第2日目
川崎宿→教安寺→生麦→神奈川宿→保土ヶ谷宿→権田坂→戸塚宿 (→自宅)

月 日; 2008年6月25日(水曜日) 天気;晴れ
区 間; 川崎(小土呂橋交差点)=戸塚宿(JR戸塚駅前) 17km
時 間; 6時間40分
費 用; 2,510円
<内訳>(交通費)自宅=川崎520円、戸塚駅=自宅830円、飲み物260円(ペットボトル2本)、
昼食 470円、銭湯(戸塚駅近く) 430円
歩 数; 不明(歩数計不携帯)

08:40 JR川崎宿(小土呂橋交差点付近)
少々暑いが絶好の「東海道ウォーク」日より。
この時間、川崎駅前にはサラリーマンが忙しく行き交っている。少々申し訳ない感じがしないでもない。
小土呂橋の交差点
入口には「かに道楽」がある
食べたーい!
教安寺(*) 教安寺入口

    歌川広重;東海道五拾三次之内「川崎」

 六郷川を渡ると川崎に入ります。江戸中期から弘法大師信仰が盛んになると、川崎にある真言宗の寺「川崎大師」は、流行佛(はやりぼとけ)として、江戸をはじめ近郊から参詣者が訪れました。のどかな渡し場風景ですが、旅人にとって、川は時間と金がかかるやっかいなものでした。

08:47 教安寺(浄土宗)。都会の中のお寺、後ろに高層建築がそびえている
江戸時代後期、関東一円に富士山信仰が流行した。
「六字名号碑」の建立が行われた。
    【教安寺】
江戸時代後期、幕藩体制の動揺にともなう社会不安の増大や、農村における貧富差の拡大などは、人々の将来に対する危機感をつのらせた。
そのような状況下に富士山に弥勒の浄土を求めた新興の庶民信仰である「冨士講」は、関東一円で爆発的な流行をみた。さらに当時「生き仏」と崇めらた浄土宗の高僧、徳本上人は、全国各地を遍歴して念仏を勧め、浄土往生を願う農民たちにやすらぎを与え、彼の赴くところ、おのずから一つの信仰集団が生まれ、「六字名号碑」の建立が行われた。
教安寺に残る灯籠は、富士講の有力な先達であった堀ノ内出身の西川満翁が組織した「タテカワ講」によって建立されたものであり、境内の六字名号碑は同じく宿民によって建立されたものである。・・・・・・・・・・・・・川崎市
09:00 京浜急行・八丁畷駅(はっちょうなわて)
昔、街道往来中に行き倒れになった旅人などを弔ったため、近代になってこの付近から人骨がたくさん出土した。怖ーい!
    【八丁畷】
川崎宿を出て八丁(約870メートル)、道が田畑の中をまっすぐにのびていたのでこの地は八丁畷と呼ぶようになった。
第1京浜と国道の踏切
大渋滞の元兇となっている
京浜急行「八丁畷駅」(*) 市場の一里塚(*)
09:15 市場一里塚(*)
    【市場の一里塚】
「慶長9年(1604)徳川幕府は、江戸から京都までの街道を整備し、あわせて宿場を設け、交通の沿革を図った。
里程の目標と人馬の休憩のための目安として、江戸・日本橋から一里(約4km)毎に街道の両側に5間四方(9m四方)の塚を築造し、塚の上には榎を植えました。
ここは江戸より五里目の塚に当たり、市内で最初の一里塚です。明治9年(1877)地租改正にあたり払い下げられ肥大川の塚が現存しています。昭和初期まで塚の上には榎の大木が繁茂していました。
昭和8年(1933)6月「武州橘樹郡市場一里塚」(添田担書)の碑が建立されました。
平成元年(1989)横浜市地域文化財として登録されました。」
                        ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・横浜市教育委員会文化財課
09:40 鶴見駅
09:45 下野谷町入り口
09:50 慶岸寺(浄土宗)
慶岸寺 まむしや」・・・・
      なんじゃ、これは?
南海山
10:10 キリンビール・横浜工場正門
この付近から再び国道1号線と合流する。
10:13 生麦事件発生現場の碑
キリンビール工場入口の直ぐ脇にある。 
sekihi
生麦事件の跡 生麦事件の石碑 キリン横浜工場
文久2年8月21日、薩摩藩士が島津久光の行列を横切ったイギリス人3人を殺傷した。
この事件は「薩英戦争」の契機となった。やがては徳川幕府崩壊の道へと繋がった。
10:30 新子安駅
10:55 良泉寺
11:30 洲崎大神(宮前)。この付近には高架道路が交差して「旧東海道」の指導標が全く見あたらない。迷う。
一見古いお寺に入り、「旧東海道」の道を聞くと詳しく教えてくれた。
11:40 京急・神奈川駅。この付近車の往来が激しい。
11:45 神奈川宿「田中屋」(*)今も料理屋として営業されている。
【田中家】(=左の写真)
昔、この付近は袖ヶ浦と呼ばれ、開港時には各国の領事館がこの付近に置かれた。坂本龍馬の妻「おりょう」は明治7年、勝海舟の紹介でこの田中屋で働き始めた。「おりょう」は英語を話し、外国人の接待に重宝された。
まもなく横浜開港150年を迎える。
神奈川台の関門跡(*) 保土ヶ谷の商店街
ここが「旧東海道」である。
東海道にある商店街の入口
歩行者天国の時間
    【神奈川台の関門跡】
「ここよりやや西寄りに神奈川台の関門があった。
開港後外国人が何人も殺傷され、イギリス総領事オールコックを始めとする各国の領事たちは幕府を激しく非難した。幕府は、安政6年(1859)横浜周辺の主要地点に関門や番所を設け、警備体制を強化した。
この時、神奈川宿の東西にも関門が作られた。そのうち西側の関門が、神奈川台の関門である。明治4年(1871)に他の関門・番所と共に廃止された。」
12:00 勧行寺(南軽井沢)
12:10 浅間神社
昔は、この付近が波打ち際であった。境内には富士山に通じる「富士の人穴」と呼ばれる古代の横穴墓があった。
東海道を往還する人々の見物の名所だったという。
12:30 橘樹神社(*)
「ご家庭用の小杉茅の輪守を社務所で授与しています。玄関や部屋の扉の上などに付けて罪穢をお清め下さい。初穂料 500円」・・・・・・・・・・・・・・橘樹神社
12:35 相鉄・天王町
通りがかりのお年寄りに話しかけ、「どこまで行くの?」と聞かれ「京都三条まで!」と答える。
お年寄りは「エーッ!」と大きな声を出す。
驚いてくれる。やったねぇ〜!良かった!
12:55 東海道線踏切
13:00 脇本陣(大金子屋)
13:05 上方見附跡
13:30 権田坂
ダラダラ上る権田坂
たいして急ではないがダラダラと上り坂が続く。昔の旅人はさぞや苦しかっただろうと想像する。
切り通しの峠に保土ヶ谷と戸塚の区界がある。下を向いて歩き続ける。ひたすら京都へと向かう。
14:30 平戸白旗神社
14:50 柏屋
15:10 江戸方見附跡(*)
    【江戸方見附】
「江戸方見附は各宿場の江戸側の出入り口に設置され、土盛をした土塁の上に竹木で矢来を組んだ構造をしている(このため「土居」とも呼ばれる)。こうした構造から見附は本来、簡易な防御施設と考えられる。同時に宿場の範囲を視覚的に示す効果を持ち合わせた。
ここから京都(上方)側の出入口に設置された上方見附までは、家屋敷が回小津に沿って立ち並び「宿内」と呼ばれ、保土ヶ谷宿では外川神社付近の上方見附まで19町(約2キロメートル)になる。大名行列が来ると、宿役人が見附まで出迎え、威儀を正して進んだ。」・・・・・・・・・・・保土ヶ谷区役所
15:20 戸塚駅東口
戸塚駅前は再開発の工事が行われている。大踏切を渡る。早めだが今日の前進はここまでとする。
JR戸塚駅東口、大踏切の近くにある昔ながらの銭湯「矢田の湯」に入る。
街道歩きの後の入浴、あー天国。せっかく出血が治まった足の爪5本が、今日、再び血豆になった。
▲トップに戻る ▲総括表に戻る ▲Next