第11日目
金谷〜諏訪原城跡〜菊川の里〜佐夜鹿一里塚〜夜泣石〜日坂〜掛川

月 日; 2008年10月7日(火)、天気;晴れ
区 間; 金谷=掛川、 約13km
時 間; 6時間07分
費 円; 費用;合計10,045円
(内訳)交通費360円、(小田急線)700円、(小田原=金谷)2,210円、昼食500円(菊川の里、うどんセット)、佐夜鹿一里塚の水飴100円、宿泊4,975円(掛川ターミナルホテル)、夕食1,200円(ワンタン麺、餃子)
歩 数; 28,483歩

05:45 未だ暗い時刻に自宅を出る。寒い、気温は0℃。
東海道歩きの第1日目、2008年6月12日、東京・日本橋を歩き始めた時は雨、暑かった。
06:20 東の地平線が茜色に染まっている。久しぶりに観る早朝の美しい風景。
小田急線は町田駅辺りでますます混雑する。
中高年のハイカーも大勢いる。
秦野、渋沢、新松田駅辺りで学生やハイカーの殆どが下車して、ようやく空席が見られるようになる。
前方に真っ白に雪を被った富士山が姿を現した。
今回の街道歩きで初めて富士山が姿を現した。何だか一人でバンザイ!と叫びたくなる。
07:30

小田原駅着。ここからJRに乗り換える。

08:12 JR熱海駅
08:45

JR沼津駅
快晴。更に電車を乗り換える。
東海道歩きを始めて今日で11日目、ようやく富士山が姿を現した。東海道には富士山がよく似合う。

JR東海道線の電車の中から見る富士山
10:20

JR島田駅着。
更に電車に乗り換える。目的地、金谷はすぐ隣の駅である。

10:33

JR金谷駅着
家を出てから約4時間半、前回の終着点、今日の出発点・金谷宿に到着した。
若い女性が写真を撮りながら前後して東海道を歩き始める。大きなデジタルカメラだ。
話しかけると、写真学校に通って「卒業制作」として旧東海道の写真を撮っているという。
まもなく広大な茶畑が広がる。静岡での快晴の東海道、茶畑そして富士山が揃った。
整備された石畳が続く。

 
川向こうの山裾に金谷の宿が見えます。大井川の川渡りの様子を二図にわたって描いていることから、ここが東海道を旅する人々にとっていかに難儀をした場所であったかが分かります。川を渡るたびに、馬から人足、人足から馬へと荷物を積み替えなければならない苦労は、橋で何気なく通過している現代人には想像もできません。
10:55 金谷の石畳(*)
【金谷坂の石畳】(下の写真=左)
この石畳は、江戸時代幕府が近郷集落の助郷に命じ、東海道・金谷宿と日坂宿との間にある金谷峠の坂道を旅人たちが歩きやすいように山石を敷き並べたものであるといわれています。近年、僅か30メートルを残す以外はすべてコンクリートなどで舗装されていたが、平成3年、町民約600名の参加を得て実施された「平成の道普請」で延長430メートルが復元された。
いま、街道の石畳で往事を偲ぶことが出来るのはこの金谷坂の他、箱根峠、中山道十曲峠の三個所だけとなった。
             平成四年三月・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・島田市教育委員会

     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
【鶏頭塚】(下の写真=中央)
鶏頭塚は旧東海道の石畳の坂道の途中にある塚の名のいわれとなった。

  
「曙も夕ぐれもなし鶏頭華」

の句と「六々庵巴静寛保甲子4年(1744)2月19日没」と刻んだ自然石の碑である。
巴静というのは蕉風をひろめた江戸時代の俳人でその教えを受けた金谷の門人たちは師の徳を慕って金谷坂の入口北側の辺にこの句碑を建てた。この碑石は道路工事等に伴いその都度移動したが風雅の心ある地元の人々の心配りに因って保存がはかられて現在に至っている。
なお塚の裏に位置する庚申堂は昔から土地の人々に信仰され、徳川時代の大盗・日本左衛門がここを夜働きの着替え場所としていたことが口碑として残っている。
                             東海道 金谷宿

金谷の石畳 鶏頭塚 金谷の茶屋
11:15
諏訪原城跡(*)
【諏訪原城】
史跡・諏訪原城跡は東海道武田領の先鋒を勤める重要な拠点の金谷台に天正元年(1573)武田勝頼の臣・馬場美濃守の縄張りで築かれた。
希に見る規模雄大な山城の跡である。
11:50
菊川の辻(*)
【菊川坂石畳】
この菊川坂石畳は、平成12年の発掘調査により江戸時代後期のものと確認されました。
江戸時代は、様々な仕事が助郷という制度によってなされ、この石畳も近隣12か村に割り当てられた助郷役の人たちによって施設されたものです。この長さは、380間(約690メートル)あったともいわれています。
しかし現在では、昭和30年代から40年代にかけての工事により一部破損された所もありますが、このように長さ161メートル、最大幅4.3メートルを残しております。

かっては、江戸と京都を結ぶ主要な街道としてこの石畳も多くの旅人たちで賑わったといわれ、往事をしのぶ文化遺産として大切に後生に伝えていかなければなりません。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・島田市教育委員会
12:05 菊川の里(*)
菊川の里会館(地元活性化会館)
エプロンと手ぬぐいを被った、地元の婦人(らしい)数人が忙しく、厨房で働いている。天ぷらうどんを注文する。周囲の雰囲気からして、さぞや美味いだろうと期待した・・・・。
テーブルの上に置いてあるお茶は濃くて、さすがに美味い。

【間の宿・菊川】
間の宿は、本宿と本宿の中間にあって、人足の休憩所や旅人の休憩に便宜をはかって作られました。ふつう、2宿間の距離は3〜4里に及ぶ時に間の宿を置きますが、金谷宿と日坂宿の間のように1里24町でも、急所難所が続く場合は別に間の宿「菊川」がおかれた。
間の宿では、旅人の宿泊は厳禁されていました。川止めの場合でも、菊川では、金谷宿の許可がないと旅人を泊めることは出来ませんでした。また間の宿では、尾頭付きの本格的な料理を出すことも禁じられていました。
そこで生まれたのが菊川名物の「菜飯田楽」。大井川の激流を渡り、金谷坂を登りきった旅人には、ひなびた里の味でもさぞかしおいしかったことでしょう。なお、下菊川おもだか屋・宇兵衛の茶屋の菜飯田楽は特別おいしかったといわれています。この店には御殿とよばれた上段の間があり、尾州家からの下賜品があった。・・・・・・・・・・・・・・・・島田市・金谷観光協会

12:50 久延寺
13:10

佐夜鹿一里塚(*)
周囲は一面の茶畑。
名物の「子育て水飴」(100円)を購入。割り箸の先端に、一斗缶に入った水飴をちょっこっと巻き付ける。
子供の頃、紙芝居を見ながらなめた記憶がある。入れ歯の人は危険だからと、何回も注意される。
茶店のおばさんが少し若い頃の八千草薫のよう、とてもチャーミング女性そして親切だった(=下の写真)。
東海道歩きを激励される。

【佐夜鹿(小夜の中山)一里塚】
慶長9年(1604)に造られた。56里目という説がある。
東海道のルートは時代とともに若干の変更もあるが、一里塚の位置が移動したという記録はない。
一里塚は東海道を行き来する旅人などにとっておおよその道程の目安になっていたことと思われる。
13:20 白山神社
13:25 馬頭観世音
13:30 妊婦の墓(*)夜泣石跡
【夜泣石跡】

妊婦の霊魂が移り泣いたという石(夜泣石)が、明治元年までこの道の中央にあったが、明治天皇御東幸のみぎり道脇に寄せられた。
その後、明治初年東京で博覧会があり、出品された帰途、現在の位置に移る。

13:45 沓掛
ものすごい急坂
「沓掛」の地名は峠の急な坂道にさしかかった所で草履や馬の沓を山の神などに手向け、旅の安全を祈願するという古い慣習に因るといわれる。現代に残る生活道路の東海道でこんな急な坂道(一般道)を見たことがない。急坂を軽自動車が勢い付けて登ってくる。
農家の老婆が落ち葉をかき集めている。堆肥を作るという。何だか古い良き時代を想わせる。
13:55 日坂宿(*)
この付近には古い家並みが多く見られる。
【日坂(にっさか)】
東海道五十三次、品川宿から数えて25番目の宿
江戸から54里余。日坂は東海道三大難所の一つ「小夜の中山峠」西の麓に位置し、西坂、入坂、新坂とも書かれていました。
日坂宿の初見は、鎌倉時代、延慶3年(1310)の「夫木和歌抄」といわれています。
慶長6年(1601)徳川家康による、東海道の整備にともない、問屋場(といやば)が設けられ、伝馬の継ぎ立て駅としての日坂宿は、重要な存在になりました。助郷43村の協力で、伝馬百疋と伝馬人百人が置かれ、役人の公用と荷物の輸送に役立ってきました。
天保14年(1843)の記録によれば、家数168軒、人口750人とあり、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠屋33軒がありました。
大井川の川止めや、大名の参勤交代などで小さな宿場町ではありましたが、かなりの賑わいであった思われます。
宿場の東口から西口までの距離は、およそ6町半(700メートル)町並みの形態は現在とあまり変わっていません。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・日坂地域振興の会/日坂宿おこし委員会
【問屋場(といやば)跡】(下の写真)
宿場では、幕府などの貨客を宿場から次の宿場へ継ぎ立てることになっており、そのための人馬の設置が義務つけられていました。
宿場でこの業務を取り扱う職務を問屋、その役所を問屋場といいます。問屋は宿内で最も大切な役職でした。
日坂宿の問屋場はかってこの場所にあり、「東海道宿村大概帳」によると、日坂
宿の宿役人は問屋1人、年寄4人、請払2人、帳附5人、馬指3人、人足割3人、同下役6人です。
問屋場へは問屋・年寄をはじめ宿役の者が毎日交代で一人ずつ詰め、重要な通行があった時には全員で業務に携わったとのことです。
14:15 秋葉常夜燈(*)、下木戸跡
ここで60歳位の二人連れ女性と道連れになる。日本橋から東海道を、毎回日帰りで、もう1年以上もかけて歩いているという。
この日、掛川まで同道する。「旅は道連れ」も悪くない。
【秋葉常夜燈】
日坂宿はしばしば火災にあっているためか、火伏せ(火防)の秋葉信仰が盛んであった。当時の人々は神仏のご加護を願い秋葉講を結成し分社や常夜燈などを各所につくった。
秋葉常夜燈は秋葉神社に捧げる灯りをともすためのもので、辻などの人目につきやすい場所に建てられました。
日坂宿にはここ本陣入り口の常夜燈の他、相伝寺境内と古宮公会堂脇と当時三基建っていた。ここの常夜燈は安政3年(1856)の建立でしたが、老朽化が進みましたので平成10年(1998)に撤去し、改めて復元した。
秋葉山のほかに駅中安全とあるのは、火災を恐れる気持ちの強さを示している。
14:50 伊達方一里塚(*)
【伊達方一里塚】
江戸日本橋から京都まで125里(約500km)。掛川市内には佐夜鹿、伊達方、葛川、大池の4カ所に塚が設けられていた。
ここ伊達方一里塚は、江戸より57番目の塚として街道の両側に築かれ、南側は現・萩田理髪店東側あたり、北側は現・三浦たばこ店屋敷あたりに設けられていた。
当時、塚の大きさは直径7間、高さ3間の小山で、一里山と言われた。明治33年頃取り壊された。
【ゲイスベルト・ヘンミィの墓】
ヘンミィの一行七十余人は、寛政10年(1798)のはじめに長崎を出発し、4月に11代将軍家斉に謁見した。そして、5月に江戸を発って長崎に帰る途中、6月5日掛川連雀の本陣林善多左衛門方に投宿。この地でかねてからの病気が悪化し、6月8日に死亡、天然寺に葬られた。享年51歳。
15:35 成滝
15:55 馬喰橋一里塚
薄暮の掛川城
16:40

JR掛川駅
駅前にある「ターミナルホテル」にチェックイン
問屋場からここまで同道した女性とは再会を約し、ここで分かれる。二人はここから東京へ帰るという。
今日は快適に街道歩きが楽しめた。

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