| 07:50 |
岐阜駅前・東横インをスタート |
| 08:10 |
交差点(加納宿)
今日のスタート(=昨日の終着点)
今日も太陽が出ているが、うす曇、暑くなりそうだ。ファィトーッ!
ここに本陣跡がある。青木さん宅の玄関にその碑がある。加納西問屋跡 |
| |
 |
54景 歌川広重
木曽海道六拾九次之内 加納
加納宿(かのうじゅく)は、中山道53番目の宿場(中山道六十九次)で、現在の岐阜市中心部(岐阜駅より南側、旧稲葉郡加納町)に当たる。
1861年に、皇女和宮親子内親王が宿泊している。
付近一帯は古くより東海道に並ぶ主要街道である中山道の要衝として栄えてきた。
慶長6年(1601年)に徳川家康の命により岐阜城が廃城となり、代わりに加納城が築城され、宿場は城下町としての役割も兼ね発展をした。
中山道六十九次の中では、本庄宿(埼玉県本庄市) 、高宮宿(滋賀県彦根市) 、熊谷宿(埼玉県熊谷市) 、高崎宿(群馬県高崎市) に次ぐ大宿である。
◎加納宿 岐阜県岐阜市
鵜沼宿から加納宿までは約16.8キロ。天保14年の人口は2728人、総戸数805軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠35軒であった。この宿場は名古屋方面に向かう中継地として栄えた宿場で、城下町でもあった。慶長6(1601)年、徳川家康により岐阜城が廃城され、代わりに築城されたのが加納城(永井肥前守3万2千石)である。享保13(1727)年落雷で焼失している。 |
|
|
 |
| <中山道加納宿脇本陣> |
|
 |
|
| 08:20 |
脇本陣跡(=上の写真)
加納天満宮 |
| 08:25 |
加納宿の看板
JR新岐阜駅が近い |
| |
【中山道加納宿】
加納城下町の建設は、関ヶ原の合戦から半年後の慶長6年(1601)3月、10万石の領地を与えられた奥平信昌が地元の有力者たちを指揮し、整備したことに始まります。
その後、寛永11年(1634)には中山道の宿場に定められました。
城下町であり宿場町でもある加納宿は、21の町からできており、中山道に沿って軒が並ぶ細長い町でした。
宿場の中心部では、岐阜町から名古屋の熱田へ続く御詣街道(岐阜街道・尾張街道)と交わっており、交通の要になっていました。 |
|
| 08:35 |
加納宿
西番所跡/
秋葉神社 |
|
 |
 |
| <秋葉神社> |
西番所跡 |
|
| 08:40 |
加納本町9交差点
100m程右手にJR東海道線が平行して走っている。 |
| 08:50 |
JRを斜めにくぐる。 |
| 09:50 |
河渡橋東
橋の下の川は長良川。ここまでえらく遠かった。
橋の上から見ると長良川の水は美しく、60センチ以上の大きな鯉が泳いでいる。ウマそうー、食べたい―!
|
|
.jpg) |
| <長良川> |
|
|
|
| 10:00 |
河渡橋西 |
| 10:05 |
河渡橋宿
馬頭観世音菩薩
|
| |
 |
55景 渓斎英泉
岐阻路ノ驛 河渡 長良川鵜飼船
中山道54番目の宿場(→中山道六十九次)で、現在は岐阜県岐阜市。
加納宿から河渡宿へは長良川を渡る必要があったため、1881年(明治14年)に河渡橋が架けられるまでは「河渡の渡し」を利用していた。
河渡宿は、長良川右岸堤下から東町、中町、西町の三町で構成されるが、全長は三町なので、330mという短さである。「 本陣は水谷治兵衛、問屋は久衛門、庄屋は水谷徳兵衛が務めていた 」と徳川幕府太平の記録にある。
◎河渡宿 岐阜県岐阜市
加納宿から河渡宿までは約5.9キロ。天保14年の人口は272人、総戸数64軒、本陣1軒、旅籠24軒であった。長柄川(長良川)の鵜飼の起源は古代に遡るが、江戸時代には尾張藩の庇護のもちに5月から10月の暗夜に実施されていた。河渡宿は長良川の右岸に開かれた小さな宿場で、北方の河原には2か所の渡しがあった。現在は、戦災と護岸工事で往時の面影は失われた。 |
|
|
 |
立派な「馬頭観世音菩薩像」 |
|
|
|
|
|
| 10:45 |
小さな祠
碑には「忠君愛国」って書いてある。
小さな常夜燈もある。 |
| 10:50 |
本田延命地蔵尊
本田地蔵堂(延命地蔵)
この地蔵は高さ90cmの石仏坐像で彫が美しく優雅な面相である。背面に「石工名古屋門前町大阪屋茂兵衛」台座には「文化六巳巳歳八(1809年)8月24日建立濃州本巣郡上本田村」と刻まれている。
毎年8月24日に盛大な地蔵祭りがおこなわれる。かっては尾張・美濃・江州の三国素人相撲が行われたが、現在は子供相撲が行われている。江戸時代、この中山道を往来した旅人はここで一休みして、このお地蔵様に旅の安全を祈ったのである。
瑞穂町教育委員会 |
|
|
| 11:00 |
本田代官所跡
100m手前で、地元住民と思える人に「代官所跡」の場所を聞いたが「さぁー、スラネェなぁー」まるで無関心
・・・・ファィトーッ!
本田代官所跡
江戸時代の一時期、このあたりに幕府直轄地の代官所があったが、詳細は定かでない。しかし、古文書等から推測すると、寛文10年(1670)、野田三郎左衛門が初代代官に任じられ、この地に陣屋を設けたと思われる。本田代官は後に川崎平衛門定孝(11年間在任)という名代官をむかえるなど、この地の人々に大きくかかわった。明和7年(1779)大垣藩に預けられるまで続いた。今も「代官跡」「お屋敷跡」「牢屋敷跡」という地所が残っている。
瑞穂市教育委員会 |
| 11:10 |
美江寺(=みえじ)宿に入る
中山道美江寺宿跡
美江寺は既に、天正17年(1589)豊臣秀吉の下知によって、問屋場が設けられ、往還の荷物中継ぎの業務に当たっていたが、江戸時代になって中山道が整備されるに及んで、近世宿場制による駅伝業務を担当する宿場となった。寛永14年(1637)4月伝馬役家と歩行役家各々25軒を定めて問屋の支配下に置き、交通業務に当たったのが、美江寺宿の公式開設である。
宿場の機関の一つである本陣は、宿場開設より32年後の寛文9年(1669)春、時の領主加納藩の戸田丹波守光永によって建設され、問屋山本金兵衛が管理を兼ねた。以後山本家が世襲して宿駅制廃止まで継承した。
一般旅人のための旅籠や茶屋は年代により増減があったが、これは幕政改革の影響である。文久元年(1861)10月26日の和宮親子内親王江戸下向の途次、当宿御小憩と慶応4年(1868)2月20・21両日、当宿を発信地とした、東征軍東山鎮撫隊のことは、当宿交通史の特記事項である。
明治3年(1870)閏10月、民部省布告による宿駅制廃止に伴い、宿場の歴史を閉じた。 |
| |
 |
56景 歌川広重
木曽海道六拾九次之内 みゑじ
美江寺宿(みえじじゅく)は中山道55番目の宿場(→中山道六十九次)で、現在は岐阜県瑞穂市美江寺。
1589年(天正17年)、豊臣秀吉の下地により問屋場が設けられた。江戸時代になって中山道の宿場となったが、1637年(寛永14年)が公式の開設である。本陣は1669年(寛文9年)の開設で、以後、宿駅制が廃止まで、山本家が世襲した。
美江寺という名は、「美しき長江のごとくあれ」と祈念されて美江寺という寺院が建てられた事に始まる。719年(養老3年)創建の十一面観音を本尊とした寺院。
歌川広重の「木曽海道六十九次・みゑじ」の場所は、美江寺宿の南端から京へ1町ほど(=109m)。描かれている川は犀川(さいがわ)と思われます。このあたりは海から50kmなのに海抜10m、とても平坦で坂があるのはここくらい。
幕府領(大垣藩預り領)(1843年);
人口:582人 /家数:136軒/本陣:1軒/脇本陣:なし/旅籠:11軒
|
|
|
|
| 11:25 |
美江寺(みえじ)駅通過 |
| 11:30 |
美江寺一里塚跡 |
| 11:33 |
美江寺・高札場
高札場跡
江戸時代は、ここに高札場がありました。
美江神社境内に当時の姿を復元してあります。(下の写真) |
|
 |
 |
| <美江寺・高札場跡> |
|
|
| 11:45 |
千手観音像 |
|
|
| 11:47 |
千躰寺と千躰仏
千躰寺は、浄土宗西山派に属し、現在、養老郡の円満寺の末寺である。千躰寺には高さ12センチメートルから23センチメートルの桧材一木造の阿弥陀如来像、千体が八段に並べまつられている。仏像は、千躰仏と呼ばれ、寺の名の由来となった。千躰仏は、禅僧、自然居士の作で、仏像の姿・形から鎌倉時代後期〜南北朝時代のものと伝えられている。自然居士は、和泉の国(大阪府)に生まれ、京都の東福寺大明国師のもとで修業したが、奇行遊行僧のようである。遊行の途中、自然居士は美江寺の地にとどまり千躰仏を造立した。
瑞穂市教育委員会 |
| 12:20 |
鷺田橋 |
| 12:30 |
揖斐川を渡る
呂久集落
|
| 12:35 |
良縁寺
りょうえんじ、
うーん、このお寺の存在を結婚前に知っていたらなぁ・・・・だったかも知れないのに・・・・んー残念だ! |
|
 |
|
| <良縁寺> |
|
| 12:37 |
白鳥神社 |
| 12:40 |
連生寺 |
|
|
| 12:43 |
小簾紅園(和宮遺跡)
【中山道跡地】
瑞穂市内の中山道は、幕府へ降嫁された皇女和宮の遺徳をたたえて建設された呂久の「小簾紅園」から揖斐川の「呂久の渡し」、田之上(新月)にある鎌倉時代後期の自然居士作の千躰仏をまつった千躰寺、天保4年創建の美江寺千手観音堂前、美江寺宿の本陣跡地、明治35年再建の美江寺観音、明治14年改名の美江神社を経由したのち、五六川を渡り、高札場跡、寛文10年設立の本田代官所跡地、文化6年建立の本田地蔵堂(延命地蔵)がある本田地内を通過し、河渡宿(岐阜市)に通じていました。終戦直前までは、現在の呂久から田之上(新月)に至る両側には江戸時代初期に植えられた松並木が素晴らしい景観を保ち、当時の旅人の心に安らぎを与えていましたが、その後の土地改良等により、残念ながら当時の松並木は消滅してしまいました。
また、中山道は東海道などに比べ水の難が少なく、江戸へ嫁いだ姫君も頻繁に往来したため、別名「姫街道」と呼ばれました。
|
|
|
| 12:58 |
石碑
この付近で迷う。2km程同じ道を戻る。辛い、ファィトーッ!
|
| 13:30 |
左・木曾路 右・・・・の追分 |
|
|
| 13:47 |
素盞鳴社
雨が降り出した。ファィトーッ!
|
| 14:05 |
指導標
小雨になった。 |
| 14:17 |
中山道七曲 |
| 14:25 |
東赤坂駅 |
| 14:37 |
中山道一里塚跡
それらしい痕跡は全くない。ただ石碑が残るのみ。 |
|
|
| 14:50 |
赤坂宿に入る |
| 14:55 |
赤坂港跡&常夜燈 |
| |
 |
57景 歌川広重
木曽海道六拾九次之内 赤坂
宿場の東を流れる杭瀬川と土橋、その先に連なる赤坂宿を描いている。雨上がりだろうか、姉さん被りは傘をすぼめ、長合羽の旅人が土橋を渡る。土橋を渡った右手に高さ3メートルほその傍示杭(境界を表す標柱)が立ち、宿場の入り口を示している。傍示杭には「自是大垣藩領赤坂宿」と書かれていた筈である。石が水面に出て浅く見えるが、実際の杭瀬川は水量豊富である。
◎赤坂宿 岐阜県大垣市
美江寺宿から赤坂宿までは約8.7キロ。天保14年の人口は1129人、総戸数292軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠17軒であった。旅人の利便を考慮して設置された宿場で、また、杭瀬川に赤坂港を擁し水運で栄えた。江戸時代、杭瀬川には物資を輸送する舟が300艘も行き来していた。街道筋左右に、北に美濃国分寺があり、また関ヶ原の合戦の折、徳川家康が陣を布いた勝山がある。
|
|
|
|
| 15:00 |
赤坂本陣
雨の為、今日の前進はここまでにする
|
| 15:15 |
美濃赤坂駅(東海道・美濃赤坂支線)
赤坂宿付近には適当な宿が見つからないため、JR東海道・大垣駅に出ることにする。
次の列車は16:07まで無い。
典型的な田舎駅。終点。
隣に貨物用のプラットホームがある。
昔は大いににぎわったに違いない。
足裏の豆が昨日に続いて更に大きくなったようだ。「痛さ」を無視する。ファィトーッ!
36,485歩。足には大きな豆が出来ている。
JR赤坂=大垣駅(この間、2駅のみ)180円
|
|
 |
| <JR美濃赤坂駅> |
|
|
| 16:07 |
美濃赤坂駅発
2両編成。乗客は全部で6人。次の駅では7-8人が乗り込んだ。 |
| 16:15 |
JR大垣駅
大都会のようだ。早速駅ビル内のうどん屋で遅い昼飯を食う。
杵屋定食850円。ウメーっ!
スーパーホテル大垣へ泊まる。熱めの風呂に入り、
早めに寝る。爆睡。 |