坂と乱れ橋

 大井宿から大湫宿までの3里半(約14km)には、西行坂や権現坂など数多くの坂道があり、全体をまとめて十三峠という。乱れ坂も十三峠の一つで、坂が大変急で、大名行列が乱れ、旅人の息が乱れ、女の人の裾も乱れるほどであったために「乱れ坂」とよばれるようになったという。この他に「みたらし坂」とか「祝い上げ坂」ともいう。
坂のふもとの川を昔は乱れ川といい、石も流れるほどの急流であったという。ここに飛脚たちが出資して宝暦年間に長さ7.2m、幅2.2mの土橋を架けた。この橋は「乱れ橋」あるいは「祝橋」といい、荷物を積んだ馬(荷駄)1頭につき2文ずつ銭を徴収する有料橋のときもあったという。
              平成15年3月  恵那市教育委員会

11:50

竹折村高札場跡

11:55 妻の神の碑(?)
12:05 紅坂一里塚
 
紅坂一里塚 紅坂一里塚
見事な一里塚が残っている。
12:20 佐倉宗五郎碑
12:25 藤村高札場
 
藤村高札場跡

   藤村高札場

 高札場は村のうち人通りが多く目につきやすい場所に、一村一か所建てるのが普通であるが、この藤村や竹折村のように二か所に建てた村もある。高札には親子・キリシタン・毒薬・火付・徒党・駄賃銭など多くの札があるが、藤村のこの高札場には2枚掛けてあった。(享和元年(1801)頃)
高札場の管理は藩に命じ、村人にはきまりを厳しく守らせ、この前では笠など取らせ礼をさせるなど厳重に取り締らせていた。
(この高札は当時の大きさで尾張藩用のものを書き写したものである)

12:30

深萱立場
ここは気持ちの良い休憩所だ。弁当を食う。うまーいなぁ。実にウマい。
あー、うちのカミさんにもこの弁当を食べさせたいなぁ!街道歩きには駅弁に限るのだ!
気温22度、乾燥して実に気持ちが良い。

 
弁当

   深萱(ふかがや)立場

 立場とは、宿と宿との間にある旅人の休息所で、「駕籠かき人足が杖を立てて、籠をのせかつぐ場所」と言われている。
深萱立場は大井宿と大湫宿の中間にあり、茶屋や立場本陣、馬茶屋など10余戸の人家があって、旅人にお茶を出したり、餅や粟おこわといったその土地の名物を食べさせたりしていた。
立場本陣は、大名など身分の高い人の休憩所で、門や式台の付いた立派な建物である。馬茶屋は馬を休ませる茶屋で、軒を深くして、雨や日光が馬にあたらないような工夫がされていた。
平成15年3月 恵那市教育委員会

13:00 休憩所スタート
13:30 大久保観音坂
この付近、昔の風情のある街道を歩きを楽しむことが出来る。
 
観音坂
13:33 観音坂と馬頭様
 
13:40 大久保の観音様
13:45 刈安神社・峠
中山道
13:47

炭焼立場跡

   炭焼立場跡

  立場というのは、馬のつなぎ場を備えた休憩所のことです。
小さな広場と湧水池があり、旅人や馬の喉を潤しました。
太田南畝(蜀山人)が享和2年(1802)に著した「壬成紀行」に「俗に炭焼きの立場あり左に近くみゆる山は権現の山なり」という記述があります。ここは眺望に恵まれていたので、十三峠の中では特に旅人に親しまれた立場でした。

13:55  権現山一里塚
昔の面影が見事に残っている。久しぶりに本物(=たぶん)の一里塚を見る
 

一里塚

14:04 十三峠の巡礼水
現代では、いくら喉が渇いたからといっても飲みたくない、絶対に飲みたくないな。
 
巡礼水
   十三峠の巡礼水
 旅の巡礼がここで病気になったが、念仏によって水が湧き出して命が助かったと伝えられています。
僅かな清水ですが8月1日に枯れることはないといい、旅人たちから「十三峠のお助け清水」として大切にされてきたものです。
14:15

十三峠の三十三観音

   十三峠の三十三所観音石窟

  大湫宿と大井宿の間の三里半(約13.5km)は、険しい山坂の連続する「十三峠」と呼ばれる尾根道で、中山道を行き交う人馬が難渋した場所でした。
ここには、道中安全を祈って天保十一年(1840)に建立された観音石窟があり、33対の馬頭観音は、大湫宿内の馬持ち連中と助郷に関わる近隣の村々からの寄進です。なお、石窟前の石柱には、大手運送業者の定飛脚嶋屋・京屋・越後の飛脚才領、松本や伊那の中馬連中が出資者に名を連ね、中山道の往時を偲ばせる貴重な史跡です。

14:20 十三峠尻冷やしの地蔵尊
14:35 大湫宿着
山奥の静かな部落だ。まるで人が住んでいるとは思えないように静かさだ。
 
大湫宿

   大湫宿本陣跡
 大湫宿本陣は現小学校庭にあり間口22間(約27メートル)部屋数23、畳数212畳、別棟、添屋という広大な建物で公家や大名、高級武士たちのための宿舎でした。
また比ノ宮(享保16年・1731年)
眞ノ宮(寛保元年・1741年)
五十ノ宮(寛延二年・1749年)
登美ノ宮(天保2年・1831年)
有姫(同年)
鋭姫(安政5年・1858年)
など宮姫のほか皇女和宮が14代将軍徳川家茂(御降家のため(文久元年・1861)10月28日その道中の一夜とすごされたのもこの本陣です。
和宮御歌 「遠ざかる都と知れば旅衣 一夜の宿も立ちうかりけり」

 
shukuba

    48景 歌川広重
 木曽海道六拾九次之内 大久手

 明るい草原の風景で、美濃平野に多くみられる、ゆったりとしてなだらかな山や丘を描いている。大久手から細久手への途中に、中山道を旅する人の目印ともなった、母衣岩、ゑぼし岩という2つの巨岩がある。大田南畝の『五街道中細見記』に岩の説明があり、それによればこの岩は母衣岩であろう。大久手方面から、芝を背負子で背負った農民の夫婦が坂を上ってくる。

 ◎大湫宿 岐阜県瑞浪市

 大井宿から大湫(大久手)宿までは約13・7キロ。天保14年の人口は338人、総戸数66軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠30軒であった。湫とは窪地、湿地の意味で、山の上の湿地にちなむ地名である。この宿場は慶長9(1604)年に新設された。小さいながらも多くの旅籠があり、多数の旅人で賑わった。この地は現在も格子戸や土塀の古い町並みが続き、宿場の面影を残している。

14:50 石碑
皇女和宮御歌
大湫宿本陣跡・現小学校校庭
まるで無人のような静かな街。誰一人通行人も無い。まるで人の気配を感じない。
 

本陣跡

14:55

問屋場跡

白山神社
大湫宿問屋場跡
 問屋場とは問屋役、年寄役、帳付役、人馬指図役などの宿役人が毎日詰めていた宿役所のことで、紅葉にもつの継建てから助郷人馬の割当て大名行列の宿割りなど宿の業務全般についての支持指ずや業務を行っていた。
14:57

神明神社
とてつもなくデカイ大杉

15:00 高札場
 

高札場

高札場
高札とは、その時々の法令や禁令などを墨書きした掲示板のことで、人通りの多い辻などに、その掲示板が高く掲げてあったところが高札場です。
15:08 小坂の馬頭様
  馬頭様
15:10 大洞の馬頭様
15:15

二つ岩
琵琶峠の入口

15:30 峠頂上
15:33 琵琶峠の石畳と一里塚
見事な一里塚が残っている。嬉しい
 
琵琶峠
琵琶峠 琵琶峠
    琵琶峠の石畳 (岐阜県史跡)
 中山道は、岐阜県内でも改修や荒廃などにより江戸時代当時の原状を残すところが少なくなっております。こうした中で、瑞浪市内の釜戸町。大湫町・日吉町にまたがる約13kmの中山道は、丘陵上の尾根を通っているために開発されず、よく原型をとどめています。
 特に、この琵琶峠を中心とする約1kmは、八瀬沢一里塚や馬頭観音などが現存し、当時の面影を残しています。
 昭和45年には500m以上にわたる石畳も確認され、峠を開削した時のノミの跡を持つ岩や土留め。側溝なども残されています。
 歴史の道整備活用推進事業の一環として、平成9年度から平成12年度にかけて石畳や一里塚などの整備を行い、江戸時代当時の琵琶峠に復元しました。
                 岐阜県教育委員会/ 瑞浪市教育委員会
16:00

天神辻の地蔵尊
あーくたびれた。ファイトーッ!

16:03

サン・エッグ・ファーム
馬鹿でかい農場

16:15 弁財天の池
 
弁才天池
16:30  瑞浪一里塚
両側に塚が残る
 
瑞浪一里塚
中山道の一里塚は、大湫宿が開宿した慶長9(1604)年から整備が進められ、岐阜県内には31箇所の一里塚が築かれました。一里塚にはえのきや松が植えられ、松並木も整備されました。
一里塚は現在ではほとんど荒廃し、瑞浪市のように連続した4箇所が漏示のまま残っている例は全国的にも稀です。
市内には、日菓子から西へ順に、言々山(樫の木坂)一里塚、琵琶峠(八瀬沢)一里塚、奥乃田一里塚、鴨乃巣一里塚があり、高さ約3m、径10m程の大きさで、自然の地形をうまく利用して築かれています。
なお、鴨之巣一里塚は、地形の制約を受け、塚は尾根沿いに東西16m程離れています。
16:45 細久手・庚申堂
「大黒屋」着、少し暗くなり始めた。少々肌寒い。
疲れた、今日はとても疲れた。何はともあれ、風呂に入れて貰う。明日の為に足の疲れをほぐす。
ここは江戸時代から続く旧い旅籠。
街道ウォーカーならば一度は泊まりたい有名な旅館である

55,443歩
 
細久手

細久手宿(ほそくてしゅく)
標高420メートルにあって、江戸から48番目(距離約91里)、京から22番目(距離約42里)に位置する宿場です。
中山道の開設当初、東の大湫宿から西の御嶽宿までの道程が4里半(約17・7キロメートル)もあったことから、尾張藩によって設置されました。慶長11年(1606)の開宿当初は、7軒屋と呼ばれる小さな仮宿で、その後放火により全焼し、慶長15年(1610)に正規の宿場として再整備されています。宿場のきぼについては天保14年(1843)の記録に「町並み3町45間(約410メートル)、家数65軒、旅籠屋24軒、総人数256人」

の記録があります。
細久手宿は、仮宿の全焼のほか、寛政14年(1802)、文化10年(1813)、安政5年(1858)の3度にわたって大火に見舞われ、大きな被害を受けました。現在の町並みは案勢の大火に以降に形成されたものです。

旅籠屋と木賃宿
食事付で泊まるのは旅籠屋だが、食事無しの宿泊は木賃宿である。
写真は旅籠屋門屋の正面だが、木曽路に多い出桁造りとなり、取外しのできる格子戸がはまり、軒には講札が多くかけてある。その右側は特殊な方の出入り門となっていた。

shukuba

    49景 歌川広重
 木曽海道六拾九次之内 細久手

 坂の両側に形成された宿場の入口を、東の高い位置から望む。道に追い被さるように傾いた2本の松が、宿場の門代わりのようである。宿場に向かう武士は、一文字笠に長合羽、担いだ長刀に竹筒を下げている。宿場の方からは振り分け荷物の旅人が坂を上がってくる。鎌を手にした村の男女は名産の楮を刈りに行くところだろうか。広重は図を遠近透視画法で描いている。

 ◎細久手宿 岐阜県瑞浪市

 細久手宿(ほそくてしゅく)は、海抜420メートルの山中に発達した、江戸から48番目の宿場で、東北から南西方向に緩い下り坂が一筋に延び、その長さは400メートル余り(3町45間)。
 慶長15年(1610)に設置され、江戸時代後期の天保14年(1843)の記録によると、戸数65軒を数え、うち24軒が旅籠を営んでいた。
 その1軒が、『尾州家定本陣大黒屋』であった。
 細久手宿の本陣・脇本陣が手狭になリ、他領主との合宿を嫌った領主尾洲家が、問屋役酒井吉右衛門宅を「尾州家本陣」として定めたのが、『尾州家定本陣大黒屋』のはじまりである。

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