第10日目

藤枝→田中城跡→追分→島田→大井川→金谷宿→柏屋本陣跡→長光寺(金谷)(→自宅)
月 日; 2008年10月7日(火)、天気;曇り
区 間; 藤枝=金谷、約15km
時 間; 7時間30分
費 円; 費用;合計5,290円
<内訳>交通費;JR金谷駅=小田原駅2,210円、小田急(小田原=自宅)1,300円(含むロマンスカー)、昼食820円(マクドナルドのチーズバーガーセット)、飲み物4本480円、夕食480円(軽食)
歩 数; 不明(歩数計不携帯)

08:00 ホテルルートイン出発
08:35 仮宿交差点(旧東海道)「従是西田中領」の碑
08:50 葉梨川を越える
川岸には満開を少し過ぎた赤いマンジュシャゲが咲いている。
09:05 庚申塚(光明寺)「お成り街道」を一路西に向かう。
09:10 藤井神社
09:20 田中城跡
田中城跡
09:40 藤枝宿「さわやか通り」という、東海道筋には多い何の変哲もない商店街が続く。
 

当時、輸送される荷物は何度も馬を変え人を変えて輸送されていました。人足の数を点検したり、馬の背に荷物を積み替えたり、早朝のあわただしい宿駅の様子が生き生きと描かれています。人馬を画面左から右上に斜めに配置し、人家や奥の木々も遠くに見えるよう道沿いに斜めに配した作画には、平面的にならない工夫がみられます。

09:50 蓮生寺
蓮生寺(真宗太谷派)
10:00 大慶寺
境内には毘沙門天、久遠の松などがある。
10:10 瀬戸川
藤枝宿境
10:15 志太一里塚蹟(*)
【志太一里塚蹟】
奈良時代、官道の4里毎に駅を置く制度があり、中央からの里程を知るようになっていた。
主要街道の1里毎に里程標を置くようになったのは、織田信長の時代に始まるという。
徳川家康は子秀忠に日本橋を起点に東海道に一里塚を築かせた。
志太一里塚は江戸から約200kmで50里目に当たり、瀬戸川堤から西へ約50m、岡野歯科医院の裏と、熊切商店の前の街道の両側にあった。
藤枝市内では志太の他、鬼島と上青島に一里塚があり、上青島には近年まで塚蹟が残っていた。
                                      ・・・・・・・・・・・青島史蹟保存会
10:25 岡野繁蔵(1894-1975)碑(*)
【岡野繁蔵(1894〜1975)】
「裸一貫から南洋のデパート王」となった繁蔵は明治27年青島村のこの地に生まれました。
青島小学校、育英学校に学び、21歳でインドネシアのスマトラ島に渡り大信洋行を興し雑貨商として成功し、更にスラバヤに千代田百貨店を経営し隆盛を極めましたが、太平洋戦争でやむなく日本に引き上げました。戦後、衆議院議員に当選し、国や郷土の為に貢献されましたが、昭和50年、81歳の生涯を閉じました。石標に刻まれた「希望に起き、感謝に眠れ」こそ繁蔵の尊い信条でした。
                               ・・・・・・・・・・平成10年5月 青島史蹟保存会
10:50 六地蔵尊
10:55 追分(*)
【東海道追分】
ここには瀬戸山を越える中世の古東海道と、山裾に沿う旧東海道がある。
瀬戸新屋や水上は池や湿地が多いところだったので、東海道が六地蔵の所を通るようになったのは、開拓が進んでからである。
当時、東海道はこの碑の所から東へ竜太寺山をまわり、前島境で初倉からの道と合して南新屋境で初倉からの道と合して南新屋(五叉路)へ通っていた。
東海道が瀬戸新屋を通るようになって、東海道とこの古道と分かれる所を追分と呼んだ。古道はその後も主要道路して、青島村当初の学校や役場が沿道に置かれた。
                               ・・・・・・・・・・平成10年5月 青島史蹟保存会
11:00 千貫堤(*)。街道沿いには松の木がポツリポツリと見える。蒸し暑くなってきた。
【千貫堤(市指定文化財)】
寛永12年(1635)年、田中城主となった水野監物忠善は領内を大井川の洪水から守るため、ここ下青島の無縁寺の山裾から南方藤五郎山(今はない)をはさみ本宮山(正泉寺裏山)まで約360mにわたり、高さ3・6m、幅29mの大堤防を1千貫もの労銀を投じて増築したのでこの名がある。
                      ・・・・・・・・・・昭和31年1月21日指定 藤枝市教育委員会
この付近はJR東海道線が近い。洋梨のようなカリンが大きいな実を付けている。とても美味しそう・・・・。
キンモクセイは甘い香りを放っている。
11:30 上青島の一里塚跡
11:35 島田市に入る
11:50 六合駅入口
12:00 栃山土橋
12:20 升形跡(宿東入口)(*)
【升形跡(宿東入口)】
宿場の見付は、上に柵や竹矢来を設けた石垣や土手で、街道に直角や鈎の手に区画したり、または三方をコの字型に囲った升形の見付もありました。
島田宿の東入口には、例の少ない升形の見付が設けられていました。広さは5間四方(約80平方メートル)ほどです。ここに宿場の番人を置いたという記録はありませんので、宿場の境界として設けられ、本陣の主人や町方の役人が大名行列の送り迎えをした場所だったようです。
                       ・・・・・・・・・・島田市教育委員会
島田宿/金谷宿史跡保存会
12:35 蓬莱橋
蓬莱橋 蓬莱橋 蓬莱橋通行料
東海道の街道より800m程脇にずれる。日本一の木橋、徒歩の通行料金が往復で100円
 
「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」といわれたように、大井川は、川幅も広く水量も多い川渡りの最大の難所でした。東海道にはいくつもの川がありましたが、幕府は江戸の治安・防衛のため、あえて橋を作りませんでした。参勤交代の大名は、多くの家来と荷物の移動に難儀しました。
13:20 島田宿(*)
【島田宿一里塚】
慶長9年(1604年)徳川家康は、東海道の一里(36町)ごとに塚を築かせました。塚は五間四方(直径約9米)、上に檜を目印として植え、通常は街道の両側に対で築かれました。島田宿一里塚は、天和年間(1681〜1684年)に描かれた最古の「東海道絵図」の中で、江戸から50里と記され、北側の塚しか描かれていません。幕末の文献「島田宿並井両裏通家別取調帳」では幅5間2尺で北側のみ、塚の上には榎が植えられていたことがきされている。
                            ・・・・・・・・・・・島田宿史跡保存会
13:30 大井神社
13:50 川会所
小学生の集団や観光客が大勢歩いている。島田宿大井川川越遺跡.
ここが「♪越すに越されぬ大井川♪」と歌われた「渡し場」
【大井川橋】
大井川橋は、昭和3年に架設された鋼製のトラス橋です。
下部は井筒型の基礎と門型の橋脚により構成されています。
当時の技術力を結集して建設された最大級の道路橋です。
いまなお建設当時の姿をよく残していることから、土木学会選奨土木遺産として認定されました。 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・平成15年11月
14:10 大井川橋東
大井川 芭蕉の句碑
ここから大井川を渡る。確かに幅が広い。渡りきるのに徒歩で14分かかった。
14:35 金谷宿川越場跡
金谷宿11軒屋橋
川向こうの山裾に金谷の宿が見えます。大井川の川渡りの様子を二図にわたって描いていることから、ここが東海道を旅する人々にとっていかに難儀をした場所であったかが分かります。川を渡るたびに、馬から人足、人足から馬へと荷物を積み替えなければならない苦労は、橋で何気なく通過している現代人には想像もできません。
14:45 日本左衛門(にっぽんざえもん)首塚(*)
宅円庵、JRの操作場の直ぐ脇にある。
【日本左衛門 首塚】
本名を浜島庄兵衛といい、生まれは定かではないが、遠州浜松在ではないかといわれている。
歌舞伎の青砥志稿花紅彩画(白波五人男)日本駄右衛門のモデルにもなった。
義賊といわれ、盗みはするが非道はしないというのが身上で、金持ちの蔵を破り、生活困窮者に盗んだ金をばらまいたという説もある。
詮議の手が廻り、もはや逃れられないことを知った日本左衛門は京都で自首した。そして江戸に送られて処刑(鈴ヶ森)され、根城としていた見附宿(現在の磐田市)でさらし首になった。
金谷宿の「おまん」という愛人がひそかに見附宿から首を持ち帰り、この宅円庵に葬った。
15:00 秋葉神社 金谷宿中町
「江戸より53里、これより京都71里」の看板がある。
15:05
【柏屋本陣跡】
遠州「金谷宿」柏屋本陣跡
「金谷宿」は江戸時代・東海道24番目の宿場として、徳川家康が伝馬制度を定めた慶長6年(1601年)に始まります。
東の大井川、西に小箱根といわれた「金谷坂・菊川坂」や「小夜の中山」の難所を控えたこの地はまさに東海道の交通の要所であり、天保14年(1842年)頃の金谷宿明細書によると、大名や久郷名丼休宿にあてられた「本陣」が3軒(佐塚屋、柏屋、山田屋)、「脇本陣」1軒、「旅籠」51軒が確認されており、参勤交代制が実施された寛永12年(1635年)以降は宿場において重要な機能を果たした。
本陣の一つ「柏屋」は、先祖の功によって徳川家康より屋敷を賜り、二百数十年間、金谷宿本陣の経営と名主を務めた。現在では商店街となっており、宿場の面影は見られませんが、JA大井川金谷支店地域交流センターの芭蕉が「柏屋」であった場所。
15:15 一里塚跡金屋町新町(*)
【一里塚跡(金屋町新町)】
延享3年(1746)の東海道巡覧記」によれば「金谷一里塚榎木」とある
江戸へ53里、嶋田へ1里、日坂へ1里24町   金谷宿
15:20

長光寺 松尾芭蕉の句碑がある。

長光寺 芭蕉の句碑
少し早めだが、今日の歩きはここまでとする。
15:30 JR金谷駅発
発車まで時間が無く、半ズボンと半袖、歩いた時の服装のまま車中の人となり、自分でも汗くささが判る。
今回の2日間は気持ちよく歩くことが出来た。足の疲労感は相変わらずだが、前回のような我慢できない、骨に響くような足の痛さは感じない。東海道歩きの楽しさがだんだん実感できるようになる。

日本橋を出てから今日までに足の爪8本がそれぞれ2回、血豆になった。そして剥がれた。

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