地図

第24日目(=東海道・第22日目と同じ)(最終日)
草津→瀬田→膳所→三条大橋(=東海道と同じ) ゴール

月 日; 2010年7月12日(土)、天気;晴れ
区 間;

草津=三条大橋(ゴール)、26.2km

時 間; 草津本陣〜瀬田唐橋〜膳所〜三条大橋
費 円;

合計7、770円
(内訳)バス代200円、夜食450円(ソバ)、高速バス代 6、000円(新宿=草津)、ソーセージマックセット440円、エネルゲン(クッキー)210円、拝観料200円、ドリンク120円、パン150円

歩 数; 47、500歩

21:54

7月11日(土)
自宅を出発
こんな時間帯に家を出発する。何だか気が乗らない。
高速バス代6、000円(新宿=草津)、街道歩きには高速バスの利用がとても便利だ。
23:30 新宿発

05:00 7月12日(日
JR草津駅前
東京出発時に予告された深夜高速バスの到着予定時間ぴったりだ。
発車直前に飲んだ睡眠導入剤のお蔭で車中では爆睡。到着するまで気が付かない。
もう夜はすっかり明けているがまだ街中は眠っている。
駅前のベンチで身支度を整える。
 
草津

日中は賑わう商店街が、まだこの時間には眠っている。人が全くいない。

05:10

歩行開始。ファイトーッ!
コンビニだけは店を開いている。

05:20

東海道と中山道の追分(ここから京方面へは「東海道」と「中山道」は同じ道となる)

05:20

草津本陣跡
前回の最終地点=今回の出発地点。
時々朝の散歩の人が通るのみ

 
草津 草津本陣
高札場

草津宿本陣跡(上の写真;右)

草津宿高札場跡(上の写真;左)

 
草津

     69景 広重
    木曽海道六拾九次之内 草津追分

 川は、宿場よりも高い所を流れていた草津川であろう。天井川とも呼ばれ、洪水で宿場を襲うこともあった。平時は水が少なく、絵にあるような仮橋で渡った。追分を示す常夜灯を兼ねた木製の道標は実際は石標であり、現存する。半肩脱いだ参人の女性は伊勢参りと思われる。近在の女が傘をすぼめて担ぎ板橋を渡り、小枝を集めてきた子どもが、彼女らを興味深げに眺める。

    ◎草津宿 滋賀県草津市
 守山宿から草津宿までは約5.9キロ。天保14年の人口は2351人、総戸数586軒、本陣2軒、脇本陣2軒、旅籠72軒であった。東海道を中山道が合流する大規模な宿場でもある。さらに琵琶湖の矢橋湊へ至る矢橋街道の分岐点でもあり、交通の要衝として大いに繁栄した。最盛期には旅籠が100軒を超えていたこともある。現在も草津宿本陣址が国史跡として残っている。

05:45

立木神社
草津駅前商店街がここで終わる。

06:00 稲荷神社
 
稲荷神社 一里塚
06:05

旧東海道は現在の東海道である国道1号線と斜めに交差している。
ようやく「野路一里塚」を見つける

06:10 清宗塚
 
清宗塚   【平清宗】(1170〜1185)
 平安後期の公卿、平宗盛の長男、母は兵部権大輔平時宗の娘。後白河上皇の寵愛をうけ、3才で元服して寿永2年には正三位侍従右衛門督であった。
 源平の合戦により、一門と都落ち、文治元年壇ノ浦の戦いで父宗盛と供に生虜となる。
 「吾妻鏡」に「至野路口以堀弥太郎景光。梟前右金吾清宗」とあり、当家では代々胴塚として保存供養しているものである。    遠藤権兵衛家  当主 遠藤勉  
06:25 野路萩の玉川
06:35 弁天池
 
弁天池   <弁天池>
 昔は飲料だった池のようだが、今は「この水は飲めません」ってわざわざ書いてある。
07:00

東海道(=中山道と同じ)立場跡
月輪池(上下二つの池)
ガマ蛙の鳴き声が盛んに聞こえる。まるで豚か牛のような声だ。

 
立場跡 立場跡
<月輪池> <東海道立場跡>
07:10

一里塚
洗濯屋の店先に大きな石碑

 
一里塚   【一里塚】
 一里塚は徳川幕府が旅人の目じるしに江戸の日本橋を起点として、東海・東山・北陸の三道に一里ごとに設けた塚です。
 ここにあった一里塚は、東海道の大津と草津の間に位置するもので、大きな松の木が植えられた塚でしたが、惜しくも明治末期に取り除かれました。その場所は旧道と広い市道の交差しているこの地点にあたります。
 現在の一里山という地名が一里塚のあったことを物語っています。
  大津市教育委員会   昭和61年3月
07:30 若松神社
07:50 旧東海道(=中山道と同じ)を見失い、ようやく戻る。
08:10

近江国庁跡
ただ広い広場があるだけ。多分に東海道を見失う。

08:30

正法寺
唐橋が直ぐ近い

08:40

瀬田の唐橋に着いた。ようやく到着した。
ここまで来れば三条大橋は目の前だ。
もう、京都が近い(実際はここから目的地までは、まだ随分と遠かった)。橋のたもとに大きな常夜燈がある。

 
瀬田橋 瀬田橋
<ようやく「瀬田の唐橋」に着いた。もう直ぐ京都だ。ファイトーッ!
09:10

JR石山駅
ここで東海道は駅舎の中を通過しなくてはならない。

09:45

膳所城勢 多口総門跡

 
田口総門 田口総門
09:50 若宮八幡神社
09:55

京阪電車・ 瓦ヶ浜駅

10:00

中の庄駅
この付近は特に見るべきものがない、淡々と「京都」へ向かって歩くのみ。ファイトーッ!

10:05 膳所神社
10:10 和田神社
10:15 響忍寺
10:20 石坐神社
10:30

義仲寺

 
義仲寺 義仲寺
義仲寺   【義仲寺 境内】(ぎちゅうじ)
        
 (大津市馬場1丁目)
 義仲寺(ぎちゅうじ)の名は、源義仲を葬った塚のあるところからきていますが、室町時代末に、佐々木六角氏が建立したとの伝えがあります。
 門を入ると左奥に、俳聖・松尾芭蕉の墓(左の写真)と並んで木曽義仲の供養塔が立っています。
 「木曽殿と背中合わせの寒さかな」という著名な句は、芭蕉の門人・又玄(ゆうげん)の作です。境内にはこの句をはじめ、芭蕉の辞世の句「旅に病んで夢は枯野を駆けめぐる」など多くの句碑があります。また、巴御前を弔うために祭ったといわれる巴地蔵堂もあります。
 昭和42(1967)年11月に国指定の史跡となりました。
               大津市教員委員会
11:00 露国皇太子遭難碑
 
遭難碑
<ロシア皇太子が伐りつけられた場所>
11:20

蝉丸神社
鳥居の前に電車が通っている。

 
蝉丸神社 蝉丸神社
蝉丸神社 いよいよ京都が近い。
「逢坂の関」への上り坂が続く。
電車は「大丈夫?」と心配になるほどの急勾配を上っていく。

関蝉丸神社上坂(写真;左)

11:30

関蝉丸神社上坂
常夜燈
逢坂1丁目

 
逢坂関 逢坂山関所跡
ソロバン 【大津ソロバンの始祖・片岡庄兵衛】
 江戸時代、東海道筋のこの付近で売られていた大津算盤は、慶長17年(1612)、片岡庄兵衛が、明国から長崎に渡来した算盤を参考に、製造を始めたものと伝えられる。同家は以後、この碑の西方にあった一里塚付近(旧今一里町)で店を構え、幕府御用達の算盤師になったという。なお昭和期まで、この碑の場所にも同家のご子孫が住まわれていた。
12:05 大津ソロバンの始祖(上の写真)
「木曽海道六拾九次之宿場」はここ「大津宿」で終わる
 
大津

    70景 広重
    木曽海道六拾九次之内 大津
 「木曽海道六拾九次」は大津宿で終わる。逢坂山への坂道の途中、関清水町辺りから琵琶湖を臨んで描かれている。多くの旅籠が軒を連ね宿場の繁栄を表す。両側の家並みをほぼ均等な遠近描写で表し、2台の牛舎で奥行きを出している。物見遊山の母娘3人が牛舎を眺める。版元の商標「○金」と「山に林」、広重を表す「□とヒ」、左の行灯には「いせり」の文字もある。

    ◎大津宿 滋賀県大津市
草津宿から大津宿までは約14.3キロで江戸からは約530キロ。ここから今日の三条大橋までは、さらに約11・7キロ。天保14年の人口は14,892人、総戸数3650軒、本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠71軒であった。この時代の気温は総じて低く、木曽街道の奥深い山中では、0℃以下の日が100日以上あっただろう。江戸では隅田川が6回凍っていたことが記録されている。

12:25

追分
右・京都 左・宇治

 
追分

追分;
右が京都、左は宇治方面

京都が近い、ファイトーッ!

12:27

車石
東海道

 
車石   【車石】
 東海道五十三次、大津八丁(札の辻)から京三条大橋までの約3里(12km)の間、物資輸送する牛馬車の通行を楽にするため花崗岩に溝を刻んで切り石を敷きつめた。
文化2年(1805)心学者 脇坂義堂が発案し近江商人・中井源左衛門が財を投じたとも伝えられている。
この付近は車道と人道に分かれていて京に向かって右側に車石を敷き左側は人や馬の通る道であったと伝えられている。
当寺の境内にも数基保存している。
放光山 閑栖寺(かんせいじ)
12:40 三井寺観音道
12:45 京都市に入る
12:55

十禅寺

13:05 五条との分かれ道標
 
分かれ道 天地天皇
五条と三条との別れ道標
もうすぐゴールだ!
バンザーイ!
<天智天皇山科陵>
13:15 天智天皇山科陵
14:20 三条大橋
着いた、やっと終わった。遠かった。
東京からわざわざやって来た、Mさん、Fさん、Hさんの出迎えを受ける。
47,500歩
バンザーイ!、中山道(=東海道)も歩き終えた!
京都を代表する料理と言えば、なんと言っても「焼肉」だ!、夜は4人で焼肉を満腹に食う。うまーい!
グルメで美食家のうちのかみさんにもこの京都の焼肉を腹一杯食べさせたいな!
 
三条大橋 芸者
  <三条大橋の上>
通行人にいろいろ質問される
先斗町で本物の芸者さんに「ようこそ、おいでやす」って 大いに歓迎される筆者
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