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       【中山道】

 中山道は日本橋から板橋、大宮、熊谷、高崎を経て碓氷峠を越えて信濃国へ軽井沢、岩村田、和田峠、下諏訪、奈良井、鳥居峠、木曽福島、妻籠・馬籠を経て美濃国へ、さらに加納、赤坂、関ヶ原をすぎて近江国の草津で東海道に合流し京都に至る。全長は約533kmで69の宿場がある。
 東海道と並び江戸と京都を結ぶ大幹線で、芭蕉が往来し、剣客や幕末の志士が駆け抜け、皇女和宮の3万人近い大行列が25日間かけて江戸に下ったという。女の旅人は大井川(徒歩)をはじめ、浜名の渡し、桑名の渡しといった水難所の多い東海道を嫌っていたので中山道は「姫街道」とも呼ばれている。
 東海道と同じ江戸時代の五街道の一つ。前身を東山道とも呼んで古代から中世にかけて畿内と中部・奥州を結ぶ重要な街道であった。

「街道ウォーカー」(=右のイラスト)と一緒に歩いてみませんか?現在「北国街道」を踏破中。2012/11/15スタート

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第21日目
美濃赤坂宿〜垂井宿〜関ヶ原宿〜今須宿〜柏原宿

月 日; 2011年4月16日(土)、天気;晴れ
区 間; 美濃赤坂〜柏原
時 間; 7時間05分、18.6km
費 円;

3,480円

歩 数; 33,500歩

07:20     

スーパーホテル大垣発
このホテルは朝食(バイキング)が良い。もちろん満腹!。グルメで美食家のうちのカミさんにも食べさせたいなぁー。この朝食バイキング。喜ぶだろうなぁ、きっと。
薄日が差す。

07:25

JR大垣駅
空は曇っているが、今日は雨の心配は無いようだ。
足裏のマメが痛い。特に歩き出しの時は余計に痛い。今日は痛み止めの薬を飲む。
大垣=美濃赤坂 180円

07:33

JR大垣発
始発から終点までたった2駅しかない、典型的なローカル線。大垣=荒尾=美濃赤坂

07:40 JR美濃赤坂駅
07:50 中山道(今日の出発点=昨日の終着点)
 
     【旧街道の景観(宿場景観)】
 赤坂地区は、東西に走る旧中山道、四つ辻から北に伸びる旧谷汲街道、南に伸びる旧養老海道の3本の旧街道によって形作られています。旧街道沿いには宿場町としての歴史を伝える建物が数多く残されています。特に、四つ辻以西では統一された屋根並みを見ることができます。
 
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       【赤坂宿】
 赤坂宿は、かって中山道69次の57番目の宿場町として栄え、東西に連なる町筋には、本陣・脇本陣をはじめ旅籠屋17軒と商家が軒を並べ、美濃国の宿場町として繁盛していました。
 現在もその古い建造物や数多くの史跡が残されています。また、赤坂宿には谷汲(たにくみ)街道、養老海道が通っており、分岐点である四つ辻には道標が建てられています。 明治年間には杭瀬川の豊富な水量を利用した舟運交通が最盛期を迎え、赤坂宿の東端にある赤坂港が重要な役割を果たしていました。

 
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       57景 歌川広重
 木曽海道六十九次之内 赤坂

 宿場の東を流れる杭瀬川(=くいせがわ)と土橋、その先に連なる赤坂宿を描いている。雨上がりだろうか、姉さん被りは傘をすぼめ、長合羽の旅人が土橋を渡る。土橋を渡った右手に高さ3メートルほどの傍示杭が立ち、宿場の入口を示している。傍示杭には「自是大垣藩領赤坂宿」と書かれていた筈である。石が水面に出て浅く見えるが、実際の杭瀬川は水量豊富である。

 ◎赤坂宿 岐阜県大垣市
 美江寺宿から赤坂宿までは約8.7km。天保14年の人口は1129人、総戸数292軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠17軒であった。
 旅人の利便を考慮して設置された宿場で、また、杭瀬川に赤坂港を擁し水運で栄えた。江戸時代、杭瀬川には物資を輸送する舟が300艘も行き来していた。街道筋左右に、北に美濃国分寺があり、また関ヶ原の合戦の折、徳川家康が陣を布いた勝山がある。

07:54 脇本陣
「榎屋旅館」の看板
 
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       【中山道赤坂宿 脇本陣跡】
 江戸時代、中山道赤坂宿の脇本陣は、当家1箇所であった。大名や貴族の宿舎である本陣の予備に設立されたもので、本陣同様に処遇され屋敷は免税地であり、領主の監督を受けて経営されていた。
 当所は宝暦年間以後、飯沼家が代々に亘り、脇本陣役を勤め、また問屋、年寄役を兼務して明治維新に及び榎屋の屋号を用いて旅館を営み今日に至っている。
07:55

妙法寺
この付近やたら寺が多い。

 
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             <妙法寺>
08:00

お茶屋敷跡
すごい立派な日本庭園

 
ochayasiki   【お茶屋屋敷跡とボタン園】
 関ヶ原合戦で大勝した徳川家康は慶長9年(1604)、中山道沿いに将軍専用の休泊所として「お茶屋屋敷」を造営しました。創建当時の城郭様式をしのぶ土塁や空濠の一部が残っています。現在は東海一のボタン園としても有名です。
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08:15 兜塚
 
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       【兜塚】
 この墳丘は、関ヶ原決戦の前日(1600年9月14日)杭瀬川の戦に笠木村で戦死した東軍、中村隊の武将の一色頼母を葬り、その鎧兜を埋めたと伝えられている。以後、この古墳は兜塚と呼ばれている。
     大垣市教員委員会
08:30 如来寺
ずいぶんと立派なお寺だ
 
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      【如来寺の由来】
 善光寺如来が難波より信濃へ向かう途中、昼飯の供養をした関係から、建久6年に僧の定尊が、村東の花岡山の上に三尊仏を安置し、名を如来寺といいました。後年織田信長の兵火にあい当地に移り、秘仏となりました。又、ご本尊の開帳は8年目毎に行われています。
 ご本尊は善光寺の分身仏としては日本で最初ですから特に一体分身の如来といい、現在は大垣市常用文化財の指定を受けています。
          大垣市立青墓小学校

08:37 JR線路を横断
08:40

史跡の里 青墓町に入る

 
sidouhyou   【源朝長の墓】
 平治の乱(1159)に敗れた源義朝ら8人は、京都からここ青墓へ逃れてきました。16歳の次男朝長(頼朝の兄)は、比叡山の僧兵に襲われたときの足傷がもとで進退極まり自害し、ここに葬られました。
08:45 国宝・圓願寺(えんがんじ)
08:50

照手姫の水汲み井戸
現在も井戸がある。周囲は田んぼ、上から覗くと井戸上端より直ぐ地下1mほどに水位がある。水は濁っている。とても飲料には適さない。
たしか甲州街道第3日目、小仏峠の少し先の底沢「美女谷」にも「照手姫」の看板があった。あの照手姫が、ここにも出現している・・・・ なんだか変だな。

 
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terutehime
       伝承地・ 【照手姫の水汲み井戸】
             伝説 照手姫
 昔、武蔵・相模の郡代の娘で照手姫という絶世の美人がいました。この姫と相思相愛の小栗判官正清は郡代の家来に毒酒を飲まされてしまいました。照手姫は、深く悲しみ家を出て放浪して、青墓の大炊長者のところまで売られてきました。
 長者は、その美貌で客を取らせようとしますが、姫は拒み通しました。怒った長者は一度に百頭の馬にえさをやれとか、籠で水を汲めなどと無理な仕事を言いつけました。
 一方、毒酒に倒れた正清は、霊泉につかりよみがえり、照手姫が忘れられず、姫を探して妻にむかえました。
 この井戸の跡は、照手姫が籠で水を汲んだと伝えらえるところです。        大垣市教育委員会
09:00 青墓のよしたけあん
 
小笹竹の塚
   青墓にむかし照手姫という遊女あり
   この墓なりとぞ
   照手姫は東海道藤沢にも出せり
   その頃両人ありし候や詳ならず
(木曽路名所図絵より)
   一夜見し 人の情けにたちかえる
  心に残る 青墓の里
     慈円(後の慈鎮)
   大垣市立青墓小学校
昼飯町の由来
 むかし、善光寺如来と言う仏像が,大阪の海から拾いあげられ、長野の善光寺に納められることになりました。
 その仏像を運ぶ人々が、青墓の近くまで来た時は5月の中頃でした。近くの山々は新緑におおわれ、つつじの花が咲き乱れるすばらしい光景です。善光寺如来を運ぶ一行は、小さな池のそばでゆっくり休み、美しい景色に見とれました。一行はここで昼飯(ひるめし)をとりました。
 そこから、この付近を昼飯(ひるめし)というようになりました。しかし、その呼び名が下品であると言うので、その後、飯の字を「いい」と音読みにして「ひるいい」と呼ばれるようになりました。でも、「いい」は発音しにくいため「い」の一字を略して「
ひるい」と呼ばれるようになりました。また、ここの池は一行が手を洗ったので、「善光寺井戸」と言われ、記念に植えた三尊杉の木も最近まで残っていたと言うことです。(大垣市史青墓篇より)
            大垣市立青墓小学校
09:18 国分寺の碑、中山道一里塚の碑
 
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 国分寺道の碑  一里塚
09:43 垂井追分道標
09:50

垂井宿
    東の見付
 垂井宿は中山道の始点、江戸日本橋から約440キロメートル、58番目の宿になります。
 見付は宿場の入口に置かれ、宿の屋君ンはここで大名などの行列を迎えたり、非常時には閉鎖したりしました。ここ東の見付から約766メートルにわたり垂井宿が広がり、広重が描いたことで知られる西の見付に至ります。
                           垂井町

    相川の人足渡跡
  相川は昔から暴れ川で、たびたび洪水がありました。そのため、江戸時代初期には人足渡しによる渡川が主でした。
 川越人足は垂井宿の百姓がつとめ、渡川時の水量によって渡賃が決められていました。
 一方、姫宮や朝鮮通信使など特別の大通行のときには木場がかけられました。
                             垂井町

 
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    58景 歌川広重
 木曾海道六拾九次之内 垂井

 大名行列が、雨のぱらつく中を垂井宿に入ろうとしている。宿場の門のように見える石垣の向こうに、中山道の松並木が連なる。城の城門をまねて宿場の入口に設けた「見附」である。羽織袴の宿役人が、傘を差して大名行列を迎えに出る。左右の茶屋の前でそれぞれの主人と旅人が土下座で行れると迎える。右の茶屋の中には、遊女や風景を描いた浮世絵が飾られている。

 ◎赤坂宿 岐阜県大垣市
 西町・中町・東町の3町に分かれ、本陣は中町にあった。問屋場は3か所あった。毎月5と9の日に南宮神社鳥居付近で開かれた六斎市は大勢の人で賑わった。大垣・墨俣などを経由して東海道宮宿とを結ぶ脇往還美濃路との追分で、西美濃の交通の要衝であった。
 幕府領(大垣藩預り領)(1843年)
 人口:1179人、家数:315軒、本陣:1軒、脇本陣:1軒、 旅籠:27軒

09:55

問屋

 
    垂井宿の問屋
 間口4・5間、奥行7・5間の金岩家は、代々彌一右衛門といい垂井宿の問屋、庄屋などの要職を勤めていた。問屋には年寄、帳付、馬指、人足指などがいて、荷物の運送を取りしきり、相川の人足渡の手配もしていた。当時の荷物は、必ず問屋場で卸し、常備の25人25疋の人馬で送っていた。大通行が幕末になると荷物が多くなり、助郷の人馬を借りて運送した。  垂井町
10:00

南宮大社大鳥居
 寛永19年(1642)徳川家光将軍の寄進により南宮大社が再建された中で、明神型鳥居は約400両の金で、石屋権兵衛が建てた。
 横幅(内側)454・5センチ、頂上までの高さ715センチ、柱の周り227センチ。
正一位中山金山彦大神の額は、延暦寺天台座主青蓮院尊純親王の筆跡である。 垂井町

10:10

西の見附と広重の絵。
まだ桜が残っている。

10:25

日守の茶所
この付近、垂井から緩やかな上りが続く

    日守の茶所
 江戸末期に、岩手の美濃獅子門化月坊が、中山道関ヶ原山中の芭蕉ゆかりの地(常盤御前の墓所)に秋風庵を建てた。それを明治になって、一里塚の隣に移し、中山道を通る人々の休み場として、昭和の初めまで盛んに利用された。
 また、大垣新四国八八ヶ所弘法の札所とし、句詠の場としても利用された貴重な建物である。
                          垂井町

10:26

垂井の一里塚
住宅街のすぐ近くに見事な一里塚が残っている。風が強くなる。寒い

     垂井町指定史跡    垂井追分道標
                                昭和62年4月8日指定
 垂井宿は中山道と東海道を結ぶ美濃路の分岐点にあたり、たいへんにぎわう宿場でした。
追分は宿場の東にあり、旅人が道に迷わないように自然石の道標が建てられた。道標は高さ1・2m、幅40p、表に「是より 右 東海道大垣みち 左 木曽海道たにぐみみち」とあり、裏に「宝永6年己丑10月 願主奥山氏末平」と刻まれている。
 この道標は宝永6年(1709)垂井宿の問屋奥山文左衛門が建てたもので、中山道にある道標の中で7番目ほどの古さである。また、ここには高さ2mほ享保3年(1718)の角柱の道標もあった。
平成21年1月
垂井町教育委員会

 
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         <垂井の一里塚>

    史跡 垂井一里塚 昭和5年10月3日指定
 徳川家康は、街道整備のため、慶長9年(1604)に主要街道に一里塚の設置を命じた。これにより、江戸日本橋を基点として一里(4キロ弱)ごとに、5間(約9メートル)四方、高さ1丈(約3メートル)、頂に榎を植栽した塚が、道を挟んで2基づつ築かれた。
垂井一里塚は、南側の1基だけがほぼ完全にのこっている。
 旅人によっては、人夫や馬を借りるのに里程を知り、駄賃を定める目安となり、その木陰は格好の休み所となった。
 国の史跡に指定された一里塚は、中山道では東京都板橋区志村のそれとの二か所だけであり、交通史上の重要な遺跡である。

10:35 関ヶ原市に入る
10:45 県社・伊富岐神社
10:50 野上「七つ井戸」
 
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         <野上の七つ井戸>

 ここ野上は、中山道:垂井宿と関ヶ原宿の間の宿でした。江戸時代の頃から、僅少の地下水を取水して多目的(防火用・生活用・農業用)に利用されてきました。海道筋の井戸は「野上の七つ井戸」として親しまれ、 旅人には、喉を潤し、疲れを癒す格好の飲料水だったでしょう。近年は、水道事業が整備されて放置されてきましたが、先人が残した遺産の再発見の見地から休息所を兼ねて修復・再現しました。
 この木戸はつるべ式で実際に水を汲むことができます。但し、飲まないで下さい。また、汲む時は安全に充分ご注意下さい。

      <松並木>ここから並木が始まる

                  町指定天然記念物
 旧中山道松並木
 江戸時代には、一里塚をつなぐ街道の両側に、松・杉・楓などの並木があって、その木陰は旅人のしばしの憩いの場所となっていました。
 しかし、近年虫害や台風などによる松並木の減少が目立ってきました。
 そのため町では、天然記念物に指定し、防虫対策や補植により、その保護につとめています。関ヶ原町

11:00

松並木が始まる(上の写真・右)
六部地蔵
風が冷たい。ファイトーッ!

11:20 若宮神社
青空が見え始めた。風が冷たい。
11:30 関ヶ原駅前交差点
 
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    59景 歌川広重
 木曽街道六拾九次之内 関ヶ原       

 関ヶ原といえば古戦場として有名で、史跡には事欠かない筈だが、この図に古戦場の面影はまったくない。関ヶ原は北国街道との追分(街道の分岐点)である。右の茶屋の軒に下げた提灯に「名ぶつさとうもち」とあり、柱の看板には上に「三五」、その下に「そばきり」「うどん」の文字が見える。「三五」は広重が描いたこの図が江戸から数えて35番目であることを示している。

 ◎関ヶ原宿 岐阜県不破郡関ヶ原町
 歌川広重「木曽街道六十九次・関ヶ原」関ヶ原宿(せきがはらじゅく)は中山道58番目の宿場(→中山道六十九次)で、現在は岐阜県不破郡関ケ原町。付近は壬申の乱・関ヶ原の戦いの舞台であり、関連の史跡が多い。
 旗本竹中氏領(1843年);
 人口:1389人 / 家数:269軒/ 本陣:1軒/ 脇本陣:1軒/ 旅籠:33軒

11:40

古戦場入り口交差点
 ここから古戦場まで2kmも距離がある。迷っていると ラッキーなことに国道の向かいから空タクシーがやってきた。古戦場を回ってもらう。 タクシー代1,800円(往復)
 遠くの伊吹山には残雪が見える。ファイトーッ!

 
                  【関ヶ原の戦い
 関ヶ原の戦い(せきがはらのたたかい)は、安土桃山時代の慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)に、美濃国不破郡関ヶ原(岐阜県不破郡関ケ原町)を主戦場として行われた野戦。関ヶ原における決戦を中心に日本の全国各地で戦闘が行われた。 主戦場となった関ヶ原古戦場跡は国指定の史跡となっている。
sekigahara sekigahara
sekigahara 1600年10月、東西天下分け目の戦いが繰り広げられた「関ヶ原」の中心部
sekigahara 数千人が血みどろの戦いを展開した関ヶ原の古戦場広場で若者が楽しんでいる。平和っていいなぁ。
12:05

西首塚
 大きな木の下に祠がある。

 関ヶ原合戦戦死者数千の首級を葬った塚である。
この上に江戸時代から十一面千手観世音及び馬頭観世音の堂が建てられ、付近の民衆の手によって供養がされている。    関ヶ原町教育委員会

12:25

美濃不破関

    不破の関跡
 東山道の美濃不破関は、東海道の伊勢鈴鹿関、北陸道の越前愛発関とともに、古代律令制制下の三関の1つとして、壬申の乱(672年)後に設けられたとされています。
 延暦8年(789)に撤廃されて後は関守が置かれ、平安時代以降は、多くの文学作品や紀行文に関跡の情景がしきりと記されてきました。 関ヶ原町

12:30

不破関西城門と藤古川 

    藤古川
 この川を古くは関の藤川と称し、壬申の乱には川を挟んで東が天武天皇軍、西側には弘文天皇軍が陣しそこの地区民は銘々の軍を支援したので、戦後東の松尾地区は天武天皇を祭って井上神社と号し、川西の藤下、山中地区では弘文天皇を祭って氏神とし、現在に及んでいる。
                           関ヶ原町観光協会

12:38 矢尻の池(井)
12:50 蛍の滝
すぐ前方に新幹線の高架
12:55 常盤御前の墓
13:10

今須峠(中山道)
 ここ峠の頂上は山中の常盤塚辺りの登り口より約1,000メートルの道程です。
 一条兼良はこの峠で「堅城と見えたり、一夫関に当たれば万夫すぎがたき所というべし」(藤川の記)と認めたように、この付近きっての険要の地でした。
 往時この付近には、茶店があり、旅人の疲れを癒すお休み処として、賑わっていました。
 京方面に向かって約200メートル、一里塚を眺め峠を下ると、今須宿に入ります。
                   関ヶ原町

13:15 今須一里塚
 
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       <今須の一里塚>         <今須宿入口>
13:18 今須宿入り口
13:25

今須本陣跡
桜がちょうど満開だ。

    中山道今須宿 本陣跡・脇本陣跡
 当宿は美濃国と近江の国の境の宿として栄えました。125坪の本陣が1軒で、現在の小学校と支所付近一帯に位置していました。また脇本陣は美濃16宿の中でも当宿のみ2軒あり、各々現在の小学校駐車場付近辺りにあったのです。
後者河内家の母屋は寛政年間に現米原市伊吹町の杉沢地内妙応寺末寺玉泉寺に移築され、当時の面影を今に伝えています。
 尚、関ヶ原合戦の翌日、佐和山城攻めに際し、家康が本陣伊藤家の庭先で休息した折、腰掛けたという石は、現在東照宮大権現腰掛石として青坂神社境内で保存展示されています。 関ヶ原町

 
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    60景 歌川広重
 木曾海道六拾九次之内 今須宿

 傍示杭に「江濃両国国境」とある。近江(滋賀県)と美濃(岐阜県)の国境である。手前の茶屋を近江屋、向こうの茶屋を両国屋といった。近江屋の仙女香坂本氏」の看板は白粉の宣伝である。両国屋の看板には「寝物語由来」とある。近江人と美濃人がわずか数十センチを隔てて、壁越しに寝ながらにして他国の物語を語り合えたことから、ここを「寝物語の里」と呼ぶようになった。

 ◎今須宿 岐阜県不破郡関ヶ原町
 歌川広重「木曽街道六十九次・今須」今須宿(いますじゅく)は中山道の59番目の宿場で、現在は岐阜県不破郡関ヶ原町。
幕府領(大垣藩預り領)(1843年)
人口:1784人 、家数:464軒、本陣:1軒、脇本陣:2軒、旅籠:13軒

13:30

問屋場・山崎家

 江戸時代、人や馬の継ぎ立てなど行った問屋が、当宿には一時7軒もあって全国的にも珍しいことでした。
美濃16宿のうちで、当時のまま現存し、その偉容を今に伝えているのはここ山崎家のみです。
 縁起物の「永楽通宝」の軒丸瓦や、広い庭と吹き抜けなどから、当時の繁栄振りがうかがえます。
                             関ヶ原町

 
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       <問屋場・山崎屋>  
13:33 常夜灯
13:55 おくのほそ道
13:58 県境
 
kenkyou 「寝ながら他国の人と話が出来た」という、岐阜県と滋賀県の県境である。
記念に、この溝におしっこをする。
      <岐阜県と滋賀県の県境>  
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14:00

寝物語の里

    寝物語の由来
 近江と美濃の国境は、この碑の東10メートあまりにある細い溝でした。この溝を挟んで両国の番所や旅篭があり、壁越しに「寝ながら他国の人と話し合えた」ので寝物語の名が生まれたと言われています。また、平治の乱(1159)後、源義朝を追って来た常盤御前が「夜ふけに隣り宿の話し声から家来の江田行義と気付き奇遇を喜んだ」所とも「源義経を追って来た静御前が江田源蔵と巡り合った」所とも伝えられています。
寝物語は中山道の古跡として名高く、古歌等にもこの名が出ていますし、広重の浮世絵にもここが描かれています。
      ひとり行く 旅ならなくに 秋の夜の
                       寝物語も しのぶばかりに 太田道灌
           平成4年1月 滋賀県米原市

14:10

長比城跡登り口
東山道道標
正確には、東山道・中山道分岐点道標。
県境、寝物語長久寺より坂下JR踏切までは、古道東山道は廃道になり、踏切を渡り、柏原宿に入る道が、中山道として新設された。

14:20 柏原宿
 
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     61景 歌川広重
 木曽街道六拾九次之内 柏原

 柏原場宿の名産品、艾を売る老舗の「亀屋」。艾は灸治療に用いる。縁起物の福助の前には番頭が、伊吹山の模型の前で手代が並べた艾を買い受けている。亀屋は茶屋も兼業していて、金太郎人形が飾られた左側の茶屋では旅人が2人、くつろいでいる。人足が運んできた荷物は艾であろうか。

 ◎柏原宿 滋賀県米原市

 ここ柏原宿は、お江戸日本橋より中山道69次(草津宿で東海道と合流)の内61番目になり、約112里(1里は3・9キロメートル)、京までは約21里のところにある。
 江戸時代は、随分栄えたもので、宿場としての業務も、かなり苦労が多かった様である。
 幕末広重画く「柏原宿」の看板は、何と言っても「伊吹もぐさ」の老舗伊吹堂で、現在の建物そのままである。当時「伊吹もぐさ」を商う店は十指に余り、中山道有数の宿場名物となっていた。現在は1軒だけとなっている。
柏原宿は、規模が大きく、69宿中宿高で4番目、宿場の長さ13町(1420メートル)は10番目、戸数人口もこの辺りでは東の加納(岐阜市)、西の高宮(彦根市)に次ぐ宿場である。しかも旅籠屋(旅人たちの宿屋)は、隣宿との距離が近かったにもかかわらず22軒もあった。
 現在、1軒も残っていないのが残念である。
 本陣、脇本陣は、それぞれ1軒、問屋(人馬、荷物の継ぎ立て一切を行う)は、当宿には6軒(開宿当時は20軒を数え、幕末になると、普通各宿多くて3軒までなのに、関ヶ原から番場までの5宿は、それぞれ6、7軒あった)、その問屋を補佐する年寄(村役人)は8軒あり、造り酒屋も一時は4軒もある盛況であった。この宿は、古くより東町・市場町・今川町(箕浦と言ったこともある)及び西町の4町からなり、宿場機能の中枢は、市場町でした。 一つの宿場に4社も氏神があるのはそのためである。柏原の総社は、野瀬の神明社である。又お寺の多いことも有名で、ひと頃は30ヶ寺を越え、現在も15寺と3堂がある。中世京極道誉の随臣、箕浦氏が4百年柏原を守った居館跡(柏原箕浦城跡)、近世徳川家光により創建された柏原御茶屋御殿跡(地名として残る)等がある。宿場からは外れるが、織田信長が宿泊した成菩提院は、 天台談林三箇随一と言われた名刹で、盛時には、60坊を数えたと言う。国指定重要文化財等豊富である。また、宿場の東約13丁の地に江濃国境があり、有名な寝物語の里(長久寺)がある。この様な柏原宿であるが、しだいに昔の面影が消え、今にも忘れ去られようとしている。せめてもの思いに、下図の様な復元図(山東町史附図)を掲げた。                           平成5年3月

14:30 八幡神社
 
kasiwabara
          <八幡神社>
14:35 JR柏原駅入り口交差点(今日の終点)
33,500歩
15:23

米原発京都経由、新幹線で東京へ
米原=京都=東京 9,170円、弁当1,000円 お茶130円
歩いて21日間もかかった江戸=柏原の間がわずか3時間で到着。早すぎる、安すぎる。楽すぎる。

 
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