第16日目
(自宅)〜赤坂宿〜藤川〜岡崎〜池鯉鮒宿

月 日; 2009年3月23日(月)、天気;晴
区 間; (自宅→豊橋→赤坂)赤坂宿から池鯉鮒宿(ちりゅうじゅく)、約30.3km(知立駅前ビジネスホテル)
時 間; 10時間30分
費 円; 費用;合計10,660円
交通費;高速バス(新宿=豊橋)4,500円、名鉄340円(豊橋=名鉄・赤坂駅)、朝食;280円(パンと
ヨーグルト)、昼食;520円(吉野屋の牛丼)、飲み物280円、知立駅前ビジネスホテル4,500円、
スーパー銭湯800円
歩 数; 55,499歩

23:50
( 3/22)
東京・新宿西口から出発する高速バス(深夜バス)に乗る。新宿=豊橋エクスプレス「ほの国号」。
ほぼ満席に近い。乗客は若い人がほとんど、女性も多い。座席は、もうこれ以上は無理だ、というほど狭く飛行機のエコノミーの席よりも更に狭い。
車内の全ての窓と前方にもカーテンが降ろされ、バスの客室は密室になる。持参の睡眠導入剤を半錠だけ服用する。直ぐに眠りに入り、途中のサービスエリアでのトイレ休憩も気が付かず、起きたのは目的地の「JR豊橋駅」だった。
05:15 JR豊橋駅前着。到着予定時間よりも15分早い。
まだ、外は薄暗い。寒い。
バスの乗客の大半はここで下車する。
JR豊橋駅の駅構内の売店は未だ開いていない。前回歩いた時に泊まった駅前のビジネスホテルがある。
名鉄・豊橋駅発の一番電車を30分以上待たなければならない。
05:53
06:08
豊橋駅発・名鉄電車
甲府(こう)駅で乗り換え
06:12 名電・赤坂駅
快晴、風が強く、寒い。周囲は畑、東名高速と国道1号線が平行して走っている。今回はここから歩き始める。
06:30 赤坂宿(前回の終着点=今回の出発点)
風が強く、寒い。時間が早く、他に通行人もいない。何だか気が乗らない。ファイトー!
御休処「よらまいかん」
【赤坂・旅籠 大橋屋】(上の写真・中央と右端)
本陣・脇本陣以外の武士や庶民などの宿泊施設を旅籠屋(はたごや)という。
享保18年(1733)の赤坂宿は、町裏を合わせて家数4百軒のうち、83軒が旅籠屋であった。
大橋屋は、旧屋号を鯉屋といい、正徳6年(1716)の建築といわれる。赤坂宿の旅籠屋の中では、大旅籠に属し、間口9間、奥行き23間ほどであった。入口の見世間・階段・2階の部屋は往時の様子を留めている。
07:00 大永栄善寺(*)
由緒あるお寺のようだが、現代では随分寂れつつある。
ちょうど、桜が咲き始めている。風が強く、少々寒い。
【大永山栄善寺】
文泳9年(1272年)派祖証空善慧上人二世法孫円空立信上人の創立された浄土宗の寺である。この寺には弘法大師が盲目の子供を救った奇跡の伝説がある。
参道の自然石石段は平安様式といわれ本堂も二層式で大変珍しいと言われている・・・・・・・・・・・・音羽町誌・愛知県伝説集より
07:10

八王子神社


本殿は東海道からは随分と奥まった処にある。鳥居から礼拝だけで失礼する。
07:20 一里塚(*)
【一里塚跡
南塚、北塚とも榎が植えられていた。
宿村大概帳によれば江戸方七七里余、京方四十七里、赤坂一里九丁、藤川一里とある。
07:30

村社・兒子神社
鳥居があるが、他に何も見当たらない。
この付近、東名高速道路、JR東海道線、それに名鉄電車が併走している。

07:43 磯丸「みほとけ」
ここで東海道1号線と合流する。
08:10

岡崎市に入る
「是より西、本宿村」藤川宿へ一里

08:20 新箱根入口
東海道一号線の交差点
08:25 法蔵寺(*)
たしか東京・板橋で処刑されたはずの新撰組の近藤勇の首塚がどうしてこの法蔵寺にあるのか・・・・不思議だ?
【法蔵寺】
701年、僧行基の開山と伝えられ、松平初代親氏が深く帰依して1387年に堂宇を建立し、寺号を法蔵寺としたと言われている。家康が幼いころ、手習いや漢籍を学んだとされ、数々の遺品が現存している。桶狭間の合戦以後、家康は、法蔵寺に守護不入の特権を与えるなど優遇しました。
また、境内には新撰組で有名な、近藤勇の首塚も祀られている。(下の写真)
法蔵寺山門 <近藤勇首塚>
08:40

本宿・本陣屋敷跡と代官屋敷
古い屋敷が冨田病院の駐車場の一角に、仕方なしに置いてある、って感じ。

【本宿陣屋跡と代官屋敷】
(現・冨田病院)
元禄11年(1689)旗本柴田出雲守勝門(柴田勝家子孫)が知行所支配のため、本宿村に陣屋を設けた。以来明治に至るまで存続した。
陣屋代官職は冨田家が世襲し、現存の居宅は文政10年(1827)の建築である。・・・・・・・・郷土史本宿研究会
08:50

十王堂跡(*)

【十王堂跡】
街道に沿ったこの地に十王堂(閻魔堂)があり旅行者や村人から尊信されていた。
堂宇は昭和30年欣浄寺(ごんじょうじ)境内に移された。
本尊木造地蔵菩薩座像(鎌倉期)は昭和62年岡崎市文化財に指定された。(非公開)
・・・・・・・・・・・・・・・郷土史本宿研究会
08:55

一里塚跡

09:25

山中小学校交差点

09:40 山中八幡宮(*)
手前に常夜燈、朱塗りの鳥居と桜、そして青空と実に気持ちの良い風景が展開している。
桜が四分咲き、もう少し風が弱く、暖かならば最高の景色なのだが・・・・
【山中八幡宮】
家康の家臣・菅沼定顕(すがぬま さだあき)が、上宮寺から糧米を強制徴収したことから端を発した三河一向一揆で、門徒に追われた家康が身を隠し、難を避けたという鳩ヶ窟があります。一揆方の追手が家康のひそんでいる洞窟を探そうとすると、中から2羽の鳩が飛び立ちました。
「人のいる所に鳩がいるはずはない」と追っ手は立ち去ったといいます。
例年正月3日には、五穀豊穣を祈る御田植神事「デンデンガッサリ」が催されます。
09:55

市場村
東棒鼻(旧東海道)(*)

【東棒鼻跡】
宿場の出入口を棒鼻(棒端とも書く)といわれ、地元に保存されている街道往還図には宿囲石垣とある。
広重の藤川宿棒鼻の版画は幕府が毎年八朔、朝廷へ馬を献上する一行がここ東棒鼻に入ってくるところを描いたものである。
10:05 津島神社
この付近の寺社と同じく、本殿と鳥居の間が名鉄電車で分断されている。江戸時代は随分と隆盛だったに違いない。
10:15 藤川宿・問屋場跡=本陣跡
10:30

西棒鼻跡

10:40

吉良道道標(*)

【吉良道道標】
道しるべは、高さ百四十三センチ、幅二十センチの四角柱で、彫られている文字は、
  <右面> 「文化11年甲戌5月吉日建」
  <正面> 「西尾、平坂、土呂、吉良道」
  <左面>「東都小石川住」
と書いてある。
とにかく、江戸時代、参勤交代の行列、助郷勤めの出役、さらには海産物の搬入路など重要な脇街道であった。また伝説に、茶壺道中の行列がここを通ると、雨が降るという「茶壺のなみだ雨」の話も残っている。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・藤川宿まちづくり研究会
11:30

岡崎市内
ここでちょっと早い昼食、「吉野屋」の牛丼を食べる。
贅沢にも「特盛り」を注文。あー美味い!実にうまい!こんなにも美味い牛丼が世の中に存在するなんて!

12:55

岡崎城(*)

【岡崎城】
 
15世紀中頃(室町時代)、西郷弾正左衛門頼嗣(稠頼)が現在の岡崎城の位置にはじめて城を築き、のちに家康の祖父である松平清康が入城し本格的な岡崎城を構えた。
 1542年(天文11年)12月26日、徳川家康はここ岡崎城内で誕生した。江戸時代、岡崎城は「神君出生の城」として神聖視され、本多氏(康重系統/前本多)、水野氏、松平氏(松井)、本多氏(忠勝系統/後本多)と、歴代譜代大名が城主となった。石高は5万石と少なかったが、大名は岡崎城主となることを誇りとしたと伝えられる。
 現在の天守閣は1959年(昭和34年)に復元され、3層5階の鉄筋コンクリート構造となっている。2階から4階は江戸時代の岡崎を紹介する展示室で、5階は展望室となっており三河平野を一望することができる。
名古屋名物「八丁味噌」の工場がある。
14:10

和志王山薬王寺、宇頭の松並木

14:36 熊野神社
予科練の碑がある。ここから大勢の若者が大東亜戦争の戦場へと赴いた。
14:50 永安寺
巨大な松が目一杯、枝を広げている。何だかとても偉そうにしている。
【永安寺の雲竜の松】   県指定天然記念物   昭和60年11月25日指定
永安寺は大浜茶屋(浜屋町)の庄屋柴田助太夫の霊をまつる寺です。
助太夫は1677年(延宝5)貧しい村人のために助郷役の免除を願い出て刑死したと伝えられています。
この寺を覆い包むように横に枝を広げたこのクロマツの巨木は、助太夫家の庭にあったものか、寺が建てられた時に植えられたものか不明ですが、樹齢は300年くらいと推定されます。
この松の樹形は、中心の幹が上へのびず、分かれた幹が地をはうようにのびて、その形が雲を得てまさに天に昇ろうとする竜を思わせるので「雲竜の松」と俗に呼ばれています。
  樹高  4・5メートル
  
幹の囲 3・7メートル
  
枝張り 東西 17メートル
  
南北 24メートル・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・安城市教育委員会
15:40 御鍬神社(おくわじんじゃ)
【東海道の松並木】
1601年(慶長6)家康は、東海道に宿駅を定め、続いて1604年(慶長9)には、街道に一里塚を設置して、道の両側に並木を植えさせた。さらに、1612年(慶長17)道路・堤などの補修、道幅・並木敷地等の定めをして、街道を直接管理した。
こうして、街道の松並木は、旅人に風情を添え、夏は緑の陰をつくり、冬は風雪を防ぐに役立った。幕府は、その保護捕植に力をそそぎ、沿道・近郷の農民たちの、往還掃除丁場という出役によって、その清掃整備が維持されてきた。明治以後も重要幹線国道として維持管理が続けられ、4世紀にわたる日本の歴史の大きな役割の一部を、担ってきた。
近年、風害や公害等のために、その数を減じているが、この松並木のうち大きいもので、樹齢200年から250年ぐらいと推定される。・・・・・・・・・・・・・・安城市教育委員会
15:45 元禄の道標(*)
【元禄の道標】

道標とは、道路を通行する人の便宜のため、方向・距離等を示し、路傍に立てた標識物のことである。この道は、江戸時代の東海道であったから、諸処にこの様な道標が建てられていた。
従是四丁半北 八橋 業平作観音有元禄九丙子年六月吉朔日施主敬白と記されており、これは、元禄九年(1696)に、在原業平ゆかりの八橋無量寿寺への道しるべとして建てられたものであることがわかる。ここから西へ五百メートルの牛田町西端にも、「東海道名所図会」に記されている元禄十二年の道標が残されている。・・・・・・・・・知立市教育委員会

15:50 来迎寺一里塚(*)
これほど立派な一里塚は滅多に見ることが出来ない。
【来迎寺一里塚】県指定文化財(史跡)
一里塚は通行者の便宜上後年になって脇街道にも造られるようになった。
塚の上の樹木は主として榎が植えられたがこの塚は代々、松と言われる。この大きさは直径約11メートル、高さ約3メートルに土を盛り、街道の両側に造られている。
この塚のように両塚とも完全に遺されて居るのは、大変珍しい。
県下では岡崎市の大平一里塚と豊明市の阿野一里塚などがある。
16:05 知立の松並木(*)
寒くなってきた。いつもこのくらいの時間になると街道歩きが辛くなってくる。
【知立の松並木】
この知立の松並木は、幅7メートル、約500メートルにわたり凡そ170本の松が植えられている。測道を持つのが特徴で、この地で行われた馬市の馬を繋ぐためとも推定されている。・・・・・知立市教育委員会
16:10 池鯉鮒(=ちりゅう)宿
とても読み難い地名だ。JRの駅名は「知立」である。
17:00 知立駅前の一番安そうなビジネスホテルへチェックイン。
以前、このホテルに泊まった若い女性が歩いた「東海道ウオーカーの旅便り」(HP風な旅日記)を見せてもらう。
「絶対に車には乗らない!」と決めて、現代の東海道(国道1号線)を中心に京都から東京・日本橋まで一挙に歩いた記録である。「旧東海道」には全くこだわっていない、「江戸時代」にも関心が無いようだ。
夕食後、15分ほど歩いた、国道1号線沿いにある「スーパー銭湯」へ行く。好きなサウナがある。疲れた身体にお風呂は最高に気分が良い。
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