【日光街道】

 日光街道は元和2年(1616)4月17日、75歳で亡くなった徳川家康を祭る日光東照宮に参拝するための道で、寛政13年(1636)頃に完成した。
 江戸から千住、草加、越谷、幸手、古河、小山、宇都宮、今市を経て日光東照宮に至る。距離は約141.7km。

 (奥州道中と日光道中)
 家康が当初、「五街道」の整備に着手した時の奥州道中は江戸日本橋から宇都宮宿を経由して白河に至る道筋を指しました。そして日光道中はこの奥州道中の宇都宮宿から鉢石宿間の道筋が日光道中とされました。
 元和3年(1617)日光東照宮が完成すると、日本橋と鉢石間は日光道中となり、宇都宮と白河間が奥州道中と逆転しました。

 (日光道中の賑わい)
 日光道中を通行する参勤交代の大名は陸奥、出羽、松前の32家、黒羽、大田原、喜連川等下野北部の大名と多くを数えました。
 日光参詣は庶民にも許され日光道中は江戸時代を通して賑わいを見せた。


第3日目
幸手宿→栗橋→利根川→古河→小山→間々田宿

月 日; 2010年10月1日(金)、天気;曇り
区 間; 幸手宿〜間々田(日本橋から72.4km)、日光・鉢石まで残り69.3km
時 間; 7時間40分
費 円; 8,831円
(内訳)
交通費;2,080円、食費;640円、昼食871円、飲み物600円、その他4641円
歩 数; 42、770歩

06:23

自宅発
曇り、昨日までの雨で道路はぬれている。

06:55

新宿駅
通勤通学客で雑踏する中、ザックを背負って歩くのは辛い。申し訳ないとも思う。

07:20

JR秋葉原駅

07:45

北千住駅発 東武・南栗橋駅行き
まだ全面的な曇り空

08:45

幸手駅
80%位の青空が広がった。

08:55

幸手駅入口交差点(日光街道)・今日の出発点。

 『八坂夏祭り』
 京都の八坂神社に端を発する祇園祭りは日本全国に広まっており、八坂夏祭りもその一つで、幸手で最も賑わう祭りです。
 食物などが腐りやすい夏に、心霊の強い力で疫病や悪霊などを退散させようとするものでした。
 7月15日に近い土・日曜日に山場を迎え、昔の幸手宿を主な舞台として、7台の山車が引き回されます。
 八坂夏祭りは、人と山車と町並みが織りなす勇壮な景色なのです。
   「ふるさとの祭り囃子に沸くまちの
       夜店にあかき綿菓子を買う」 郷子
    幸手市・幸手市教育委員会
09:00

本陣跡
「義語家」という料理店 中1丁目交差点脇

 『幸手宿本陣・知久家跡』
           幸手市中1−8−16
 知久家は本陣(大名宿)・問屋・名主の3役を兼ね、幸手宿でも最も重要な役割を果たした家柄でした。
 初代帯刀は、長野県伊那郡の豪族の出で、同郷の関東郡代伊奈熊蔵より幸手宿の久喜町開拓を命ぜられ、諸役を努め、明治3年(1870)に本陣が廃止されるまで、代々幸手宿の繁栄に尽しました。
 明治6年、知久家の書院で小学校が開設され、明治9年、明治天皇が東北巡行の折に宿泊されています。
 屋敷は、間口約39m、奥行き約80mで、約1000坪ありました。
          幸手市教育委員会
09:15

聖福寺(しょうふくじ)
境内には幼稚園があり、内には入れない。

  『聖福寺』  幸手市北1丁目9−27
 徳川3代将軍家光が日光社参の時、御殿所(将軍の休憩所)として使用したのを始めとし、天皇の例幣使や歴代将軍が18回にわたり休憩した。将軍の間、例幣使の間、菊の紋章の入った勅使門(唐門)があり、左甚五郎作といわれる彫刻等も保存されている。また、ご朱印状により10石を賜ったことがわかる。
 境内の左手に二つの石碑があって、一つには「花づか」と彫られている。江戸文化が華やかであった寛政の頃、幸手宿に秋月庵一松という人がおり、遠州流生花を普及させた。
 その後、日光道中でさかんになり、明治になって遠州流の人達がこの碑を建てたものという。
 もう一つは「金子竹香顕彰碑」である。金子竹香は江戸時代の儒者であり、書家としても有名で幸手に住んでいた。この碑の碑文は儒者で折衷学派の亀田綾瀬の撰文と書によるものである。
   昭和63年3月   埼玉県 幸手市
09:17 正福寺(しょうふくじ)
直ぐ近くに同じ発音のお寺が二つある
     『正福寺』    幸手市北1丁目10番3号
 当山は、江戸時代学問の研究や子弟を養成する常法談林(=じょうほうだんりん)であり、当時のこの寺は、49ヶ寺の末寺をもっていた。また、将軍徳川家光の代、ご朱印13石を賜っている。
 境内には、県指定史跡の義賑窮餓之碑がある。天明3年(1783)に浅間山が大噴火したため関東一円に灰が降り、冷害も重なって大飢饉となった。この時、幸手町の有志21名が金品を出しあって、難民の救済にあたった。この善行が時の関東郡代・伊奈忠尊(=いなただたか)の知るところとなり、顕彰碑を建てさせたという。
 また、樹齢450年、根回り5メートルもある槙の大木があり、県の天然記念物に指定されていたが、惜しくも枯れてしまった。
 寺には、多くの古文書や仏像・書画が保存されており、境内には日光道中の道しるべもあり有名である。
         昭和63年3月  埼玉県  幸手市
09:30

筋違橋(水路)
暑くなってきた。

09:33 内国府間交差点
09:45

行幸記念碑

<200mの間、マンジュシャゲの大群落、ここは春には桜、菜の花が楽しめる>
09:55 行幸橋(中川)
10:05 日光街道の道しるべ
    『日光街道の道しるべ』 幸手市外国府間626
 この道しるべは、安永4年(1775)日光街道(左)と筑波道(右)の分かれる所に建てられたものです。
 昔の旅人達にとって、この道しるべは街道を歩く際のたよりになったもので、大切なものです。
 この道しるべには「左日光道」「右つくば道」「東かわつま前ばやし」と刻まれています。かわつまは現在の茨城県五霞村字川妻、また前ばやしは、茨城県総和町前林のことで、筑波へ行く道順です。
 この道が日光だけでなく、遠く奥州(東北)へも通じていたのです。
          幸手市教育委員会
10:10

雷電宮 権現堂

<雷電宮>
10:30

栗橋町一里塚
4号線沿いの細い道の脇。車の通行がやかましい。

     『一里塚』 (栗橋町指定文化財)
 慶長9年(1604)徳川幕府は、大久保石見守に命じて東海道、中仙道、日光街道、奥州街道、甲州街道の5街道をはじめとして、主要街道に一里塚を築かせた。
 江戸の日本橋を起点として、一里(4キロメートル)毎に塚を築き、その上に榎を植えて道のりを表し、伝馬(てんま)制度に大きな役割を果たしたほか、旅人の休憩所にも利用された。
 付近には茶店などもあり、また、駄賃などの目安にもなり大いに賑わったと思われる。今でいえば、鉄道の駅を連想させる。
 また、この塚は、幸手宿と栗橋宿の中間で小右衛門村(現・栗橋町大字小右衛門517−3)にあり江戸から14番目にあたる。
 現在、塚の上には、字堤外(あざていがい、現・権現堂川)から移築されたという弁財天堂が建てられており、塚の高さは西側から約2メートル、5間(約9メートル)四方の遺構は、塚の形態と当初の広さを残し、当時の姿を偲ぶことができる。
          栗橋町教育委員会
10:35

南栗橋駅入口
ここから溜池の脇を歩く。

10:55

東北新幹線の下
埼玉と茨城の県境

11:00

ライブシアター栗橋 栗橋第1劇場 実態は男性専用の劇場?

11:05 川通神社
11:15 会津稲荷
11:30

顕正寺
お腹が空いてきた。

11:40

栗原駅入口交差点
シャッター通り商店街が続く

11:50 本陣(池田)
    『本陣と池田鴨之介』
 池田鴨之介は、下総国葛飾郡小手指の栗橋村(現在の茨城県猿島郡五霞村)に、天正7年(1579)8月に生まれている。
 慶長19年(1614)鴨之介が35歳との時、徳川幕府の命により並木五良平と共に当地に移り、新田開発を行っている。その時、両名と一緒に下総国栗橋村から移り住んだ民家は45戸であったという。
 その後、当地は次第に町並みも整い、元和元年(1615)には元栗橋に対し新栗橋と称するようになった。池田家は元和8年1622)徳川2代将軍秀忠が家康を祀る日光山東照宮に始めて参社の折、本陣となり以後、明治3年(1870)本陣の制度が廃止されるまで代々本陣を勤めている。
 池田家の墓は、鴨之助の古い石碑と共に顕正寺にある。
    昭和63年3月  埼玉県 栗橋町
11:53 八坂神社
11:55

利根川
橋の中央で茨城・古河市に入る。

<利根川>
12:05

橋を渡りきる
利根川はデカイ!
ここから古河市

12:10 房川渡と中田関所跡
    『房川渡と中田関所跡』
 江戸幕府は、江戸を防衛する軍事上の理由から、大河川には橋をかけることを許さず、また、交通上の要地には関所を設けていた。当地は日光街道の重要地点で、街道中唯一の関所と渡船場の両方があったところである。
 利根川のうち、当地と対岸の栗橋の間の流れの部分を『房川』(ぼうせん)とよび、渡船場を房川渡、関所を房川渡中田御関所といった。やがて、関所は対岸の栗橋側の水辺に移されたので、普通には「栗橋の関所」の名で知られていた。
 4人の番士が交代で、関所手形を改め、旅人や荷物を厳しく監視した関所は、明治2年(1869)の廃止例でなくされたが、二艘の渡し船と5艘の茶船を操る船頭たちによって、およそ40間(約70m)の流れを渡した渡船場の方は、大正13年(1924)の利根川橋の完成前後まで続けられた。
          平成元年3月 古河市教育委員会
12:15 中田宿

     『中田宿』
 江戸時代の中田宿は、現在の利根川橋の下、利根川に面して、現在は河川敷となってしまっている場所にあった。再三の移転を経て、現在のような中田町の町並みになったのは、大正時代から昭和時代にかけての利根川の改修工事によってである。
 中田宿の出発は、江戸幕府が日光街道を整備する過程で、以前の上中田・下中田・上伊坂など、複数の村人を集め、対岸の栗橋宿と一体的に造成させたことにあり、宿場として、隣の古河宿や杉戸宿への継ぎ立て業務も毎月を15日ずつ半分に割り、中田・栗橋が交代であたるという、いわゆる合宿であった。
 本陣・問屋や旅籠・茶店などの商家が、水辺から北へ、船戸、山の内、仲宿(中町)、上宿(上町)と、途中で西へ曲(かね)の手に折れながら現在の堤防下まで、延長530メートルほど続いて軒を並べていたが、ほとんどは農家との兼業であった。
 天保14年(1843)の調査では、栗橋宿404軒に対し、中田宿69軒となっている。ただし、118軒とする記録もある。
          平成19年1月 古河市教育委員会

12:40

俵屋で昼食
うどん定食・天ぷら付き871円 美味い!実に旨い、街道歩きにはウドンに限る!

13:10 中田の松並木
    『松並木のある風景 日光街道』
 江戸時代、ここには松並木が整然と続き、数ある街道の中でも、もっとも美しい景観のひとつとして評されていました。
 高低差のない平らなこの区間、松並木の間から見える白壁の古河城、そして富士山や筑波山、浅間山や男体山などは、多くの文化人や画家たちの漢詩、紀行文、絵画に表現されいます。
 当時の松並木は、現在地よりも400メートルほど南を起点におよそ5キロメートルにわたって続いていましたが、今ではその風情を伝えるものは残されておりません。
 失われた景観を惜しみ、その歴史が未来に語り継がれることを願い、ここに松の植樹を行いました。
    平成17年3月吉日 日光街道町並み景観づくり推進協議会
13:25

古河二中入口
この間ひたすら歩くだけ

13:55 浄善寺
14:10

古河駅入口
(本陣付近)

14:15

2丁目金毘羅
大人10人ぐらいが集まって掃除している

14:25 史跡○○道
14:30 栃木に入る
14:40 野木神社
14:45 Post64km
14:50 野木宿入口
<満願寺>
15:00

一里塚跡
何の痕跡も残っていない。

15:07 道標
<十九夜供養>
15:25

松原交差点
ひたすら街道を歩くだけ、ファイトーッ!

15:55

法音寺/八幡神社
疲れた

16:00 小山市に入る
16:10

若宮八幡宮
大日如来坐像

     『大日如来坐像』(満福寺所有)
 宝永6年(1709)に鋳造されたもので、武州江戸湯島砥部九兵衛が施主となり、その父母の供養のため、その生国である下野国都賀郡寒沢の地に安置したと伝えられる。
 かっては背面に光背があったと思われるが現存しない。尊容が整っており当時の人々の信仰がよくうかがえる。
 また、戸外に安置されていることから「濡れ仏様」と呼ばれ、親しまれている。
          小山市教育委員会
16:20 Post 70km
東京・日本橋から
16:35

間々田駅入口交差点
乙女3丁目14
この時間、太陽は随分と弱くなった

     『乙女河岸』  天下分け目の小山評定と東照社造営
 20万の大軍が激突した関ヶ原の戦いで、徳川家康率いる東軍は勝利し、天下を掌中に収めます。
 これに先立つ慶長5年(1600)7月25日、会津の上杉から上方の石田三成討伐へと一転させた天下分け目の軍議「小山評定」が行われました。
 乙女河岸は、この会津討伐に際して、軍勢や武器・兵糧の陸揚げ地になっており、また軍議後の8月4日、一転して上方に向かうため、諸将を従えた家康が船で江戸に向かった地でもありました。
 また、元和2年(1616)に没した家康は、翌年、日光に東昭社が造営され、駿河の久能山から改葬されます。この社殿造営や寛永13年(1636)の大造替(現在の東照宮)にあたり、資材の陸揚げ地として重要な役割を果を果たしています。
16:40 間々田駅
16:46 間々田駅発JR宇都宮駅行き
17:28

宇都宮駅

17:35

宇都宮ステーションホテルに泊まる
夕食は東口にある有名な餃子の店で餃子セットを食べる。1人前6個で240円である。
焼きと水餃子を食べる。旨い、実に美味い!街道歩きには餃子に限る!

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