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10月18日
部屋の中の温度が19℃、少々寒く感じる
中山道では有名な細久手宿の「大黒屋」に泊まる。
大黒屋は尾州徳川家の「定本陣」で、今も140年前と変わらぬ姿で営業する旅籠である。
この旅館は事前に予約しておかないと泊まれない。
この宿の女ご主人・酒井房子さん(下の写真=右)に激励され、見送られる。 |
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| 07:40 |
大黒屋を京都方面に向けて出発、ファイトーッ!
絶好の街道歩き日和。
秋の快晴の中で見るコスモスは最高だ。
宿のすぐ向かいの畑には刈り取ったばかりの蕎麦が干してある。美味いだろうなぁ、食べたいなぁ! |
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<秋は今が旬、「サイコーッ!」って叫ぶ。今日は最高の街道歩き日和> |
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| 07:45 |
細久手宿本陣跡
少し寒いけれど、実に快適。でも足が痛い。 |
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49景 歌川広重
木曽海道 六拾九次之内・細久手
坂の両側に形成された宿場の入口を、東の高い位置から臨む。道に覆い被さるように傾いた弐本の松が、宿場の門代わりのようである。宿場に向かう武士は、一文字笠に長合羽、担いだ長刀に竹筒を下げている。宿場の方からは振り分け荷物の旅人が坂を上ってくる。鎌を手にした村の男女は名産の楮(こうぞ)を刈に行くところだろうか。広重はこの図を遠近透視画法で描いている。
◎細久手宿 岐阜県瑞浪市
大湫宿から細久手宿までは約5・9キロ。天保14年の人口は256人、総戸数65軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠24軒であった。この宿場は慶長11(1606)年に開かれたが、火災で焼失し、慶長15年に再建された。防火のため、家々の庭先を潜り、宿場の外れで地上に出る地下用水路が作られている。貧しい宿場の維持のため、代官は紙の原料となる楮の栽培を奨励した。 |
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| 07:50 |
日吉・愛宕神社(下の写真)
奥社は遠く、石段が傾いているので境内での参拝は遠慮する。 |
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| 08:15 |
国道65との分岐
瑞浪市内旧中山道の影 |
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| 08:20 |
秋葉坂の三尊石窟
この付近は見事な松林が続く |
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| 08:37 |
鴨之巣一里塚
見事な一里塚が両側に残っている。
無風、青空、実に快適
昨夜、大黒屋に同宿の3組の街道ウォーカーが先行した。とても気持ちの良い海道歩き日和 |
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| 09:00 |
山内嘉助屋敷跡
山内嘉助屋敷跡
江戸時代、酒造業を営んだ山内家の屋敷跡。今は藤上坂の途中にりっぱな石垣のみが往時の姿を伝えています。「中山道」を通行する諸大名の休憩場所として、また旅する人々を泊めたとも伝えられています。 |
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| 09:07 |
津橋
藤上坂の馬頭観音像
津橋の集落を離れて東へ向かうと、急な坂道が続きます。ここは藤上坂と呼ばれ、左手には、藤上坂と呼ばれ、右手には、石窟に納められた三面六臂の馬頭観音像があり、「津橋村上下女人念仏講中」と刻まれています。 |
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| 09:30 |
馬の水飲み場
こんな峠の頂上付近によくぞ、こんなに水が湧き出しているものだ。
「さぁーどうぞ」って云われても飲みたくないな。
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馬の水のみ場
諸之木峠の馬頭観音像脇には、馬の水のみ場といわれる場所があります。 |
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反対側には「Province」というケーキ屋がある。なんで?こんな辺鄙な所に店が・・・・少し下に広い駐車場が確保されているのだが。
御殿場
幕末、皇女和宮降嫁の際、諸之木峠の高台に休憩所として御殿がつくられました。和宮はこの地から、はるか京の方角を眺められたといい、一体何を想われたことでしょう。 |
諸之木峠展望台
この展望台は、御殿場から「中山道」を挟んだ向かいの高台に、東海自然道とともに整備されたもので、御嶽山など四方に遠望のきく大自然の雄大な景観をながめられます。 |
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| 09:55 |
唄清水
「これは清水だぞ、飲め!」って言われても決して飲みたくないな。 |
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唄清水
「馬子唄の響きに波たつ清水かな 五歩」と刻まれた嘉永7年(1854)の句碑が、清水の傍らに建っています。
五歩とは千村征重のことで、久々利九人衆の一人・千村助右衛門重次の分家にあたり、日吉(現瑞浪市)の南垣外に住んでいました。
現在、唄清水は岐阜県の名水50選に選ばれています。 |
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| 10:00 |
一呑みの清水
一呑の清水
街道を旅する人々の喉を潤した清水。清水は1間(約1・8m)と2間半(約4・2m)の石組みが二つに仕切られ、向かって左に一呑の清水碑と石地蔵があります。「中山道」の清水は旅人用が上に、牛馬用が下に造られています。
文久元年(1861)、皇女・和宮が降嫁する際、この清水を賞味され大変気に入ったといわれます。
現在、一呑の清水は岐阜県の名水50選に選ばれています。 |
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| 10:05 |
十本木立場
十本木立場
人夫が杖を立てて籠や荷物をおろし休憩したところから発展し、茶屋などが設けられ、やがて旅人の休憩場所になったといわれる十本木立場があります。
「新撰美濃志」には「十本木茶屋は、木曽路通りの休み茶屋なり。数十株の松樹立ちたる故、かく名づくという」と記されており、十本木とは、松の木々のことを目印として指していたのでしょう。 |
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| 10:10 |
謡坂十本木一里塚 |
| 10:13 |
安藤広重の浮世絵「細久手」モデルの地
十本木茶屋跡 |
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安藤広重浮世絵モデルの地(=上の写真)と広重の浮世絵「細久手宿」
この地は、安藤広重の浮世絵「木曾海道六拾九次之内御嶽」のモデルになった場所と推定されています。広重は、御嶽宿の情景では宿場の中でなく、山里の「木賃宿」を中心に、囲炉裏を囲んで談笑する庶民の旅の1コマをモチーフとして描いたようです。
「木賃宿」とは薪代のみを宿へ支払って自炊をする簡易的な宿泊施設として、街道沿いに数多くあったといいます |
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| 10:20 |
謡坂の石畳 |
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謡坂一里塚
御嵩町域にはかって3箇所に一里塚がありましたが、現存するものはありません。謡坂一里塚は、明治41年に2円50銭で払い下げを受け、取り壊されました。
現在の一里塚は、昭和48年に地元有志の手によって復元されたものです。 |
| マリア像 |
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聖母マリア像(上の写真・左)
昭和56年、農道の拡幅工事の際、墓地の一角より「隠れキリシタン」にまつわる遺物3点が偶然発見され、これを契機に近在各所からもおなじような発見が相次ぎました。
現在、この地には「聖母マリア像」が建立され、平和の聖地となっています。 |
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| 10:40 |
耳神社 |
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耳神社
「中山道」沿いの岩山に建立された耳の病に霊験ありと伝えられる小社。願いがかなうと、年の数の錐で編んだ簾を奉納するという非常に珍しい神社として、現在も奉納された簾が絶えることはありません。
元治元年(1864)、尊皇攘夷をかかげた武田耕雲斎率いる水戸天狗党が、「中山道」を西に向かう途中、この耳神社の幟を敵の布陣とみて、抜刀したという逸話も残されています。 |
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| 10:55 |
牛の鼻欠け坂
この付近、曲がりくねり、とても急坂
牛の鼻欠け坂
岩盤を削った急な曲がり坂で「中山道」を往来する牛や馬の鼻が摺れて欠けるほどであったことから、こう呼ばれるようになったといいます。
「牛坊、牛坊、どこで鼻欠いた、西洞の坂で欠いた・・・・」という唄も今なお伝わり、当時の人々が、この坂の往来に難儀をした様子がうかがえます。 |
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| 11:00 |
国道と合流 |
| 11:15 |
和泉式部廟所
ここから国道21号線を進む。道路はすっかり近代化しており、案内板が無くなり少々不安。確信しながら進むことにする。 |
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和泉式部廟所
「御嵩町指定文化財」
平安時代の女流作家・和泉式部は、和歌を愛し、また恋多き女性として知られています。
その和泉式部が御嵩の地で亡くなったという伝説が、井尻地区に残されています。彼女は心の赴くままに旅をして御嵩のあたりまでやってきましたが、病に倒れ鬼岩の温泉で湯治したものの、とうとう亡くなってしまったといいます。
「和泉式部の廟所」と言われるところは全国に数箇所あり、その真実は誰にもわかりません。しかし、和歌をこよなく愛した和泉式部が、御嵩の地までやって来たのだとしたら、とてもロマンのあるお話です。 |
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| 11:45 |
水神
正一位秋葉神社
現在も井戸として使われている。試しにモーターのスイッチを入れると勢い良く水が飛び出す。 |
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用心井戸
御嵩宿の東、上町には用心井戸が残されています。この井戸は万一の火災に備えた防火用として、また普段の飲料用として利用されていました。 |
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| 11:50 |
本陣跡 |
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50景 広重
木曽海道六拾九次之内 御嶽
御嶽宿は平たんな土地にあったが、図を見ると山中を思わせる。これは宿場の東方、十本木の立場の夕景であろう。障子に「きちん宿」(木賃宿)と書かれた宿は、薪代さえ払えば泊まれる安宿で、旅人足や貧しい旅人が利用した。客たちは囲炉裏の周囲で雑魚寝した。主人が湯釜で湯を沸かしている。旅人は干飯に湯を掛けて食べた。前の小川で老婆が米を研いでいる。
◎御嵩宿 岐阜県可児郡御嵩町
細久手宿から御嵩宿までは約11.8キロ。天保14年の人口は600人、総戸数66軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠28軒であった。中山道選定当初からの宿場で、西のはずれにある「蟹薬師」で有名な「願興寺」の門前町として栄えた。一尺八分の薬師像を数千の蟹が取り巻いて池から現れたという縁起がある。現在は都市化が進み、本陣付近の町並みにわずかな名残をとどめる。
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御嶽宿本陣
御嶽宿本陣は宿場の西よりに位置し、代々野呂家がその職務にあたってきました。
残された図面によると前後2棟で構成され、前棟が住居棟、後棟が上段の間のある宿泊棟に利用されていたようです。
「中山道宿村大概帳」によれば、門構え、玄関付きで建坪181坪と記されているほか、寛保年間(1741〜44)の「御嵩宿本陣坪書」によれば、間口13間、平坪715坪、建坪55坪とあり、部屋数は、住居棟が10室、宿泊棟が13室だったようです。また、土蔵3棟、物置3棟があり、いざというときの避難場所として、本陣北にある宝積寺があてられていました。
現在の本陣建物は明治・大正の2度にわたって立て替えられていますが、江戸期の本陣の風格を感じさせる門構えを残しています。 |
中山道御嶽宿商家竹屋(御嵩町指定文化財)
明治10年(1877)頃建築の商家竹屋は、江戸期に本陣・野呂家より分家し商家として栄えました。天保13年(1842)の「御嶽宿宿並絵図」によれば、本陣東隣に組頭としての記載がみられます。
明治以降の竹屋は、商品を店先に並べる販売形態をとるのではなく、金融業をはじめとして繭・木材・綿布などを取り扱い、また名古屋では「竹屋街」と呼ばれる借家街の経営をするなど、様々な職を幅広く手がける総合商社の先駆けでした。
現在、御嵩町有形文化財に指定され一般公開をおこなっています。入館無料 |
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| 12:00 |
興願寺
大寺山願興寺
弘仁6年(815)、伝教大師によって創建されたといわれる天台宗の古刹「大寺山願興寺」。2度にわたる兵火により本堂等は焼失しましたが、幸にも本尊・薬師如来像をはじめ諸仏像は焼失をまぬがれました。本堂も地頭らの力によって再興され、2度目の焼失後も近在の農民らの発願により、素朴な造りではあるものの、板1枚、柱1本を持ち寄って見事再建されました。
このあたりでは通称「蟹薬師」と呼ばれ、広く親しまれています。現在、薬師如来像ほか24躰及び本堂が国指定の重要文化財に、また鐘楼門が県指定文化財になっています。 |
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境内にある公衆トイレに入ると、どうした訳か大量の「大の方」が出る。
やはり「歩くこと」は健康に良いのだ!バンザイ! |
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「御嵩駅前」にある「韓国風お好み焼き屋」に入る。他に開いている食堂が見当たらない。
この店の名物料理(=らしい)、ニラがたっぷりの「チジミ」なるものを注文する。若い高校生くらいの女性が焼いてくれる。(=下の写真・右)
ジャーン、デカイ!2人前あるいはそれ以上たっぷりある。うひゃー嬉しいなぁ!
ここは高校生が主な客筋である。隣のオッサンは1/4程食べて、ため息・・・・持て余している。
600円、果たして何個の卵を使ってあるか知らないが、安くてうまい、でもその量が・・・・半端じゃない。
もちろん完食!バンザイ!
タッパウェアーに入れて持ち帰り、グルメで美食家のうちのかみさんにもこの「チジミ」を食べさせたいな。
食べきれるかな?はたしてウメェー!って云ってくれるかな? |
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| 12:40 |
御嶽駅前を出発。ファイトッ!
足の指が痛い。きっと今回も大きな豆が出来ている。ここで脱いで靴の中を見る勇気がない。 |
| 12:55 |
鬼の首塚 |
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鬼の首塚 (御嵩町指定文化財)
伝説によれば、鎌倉初期の建久年間(1190〜1199)頃、現在の鬼岩公園の岩穴に住み着き、悪さをしては御嵩の人々を困らせていた「関の太郎」という鬼がいました。地元の人々は正治元年(1199)、地頭に懇願し、4人の武士が派遣されました。彼らは共同して、見事この鬼を桶に入れて京へ運ぶ途中、急に重くなり動かなくなったので埋めたとされる場所が、ここ「鬼の首塚」です。
野次喜多道中で知られる「木曾街道続膝栗毛」の作者・十返舎一九も「桶縄手、今もその名を朽ちざりき、塩漬けにせし鬼のくびかも」と詠んでいます。 |
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| 13:55 |
伏見宿(本日の終点)
大黒屋さんから今日1日中同行の街道ウォーカーの越野さんとここで別れる。互いに完歩を誓い合う。
快晴。暑い。 |
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51景 歌川広重
木曽海道六拾九次之内 伏見
犬山街道沿いに当時、有名な「伏見大杉」があった。その木陰で巡礼の夫婦が弁当を食べ、旅の男が笠を枕に眠る、街道では大名行列を離れた中間が、行列の威容を示す大笠と長柄傘と持ったまま、草履の紐を締め直し、相棒はのんびりと待つ。右の三味線を手にした3人の女は盲目の女旅芸人。左の道からは薬箱を背に日傘をさした田舎医者がやってくる。
◎伏見宿 岐阜県可児郡御嵩町
御嵩宿から伏見宿までは約3.9キロ。天保14年の人口は485人、総戸数82軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠29軒であった。木曽川の川筋が変化したことから、渡し場が上流に移動し、それまでの上田宿が廃宿され、伏見宿が元禄7(1694)年に新設された。『木曽名所図絵』はこの辺りの景色を「往還の左右に列樹の松あり、東海道の如し」と紹介している。 |
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伏見宿本陣跡碑
江戸から数えて50番目の宿場「伏見宿」は、御嶽宿開宿から遅れること約90年後の元禄7年(1694)に土田宿廃宿にともない開宿したとされ、伏見宿本陣の職は元禄年間ころから代々岡田与治右衛門が勤めました。
東西約570メートルほどあった伏見宿は、現在、数軒の格子の家並みとこの本陣跡碑が、わずかながらに往時の様子を偲ばせるのみとなっています。 |
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| 14:10 |
明智駅前
ウマい具合に、20分後に「新加児駅行き」の電車が出る。この時間までも快適な秋晴れが続く。
ここまでで30,258歩。
今日1日で10人(組)ほどの街道ウォーカーと出会う。 |
| 14:36 |
明智駅発
2両編成のワンマンカー
乗客は私以外は全て高校生 |
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| 14:45 |
加児(かご)駅
ここからどういうルートで東京へ向うか思案したが、結局、名古屋駅経由、早い新幹線で帰ることにする。 |
| 15:15 |
加児駅発 |
| 15:35 |
多治見駅 |
| 16:33 |
名古屋発
新幹線に乗る。あーなんと心地よい振動。
早い、早すぎる。この時間で自由席は満席に近い。
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| 19:00 |
東京駅着
昔、約10日間かかって歩いた名古屋=東京間が、現代ではたった2時間半で到達できる。
乗車券+特急券で7,410円(ジャパンクラブ使用)は安い、JRは安すぎる。 もっと高くしろ!と云いたい。 |