| 06:23 |
自宅発
青空が広がっている。
東京の桜は満開から2日が過ぎた。花はまだまだ見頃である。
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| 06:32 |
京王線・新宿駅行きに乗車、平日のこの時間、すでに通勤・通学客で都心に向かう電車は混んでいる。
平日に遊びで出かける時、これが辛い。申し訳ないとも思う。
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| 07:00 |
渋谷駅
相当のラッシュが始まっている。「サラリーマンの皆様、ご苦労様!」って挨拶、小さくなって地下鉄に乗る。
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| 07:30 |
日本橋
寒い。この時間、雲ひとつない青空。
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| <日本橋> |
<日本橋由来碑(日本橋南詰西)> |
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国指定重要文化財「日本橋」
所在地 中央区日本橋1丁目
中央区日本橋室町1丁目
日本橋がはじめて架けられたのは徳川家康が幕府を開いた慶長8年(1603)と伝えられています。
幕府は東海道を始めとする五街道の起点を日本橋とし、重要な水路であった日本橋川と交差する点として江戸経済の中心となっていました。橋詰めには高札場があり、魚河岸があったことでも有名です。幕末の様子は、安藤広重の錦絵でも知られています。
現在の日本橋は東京市により、石造二連アーチの道路橋として明治44年に完成しました。橋銘は第15代将軍徳川慶喜の筆によるもので、青銅の照明灯装飾品の麒麟は東京市の繁栄を、獅子は守護を表しています。橋の中央にある日本国道路元標は、昭和42年に都電の廃止に伴い道路整備が行われたのを契機に、同47年に柱からプレートに変更されました。プレートの文字は当時の総理大臣・佐藤栄作の筆によるものです。
平成10年に照明灯装飾品の修復が行われ、同11年5月には国の重要文化財に指定されました。装飾品の旧部品の一部は中央区が寄贈を受け、大切に保管しています。 平成12年3月 中央区教育委員会
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| 【さらし場跡】(現在;交番付近)
南詰めの東側、現在交番のあるあたりに、間口5間のこまぶき小屋のさらし場があった。江戸で最も賑わう日本橋のたもとに設けた「さらし場」に、主殺し、女犯僧、心中者のかたわれなど処刑3日前の罪人を入れ、首かせを掛けてさらした。
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| <さらし場跡(日本橋南詰東)> |
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<日本橋麒麟像> |
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日本橋魚河岸跡
(現在;日本橋北詰東) |
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【日本橋魚河岸跡】(現在;日本橋北詰東)
所在地 中央区日本橋室町1丁目8番地域
日本橋から江戸橋にかけての日本橋川沿いには、幕府や江戸市中で消費される鮮魚や塩干魚を荷揚げする「魚河岸」がありました。ここで開かれた魚市は、江戸時代初期に佃島の漁師たちが将軍や諸大名へ調達した御膳御肴の残りを売りだしたことに始まります。この魚市は、日本橋川沿いの魚河岸を中心として、本船町・小田原町・安針町(現在の室町1丁目・本町1丁目一帯)の広い範囲で開かれ、大変な賑わいをみせていました。
なかでも、日本橋川沿いの魚河岸は、近海諸地方から鮮魚を満載した船が数多く集まり、江戸っ子たちの威勢の良い取引が飛び交う魚市が立ち並んだ中心的な場所で、1日に千両の取引があるともいわれ、江戸で最も活気のある場所の一つでした。
江戸時代より続いた日本橋の魚河岸では、日本橋川を利用して運搬された魚介類を、河岸地に設けた桟橋に横付けした平田舟の上で取引し、表納屋の店先に板(板舟)を並べた売り場を開いて売買を行ってきました。
この魚河岸は、大正12年(1923)の関東大震災後に現在の築地に移り、東京都中央卸売市場へと発展しました。
現在、魚河岸のあったこの場所には、昭和29年に日本橋魚市場関係者が建立した記念碑があり、碑文には、上に記したような魚河岸の発祥から移転に至るまでの三百余年の歴史が刻まれ、往時の繁栄ぶりをうかがうことが出来ます。
平成19年3月中央区教育委員会
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| 07:35 |
日本橋発(スタート)
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道路元標のある日本橋から東海道とは反対、北の方角、神田方面へ、一路日光へ向かって歩き出す。 |
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これも日光街道?
国道4号線を横断する地下道
ダンボールで建築された何軒かの1DKのお住まい(?)が散在する。この時間すでに全ての住居から住人は出払っておられる。 |
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| 07:40 |
ホテルギンモント東京
ホテル左側正面に日光街道の道標がある。
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| <「旧日光街道本通り」の碑> |
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| 08:00 |
十思公園。すぐ隣には大安楽寺がある。
日光街道からは100mほど外れる。
ここは江戸時代には伝馬町牢屋敷があったところ。気のせいか、何となく霊気を感じる。
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銅鐘 石町「時の鐘」(左の写真) |
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東京都指定有形文化財 「銅鐘 石町(こくちょう)時の鐘」
所在地 中央区日本橋小伝馬町5 十思公園
江戸で最初の鐘は、本石町3丁目(現在の本町4丁目、室町4丁目の一部)に設置された石町の時の鐘であるといわれています。江戸市中に時刻を知らせた時の鐘は、市街地の拡大にともない、浅草・本所・上野・芝・市谷・目白・赤坂・四谷などにも設けられました。
石町・時の鐘は、鐘搗き役であった辻源七の書上によると、寛永3年(1626)に本石町3丁目へ鐘楼堂を建てて鐘を撞いたことが記されており、鐘の音が聞こえる範囲の町からは「鐘楼銭」を集めて維持・運営が図られていました。
本石町に設置された時の鐘は、何度か火災にあって破損したために修理や改鋳が行われました。現在の胴鐘には「寛永辛卯四月中浣 鋳物御大工 椎名伊豫藤原重休」の銘文が刻まれており、宝永8年(1711)に鋳造されたことがわかります。
「石町は江戸を寝せたり、起こしたり」と川柳にも詠まれた石町・時の鐘は、明治をむかえて廃止されましたが、昭和5年(1930)に本石町から十思公園内に完成した鉄筋コンクリート造の鐘楼へ移設されて現在に至っています。
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| <十思公園> |
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<大安楽寺>
ここは昔、処刑場だった。
刑死者を弔う為、延命地蔵が祀られている。安政の大獄で捕らえられた吉田松陰や勤皇志士の多くもここで処刑された。
大安楽寺とは何とも皮肉な名前・・・・
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都旧跡「伝馬町牢屋敷跡」
所在 中央区日本橋小伝馬町
指定 昭和29年11月3日
江戸の牢屋敷は慶長18年(1613)に、常盤橋外からこの小伝馬町に移転した。代々与力格の石出帯刀が牢屋敷預かりに任命されており、管理していた。そして明治8年(1875)5月、廃止されるまで存続していたものである。
「御府内備考」の記録によれば、その規模の広大であったことがわかる。すなわち、面積は2,618坪(8639・4平方メートル)あり、さらに、これらの敷地の四方を堀でめぐらしていた。南西部に表門があった。獄舎は、揚座敷、揚屋、大牢および女牢部屋に分かれ、明暦3年(1657)の収容囚人は130人であり、安政大獄(1859)には吉田松陰ら50余名が収容されたこともある。
昭和44年10月1日 建設
東京都教育委員会
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| 08:20 |
横山町問屋街
日本橋を出発して直ぐの本町通りには薬製薬会社が多かったが、この付近からは衣料品の問屋が軒を連なる。
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| 08:25 |
浅草橋
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| 08:30 |
JR浅草橋 |
| 08:40 |
吉野家の牛朝食、ウマイ! |
| 09:05 |
駒形橋
ビルの谷間から建設中のスカイツリータワーとビール会社(アサヒビール)の黄金色の泡ビルが突然見え始める。
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| <駒形橋の上から見る屋形船> |
<古い「どぜう」料理屋> |
たかがドジョウ料理屋(上の写真・右)
上の写真右側の建物、黒塗りの料亭風で、素人お断り!、「セレブで、グルメのお客様御用達」といった店構え、何だか偉そうにしている。ドジョウといえば昔からウナギの代理、もどき、黒子、控えそれ以下の存在のはず。人によっては「偽者」とか「曲者」と呼ぶ人だってある。(たぶん)
野球に例えればピンチヒッター、2軍以下や多摩川練習場辺りから臨時に引っ張り出され用事が終わればさっさと桧舞台から消える運命にある。
ドジョウは生まれ育った環境からしても決してスターとか中心的存在にはなれない、そんな運命の星の元に生まれているのだ。
下町とはいえ東京グルメの本場・浅草で「どぜう料理」と晴れ舞台を用意され、あろうことか主役、座長役をつとめている。ひげを生やして、「どじょう一家」を旗揚げしよう!って魂胆が見え隠れする。
ダメじゃないか、ドジョウのくせに!って叱ったが、「これで良いんです!」と平然としている。
たかがドジョウのくせに。実にけしからん!日光街道を一人歩きながら、その日1日、この「どぜう料理」が気になって仕方なかった。 |
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| 09:10 |
浅草寺・雷門
この時間から既に観光客で賑わっている。
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| <浅草寺・雷門>ここで日光街道は右折する |
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<浅草寺を過ぎると建設中のスカイツリータワーが見え始める>
気のせいか、いつ見てもタワーは斜めに見える。 |
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| 09:30 |
言問橋西詰交差点
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| <江戸時代、この桜並木は、この先にある吉原へ通うお客さまで賑わった”ルンルン”通り> |
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| 10:00 |
泪橋
日光街道はここで台東区から荒川区に入る。
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| 10:10 |
延命寺
南千住駅脇
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荒川区指定 記念物(史跡)
【小塚原の刑場跡 回向院】
小塚原の刑場は、寛文7年(1667)以前に浅草聖天町(現台東区)辺りから移転してきたといわれています。間口60間(約108m)、奥行き30間余り(約54m)、約1,800坪の敷地でした。日光道中に面していましたが周囲は草むらだったといわれ、浅草山谷町と千住宿の間の町並みが途切れている場所に位置していました。
小塚原の刑場では、火罪・磔・獄門などの刑罰が執り行われるだけでなく、刑死者や行倒れ人等の無縁の死者の埋葬も行われました。時に刑死者の遺体を用いて行われた刀の試し切りや腑分け(解剖)も実施されました。また、徳川家の馬が死んだ後の埋葬地として利用されることもありました。そして回向院下屋敷(現回向院=左下の写真)はこれらの供養を担っていました。
明治前期には、江戸時代以来の刑場としての機能は漸次廃止、停止され、回向院は顕彰、記念の地となっていきました。橋本左内や吉田松陰といった幕末の獅子の墓は顕彰の対象となりました。また「観臓記念碑」は、杉田玄白や前野良沢らが、ここで腑分けを見学したことをきっかけとして「ターヘルアナトミア」の翻訳に着手し「解体新書」を出版したことを顕彰するため建てられたものです。回向院境内にはこうした数多くの文化財が残っており、刑場の歴史を今に伝えます。(平成18年1月13日指定)
平成20年3月 荒川区教育委員会
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首切地蔵尊(延命地蔵)
花崗岩の座像の大地蔵を俗に首切地蔵と称している。高さ1丈2尺(3・6メートル)寛保元年(1741)刑死者の菩提を弔うため建立された。
因みに延命寺は昭和57年11月20日、回向院より別院独立し開山した寺である。
昭和59年 回向院住職 水野了仙
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| <吉田松陰と義士達の石碑> |
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【小塚原刑場跡】
この付近は徳川幕府初期頃より重罪者の刑場にあてた所で昔は「浅草はりつけ場」と称せられていた。
刑場として開創されてから220余年の間、埋葬された屍体は実に20余万と称せられるが大部分は重罪者の屍体であった。
寛文7年(1667)刑死者の菩提を弔うため一寺を草創した。これが現在の史跡小塚原回向院である。
幕法の大罪人であってこれらの大罪人が伝馬町の牢獄なり、小塚原の刑場において仕置きとなる時は、その遺体は非人(島流しの刑を受け終わった前科者)頭に下げられこの境内に取捨となった。故に埋葬とは名のみであって土中に浅く穴を掘りその上にうすく土をかけおく丈であったから、雨水に洗われて手肢の土中より露れ出ること等決して珍しくなく、特に暑中の頃は臭気紛々として鼻をつき野犬やいたちなどが死体を喰い残月に嘯く(うそぶく)様はこの世ながらの修羅場であった。
文政5年(1822)南部家の臣であった相馬大作、関良助の屍を埋めてより国事犯の刑死者の死体をここに埋める事になり、即ち安政の大獄(1850)以降桜田門事件、坂下門事件の橋本左内、吉田松陰、頼三樹三郎、その他憂国の志士の屍は大抵此処に埋葬されたのである。
最近では2・26事件の磯部浅一の墓もある。
公事方御定書が厳しいのは、刑事責任、道義責任を問わず、封建制度に立つ幕府の権威と秩序を乱す者には、死刑中心の刑罰で当たったからだ。 その死刑の中でも、最も軽いのが 「下手人」(斬首)、次が、「死罪」(斬首のあと刀剣の試し切り、田畑家屋の没収)、「獄門」(斬首のあと数日、獄門台に晒す)、「磔」(はりつけ 十字架に縛り槍で突き刺す)、「火罪」(放火犯への同害報復として火あぶり刑)、「鋸引」(首だけ地上に出させ、希望者に竹鋸で首を挽かせる)と5通りの執行方法があった。 特に、主従関係、師弟関係、親子関係、夫婦関係などの掟破りには、厳罰をもって臨み、市内で晒し、引き廻し、鋸引きのうえ獄門や磔に処した。
【小塚原の観臓記念碑】
明和8年3月4日(1772)
前野良澤、杉田玄白、中川淳庵等此処にて刑屍の解剖を見て発見する所あり、直ちにオランダ解剖図譜の翻訳に着手し、4年の星霜をついやし遂に「解剖新書5巻」を大成した。実にこれわが国西洋医学の瀾源である。
【小塚原刑場跡】
江戸のお仕置き場(刑場)は、品川・鈴ヶ森と千住の小塚原の二つである。
小塚原の刑場は、間口60間余(約108メートル)、奥行き30間余(約54メートル)で、明治のはじめに刑場が廃止されるまでに、磔(はりつけ)・斬罪・獄門などの刑が執行された。
首切地蔵(上部写真)は、この刑死者の菩提をとむらうため寛保元年(1741)に造立されたものである。
荒川区教育委員会
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| 10:15 |
小塚原回向院
ここには吉田松陰のお墓がある。(上の写真)
又、ここには昭和38年(1963)3月31日に発生した「吉展ちゃん誘拐事件」で殺された吉展ちゃんの地蔵がある。
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【回向院(えこういん)】
回向院は、寛文7年(1667)、本所回向院の住職弟誉義観(ていよぎかん)が、行路病死者や刑死者の供養のために開いた寺で、当時は常行堂と称していた。
安政の大獄により刑死した橋本左内・吉田松陰・頼三樹三郎(らいみきさぶろう)ら多くの志士たちが葬られている。
明和8年(1771)蘭学者杉田玄白・中川淳庵・前野良沢らが、小塚原で刑死者の解剖に立ち合った。後に「解体新書」を翻訳し、日本医学史上に大きな功績を残したことを記念して、大正11年に「観臓記念碑」が建立された。 荒川区教育委員会
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| 10:35 |
素さの雄(すさのお)神社
この日、桃の花が丁度見ごろ、境内は桃の花だらけ。
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【素さの雄神社(すさのおじんじゃ)】
小塚原・三の輪・下谷通新町・三河島・町屋など、区内で最も広い地域を氏子圏とする鎮守で「てんのうさま」とも呼ばれる。
石を神として尊崇する信仰は全国各地にみられるもので、当社も石神信仰に基づく縁起を有する。延暦14年(795)、荊石(けいせき)が微妙な光を放ち,その光のうちに翁の姿をした二神(すさのおのみこと・ことしろぬしのみこと)があらわれて信託を告げたという。そのためその石は「瑞光(ずいこう)石」と呼ばれ、出現した二神を祭神として祀る。
宝暦年間頃まで行われていたという千住大橋綱曳は、その年の吉凶を占う当社の神事で、「東都歳時記」(天保9年)にその雄壮な様が描かれている。
荒川区教育委員会
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| <見事な桃の花が満開だった> |
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| 10:40 |
千住大橋
ここは松尾芭蕉が奥の細道へ旅立った出発点でもある。
ここで公衆トイレに入ると不思議なことが起きた。驚くほどの大量の固形胎内廃棄物が出た!
東海道歩きの時も同じ経験をした。バンザイ!
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旧暦元禄2年(1689)3月27日、深川を舟で立った芭蕉は、この千住で上陸し、多数の門人らに見送られて、関東より奥州・北陸を経て大垣に至る長途の旅に出立した。行程600里余、日数凡そ150日という大旅行であった。この紀行が、元禄7年4月「おくのほそ道」として完成し、以後我が国を代表する古典文学作品となって内外に親しまれている。
古典の多くがそうであるように、この紀行文も謎に包まれた部分がかなりあり、学究の筆の休むことがない。当時の芭蕉を偲びこの地に佇む人もまた少なくない。
時あたかも平成元年、曾良(そら)を伴い芭蕉が旅立ってより300年に当たる。それを記念して「おくのほそ道行程図」を矢立初めの地に建てた。 |
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| 10:55 |
千住宿 奥の細道のモニュメント |
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【千住宿 高札場】 由来
私たちの町、千住が宿場となって栄えたのは、慶長2年(1597)人馬引継駅として以来のことだと言われています。
江戸時代の足立は千住宿を中心に始まったといっても過言でありません。
特に寛永2年(1625)東照宮建立によって日光道中初宿として、また江戸4宿の一つとして繁栄し約400年を経て今日に至っております。
このような高札場は、明治の初期まで宿場の掟(きまり)などを掲示して、人々に周知してもらうため、千住宿の入口、出口の所に設置されていました。
これからも私たちの町の歴史・伝統・文化をそして貴重な史跡・町並み景観を大切にしてゆきたいと思います。
昭和63年11月吉日
千住の街並み景観を考える会
あだちまちづくり
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| 11:25 |
千住宿 高札場 |
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<伝馬屋敷 横山家>
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| 【横山家】
宿場町のなごりとして伝馬屋敷の面影を今に伝える商家である。
伝馬屋敷は、街道に面して間口が広く奥行きが深い。戸口は、一段下げて造るのが特徴である。それは、お客様をお迎えする心がけの現れという。
敷地は間口が13間。奥行きが56間で鰻の寝床のように長い。
横山家は、屋号を「松屋」といい、江戸時代から続く商家で、戦前まで手広く地漉紙問屋を営んでいた。
現在の母屋は、江戸時代後期の建造であるが、昭和11年に改修が行われている。間口が9間、奥行きが15間あり、大きくてどっしりとした桟瓦茸の二階建てである。
広い土間、商家の書院造りと言われる帳場二階の大きな格子窓などに、一種独特の風格を感じる。上野の戦いで、敗退する彰義隊がきりつけた玄関の柱の傷痕や、戦時中に焼夷弾が貫いた屋根など、風説に耐えてきた百数十年の歴史を語る住居である。
平成2年10月
東京都足立区教育委員会
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| 11:35 |
かどやの槍かけだんご
古くから続く団子屋さん、2本で180円。素朴で実にウマイ!
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| <かどやの槍かけだんご> |
2本で180円、ウマーィ! |
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【投師】(なげし)とは
通称「投師」正式には出仲買商と言う。
千住のやっちゃ場だけにあった商人形態である。
店を持たず仲買人の店先を借り、セリに参加していち早く大八車に品物を積み、東京市内の全市場へ駆けつけ売り捌くのである。やっちゃ場のセリはその為に夏は早朝3時から始まっていた。何が利幅があるかは情報が勝負である。昭和初期の投師は約150人位である。
市内の市場はこの投師の持ち込む青果物でかなりの部分が賄われていたと思われる。これだけ千住のやっちゃ場が巨大な市場であったと言う事であろう。 |
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| 11:45 |
千住新橋
荒川を渡る。ようやく春らしい快適な気候になった。
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| 12:00 |
善立寺
この付近、旧道(日光街道)が判りにくい。ここで右折する。
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| 12:15 |
東武・梅島駅 |
| 12:27 |
島根交差点
「環状七号線」を越す
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| 12:50 |
竹ノ塚駅前交差点 |
| 13:15 |
国道4号線
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| 13:20 |
足立区から埼玉県・毛長川(埼玉)に入る。
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| 13:30 |
浅間神社
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| 13:50 |
草加宿 |
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草加と「おくのほそ道」
俳聖・松尾芭蕉は紀行文「おくのほそ道」の中で、元禄2年3月27日、江戸深川を出立し、「その日やうやう(ようよう)早(草)加といふ宿にたどり着きにけり」と記しています。
絵タイルは、その「おくのほそ道」の旅を想像して描いたものです。
平成8年3月吉日 |
おせん茶屋
街角修景事業として神明1丁目の児童遊園を改修した小公園。
昭和62年3月に完成。旧日光街道に面し、かっての宿場の雰囲気をただよわせる。名前は草加せんべいの伝説上の創始者「おせんさん」にちなむ。昭和63年、建設省(現・国土交通省)主催の第3回手づくり郷土賞「小さなふれあい広場30選」に選ばれた。かって草加町役場、鳩ヶ谷警察派出所などのあった場所である。 |
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| 13:55 |
草加市役所 |
| 14:00 |
草加神社
新越谷まで頑張ることにする。
草加松原を通る。素晴らしい桜並木が続く。
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| <芭蕉の碑と綾瀬川沿いに延びる、この日が満開の桜並木> |
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| 14:40 |
札場河岸公園の手前で本格的な中華料理の昼食。ウマーイ!街道歩きは中華に限る!
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| 15:05 |
国道298を横断 |
| 15:15 |
蒲生の一里塚
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| 埼玉県
一里塚は、江戸時代街道沿いに1里ごとに設置された塚で、塚の上にエノキ・マツ・スギなどを植えて、道程の目標や人馬賃銭の計量の目安に、また旅人の休息の場などに用いられたものである。
文化年間(1804〜1818)幕府が編纂した「五街道分間延絵図」には、綾瀬川と出羽堀が合流する地点に、日光街道をはさんで二つの小山が描かれ、愛宕社と石地蔵の文字が記されていて「蒲生の一里塚」が街道の東西に1基ずつ設けられていたことが分かる。
現在は、高さ2メートル、東西幅5・7メートル、南北幅7・8メートルの東側の1基だけが、絵図に描かれた位置に残っている。
また、塚の上にはムクノキの古木・太さ2・5メートルのケヤキのほか、マツ・イチョウが生い茂っている。
多くの塚が交通機関の発達や道路の拡幅などによって姿を消した中にあって、「蒲生の一里塚」は埼玉県内日光街道筋に現存する唯一の一里塚である。
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| 15:25 |
地蔵 |
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| <馬頭観音> |
<ぎょうだいさま>
何足かのワラジがぶら下がっていた
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馬頭観音(ばとうかんのん / めづかんのん)、梵名ハヤグリーヴァ (hayagriiva)は、仏教における信仰対象である菩薩の一尊。観音菩薩の変化身(へんげしん)の一つであり、六観音の一尊にも数えられている。観音としては珍しい忿怒の姿をとる。
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| 15:40 |
蒲生駅入口交差点
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| 15:55 |
JR新越谷駅
今日はここから帰宅しようと思ったが、電車の乗り継ぎが悪く、次の越谷宿まで頑張ることにする。ファイトーッ!
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| 16:15 |
照蓮寺 |
| 16:20 |
越谷交差点
角に「大東建設」と陶器屋の店がある。
今日の前進はここまでとする。41,670歩
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| 16:30 |
東武線越谷駅
ここから越谷―渋谷駅経由で自宅に帰る。
今日は家を出て、丁度12時間の実働だった。
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