水戸街道・20次
(千住=水戸)116.0q
(2014年1月24日踏破済)
(編纂中) |
水戸徳川家は将軍の補佐役と目され、江戸に生活の本拠を置いていた。 まれに、藩主が国許に下るときの行列は盛大で、重役から町役人一同、土下座して送り迎えしたと伝えられている。 それが、時代劇の「下に、下に」の台詞で知られるあのシーンだ。
水戸街道は水戸徳川家の勢力拡大により、整備がさらに進められた。 それゆえ五街道の混雑などを避けるため、23家もの大名が利用したと伝えられている。 その数は東海道、奥州街道、中山道に次ぐ。 水戸街道はまた、百万都市・江戸への物資輸送路としても利用され、街道沿いの発展にも繋がった。 そして、その発展により水戸藩にも潤いがもたらされた。
2014/12/28〜1/24(踏破済/5日間) |
| (スタート)千住(日光道中との分岐)→新宿→松戸→小金→我孫子→取手→藤代→若柴→牛久→荒川沖→中村→土浦→中貫→稲吉→府中→竹原→片倉→小幡→長岡→水戸 |
北国西街道・10次
(洗馬=丹波島)
75.3km('14/8/10踏破済)
(編纂中) |
慶長19年(1614)、中山道が小野峠越えから塩尻峠越えに道筋が変わった。
北国西街道が同時に誕生した。木曽義仲が馬を洗ったとされる洗馬宿から北国街道の丹波島宿までを結ぶ。途中に10宿がある。
この区間、旧街道の一部は現代ではめったに人が歩くことが無い林道やブッシュの中、更には刈谷原峠や立峠などは上り下りがきつく、かなりハードな街道歩きが要求される。途中には「熊出没に注意」の看板もある。
2014/8/8〜8/10(踏破済/3日間) |
| (スタート)(中山道の「洗馬宿」追分の道標)洗馬(北国西-1日目)→郷原→村井→松本(北国西-2日目)→岡田→刈谷原→会田→青柳(北国西-3日目)→麻績→稲荷山→丹波島(北国街道へ合流) |
北国奥州道・11次
(高田=出雲崎)
79.6km(踏破済)
(公開中) |
北国脇往還の終点「高田宿」から先、日本海沿いに北上して出雲崎宿まで
この出雲崎から「佐渡」へ渡った。
現代では佐渡へのフェリーは主に「直江津」から就航している。
2014/4/26〜4/28(踏破済/3日間) |
(スタート)(「北国脇往還の終点である高田宿にある北国街道・奥州道と加賀街道の追分)高田→春日新田宿→
黒井宿→潟町宿→柏崎宿→鯨波宿→鉢崎宿→柏崎→宮川→椎谷宿→石地宿→出雲崎(ここから佐渡へ) |
北国松代道・5次
(矢代=牟礼)
(39.4km)
(公開中)
(2014/2/1) |
北国脇往還の矢代宿から松代宿経由牟礼宿まで、いわば北国街道のバイバス的な存在。途中、松代宿には真田家ゆかりの深い藩邸や長国寺そして信之氏霊廟がある大鋒寺などがある。千曲川沿いの長沼宿など見所が多い。
2013/12/2・2014/2/1(踏破済み/2日間) |
| (スタート)(「北国脇往還との追分」)矢代宿→松代宿→川田宿→福島宿→長沼宿→神代宿→牟礼宿(北国街道脇往還へ合流 |
北国脇往還・21次
(追分=高田)
(137.4km)
(踏破済み)
(公開中) |
江戸幕府によって整備された脇街道で、北国脇往還(ほっこくわきおうかん)、善光寺街道(ぜんこうじかいどう)などとも呼ばれる。
追分で中山道と分かれ、善光寺を経て直江津で北陸道に合流する。本道は、善光寺への参拝のために整備され、佐渡の金を江戸に運ぶ道として五街道に次ぐ重要な役割を果たした。軽井沢町から上越市までの区間は現在の国道18号にほぼ相当する。2012/11/23〜2013/7/2(踏破済み/7日間)
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| (スタート)(「中山道との追分」)追分宿→
小諸宿→田中宿・海野宿→上田宿→(間の宿)鼠宿→坂木宿→上戸倉宿・下戸倉宿→屋代宿→
(間の宿)篠ノ井追分宿→丹波島宿→善光寺宿→新町宿→牟礼宿→古間宿・柏原宿→野尻宿→関川宿・上原宿→田切宿・二俣宿→関山宿→松崎宿・二本木宿→荒井宿→高田宿(更に「出雲崎宿」まで79.6km;踏破済14/4/28) |
日光例幣使街道・21次
(倉賀野=今市市)
(113.56q)
(公開中)
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江戸時代朝廷は、徳川家康の法要のため日光東照宮に勅使を派遣した。京から中山道を通り、倉賀野宿より日光に至るまでの道を整備した。春の東照宮例祭に合わせ、勅使が通る道のことを「日光例幣使道」とよんだ。復路は日光道から東海道を使って帰京した。
なお、例幣使は京を4月1日に出発、中山道を進み「倉賀野宿」から「日光例幣使道」を通り4月15日に日光に到着した。1647年から1867年の221年間、一度も中断することがなかった。
2011/10/2〜2012/8/28(踏破済み) |
(スタート)(「中山道」との追分)倉賀野(1)→玉村(2)→五料(3)→柴(4)→境(5)→木崎(6)→太田(7)→八木(8)→梁田(9)→天明(10)→犬伏(11)→富田(12)→栃木(13)→合戦場(14)→金崎(15)→楡木(16)→奈佐原(17)→鹿沼(18)→文挾(19)→板橋(20)→今市(21)→(ゴール)日光東照宮 |
東海道・53次
(日本橋=京都・三条)
(496.1km)
(公開中) |
徳川家康は、1601年(慶長6年)に「五街道整備」により、五つの街道と「宿(しゅく)」を制定し、道としての「東海道」が誕生する。日本橋(江戸)から三条大橋(京都)に至る宿駅は、53箇所でいわゆる東海道五十三次である。又、箱根と新居に関所を設けた。その後、1603年(慶長8年)には、東海道松並木や一里塚を整備する。(2008/6/12〜2009/7/12(踏破済) |
| (スタート)日本橋→(1)品川→(2)川崎→(3)神奈川=(4)保土ヶ谷→(5)戸塚→(6)藤沢→(7)平塚→(8)大磯→(9)小田原→(10)箱根→(11)三島→(12)沼津→(13)原→(14)吉原→(15)蒲原→(16)由比→(17)興津→(18)江尻→(19)府中→(20)丸子→(21)岡部)=(22)藤枝→(23)島田→(24)金谷→(25)日坂→(26)掛川→(27)袋井→(28)見附→(29)浜松→(30)舞坂→(31)新居→(32)白須賀→(33)二川→(34)吉田→(35)御油→(36)赤坂→(37)藤川→(38)岡崎→(39)知鯉鮒→(40)鳴海→(41)熱田→(42)桑名→(43)四日市→(44)石薬師→(45)庄野→(46)亀山→(47)関→(48)坂下→(49)土山→(50)水口→(51)石部→(52)草津(「中山道」と合流)→(53)大津→(ゴール)京都 |