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4月13日(水) |
| 21:27 |
21:27自宅発
京王バス190円、乗客は私一人だけ |
| 22:00 |
新宿駅、深夜高速バスに乗る
座席最後尾のリクライニングシートに沈む。いつものように睡眠導入剤を半錠だけ飲む。お蔭で爆睡・・・・
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| 23:10 |
新宿・住友生命ビル発
Willer Travel株、¥4600円(東京=名古屋)
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4月14日(木) |
| 06:32 |
名古屋駅前「ビックカメラ前」着
驚いたことに出発時に予告された到着時間に3分も違わない、東京=名古屋間バス。
快晴。 |
| 06:52 |
名鉄・名古屋駅発
名古屋=明智 ¥900
通勤・通学で混んでいる。岐阜行き、急行。桜がほぼ満開だ。 |
| 07:24 |
犬山着、乗り換え |
| 07:27 |
犬山発 新可児行き
ここからグーンとローカル色が深くなる。
庄内平野の中を走る。所々に小さな丘がある。菜の花が美しい。 |
| 07:45 |
新可児(=かに)駅着
名鉄広見線・御嵩駅行きに乗り換える。ここからの乗客は私以外は全て高校生。
超ミニスカートの女の子 、うーん、これから登校する女子高生が、どうしてこんなにも短かすぎるスカートなんだ? |
| 07:52 |
新可児駅発
御岳駅行き
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| 07:57 |
名鉄廣見線・明智駅
高校生がドッと降りる
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| 08:07 |
浄覚寺 |
| 08:15 |
中山道・伏見一本松公園
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| <一本松公園> |
<伏見宿本陣跡>(明智駅から1km程の距離) |
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一本松公園
かっての伏見宿の一角に整備された「一本松公園」は、江戸時代に賑わいをみせていた宿場の面影を後世に伝えようと、平成20年に完成しました。樹齢250年といわれる松の大木を中心に、伏見宿の新しいスポットとなっている。 |
| <伏見宿の古い民家> |
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【中山道伏見宿】
江戸より96里30町(約380km)、京都より38里(約149km)
中山道は、江戸時代の五街道の一つとして整備され、東海道と並んで江戸と京都の間を結ぶ主要な街道でした。
ここ伏見宿は、慶長7(1602)年、中山道のなかでもいち早く設置された御嶽宿(東へ約1里)から遅れること約90年後の元禄7(1694)年、土田宿(可児市)の廃宿にともなって開宿されたといわれています。
宿場の長さは約570mに及び、駱駝が逗留した宿場としても知られています。
現在、伏見宿内の中山道は国道21号へと姿を変え、残念ながら当時の面影を伝える風景はごくわずかとなっています。
【伏見宿女郎塚】
伏見宿には女郎部屋が多くあり、身寄りのないまま亡くなった彼女たちを弔うため、子安観音の一角に女郎塚がつくられたといわれています。
【伏見宿本陣跡】
本陣は、参勤交代の大名などの専用宿泊・休憩施設でした。現在、伏見宿本陣の面影はありませんが、本陣跡碑が時の様子を偲ばせています。 |
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51景 歌川広重
木曽海道六拾九次之内 伏見
犬山街道沿いに当時、有名な「伏見大杉」があった。その木陰で巡礼の夫婦が弁当を食べ、旅の男が笠を枕に眠る、街道では大名行列を離れた中間が、行列の威容を示す大笠と長柄傘と持ったまま、草履の紐を締め直し、相棒はのんびりと待つ。右の三味線を手にした3人の女は盲目の女旅芸人。左の道からは薬箱を背に日傘をさした田舎医者がやってくる。
◎伏見宿 岐阜県可児郡御嵩町
御嵩宿から伏見宿までは約3.9キロ。天保14年の人口は485人、総戸数82軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠29軒であった。木曽川の川筋が変化したことから、渡し場が上流に移動し、それまでの上田宿が廃宿され、伏見宿が元禄7(1694)年に新設された。『木曽名所図絵』はこの辺りの景色を「往還の左右に列樹の松あり、東海道の如し」と紹介している。 |
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| 08:20 |
伏見宿・本陣之跡 |
| 08:30 |
常夜燈 |
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| 08:45 |
追分
コンビニでパン2個とヨーグルト、合計435円 。ウマーい!街道歩きのパンとヨーグルトの朝食に限るのだ! |
| 08:50 |
上恵土神社
ちょうど桜が満開。東京で観るよりずっと美しい・・・・ような気がする。
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| 08:55 |
中恵土の交差点
「一里塚の跡」
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何だかやたら難しい漢字が並んだ石碑 |
<追分> |
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| 09:20 |
ハナカイドウが満開
暑くなってきた。ファィトーッ!
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| 09:25 |
中仙道踏み切り
「辞世塚・・・・」
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| <辞世塚> |
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| 09:40 |
住吉交差点
暑いよー |
| 09:45 |
今渡神社
社殿まで100m以上ある為、門前で拝礼して前進。
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| <今渡神社> |
<冨士浅間神社> |
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| 09:50 |
龍洞寺
たいそうりっぱなお寺。幼稚園も経営している。
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| 09:55 |
冨士浅間神社
桜が満開だ。
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| 10:00 |
木曽川 |
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【中山道の難所「太田の渡し」】
中山道は、江戸時代に五街道(東海道・中山道・日光街道・奥州街道・甲州街道)のひとつとして開かれました。信濃国(今の長野県)を通るので、木曾街道・岐蘇路などとも呼ばれています。江戸日本橋を起点に六十七の宿場が整備されており、岐阜県内には、16の宿場がおかれました。この地には太田宿があり、行き交う旅人たちで賑わいました。
江戸から京都までの距離およそ136里の間に、いくつもの峠超えや川を渡る難所がありました。木曽川を行き来する渡し場は「太田の渡し」と呼ばれ、中山道の難所のひとつとして「木曾のかけはし、太田の渡し、碓氷峠がなくばよい」とうたわれました。渡船は時代によって何度も場所や姿を変えてきました。当地の渡船場跡は、昭和2年(1927)に太田橋が完成するまで使われてきましたが、今では木曽川の流れと石畳だけが往時をしのばせています。 |
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| 10:10 |
渡り終える。
暫くは堰堤を下流に進む。 |
| 10:15 |
太田の渡し(参照;上の写真) |
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52景 歌川広重
木曽海道六拾九次之内 太田
木曾川を渡る「太田の渡し」。急流を横切るこの私は中山道の難所中の難所である。客を3人乗せた渡し船の船頭は、流れに負けないように竿を操る。前景には渡し舟を待つ人びとを描いている。左の頭陀袋(ずたぶくろ)を掛けた巡礼の親子は、対岸の太田宿を遠望し、右手前の石に腰を下した2人の旅人と、川岸の旅人3人が、渡し舟の到着を待つ。
◎太田宿 岐阜県美濃加茂市
伏見宿から太田宿までは約7.9キロ。天保14年の人口は505人、総戸数108軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠20軒であった。太田の渡しは、木曽川の下流ながら急流で、中山道の難所の一つである。「木曽の梯、太田の渡し、碓氷峠がなくばよい}と馬子歌にも歌われた。今も渡し場の石畳が残る。太田宿は飛騨街道と群上街道の分岐点(追分)として要衝の地であった。 |
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| 10:40 |
太田宿に入る。
【太田宿】
太田宿は、江戸日本橋からおよそ99里(約385km)の位置にあり、伏見宿との間には木曽川が流れており、交通の要衝として栄えました。町並みは東から上町・中町・下町と大きく分かれ、19世紀中頃の規模は東西に6町14間(約673m)あり、宿内戸数が118戸の規模でした。この宿場に本陣と脇本陣が中町にそれぞれ1軒あり、旅籠屋などがありました。
本陣や脇本陣以外の旅宿を旅籠屋といい、主に一般庶民や私用の武士たちが宿泊しました。記録によると太田宿には旅籠屋が20軒あったとされ、旧小松屋(吉田屋)もその内の一軒でした。
この宿場町には、今も残る江戸時代の面影を残すとともに、次の時代に向けてその姿を連綿と受け継いでいきます。 |
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| 10:45 |
中山道・祐泉寺 |
| 10:55 |
旧太田脇本陣
木造でたいそうりっぱな建物
【旧太田脇本陣林家住宅】
「旧太田脇本陣林家住宅」は、江戸時代には中山道51番目の宿場である太田宿の脇本陣として機能していました。主屋のうだつの鬼瓦に明和6年(1769)の銘が記されていることから建てられた時代がわかりました。
江戸時代の中ごろ、林家は脇本陣を勤めるかたわら、庄屋として尾張藩太田代官の指揮下で宿の行政事務を取り、また、家業として質屋や味噌・溜の製造販売も営んでいた旧家です。最盛期には、東西25軒の間口、土蔵9棟、馬屋3棟、離れ座敷なとを持つ壮大な構えでした。 |
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| 太田宿本陣(現在も住居として使われている) |
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【旧太田宿本陣門】
旧太田宿の中心にあった旧本陣は、宿場の中町の現在位置にありました。
明治時代になると旧本陣には太田町役場がおかれ、町の中心的な存在でした。現在、旧本陣の面影はありませんが、この門は当時をしのばせる貴重な遺構です。
「旧太田宿本陣門」は、文久元年(1861年)に仁孝天皇の皇女「和宮」が14代将軍徳川家茂に嫁ぐため、江戸に向かう時に新築されたものです。このときは、旧中山道中の家並みなども新築・修繕されたといわれています。
この門は、一間の薬医門(本柱が門の中心線上から前方に置かれている門のこと)で、両軸に半間の塀が付く、格式のある端正なつくりです。昭和の初め頃に現在の位置に移築されたと言われています。建築以来、長い年月を経て痛みが激しくなったため、平成14年10月に美濃加茂市教育委員会が解体修理を行いました。 |
| 11:05 |
西福寺
高札場跡がある。追分
【高札場跡と郡上街道追分】
高札は、法度・禁令、犯罪人の罪状などを記し、交通の多い辻などに掲げた板の札です。一般の人々に知らせる目的で立てられました。弘化2年(1845)の「加茂郡大田村家並絵図」には、下町の西福寺入口付近に高札場が描かれています。
「濃州洵行記」には「毒薬、親子、火付け、切支丹、荷物貫目、駄賃高札」が書かれた高札と船高札があったとされます。また、ここは、郡上へ向かう「郡上街道」との追分でもあります。
左手にある石の道標は明治26年(1893)に名古屋の塩問屋、伊藤萬蔵が建立したもので、郡上街道追分の道案内をしています。
美濃加茂市商工観光課 |
| 11:15 |
虚空像堂
【虚空蔵堂と承久の乱・古戦場跡】
中山道を江戸から京へ向かう時、太田宿の西の出口に虚空蔵堂はあります。
天明2年(1782)の「加茂郡大田村絵図」には既に描かれており、当時から信仰の対象となっていました。
ここには、京への道標があり、旅人達の道案内となっていました。ここから段丘を下り、木曽川沿いに京を目指して西へ進みました。
また、承久3年(1221)に起こった「承久の乱」の木曽川合戦では、後鳥羽上皇率いる朝廷軍と鎌倉幕府軍が、木曽川を挟んで戦いました。このあたりが戦場の北端であったといわれています。(手前側が幕府軍・太田側が朝廷軍)
美濃加茂市商工観光課 |
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| <虚空像堂> |
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| 11:25 |
国道21号に合流
車の往来が激しい。
昼食として「ローソン」でチキン、サンドイッチ、ヨーグルトを購入(485円)歩きながら食べる。ウメーェ!街道歩きにはコンビニのチキンサンドに限るのだ!こんなウマイもんがこの世にあるとは・・・・ゴクラクだ! |
| 11:40 |
坂祝(=さかほぎ)町 |
| 12:15 |
坂祝駅通過
10分ほど前、交差点の白線内で信号を待っていると老人が運転する乗用車(トヨタ・クラウン)に右足先をモロに踏まれる。想像したほど痛くはない。車に足を踏まれる初めての体験 |
| 12:30 |
勝山神明
神社御跡地の碑 |
| 12:35 |
崖の上の観音像
現在修理中
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| 12:50 |
うとう峠入口
うっかりすると見過ごすところ、大きな看板の下に小さな指導標がぶら下がっていた。 |
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【うとう坂の一里塚と中山道】
江戸時代につくられた「鵜沼村絵図」(寛政5年6月)「中山道分間延絵図」(寛政12年7月〜文化3年)によると鵜沼宿の東側にある一里塚より、東の坂を「乙坂」「長坂」とか「うとう坂」と呼んでいました。
「鵜沼の東坂」とか「うとう坂」という呼び方は昭和になってからです。
うとう坂にある一里塚、江戸(東京)から、一里ごとにつけられた目印で、旅人にとっては距離のめやす、馬や駕籠の乗り賃支払いの目安となり、日ざしの強い日には木陰の休み場所ともなっていました。道の両側に直径9mほどの塚をつくり、榎か松がうえられました。ここでは片側だけが残り幅10m、高さ2.1mあります。
塚の上には松が植えられました。
江戸時代に、各務原の一部を治めていた旗本坪内氏の「前渡坪内氏御用部屋記録」を見ると、天保3年の文書に、この坂を通って10日ほどかけて江戸の屋敷へ到着する計画が残されています。それによると1日の距離は、9里(36km)から10里(40km)が多く、関東平野に入ると14里(56km)という場合もあります。1日の距離数から、当時の交通事情が推測できます。 |
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| 13:05 |
うとう峠
なんと上り詰めると峠の向こうには住宅街が広がっていた。少々がっかり。
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| 13:35 |
鵜沼宿 |
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53景 渓斎英泉
木曽街道 鵜沼ノ驛従犬山遠望
木曽川対岸の犬山城(画面右)と鵜沼宿を左右に配した構図。鵜沼宿は山地と川の間の平地に細長く発達した宿場で、黄色の山裾に沿って宿場が描かれている。宿場の南端に、木曽川を渡る「鵜沼の渡し」があり、水上に見えるのはその渡し舟である。右の天守閣は外見は3層だが内部は6階建てで、絶景が広がる。織田信長の叔父信康による築城で、現存する最古の城とされる。
◎鵜沼宿 岐阜県各務原市
太田宿から鵜沼宿までは約7.9キロ。天保14年の人口は246人、総戸数68軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠25軒であった。慶安3(1651)年に道筋が変更され、西町と東町が正式に宿場となった。古代からの交通の要衝地で市が立った。犬山城は、天文の頃(1540年代)に築城され、石川光吉によって改修された。現在の地名は愛知県犬山市で、現存する天守は国宝に指定されている。 |
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【中山道鵜沼宿と芭蕉】
貞享2年(1685)、「野ざらし紀行」途中の松尾芭蕉は、鵜沼を訪れ脇本陣坂井家に滞在したと伝えられています。
その後、貞享5年(1688)7月頃、芭蕉は再び脇本陣坂井家を訪れ、
汲溜の水泡たつや蝉の声
の句を詠み、さらに同年8月頃、再度訪れた脇本陣坂井家で菊花酒のもてなしを受けた折には、主人の求めに応じて、楠の化石に即興の句を彫ったと伝えられています。
ふく志るも喰へは喰せよきく乃酒
その後、木曽路を通って信濃へ更科紀行に旅立つ芭蕉は、美濃を離れる際に、
おくられつ送りつ果ハ木曽の秋
と詠み、美濃の俳人達との別れを惜しんだといわれます。
【中山道鵜沼宿町屋館】
由来
当館は、江戸時代に「絹屋」という屋号で旅籠を、明治の初めから昭和30年代まで郵便局を営んでいた旧武藤家住宅です。平成18年、各務原市が建物の寄付を受けて公開しています。
屋敷は中庭を囲むように、主屋、東側の付属屋、西側の離れの3棟からなります。主屋は、明治24年の濃尾震災で倒壊し、その後、再築されたもので、江戸時代の旅籠の形式を残しています。
付属屋は、大正から昭和初期に建築されたものと考えられ、養蚕小屋として利用されていました。離れは、建築部材から昭和初期に建築されたものとみられ、太田宿から移築されtものとつたえられています。
3棟とも、登録有形文化財に登録され、景観重要建造物に指定されています。 |
| 13:40 |
新築の脇本陣。
昔の通り造った真新しい脇本陣。たいそう金がかかっている。始めて見た
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| 14:10 |
空安寺
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| <衣裳塚古墳> |
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| 14:45 |
各務ヶ原(=かがみがはら)駅入口 |
| 15:40 |
六軒一里塚跡 |
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| 16:05 |
市役所前
ずいぶん疲れた。ファイトーッ!
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| 16:15 |
市民公園
ずいぶんと広い。
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| 16:35 |
日吉神社 |
| 16:40 |
新加納の一里塚
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【中山道新加納立場】
慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いに勝利を収めた徳川家康は、全国的な封建支配体制の確立を目指し、主要な街道整備事業を行った。
中山道は東海道の裏街道として京都と江戸を結ぶ幹線道路となり、全長134里(約536km)の間に67の宿場が設けられた。
各務原市内には鵜沼宿が置かれていたが、鵜沼宿と加納宿の間は4里10町(約17km)と距離が長いため立場(たてば)(建場茶屋)と呼ばれる小休所が、ここ新加納に設けられていた。
皇女和宮の降嫁の際にも休息所とされた新加納は、正規の宿場ではないとはいえ、長すぎる鵜沼宿と加納宿のちょうど中間に位置することや小規模ながらも旗本・坪内氏の城下町的な意義を持つことなどからも、中山道の「間の宿」として栄えていたのである。
平成元年度
各務原市(かがみはらし) |
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| 17:15 |
切場
足が痛い、疲れた。足には大きな豆が出来ている。 ファィトーッ! |
| 17:25 |
伊豆神社
馬頭観世音
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| 17:35 |
細畑
細畑の一里塚
細畑の一里塚は慶長9年(1604)中山道の他の一里塚とともにつくられていた。
東方の鵜沼宿から3里14町(約13・3km)の位置にあり、中山道の風情を辛うじて今に伝えている。 |
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| <細畑の一里塚> |
<追分・伊勢路> |
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| 17:45 |
追分・伊勢路 |
| 18:00 |
茶所駅(名鉄)
ここから加納宿
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| 18:05 |
加納八幡神社 |
| 18:15 |
加納城大手門跡 |
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歌川広重【木曽海道六十九次・加納】
加納宿(かのうじゅく)は、中山道53番目の宿場(中山道六十九次)で、現在の岐阜市中心部(岐阜駅より南側、旧稲葉郡加納町)に当たる。
1861年に、皇女和宮親子内親王が宿泊している。
付近一帯は古くより東海道に並ぶ主要街道である中山道の要衝として栄えてきた。
慶長6年(1601年)に徳川家康の命により岐阜城が廃城となり、代わりに加納城が築城され、宿場は城下町としての役割も兼ね発展をした。
中山道六十九次の中では、本庄宿(埼玉県本庄市) 、高宮宿(滋賀県彦根市) 、熊谷宿(埼玉県熊谷市) 、高崎宿(群馬県高崎市) に次ぐ大宿である。 加納藩領(1843年)
人口:2728人/家数:805軒/本陣:1軒/
脇本陣:1軒/旅籠:35軒 |
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| 18:25 |
加納宿
当分本陣跡
【坪内逍遥ゆかりのムクノキ】
坪内逍遥(1859〜1935)は安政6年、尾張藩太田代官所の役人であった平之進の十人兄妹の末っ子として生まれました。
その後、明治2年父の引退にともない、太田を離れた逍遥は、名古屋に移り住み風雅な中京文化の感化を受けました。
18歳にして上京し、明治16年東京大学を卒業すると、文学論「小説神髄」や、小説「当世書生気質」などを発刊し、明治新時代の先駆となりました。また、演劇・歌舞伎・児童劇・近代文学の指導と研究に当たり近代日本文学の基を築きました。
逍遥の明治42年から20年間にわたる「シェークスピヤ全集」の完訳と刊行は代表的な偉業です。
大正8年には、夫婦そろって生まれ故郷を訪れ、このムクノキの根元で記念撮影をしました。逍遥61歳でした。
平成8年2月
美濃加茂市教育委員会
今日の前進はここまでとする。56,729歩。今日は距離が延びた。
ドリンク4本、夕食(ラーメン&餃子セット)1,260円。ウマーい!こんな美味しいものがこの世にあったのか!
東横イン岐阜 5400円
両足の裏にゴルフボール大の豆。足の指は今日のところは問題ない、自動車に踏まれた右足も大丈夫なようだ。
ファィトーッ! |