| 07:40 |
JR宇都宮の駅前にあるビジネスホテル
いくら安いといっても、2度と泊まりたくないホテルだ!
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| 08:08 |
JR宇都宮駅発
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| 08:37 |
JR小山駅着
構内のコインロッカーに街道歩きには必要ない手荷物を預け、できる限り身軽にする
天気は曇りだが時々薄日がさす、まずまずの街道歩き日和だ
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| 08:50 |
JR間々田駅
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| 09:00 |
間々田駅入口交差点(前回の終着点)
今日の歩き始めポイント。車の往来が激しい。暑くなりそうだ、太陽がガンガン照っている。
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| 09:30 |
逢いの榎
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<登録有形文化財
・小川家住宅(間々田)> |
<逢の榎(あいのえのき)> |
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日光街道中間点 逢の榎(あいのえのき)
元和3年(1617)、徳川家康が日光に祀られると、日光街道は社参の道として整備されていき、21の宿場が設けられました。
宇都宮までは奥州街道と重なっていたため、諸大名の参勤交代や物資の輸送、一般の旅人などにも利用された道でもありました。
間々田宿は、翌年には宿駅に指定され、江戸及び日光から、それぞれ11番目の宿場にあたり、距離もほぼ18里(約72キロ)の中間点に位置していました。
天保14年(1843)、間々田宿には本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠が50軒ほどあり、旅人が多く宿泊し、賑わっていました。松尾芭蕉などの文化人も宿泊しています。
また、中田宿から小金井宿付近までの街道沿いには、松並木が続き、1里塚には杉・榎などが植えられ、旅人の手助けとなっていました。
間々田宿の入口にあった榎は、毎年、街道を通った例幣使が江戸と日光の中間に、この榎を植えて、旅の道のりを知ったのだという伝承が残されています。榎は「間の榎」とよばれ、旅人の目印となっていました。
この榎は、いつの頃からか「逢の榎」とよばれるようになり、縁結びの木として人々の信仰を集めるようになりました。祖師堂も建てられ、お参りする男女が多かったと伝えられています。
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| 09:33 |
龍昌寺
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| <龍昌寺(曹洞宗)> |
龍昌寺
天恵山龍昌寺と号し、本尊は釈迦如来。1606(慶長11)年に常陸水戸城内の龍江院第12世華翁玄芳禅師の開基。
境内に入ってすぐに目に付くのが、左手の不動堂(=上の写真)。ここには、寝起不動立像が安置され、その床下には竹で編まれた蛇籠がこの堂を巻いている。この蛇籠は「間々田の蛇踊り」の時に使用される蛇で、この龍昌寺が出発点となっている。(以下省略) |
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| 09:43 |
問屋場・本陣跡
本陣跡は現在では駐車場となっている
Post 72km
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<問屋場>
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<本陣址>現在は駐車場 |
| 間々田宿問屋場跡
間々田宿は、江戸時代に、5街道の一つ、日光街道(道中)の宿駅として栄えていました。江戸日本橋から11番目の宿駅(宿場)であり、江戸と日光の丁度中間に位置していました。
天保14年(1843)の記録によると
当宿は
石高 944石
家数 175軒
人口 947人
旅籠 50軒
本陣 1 脇本陣 1
と記されており、幕府の定めより、常備の人足25人、馬25疋を備え、幕府の公用に応じたり、一般の輸送も引き受けていました。日光社参・参勤交代など特別の場合は近隣の農村から助郷(すけごう)と称して、人馬を臨時に集めました。
それらの人馬継立業務の一切を取扱うのが宿役人で、問屋・年寄・張付・馬差・人足差などと呼ばれ、その詰所に当たる場所が問屋場です。ここ間々田宿の上中町の上原家が、名主職を兼ね、代々世襲で幕末まで問屋を勤めていました。
間々田商工会
小山歴史研究会
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間々田宿本陣跡
本陣は江戸時代に主な街道に設けられた宿泊施設で、本来は幕府公用の大名・勅使・公家・門跡(僧)・上級武士の便をはかるためのものでした。大名などが宿泊休けいする時は宿場や本陣の入口に「関札」(せきふだ)を掲げ、誰が宿泊しているか知らせました。また本陣には定紋入りの提灯を掲げ、門や玄関には幕を張りました。
本陣主人は名字帯刀を許され、他の宿役人と共に、大名などを宿の入口まで出迎えました。江戸時代の初めから江戸時代を通して青木家が代々、この地で本陣を維持し、明治の世となって明治天皇が休けいの一時を過ごされました。
間々田商工会
小山歴史研究会
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| 09:45 |
本陣跡(現在は駐車場)
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| 10:10 |
浅間神社
千駄塚
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| 10:25 |
若盛酒造
甲州街道歩きの時から始まった膝関節が今日も痛い。最近、常飲している薬を今日はまだ飲んでいない
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| <長屋戸> |
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| 10:27 |
大橋砥訥庵(ととつあん)
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| 10:37 |
栗宮交差点
ここで4号線と別れ小山旧市街に入る
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| 11:05 |
天満宮
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| 11:15 |
須賀神社
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| 11:20 |
明治天皇小山行在所
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| 11:25 |
小山駅入口
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| 11:30 |
元須賀神社
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| <元須賀神社> |
<興法寺> |
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| 11:35 |
興法寺
たいそうりっぱなお寺。反対側には愛宕神社
街道沿いのスーパーでサンドウィッチ、午後の紅茶、スナック菓子を購入して歩きながら食べる。これが美味いんだなぁ!
真夏のような太陽が暑い。
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| 12:05 |
両毛線の踏み切り
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| 12:25 |
日枝神社
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日枝神社のケヤキ
ケヤキはニレ科の落葉高木で、山地や林地に普通に生える。また、その生育の早いこと、樹齢の長いこと、樹形の美しいことから、人家や寺社の周りに植えられてきた。最近では街路樹や公園樹としても重用されている。
このケヤキは、かっての社殿の周りに植えられていた何本かのうちの3本という。このすぐ西には祇園城の北の守り木沢(喜沢)の砦があり、現在も土塁がその跡をとどめている。天正18年(1590)に祇園城が滅び砦もなくなり、その跡に社殿が移され、その後に現在の参道が作られたという。この参道に沿って杉が植えられ、ケヤキ3本も残されたと伝えられている。
ケヤキ3本の樹齢は400年以上、ちなみにスギの樹齢は300年以上と推定される。貴重な古木であり大切に保存したい。
小山市教育委員会
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| 12:30 |
喜沢東交差点
馬頭観世音
日清・日露・日支出征馬碑がある
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| 12:50 |
喜沢の一里塚
片側は住宅や短時間宿泊所(・・・・?)、もう一方は藪が広がっている。その藪の中、左側の一里塚だけがきれいに残っている。この付近で蚊に刺されながらキジを撃つ(?)、これってサイコー!
この付近は旧街道が狭くてとても判り難い。
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| <喜沢の一里塚> |
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| 13:15 |
4号線と合流
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| 13:25 |
新田宿本陣跡(青木家の門)
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| 新田宿
ここは芋柄新田・大町新田・大町村とも呼ばれたところで、日光街道の宿駅がおかれてから新田宿または新田町とも称され、今は小山市羽川となっています。
天保14(1843)年の記録では、宿内の家数59軒(加宿共、うち本陣1、脇本陣1、旅籠11)で人口244人(加宿共)、宿内の町並みも3町余(約400m)と、新田宿は日光街道の宿場ではもっとも小さな宿場でした。
江戸時代、このあたりは田畑が広がり、日光山や赤城山・太平山が見渡せたようです。今その風景は望めませんが、本陣を務めたといわれる青木家の木の門などが往時の面影をとどめています。
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| 13:40 |
4号線と合流
暑い。薄い雲があるが、太陽が暑い。
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| 13:46 |
下野市に入る。
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| 13:55 |
小金井駅入口交差点
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| 14:00 |
小金井の一里塚
両側の塚が見事に残っている。
塚の両側の昔道は砂利道舗装されている。
明治初年の道路改修の際、旧日光街道のすぐ東側に国道4号線が開通したため、取り残される形で保存されました。
国指定の史跡となっており、江戸時代の一里塚の様子がよくわかります。江戸から22里目の一里塚です。
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| 14:15 |
慈眼寺
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| <小金井宿本陣址> |
本陣跡を示す門が残されています。
この旧本陣には、明治22(1889)年に国分寺が発足したとき、村役場が置かれていました。 |
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| 14:40 |
Post88km 4号線
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| 14:42 |
自治医大駅入口交差点
駅まで100mほど
この区間4号線を歩くだけ
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| <二十三夜塔> |
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| 15:00 |
祇園原交差点
雲が厚くなってきた
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| 15:45 |
石橋愛宕神社
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| <愛宕神社> |
<石橋駅入口交差点> |
愛宕神社
祭神は、火彦霊命で、境内は天照大神、八坂大神、素戔鳴命(すさののみこと)・熊野大神の4社が祀られている。
「社記」によると創立は759(天平宝字3)年で、家康より火難除鬼門として、5石の祭料を賜り、後に家光より御朱印を改められる。
また、稲荷神社や薬師堂も祀られており、十九夜塔など3基の石碑も大切に屋根が掛けられている。
この神社から先が石橋宿となる。 |
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| 15:50 |
石橋交差点
Post 93km
少々寒くなってきた。今日の街道歩きはここまでとする。
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| 15:55 |
石橋駅
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| 16:08 |
JR石橋駅発
今日の歩行数38,500歩
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| 16:17 |
小山駅着
急いで、荷物をロッカーから引き出し、トイレで着替える。
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| 16:33 |
小山発上野行き
大宮で湘南新宿ラインに乗り換える。電車の振動が実に心地よい。爆睡。
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| 17:55 |
新宿着
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