中山道

【中山道】

中山道は日本橋から板橋、大宮、熊谷、高崎を経て碓氷峠を越えて信濃国へ軽井沢、岩村田、和田峠、下諏訪、奈良井、鳥居峠、木曽福島、妻籠・馬籠を経て美濃国へ、さらに加納、赤坂、関ヶ原をすぎて近江国の草津で東海道に合流し京都に至る。全長は約533kmで69の宿場がある。
 東海道と並び江戸と京都を結ぶ大幹線で、芭蕉が往来し、剣客や幕末の志士が駆け抜け、皇女和宮の3万人近い大行列が25日間かけて江戸に下ったという。女の人大井川(徒歩)をはじめ、浜名の渡し、桑名の渡しといった水難所の多い東海道を嫌っていたので中山道は姫街道とも呼ばれている。
 東海道と同じ江戸時代の五街道の一つ。前身を東山道とも呼んで古代から中世にかけて畿内と中部・奥州を結ぶ重要な街道であった。

「街道ウォーカー」(=右のイラスト)と一緒に歩いてみませんか。北国街道を踏破中(2013年2月1日現在)

変なおじさん
第22日目
柏原〜醒ヶ井〜番場〜鳥居本〜高宮〜愛知川

月 日; 2009年7月14日(火)、天気;晴れ
区 間; 柏原=愛知川(えちがわ)
時 間; 11時00分、27.6km
費 円;

合計12、676円
(内訳)JR米原ー柏原230円、蓮華寺入山料300円、昼食1,050円、ホテル代6,300円

歩 数; 55,500歩

06:08 JR米原駅発
06:20

柏原駅
駅舎には全くの無人。せっかく買った米原=柏原間のJR切符が不用だったか。まぁーいいか!
駅近くや付近には全く人がいない。

06:30

柏原・八幡神社
今日のスタート。ファイトーッ!

 
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  <柏原宿・八幡神社>
芭蕉と伊吹山
松尾芭蕉は、柏原宿を3回、西から東へ通っている。3回目のあと大垣の句会で詠んだ、伊吹山の句碑が、清滝の入口にある。
「奥の細道」では、伊吹山山麓の北国脇往還を関ヶ原へと通った。そのときも伊吹山の句を残している。
その句碑は、すぐ後ろ神社境内、松の木の下にある。
06:40 問屋場跡
 

 問屋とは、街道の運送問屋のことで、宿場第一の業務を担当した。
 公用の旅人・荷物と幕府ご用状の、両隣宿までの運送を継立(駅伝方式)で行った。宿屋の斡旋も仕事。 柏原宿では、江戸後期には6軒の問屋が、東西3軒づつに分かれ、自宅で10日交代で勤めた。 中山道の人足・役馬は、50人50疋が義務付けられ、下役に帳付・馬指・人足指がいた。村年寄役が問屋役を補佐した。
 人足・馬を出し、問屋業務を助けた助郷村は、当初近隣16ヶ村。彦根藩村々の離脱から、51ヶ村かつ遠方が多くなり、宿場・助郷村とも苦しんだ。

  柏原宿本陣跡(現在は郵便局)
 

柏原宿本陣跡
本陣は、大名、幕府役人、宮家、公卿、高僧他貴人が利用する公的休泊施設である。
柏原場宿は江戸時代を通し南部家が本陣役を務めている。間口はこの家の領となりを合わせた広さだ、屋敷は526津bの、建坪は138坪あった。建物は皇女和宮sh区は区の時、新築されたともいわれる。明治になり、柏原小学校の前身の開文学校はここに創設された。
その後建物は明治中期に岐阜県垂井の民宮神社宮司宅へ移築された。

  東の荷蔵跡
 
運送荷物の両隣宿への継立(駅伝運送)が、当日中に出来ない場合、荷物を蔵に保管した。
この蔵は東蔵と呼ばれ、藩年貢米集荷の郷蔵でもあった。
荷蔵は宿西部にもあっ
た。
 
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    61景 歌川広重 
 木曾海道六拾九次之内 柏原

 柏原宿の名産品、艾(=もぐさ)を売る老舗の「亀屋」。艾は灸治療に用いる。縁起物の福助の前には番頭が、伊吹山の模型の前では手代が、並べた艾の包みを前に座っている。店内には旅人が3人。1人が手代から艾を買い受けている。亀屋は茶屋では旅人が2人、くつろいでいる。人足が運んできた荷物は艾であろうか。

 ◎柏原宿 滋賀県米原市
 今須宿から柏原宿までは約3・9キロ。天保14年の人口は1468人、総戸数344軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠22軒であった。
北に伊吹山がそびえ、古くから薬草の多く採れた土地である。特産品は伊吹艾。柏原宿には10軒以上の艾屋があったともいわれ、絵にある「亀屋」はその中でも最も有名な店である。現存する伊吹艾本舗亀屋には、今も店内に福助人形が座る。

 

    柏原宿本陣、南部家「風雅の道」
          20世・中興4代 辰右衛門実村 (俳号)流木堂江水

芭蕉と同じ時代の人、ともに貞門の流れを歩み、数冊の句集を編纂。
   「元禄百人句」
           次の夜は唯ひとりゆくすずみ哉 江水自作
   「柏原句集」
     江水亭にて(前書)
           しら梅の花より上はいぶきかな 大垣 谷木因
   「柏原句集」
     芭蕉の門人との交遊も厚かった
江水亭にて
           行暮れて蚊屋釣草にほたる哉
   芭蕉十哲の一人 美濃各務支考

二十五世・中興九代 辰右衛門実堅
           萬代の 霧をかさねて 住みよしの
                きしの姫まつ 神さびにけり

06:47 高札の跡と秋葉山
 

    高札場(札の辻)跡
 高札場とは、幕府のお触書を板札にして、高く掲げた場所を云う。
高札は江戸中期以降幕末まで、正徳大高札六枚・明和高札一枚・その時の両隣宿までの運賃添高札一枚、計8枚が懸かっていた。
 高札場は、道沿いの長さ4・86メートル、高さ0・91メートルの石垣を築き、その上に高さ3・33メートルの高札懸けの建物があった。
 なお、柏原宿には、出町(小字)長沢にも小さい高札場があった。

 
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                   <中山道・柏原場宿>
 
    西の荷蔵跡
 運送荷物の東西隣宿への継立(駅伝運送)が、当日処理できない場合、荷物を蔵に預かった。
この蔵は西蔵と呼ばれ、藩年貢米集荷の郷蔵でもあった。
荷蔵は宿東部にもあった。
なお、当宿は、寺院の数が中山道2番目と多く、寺院は荷蔵や宿屋に利用され、柏原宿は大通行定番の宿泊地となった。
 
    「やくし道」道標
 最澄が創立したと云う明星山明星輪寺泉明院への道しるべである。
 宿内東に、同じ薬師仏を本尊とする長福寺があったので、明星山薬師道、西やくし道とも呼んだ。
太平洋戦争までは、眼病に霊験ありと賑わったが、門前の明星村も消え、今は往年の面影がない。
この道標は享保2年(1717)と古く、正面が漢文、横2面が平仮名・変体仮名を使った二つの和文体で刻まれている。
 出町(小字)長沢にも、同型の道標がある。
 
    柏原宿脇本陣跡
 脇本陣は、大名・幕府役人・宮家・公卿・高僧他貴人が、本陣を利用できないときの、公的休泊施設である。
 柏原宿は南部本陣の別家が本陣同様江戸時代を通して務めた。
 間口はこの家と隣の郵便局を合わせた広さで、屋敷は228坪、建坪は73坪あった。
当家は問屋役を兼務していた。
 
    旅籠屋跡
 天保14年、柏原宿では東部のここ市場町・東隣り宿村町と西部の御茶屋御殿辺りとに22軒の旅籠屋(宿屋)が集まっていた。
  同じ年の宿内職業記録には、
    まぐさ屋  9軒
    (屋号の頭は、どこもみな亀屋)
    造り酒屋 3 請負酒屋 10
    炭売茶屋 12 豆腐屋 9
    (煮売家) 他商人 28
    大工 10 鍛冶屋 1
    諸職人 13  医師 1
とある。
06:50

柏原宿歴史館
時間が早くまだ開館していない。
日枝神社。
この付近には昔の面影が色濃く残っている。人通りがほとんど無い。さびしい。

 
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06:55 西の荷蔵跡
    西の荷蔵跡
 運送荷物の東西隣宿への継立(駅伝運送)が、当日処理できない場合、荷物を蔵に預かった。
この蔵は西蔵と呼ばれ、藩年貢米集荷の郷蔵でもあった。
荷蔵は宿東部にもあった。
 なお、当宿は、寺院の数が中山道2番目と多く、寺院は荷蔵や宿屋に利用され、柏原宿は大通行定番の宿泊地となった。
06:57 「やくし道」道標
 
    「やくし道」道標
 最澄が創立したと云う明星山明星輪寺泉明院への道しるべである。
 宿内東に、同じ薬師仏を本尊とする長福寺があったので、明星山薬師道、西やくし道とも呼んだ。
太平洋戦争までは、眼病に霊験ありと賑わったが、門前の明星村も消え、今は往年の面影がない。
この道標は享保2年(1717)と古く、正面が漢文、横2面が平仮名・変体仮名を使った二つの和文体で刻まれている。
 出町(小字)長沢にも、同型の道標がある。
07:00 柏原一里塚
 
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07:05 西見付跡
 

    西見付跡
 柏原宿西の入口で、道の両側に喰い違いの土手(土塁)がある。見付の語源は城門で、宿場用語になった。
 この地点の海抜高度は、174メートル。(磨針峠は154・2メートルで、ここより低い)
彦根城と比較すると、天守閣の上に天守閣を更に一つ、大垣城では、なんと六つ積み上げないとここの高さに届かない。
柏原宿は、東見付まで13町(1・4キロ)。長く高知の町並みが続く。

07:20 山道と旧中山道との分岐
 
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    東山道と九里半街道 (古道東山道の道筋)
 東山道は、横川駅があった梓を中山道と同じ道で東へ進み、長沢を過ぎ、ここ北畠具行卿墓参道入り口のある谷間で、中山道と別れ山越えする。
 徳源院のある清滝へ降り、右へ折れ、成菩提院裏山の北側を東進する。
JR野瀬(山)の踏切に至り、再び中山道と合流して、県境長久寺へと向かう。

 
    (九里半街道)
 中山道関ヶ原宿と番場宿の間は、九里半街道とも呼ばれた。
 木曽・長良・揖斐三川の水運荷物は、牧田川養老三湊に陸揚げされ、関ヶ原宿から中山道に入り番場宿で、船積の米原湊道へ進む。
 牧田から米原湊までの行程は九里半あった。関ヶ原・今須・柏原・醒ヶ井・番場の五宿は、この積荷で、6,7軒と問屋場が多かった。
 

    掃除丁場と並び松
 掃除丁場とは、街道掃除の持ち場・受持ち区域のこと。
 貴人の通行に備え、街道の路面整備・道路敷の除草と松並木の枯木・倒木の処置・補植に柏原宿では江戸後期二一ヶ村が夫役として従事した。
 丁場の小さいところは、伊吹上平寺村で一五メートル。大きい所では柏原宿を除き長浜の加田村で488メートルもあった。
 江戸時代の柏原宿では、松並木のことを「並び松」と呼んでいた。
また、東西両隣り(長久寺・梓河内)、村境までの街道松の本数は、明治5年の調査から逆算、幕末には約450本植えられていた。

07:35


八王子神社

 
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 天の川源流・・・・って何だ?
 この付近から流れ出し、琵琶湖に注ぐ「天野川」のことらしい。紛らわしいじゃないか?
07:45

国道21号線と合流。
この付近、気持ちの良い街道一人歩きが楽しめる

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08:00 八幡神社
 
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08:03 一里塚の跡
 
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08:10 鳥ヶ端
全く展望が利かない。高速と21号線とJRとにはさまれている。
 
    鶯ヶ端
 ここからは、特に西方の眺めがよく、はるか山間には京都の空が望めるというので有名で、旅人はみな足をとめて休息したという。
 平安時代の歌人で、中古三十六歌仙の一人、能因法師も
       旅やどり ゆめ醒井の かたほとり
                      初音もたかし 鶯ヶ端
と詠んでいる。
  見付跡・枡形
 
    見附跡、枡形
 醒井宿の東西には、見附(番所)が設けられ、東の見附から西の見附まで8町2間(876m)が醒ヶ井宿であった。東の見附のすぐ西は、道が直角に右に曲がり、少し行くと左に直角に曲がる、枡形になってる。枡形は、城郭や城下町にあり城では、1の門と2の門との間に設けられ、敵の進む勢いを鈍らせたという。
  醒ヶ井宿
 
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    62景 歌川広重  
 木曾海道六拾九次乃内 醒ヶ井宿

 日本武尊由来の名勝が多い宿場だが、宿場のはずれ、六軒町辺りを描いた図。宿場の背後の松林と左の山の間には天野川が流れ、琵琶湖に注いでいる。竹馬と槍を担いだ2人の足軽は大名行列の最後尾である。足軽の背中にはこのシリーズの版元錦樹堂の商標「林」が染め抜かれている。土手の上では行列の威圧感から解放された農夫が、のんびり煙草をくゆらせている。

    ◎醒ヶ井宿 滋賀県米原市
 今須宿から醒ヶ井宿までは約3・9キロ。天保14年の人口は539人、総戸数138軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠11軒であった。
 この宿場には「三水四石」といわれる名勝がある。日本武尊が体を癒したと伝えられ、地名の由来である「居醒の清水」と「十王水」「西行水」、日本武尊の「腰掛石」に「蟹石」「鞍掛石」「影向」である。豊富な湧き水が多くの旅人が足を止めた。

08:15

居醒の清水
加茂神社

 
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             <加茂神社>
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    仏心水
 仏教用語で「仏心」とは、仏のこころ、大慈悲(心)のことを言います。
 中山道、馬頭観音の近くにあり、街道を往来する馬の息災を祈願して、江戸時代後期に建立された馬頭観音に対して、この井戸には、旅人の喉を潤すだけでなく、御仏の慈悲のもとで旅の安全を祈願したような意味があると考えられます。
 他に事例が見当たらないこと、中山道の要所にあることから、非常に貴重なものだと思われます。
           地縁団体 一色区
08:20

本陣跡
道路わきを清水が豊富に流れている。

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08:33

泡子塚 の付近、やたら湧き水が出ている。

 
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<いたる所で清水が湧いている>
08:40 六軒茶屋跡
 
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  <六軒茶屋跡の指標>
08:45 一類弧魂等衆の石碑
 
ichiriduka     「一類弧魂等衆」の碑
 江戸時代後期のある日、東の見附の石垣にもたれて、一人の旅の老人が、「母親の乳がのみたい・・・・」とつぶやいていた。人々は相手にしなかったが、乳の飲み子を抱いた一人の母親が気の毒に思い「私の乳でよかったら」と自分の乳房をふくませてやりました。老人は、2口3口おいしそうに飲むと、目に涙を浮かべ「有り難うございました。本当の母親に会えたような気がします。懐に70両の金があるので、貴女に差し上げます」と言い終ると、母親に抱かれて眠る子のように、安らかに往生をとげました。この母親は、お金は頂くことは出来ないと、老人が埋葬された墓地の傍らに、「一類弧魂等衆」の碑を建て、供養したと伝えられています。
08:55 茶屋道館
 
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       <昔の風情を残す旧家>
09:00 ひぐち
09:10

敬永寺
ジリジリと太陽が暑くなってきた。ファイトーッ!

 
keieiji  敬永寺(きょうえいじ)
 竹林山敬永寺は古く天台宗の寺院でしたが、顕如上人の頃、浄土真宗に改宗しました。 寛文13年(1673)、東本願寺宣如上人より木仏御本尊を、後には一如上人より親鸞聖人御影をそれぞれ下付されています。
まちづくり事業により作成
平成16年1月   南三吉区

 
  <きれいに掃除された敬永寺>
09:15 久禮の一里塚
 
ichiriduka 江戸へ約117里(459.5km)
京三条へ約19里(74.6km)

 

09:35 番場の宿
 
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09:37 問屋場跡
09:40 脇本陣跡
 
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    63景 歌川広重 木曾海道六拾九次之内 番場宿 
 
番場宿の入口から宿内を描く。立ち話をしている3人の馬子は、帰り馬に乗せる客待ちであろうか。茶屋の前には宿場篭があるが、駕篭かきはいない。その脇を通り過ぎる白い着物は伊勢神宮参りの奉公人であろう。情景に市井の人びとのさまざまな生活を配置する手法は、浮世絵の特徴である即時性が遺憾なく発揮され浮世絵が都市生活の絵画であることがわかる。

    ◎番場宿 滋賀県米原市
 醒ヶ井宿から番場宿までは約3.9キロ。天保14年の人口は808人、総戸数178軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠10軒であった。飛鳥時代からある宿場だが、距離的にはさほど重要な位置ではない。慶長16(1611年)米原までの「切り通し」(山や丘などを掘削して開いた道路)が成り、米原港の開設で、琵琶湖を渡って京を結ぶ近道への分岐点として重要とされたものと思われる。

09:45

蓮華寺
物凄い数の石仏が並んでいる。

 

    蓮華寺
 寺伝によれば聖徳太子の建立でもと法隆寺と称したが、鎌倉時代一向上人が土地の豪族土肥元頼の帰依を受けて再興し時宗一向派の本山となり、幾多の変遷を経て現在では浄土宗となっている。
北条仲時以下430余名自刃にまつわる過去帳や墳墓に悲哀を物語り、あるいわ長谷川伸の「瞼の母」で有名な番場の忠太郎や、斉藤茂吉ゆかりの寺としてその歴史にふさわしい数々の逸話を秘めている。

    北条仲時以下432名墓所
 足利尊氏に攻められ六波羅深題北条仲時は鎌倉へと逃げるため番場宿まで来たが佐々木京極道誉たに行く手を阻まれ奮戦むなしく元弘3年5月9日(1333)この寺で自刃した。憐憫の情をさそわれた当時の住僧同阿はこれを丁重に葬り、法名を授けその姓名を陸波羅南北過去帳で蓮華寺過去帳として書き残したが、これが現在重要文化財としてこの寺に伝わっている。

 
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10:10

北野神社
ここからゆるい上り坂が続く。

10:35 峠(本当の摺針峠はもっと先にあった)
11:00 道の間違いに気づく。1キロメートルほど戻る。ツライ!
11:20

称名寺(=摺針峠)
ここから琵琶湖が展望できる。
道の間違いで30分以上もロスしてしまった。

11:50 鳥居本宿
棒屋跡
赤玉神教丸の店
 

 鳥居本は、江戸から数えて中山道67宿のだい63にあたる旧sh玖波町です。当時旅人に道中がっぱを製造販売していた店の古い木製看板や、万病に効くとと言われる道中薬を江戸時代から製造販売している有川家などに旧街道の名残が見られます。旅人達に木陰を提供した松並木や格子構えの家が並ぶまちをふらりありいてみてはいかがでしょう。

 
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    64景 歌川広重  木曾海道六拾九次之内 鳥居本宿
番場宿から急な上り坂となった「摺針(磨針)峠」の景色。弘法大師が修業中この峠を通りかかると、老婆が斧を磨いていて「針にする」という。大師は自分の修業の未熟さを恥じ、さらに修行に励んだという逸話が地名の由来。左の茶屋は「望湖堂」で琵琶湖を臨む「中山道随一の名勝」といわれた絶景である。この茶屋に弘法大師が供えた栃餅が受け継がれていた。

    ◎鳥居本宿 滋賀県彦根市
番場宿から鳥居本宿までは約4キロ。天保14年の人口は1448人、総戸数293軒、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠35軒であった。隣村の小野にあったが、寛永年間(1624〜43年)にここに移設された。鳥居本は、中山道と将軍代替りの際に来日した、朝鮮通信使一行が通る「朝鮮人街道」との分岐点。地名の由来は、日無神社の鳥居が街道に建っていたことによる。

11:55 鳥居本駅
12:05

「左・中山道、右・彦根道」の石碑
彦根道は通称「朝鮮人街道」という。

 
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<中山道と彦根道(=「朝鮮人街道」の追分>

12:10 古宿に入る。
 
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小野町古宿、周囲は田んぼ
周辺には誰もいない
12:25

小野町
八幡宮。
本殿は100メートルほど離れている。左が名阪高速道路、すぐ右側を新幹線、その真ん中に旧東海道が肩身を狭くして延びている。

 
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         <八幡神社>
12:35 小野小町塚。これって?あの、オノノコマチのこと・・・・?
 
komachiduka
    <小野小町の塚>
12:45 芭蕉昼塚
13:00

スーパー
ちょうど良い所にスーパーが出現した。この付近には全く店らしきものは無く、まるで砂漠の中でオアシスに出会った。 幕の内弁当をお茶などを購入してスーパーのコーナーで昼飯とする。
とてもラッキーだった。ファイトーッ!

14:05

踏み切り
高宮入り口

14:10

「大北地蔵」

14:15

高宮神社
本殿まで100メートル以上離れている。

14:20 多賀神社大鳥居
14:25

本陣跡
円照寺

 
    円昭寺
 明応7年(1498)、高宮氏の重臣、北川九兵衛が剃度して釈明道となり仏道を建立したのが起源。元文5年(1740)には火災で本堂は焼失したが、9年の歳月を費やし再建された。
境内には、明治天皇ゆかりの「しらん松」と呼ばれる松の木(2代目)や老紅梅の垣の中に徳川家康が腰かけたとされる「家康腰掛石」がある。
 
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    高宮宿65景 歌川広重  木曾海道六拾九次之内 高宮
高宮宿の南を流れる犬上川の南岸から宿場を臨む図。平時の犬上川野水は地下を流れ、旅人は仮橋を渡っていた。この図では橋板が外されいて、人びとは水のない場所を選んで歩いて渡っている。手前の嫁と姑が軽々と背負う大きな荷は、名産の麻をとった後の茎で、苧殻(おがら)と呼ばれるものである。お盆の迎え火などに使われる。後ろから小田原提灯を下げた武士がやってくる。

    ◎高宮宿 滋賀県彦根市
鳥居本宿から高宮宿までは約5.9キロ。天保14年の人口は3560人、総戸数835軒、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠23軒であった。宿場として制定される前から、多賀大社の門前町として栄えていた。鳥居本を出て右手に彦根城を見る街道を進むと高宮宿で、宿の中央に多賀大社の大鳥居があった。周辺の村で生産された麻布は近江上布とランクされた「高宮布」が特産品である。

14:30 むちん橋
14:55 出町
15:25

豊郷小学校
まるで大学のような立派な校舎

 
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15:30 一里塚の郷(石畑)
 
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       <石畑の一里塚の郷>
 
 私たちの石畑の歴史は古く平安時代後期までにさかのぼります。
 1185年(文治元年)源平の争乱の中、屋島の合戦で「弓矢の名手」として名を馳せた那須与一宗高の次男石畑民武大輔宗信が、子の辺りの豪族であった佐々木氏の旗頭として、那須城(城跡)を造り、この地を治めていました。1239年(延応元年)男山山八幡宮(京都:石清水八幡宮)から勧請した八幡神社と1258年(正嘉2年)に創建した称名寺があります。
 また、江戸時代後期には、街道の往来でにぎわう中山道・高宮宿と愛知川宿の間の宿(あいのしゅく)として発展し、立場茶屋(たてばちゃや)が設けられ旅人や馬の休息の場として栄えました。
 さらに、中山道の役場前交差点南(小字一里山)には「一里塚」が設けられ、「高さ丈予の塚で、松が植えられてあって、塚の上から湖水が見えた}と、豊郷村史に記されています。

15:35 伊藤忠記念碑
街道歩きには直接関係ないけれど、道のやけに目立つ所にこの石碑が飾られていた
 
itouchu    伊藤忠兵衛記念館
 伊藤忠商事、丸紅の創始者・初代伊藤忠兵衛の100回忌を記念して初代忠兵衛が暮らし、2代忠兵衛が生まれたここ豊郷本家を整備、伊藤忠兵衛記念館と命名して、一般公開することとなりました。
初代及び2代忠兵衛の愛用の品をはじめ、様々な資料を展示して繊維卸から「j総合商社」への道を拓いたその足跡を紹介しています。
この旧邸は、初代忠兵衛が生活していた頃そのままの形で残されその佇まいからは、”近江商人”忠兵衛の活況ある当時の暮らしぶりやそれを支えてきた、初代の妻・八重夫人の活躍を偲ぶことができます。
また、ここで生まれた2代忠兵衛は、母である八重夫人の教育もあり国際的なビジネスを展開し、現在の「総合商社」の基盤を築いています。
近江商人のスピリットを先進的な感覚を合わせて世界という舞台にのせた初代伊藤忠兵衛と2代忠兵衛、そして八重夫人のルーツにふれながらその偉大な業績を讃え、末永く後世に語り継いでいきたいと思います。  
        <伊藤忠兵衛翁の碑>
16:00 観音堂
16:05 愛知川宿入り口
  oiwakeechigawa
 
shukuba-echigawa

    66景 歌川広重 木曾海道六拾九次之内 恵智川
鈴鹿山脈から流れてくる愛知川(恵智川・越知川9の図。橋の袂の標注に「むちんはし」「はし銭いたす」とある。当時、橋の維持費として5文(125円)ほどの通行料を取るところが多かったが、宿場の町人5人が中心になって架けられたこの橋は、慈善のために通行料を無料にしたため、「無賃橋」と呼ばれた。この橋を渡ると鬢付け油が名産の小幡村である。

    ◎愛知川宿 滋賀県愛知郡愛知川町
高宮宿から愛知川宿までは約7・9キロ。天保14年の人口は929年、総戸数199軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠28軒であった。琵琶湖の湖東に位置し、中山道制定以前からあった宿場で、東海道49番目宿場、滋賀県甲賀市の土山宿へ抜ける御代参街道の分岐点。「近江商人」発祥の地のひとつ「五箇荘」がある。彦根を愛知川の間は、麻布生産と周辺地域の物産集散地として栄えた。

16:30 愛知川北入り口
16:35

八幡神社
高札場

 
kousatubaato tonnyaba-ato
16:50 愛知橋(国道8号線)
17:05

愛知川を渡った所に大きな常夜燈(下の写真)
今日はこの付近で体力の限界。しかし この付近に宿は全くない。ちょうど工場を出てきた2人の夫人に「宿」を尋ねると1km程戻ると「宿」がある・・・・かも知れないという。
お願いして、車に同乗させていただく。

 
jyouyatou bunki
    <愛知川直ぐ近くの大きな常夜>灯       <ここから右に曲がる>
17:30

旅館
紹介された旅館を尋ねて街道を1キロほど戻る。割烹料理屋の2階に「宿泊施設」があった。
そして街道筋にある割烹小料理屋(=飲み屋)を教えられる。入口の看板に「宿泊可」と書いてある。
宿泊料金が気になるが、この時間になると、宿賃よりも宿の確保が最優先、ホッとする
良かった!今日の宿が確保できた。早速風呂に入る。ファイトーッ!

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