nakasendou

【中山道】

中山道は日本橋から板橋、大宮、熊谷、高崎を経て碓氷峠を越えて信濃国へ軽井沢、岩村田、和田峠、下諏訪、奈良井、鳥居峠、木曽福島、妻籠・馬籠を経て美濃国へ、さらに加納、赤坂、関ヶ原をすぎて近江国の草津で東海道に合流し京都に至る。全長は約533kmで69の宿場がある。
 東海道と並び江戸と京都を結ぶ大幹線で、芭蕉が往来し、剣客や幕末の志士が駆け抜け、皇女和宮の3万人近い大行列が25日間かけて江戸に下ったという。女の人大井川(徒歩)をはじめ、浜名の渡し、桑名の渡しといった水難所の多い東海道を嫌っていたので中山道は姫街道とも呼ばれている。
 東海道と同じ江戸時代の五街道の一つ。前身を東山道とも呼んで古代から中世にかけて畿内と中部・奥州を結ぶ重要な街道であった。

「街道ウォーカー」(=右のイラスト)と一緒に歩いてみませんか。現在「北国街道」を歩いています (2013-04-01現在)

henaojisan
第23日目(「中山道」の最終日)
愛知川宿→武佐宿→守山→(栗東市)→草津宿(ここから「東海道」へ合流)

月 日; 2009年7月15日(月)、天気;晴れ
区 間; 愛知川=草津 29.4km
時 間; 8時間10分
費 円;

合計18,420円
(内訳)ホテル代6,300円、草津本陣入場料200円、昼食350円、飲物1,500円、新幹線(草津=東京都内)9,650円、駅蕎麦420円

歩 数; 46,300歩

06:35 ビジネスホテル近江屋
疲れの為かぐっすりと眠ることができた。
今日はこの時間から青空、今日も暑くなりそうだ。
関東地方は昨日、梅雨明け宣言。
06:45

愛知川。
昨日も渡った御幸橋を今朝、もう一度渡る。

 
shukuba

    66景 歌川広重 木曾海道六拾九次之内 恵智川
 鈴鹿山脈から流れてくる愛知川(恵智川・越知川)の図。橋の袂の標注に「むちんはし」「はし銭いらす」とある。当時、橋の維持費として5文(125円)ほどの通行料を取るところが多かったが、宿場の町人5人が中心になって架けられたこの橋は、慈善のために通行料を無料にしたため、「無賃橋」と呼ばれた。この橋を渡ると鬢(びん)付け油が名産の小幡村である。

    ◎愛知川宿 滋賀県愛知郡愛知川町
 高宮宿から愛知川宿までは約7・9キロ。天保14年の人口は929人、総戸数199軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠28軒であった。琵琶湖の湖東に位置し、中山道制定以前からあった宿場で、東海道49番目宿場、滋賀県甲賀市の土山宿へ抜ける御代参街道の分岐点。「近江商人」発祥の地のひとつ「五箇荘」がある。彦根を愛知川の間は、麻布生産と周辺地域の物産集散地として栄えた。

06:53

大きな常夜燈
高さ4メートル程もある。昔は巨大なモニュメントだったに違いない。

 
常夜灯
06:55

東嶺禅師誕生地
この付近には見るべき史跡類は無い。

07:05

常夜燈
太神宮

 
常夜灯
07:25

大郡神社
鳥居と奥社の間に国道が通っており、しょっちゅう大型トラックが横切っている。

07:45 国道8号と合流
安土町に入る
08:00

奥石神社
ここまで8号線。所々に歩道が無い国道を歩かなくてはならない。トラックが怖い。

  神社
08:10 杉原邸
08:20 鎌若宮神社
  神社
08:40 泡子延命地蔵尊
08:50

武佐宿
武佐神社。高札場跡

 
高札場跡 中山道武佐宿
大橋家 商家・役人宅
米、油などの商家又武佐宿場の伝馬屋人足取締り役人の裏に名園あり
     【1989年度武佐小学校卒業生】
08:57 武佐宿脇本陣
 
脇本陣
09:00

武佐宿本陣
中山道武佐宿
大橋家 商家・役人宅
米、油などの商家又武佐宿場の伝馬屋人足取締り役人の裏に名園あり
1989年度武佐小学校卒業生

  武佐本陣
 
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    67景 広重
    木曽海道六拾九次之内 武佐
 武佐宿の西を日野川(横関川)が流れ、東横間の村はずれにある日野川の渡し場があった。平時はこの川を舟で渡るが、水量が減ると杭で止めた2艘の舟に板を敷いて船橋にし、旅人を渡した。川を渡る人々を眺めているのは村役人であろう。葛籠(つづら)や風呂敷包みを背負って腰の曲がった老人が橋を渡る。この地で生産された麻の製品を持って行商に出かけるのであろうか。

    ◎武佐宿 滋賀県近江八幡市
 愛知川宿から武佐宿までは約9.8キロ。天保14年の人口は537人、総戸数183軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠23軒であった。武佐寺(長光寺・広斎寺とも)を中心に宿場が形成された。古くから京都と尾張への最短距離であり、伊勢へ向かう八風街道、安土街道の分岐点でもある。この辺りは湿地で人の住める地ではなかったが、近在の人びとが松や杉などを植えて整地したという。 

09:06

高札場跡
武佐駅

09:40

八幡社
高札場跡

10:10

日野川

10:25

善光寺川(1級)
暑い、とても暑い。

10:35

鏡の里
吉野屋跡

10:40

源義経宿泊地
本陣跡

10:43 鏡神社
  鏡神社
10:45

道の駅
ミニトマト1袋200円、コーラ1本 150円
暑い、とても暑い。ファイトーッ!

11:30

浄勝寺前
村田製作所の大きな工場がある。

11:50 家棟川(やのむねかわ)
12:05 桜生史跡公園
12:15 三つ坂。このあたり立場
12:23

小條原
稲荷神社
暑いよー!ヒト殺しー!誰か、助けてー、ファイトーッ!

12:55

野洲川橋
ここから守山宿

 
中山道守山宿
 寛永19年(1642年)守山宿として制札が与えられてから350年余りになります。
当時、江戸日本橋から守山まで67の宿が定められましたが、守山は東下りの一番目の宿場で「京立ち守山泊まり」として旅人に知れわたっていました。
 
shukuba

    68景 広重
    木曽海道六拾九次之内 守山

 宿場の南側を流れる吉川越しに宿場を望んでいる。周辺の桜が満開で、春爛漫の雰囲気である。右端の家の土間には、待機中の宿場駕籠が見え、隣の茶屋では下女が客を待つ。版元錦樹堂の商標を描いた看板と柱提灯のある茶屋では旅人が縁台でくつろぐ。その隣の茶屋の壁にも錦樹堂の別名「伊せ利」の看板がある。街道は馬や長持ちを担いだ人足など交通量が多い。

    ◎守山宿 滋賀県守山市
武佐宿から守山宿までは約13.7キロ。天保14年の人口は1700人、総戸数415軒、本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠30軒であった。古くは比叡山延暦寺の四関門の東の関門守山寺東門が建てられ門前町として栄えた。「守山」とは「比叡山を守る」という意味で、京を臨む軍事的要衝地であった。京を出発し江戸へ向かう際、最初に泊まる宿場となることが多かった。

 
    中山道高札場跡、稲妻型道路
 帆柱観音で名高い慈願寺から北東側へ約100mの地点は、中山道から石部道(伊勢道)が分岐する。遠見遮断のため道が屈曲する広い場所で、かって徳川幕府が政策などを徹底させるための法度や掟書などを木札に記して掲げた高札場が設けられていた。中山道を行き交う人々にとっては重要な場所であった。
また、吉身は江戸時代、守山宿の加宿であり、美戸津川(守山川)から高札場までの街道は、本町と同じように「稲妻型道路」となっていた。街道に面する民家は直線的に並列せず、一戸毎に段違いの屋敷割になっている。宿場の治安維持を図るための工夫と考えられているが、全国的にもこのような道路が残るところは大変珍しい。現在は道路整備によって見にくくなっているが、一部は観察することが出来る。
平成13年  守山市教育委員会

    稲妻型屋敷割りの道
 
中山道守山宿は街道筋の距離が、文化14年の記録では1053間、内民家のある町並みが569間という長い街村であった。宿場の西端には市神社があり、その向かいには高札場があった。
この高札場から東に約40mには宿場の防火、生活用水となった井戸跡がある。街道筋の特色は、このあたりの道が最も幅広く、高所にあることと道路に沿った民家の敷地が、一戸毎に段違いとなっていることである。段違いの長さは一定ではないが、およそ2〜3尺で、間口の幅には規定されていないことがわかる。この屋敷の並び方がいちごろから行われたかを知る資料はないが、守山宿が守山市(もりやまいち)と関連して商業的機能と職場を兼ねたこどで、問屋、庄屋、本陣、屋敷などを管理するため、あるいは怪しい人物が隠れても反対側から容易に発見できるなど、治安維持のための町づくりであった。
守山市教育委員会

13:05 式内馬路○○神社
13:20

中山道高札場跡
「吉身」

  高札場跡
13:25

天満宮
中山道守山宿
雲が多く、風も強くなった。

天満宮

 
 中山道守山宿
 寛永19年(1642年)守山宿として制札が与えられてから350年余りになります。
当時、江戸日本橋から守山まで67の宿が定められましたが、守山は東下りの一番目の宿場で「京立ち守山泊まり」として旅人に知れわたっていました。

 守山宿井戸跡
 この井戸は、当時、中山道守山宿の役割を果たし、漆喰の枠が6段積み重ねられ、更に、数段が土砂の流入で埋もれている事わかりました。
上部の石組みは、一辺90cmの四角形に組んでいて、後で蓋をのせたようです。
この移動は、移転されていますが、往時の生活を知る貴重な遺産です。

13:33

樹下神社

樹下神社

13:40 今宿一里塚
 

 

今宿一里塚

今宿一里塚 江戸時代
所在地 守山市今宿町

 

 今宿一里塚は五街道の一つである中山道の一里塚で、江戸日本橋から本県草津宿までに129カ所あった一里塚の128番目にあたります。
 一里塚は江戸幕府により慶長9(1604)年に整備されたもので、一里毎に道の両側に5間四方の塚を築き、榎や松を植えて通行の目安としたものです。県内には中山道の他、東海道、朝鮮人街道、北国街道、北国脇往還などに設置されていましたが、明治以降、交通形態の変化による道路拡幅や農地、宅地への転用などによりそのほとんどは消滅し、現存するものは今宿一里塚のみとなりました。
 今宿一里塚は規模は小さくなっていますが、南塚のみ残り、榎が植わっています。先代の榎は昭和中頃に枯れましたが、脇芽が成長して現在にいたっています。
今宿一里塚は、往時を偲ぶことのできる中山道守山宿の中にあり、近世交通史を知る上で重要な遺跡といえます。
         平成10年3月  滋賀県教育委員会

13:55 栗東市に入る
14:00

大宝村大字・・・・
元標について

 
    中山道
 中山道は木曽路とも呼ばれ、日本の脊梁中部山岳地帯を貫く街道で、五街道の中でも東海道に次ぐ幹線路であった。 その里程は、江戸日本橋を基点とし、上毛高崎宿を経由、碓氷峠に至り、浅間・蓼科山麓の信濃路を辿り、塩尻峠を越えて御嶽・駒ケ岳間の木曽谷を降り、美濃路を西進、関ヶ原から近江柏原宿に至り、湖東の鳥居本・愛知川・武佐の各宿を経由南進し、守山宿を後に東海道草津宿に合流するもので、この間の宿駅は67宿を数えた。
 草津には、笠川を経て渋川に入り、葉山川を渡り、渋川・大路井の街並を通過したのち、砂川(旧草津川)を超えて草津追分に至った。
 なお、中山道分間延絵図によれば、渋川には梅木和中散出店小休所・天大大将軍之宮(伊砂砂神社)・光明寺ほか、大路井には一里塚・覚善寺・女体権現(小汐井神社)ほかの社寺仏閣、各所が街道沿いに存した。
草津市教育委員会
14:20

草津市に入る。バンザーイ!

 
    東海道
 東海道は、中山道・日光道中・奥州道中・甲州道中を加えた五街道の中でも江戸と京を結ぶ江戸時代随一の幹線路であった。 
 その里程は、江戸日本橋から相模小田原宿を経由、箱根の関・大井川を超え、遠州灘沿いに西進し、伊勢桑名宿を経て、鈴鹿峠から近江に至り、土山・水口・石部・草津の各宿を経由、瀬田橋を渡り、大津宿を経て京三条大橋に至るもので、東海道53次と称された。
 草津では、小柿から大路井に入ると、すぐ砂川(旧草津川)を渡り、11町53間半(約1・3km)の草津宿を経て、矢倉・野路・南笠を通過し、勢田至った。
 草津宿には、本陣・脇本陣などが設けられ、常善寺・立木大明神(立木神社)ほかの多数の社寺が立ち並び、70軒を超える旅籠をはじめ500軒以上の町家があった。
 また、矢倉には光伝寺・姥ヶ餅屋・矢倉道標・野路には一里塚・教善寺・新宮大明神(新宮神社)・野路の玉川跡などの社寺名所が在り、矢倉野路間、野路南笠間の街道沿いには松並木が続いていた。
          草津市教育委員会
14:35

伊砂砂(いささ)神社
たいそう立派な神社だ。参拝客も多い。きっとご利益があるかも知れないから、礼拝をしておく

  伊砂砂神社伊砂砂神社
 
    重要文化財 伊砂砂神社本殿
                     草津市渋川1丁目
 一間社流造、桧皮葺 室町時代
 伊砂砂神社の草創は明らかでないが、名称は明治2年からのもので、古くは天大将軍社と称された。
 建物は棟札により応仁2年(1468)に建立され、元禄4年(1691)に修理を受けていることがわかる。軸部は当初材を良く残しているが、軒廻りや縁、高欄、脇障子などの造作材は、大正時代の修理によるものである。
 小規模な一間社であるが、母屋は内部を内外陣の2室に区画し、正面に向拝を付ける。組物は三斗組、妻飾りは豕扠首組(いのこさすぐみ)として、母屋には三方に縁、高欄を巡らし、脇障子が取り付く。
 この本殿は建立年代が明確で、木割が細く、正面の建具を吹寄せ格子戸とするなど軽快な建物で、室町時代後期の本殿建築を知るうえで貴重である。
平成6年3月  滋賀県教育委員会
14:45 商店街に到着
「東海道」を京都へ向かう時もこの商店街を通った
  草津商店街
14:50 東海道中山道追分(草津宿)
中山道、ラストステージ草津宿に入った。バンザーイ!
 
草津追分 東海道と中山道の追分
大きな常夜灯
 
shukuba

    69景 広重
    木曽海道六拾九次之内 草津追分

 川は、宿場よりも高い所を流れていた草津川であろう。天井川とも呼ばれ、洪水で宿場を襲うこともあった。平時は水が少なく、絵にあるような仮橋で渡った。追分を示す常夜灯を兼ねた木製の道標は実際は石標であり、現存する。半肩脱いだ参人の女性は伊勢参りと思われる。近在の女が傘をすぼめて担ぎ板橋を渡り、小枝を集めてきた子どもが、彼女らを興味深げに眺める。

    ◎草津宿 滋賀県草津市
 守山宿から草津宿までは約5.9キロ。天保14年の人口は2351人、総戸数586軒、本陣2軒、脇本陣2軒、旅籠72軒であった。東海道を中山道が合流する大規模な宿場でもある。さらに琵琶湖の矢橋湊へ至る矢橋街道の分岐点でもあり、交通の要衝として大いに繁栄した。最盛期には旅籠が100軒を超えていたこともある。現在も草津宿本陣址が国史跡として残っている。

14:55 草津本陣湯殿(ゆどの)
お殿様など主客専用のお風呂です。畳敷き四畳と板敷8畳分の広さがあり、槍や刀が届きにくいように広くなっています。
野外のかまどで沸かしたお湯を湯舟まで運び入れ、湯浴みをする運び湯という入浴法でした。
お殿様は、「ゆかたびら」をお召しになり入りました。床には排水のため溝が切られています。
 
草津本陣

草津本陣

<国指定史跡 草津宿本陣>
 

 国指定史跡  草津宿本陣
                  指定 昭和24年7月13日
 指定面積 4726・37平方メートル
 草津宿本陣は、寛永12年(1635)に定まった、江戸幕府による参勤交代の制度を背景にして、東海道・中山道を上下する諸大名・役人・公家・門跡等の休泊所として草津宿に開設された施設で、明治3年(1870)宿駅制度の廃止までの二百数十年間、その機能を果たしてきました。
 史跡・草津宿本陣は、全国に残る本陣遺構の中でも、ひときわ大きな規模を有しており、延4726平方メートルにのぼる敷地内には、かっての本陣の姿を彷彿とさせる数々の建築物が残され、関札、大福帳・調度品ほか、貴重な資料も数多く保管されているなど、近世交通史上、極めて重要な文化遺産であります。
この本陣遺構はこれまで、享保3年(1718)に草津の宿場を襲った大火事により焼失し、急遽、膳所藩より瓦ヶ浜御殿と呼ばれる建物を移築し、建て直されものであると伝えられてきました。しかしながら、現存する本陣の平面形態が、本陣に残される複数の屋敷絵図に描かれた、弘化3年から文久3年頃(184年〜1863年)の旧状を良く残す遺構であることが明らかになりました。
敷地内には、正面、向かって左手に、表門、式台・主客の宿泊に当てられた上段の間、家臣用の座敷広間・御膳所・湯殿等を配し、通り土間を境にして、右手側には本陣職にあたった、田中七左衛門家の居室と台所を設けています。
また、これらの主要建築物の背後には、別名「木屋本陣」と呼ばれるように、兼業であった材木商の業務に用いた物入れや土蔵、避難口として使われた御除ヶ門などの建築物が今なお残され、敷地周囲は高塀・藪・堀によって区画されています。

 
草津本陣 草津本陣

<草津本陣>

 

ヤンゴトナイ方々専用のアレ
ひょっとすると「皇女和宮様」もこれをお使いになった?
 
    上段雪隠(せっちん)(草津本陣)
 上段雪隠は主客専用の便所です。
 2畳敷きで、中央に漆塗りの便器が据えられていました。本陣の便所は、上段の間、向上段の間、西広間一の間、西広間三の間、東広間三の間と計五か所ありました。
大便器の下には、箱が設けられていて、一回使用する度に取り出して、処理していたといいます。床には掛け軸をかけ、常時、香がたかれていました。
15:49 JR草津駅発
中山道の草津=京都・三条大橋間は東海道と同じ道、「中山道第24日目の歩き」は省略する。
16:54

JR米原
新幹線「ひかり」号に乗り換える。

19:10

東京駅着
まだ少し明るさの残る時間に帰り着いた。中山道歩きが終わった。

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