慶長9年(1604年)に日本橋が五街道の起点として定められた。整備として一里ごとに一里塚を設けたほか、一定間隔ごとに宿場を用意した。
 万治2年(1659年)以降は新たに設置された道中奉行の管轄に置かれた。五街道の正式名称が定められたのは、享保元年(1716年)である。

「街道ウォーカー」(左のイラスト)と一緒に街道を歩きませんか?
楽しいですよ・・・・きっと。
あなたの「街道歩き」をお知らせください。
五街道に続き「例幣使街道」、
「北国街道」、更に「水戸街道」も歩き終えました。次はいよいよ「熊野古道」を歩く・・・・予定


江戸の街道制覇を目指して・・・・
街道歩き総括表;5街道+例幣使道、北国街道、水戸街道
2015年1月24日 水戸街道 千住宿から水戸宿まで(116.0km)踏破済

2014年8月10日

北国・西街道 「洗馬」から「丹波島」まで(75.3km)踏破済
2014年4月28日 北国・奥州道 「高田」から「出雲崎」まで(79.6km)踏破
2013年12月3日 北国・松代道 川田宿から牟礼宿まで(39.3km)踏破
2013年7月2日 北国脇往還 「高田宿」(新潟)へ到着。北国脇往還(137.4km)踏破
更に「高田」から「出雲崎宿」(79.6km)へ
2012年11月23日 北国脇往還 中山道「追分」から「高田宿」へ向け一人旅開始
2012年8月28日 例幣使街道 日光東照宮に到着。次は「北国街道」
2011年11月22日 中山道

中山道ラストステージ「草津宿」に到着。中山道踏破

2011年10月2日 例幣使街道 中山道「倉賀野宿」から一人旅開始
2011年7月10日 奥州街道 奥州街道・白河宿(福島)に到着。奥州街道踏破
2011年1月6日 奥州街道 奥州街道一人旅開始
2010年10月12日 日光街道 日光街道・鉢石に到着。日光街道踏破
2010年4月8日 日光街道 日光街道一人旅開始
2010年2月28日 甲州街道 甲州街道・下諏訪宿に到着。甲州街道踏破
2009年11月07日 甲州街道 甲州街道一人旅開始
2009年06月23日 中山道 中山道(日本橋=京都・三条大橋)一人旅開始
2009年07月12日 東海道 京都・三条大橋に到着。東海道制覇
2008年06月12日 東海道 東海道(日本橋=京都・三条大橋)一人旅開始

水戸街道・20次
(千住=水戸)116.0q
(2014年1月24日踏破済)
(編纂中)

水戸徳川家は将軍の補佐役と目され、江戸に生活の本拠を置いていた。 まれに、藩主が国許に下るときの行列は盛大で、重役から町役人一同、土下座して送り迎えしたと伝えられている。 それが、時代劇の「下に、下に」の台詞で知られるあのシーンだ。
水戸街道は水戸徳川家の勢力拡大により、整備がさらに進められた。 それゆえ五街道の混雑などを避けるため、23家もの大名が利用したと伝えられている。 その数は東海道、奥州街道、中山道に次ぐ。 水戸街道はまた、百万都市・江戸への物資輸送路としても利用され、街道沿いの発展にも繋がった。 そして、その発展により水戸藩にも潤いがもたらされた。
2014/12/28〜1/24(踏破済/5日間)
(スタート)千住(日光道中との分岐)→新宿→松戸→小金→我孫子→取手→藤代→若柴→牛久→荒川沖→中村→土浦→中貫→稲吉→府中→竹原→片倉→小幡→長岡→水戸
北国西街道・10次
(洗馬=丹波島) 75.3km('14/8/10踏破済)
(編纂中)

慶長19年(1614)、中山道が小野峠越えから塩尻峠越えに道筋が変わった。
北国西街道が同時に誕生した。木曽義仲が馬を洗ったとされる洗馬宿から北国街道の丹波島宿までを結ぶ。途中に10宿がある。
この区間、旧街道の一部は現代ではめったに人が歩くことが無い林道やブッシュの中、更には刈谷原峠や立峠などは上り下りがきつく、かなりハードな街道歩きが要求される。途中には「熊出没に注意」の看板もある。
2014/8/8〜8/10(踏破済/3日間)

(スタート)(中山道の「洗馬宿」追分の道標)洗馬(北国西-1日目)→郷原→村井→松本(北国西-2日目)→岡田→刈谷原→会田→青柳(北国西-3日目)→麻績→稲荷山→丹波島(北国街道へ合流)
北国奥州道・11次
(高田=出雲崎)
79.6km(踏破済)
(公開中)

北国脇往還の終点「高田宿」から先、日本海沿いに北上して出雲崎宿まで
この出雲崎から「佐渡」へ渡った。
現代では佐渡へのフェリーは主に「直江津」から就航している。
2014/4/26〜4/28(踏破済/3日間)

(スタート)(「北国脇往還の終点である高田宿にある北国街道・奥州道と加賀街道の追分)高田→春日新田宿→
黒井宿→潟町宿→柏崎宿→鯨波宿→鉢崎宿→柏崎→宮川→椎谷宿→石地宿→出雲崎(ここから佐渡へ)
北国松代道・5次
(矢代=牟礼)
(39.4km) (公開中)
(2014/2/1)
北国脇往還の矢代宿から松代宿経由牟礼宿まで、いわば北国街道のバイバス的な存在。途中、松代宿には真田家ゆかりの深い藩邸や長国寺そして信之氏霊廟がある大鋒寺などがある。千曲川沿いの長沼宿など見所が多い。
2013/12/2・2014/2/1(踏破済み/2日間)
(スタート)(「北国脇往還との追分」)矢代宿→松代宿→川田宿→福島宿→長沼宿→神代宿→牟礼宿(北国街道脇往還へ合流
北国脇往還・21次
(追分=高田)
(137.4km)
(踏破済み)
(公開中)

江戸幕府によって整備された脇街道で、北国脇往還(ほっこくわきおうかん)、善光寺街道(ぜんこうじかいどう)などとも呼ばれる。
追分で中山道と分かれ、善光寺を経て直江津で北陸道に合流する。本道は、善光寺への参拝のために整備され、佐渡の金を江戸に運ぶ道として五街道に次ぐ重要な役割を果たした。軽井沢町から上越市までの区間は現在の国道18号にほぼ相当する。2012/11/23〜2013/7/2(踏破済み/7日間)

(スタート)(「中山道との追分」)追分宿→ 小諸宿→田中宿・海野宿→上田宿→(間の宿)鼠宿→坂木宿→上戸倉宿・下戸倉宿→屋代宿→ (間の宿)篠ノ井追分宿→丹波島宿→善光寺宿→新町宿→牟礼宿→古間宿・柏原宿→野尻宿→関川宿・上原宿→田切宿・二俣宿→関山宿→松崎宿・二本木宿→荒井宿→高田宿(更に「出雲崎宿」まで79.6km;踏破済14/4/28)
日光例幣使街道・21次
(倉賀野=今市市)
(113.56q)
(公開中)


 江戸時代朝廷は、徳川家康の法要のため日光東照宮に勅使を派遣した。京から中山道を通り、倉賀野宿より日光に至るまでの道を整備した。春の東照宮例祭に合わせ、勅使が通る道のことを「日光例幣使道」とよんだ。復路は日光道から東海道を使って帰京した。
 なお、例幣使は京を4月1日に出発、中山道を進み「倉賀野宿」から「日光例幣使道」を通り4月15日に日光に到着した。1647年から1867年の221年間、一度も中断することがなかった。
2011/10/2〜2012/8/28(踏破済み)

(スタート)(「中山道」との追分)倉賀野(1)→玉村(2)→五料(3)→柴(4)→境(5)→木崎(6)→太田(7)→八木(8)→梁田(9)→天明(10)→犬伏(11)→富田(12)→栃木(13)→合戦場(14)→金崎(15)→楡木(16)→奈佐原(17)→鹿沼(18)→文挾(19)→板橋(20)→今市(21)→(ゴール)日光東照宮

東海道・53次
(日本橋=京都・三条)
(496.1km)
(公開中)
 徳川家康は、1601年(慶長6年)に「五街道整備」により、五つの街道と「宿(しゅく)」を制定し、道としての「東海道」が誕生する。日本橋(江戸)から三条大橋(京都)に至る宿駅は、53箇所でいわゆる東海道五十三次である。又、箱根と新居に関所を設けた。その後、1603年(慶長8年)には、東海道松並木や一里塚を整備する。2008/6/12〜2009/7/12(踏破済)
(スタート)日本橋→(1)品川→(2)川崎→(3)神奈川=(4)保土ヶ谷→(5)戸塚→(6)藤沢→(7)平塚→(8)大磯→(9)小田原→(10)箱根→(11)三島→(12)沼津→(13)原→(14)吉原→(15)蒲原→(16)由比→(17)興津→(18)江尻→(19)府中→(20)丸子→(21)岡部)=(22)藤枝→(23)島田→(24)金谷→(25)日坂→(26)掛川→(27)袋井→(28)見附→(29)浜松→(30)舞坂→(31)新居→(32)白須賀→(33)二川→(34)吉田→(35)御油→(36)赤坂→(37)藤川→(38)岡崎→(39)知鯉鮒→(40)鳴海→(41)熱田→(42)桑名→(43)四日市→(44)石薬師→(45)庄野→(46)亀山→(47)関→(48)坂下→(49)土山→(50)水口→(51)石部→(52)草津(「中山道」と合流)→(53)大津→(ゴール)京都
中山道・69次
(日本橋=京都・三条)
(520.3km)
2009/6/23〜11/11/22
(公開中)
江戸時代に入り、江戸幕府は、1601年(慶長6年)から7年間で他の五街道とともに中山道を整備した。それまでの街道を改良したものが多かったが、新しく作られた街道筋もあった(大井宿(岐阜県恵那市) - 御嶽宿(岐阜県可児郡御嵩町)間など)。
古くは山道や東山道とも称され、江戸時代には中山道や中仙道とも表記されたが、1716年(正徳6年)に、江戸幕府の通達により中山道に統一された。
(スタート)日本橋→(1)板橋→(2)蕨→(3)浦和→(4)大宮→(5)上尾→(6)桶川→(7)鴻巣→(8)熊谷→(9)深谷→(10)本庄→(11)新町→(12)倉賀野→(13)高崎→(14)板鼻→(15)安中→(16)松井田→(17)坂本→(18)軽井沢→(19)沓掛→(20)追分→(21)小田井→(22)岩村田→(23)塩名田→(24)八幡→(25)望月→(26)芦田→(27)長久保→(28)和田→(29)下諏訪→(30)塩尻→(31)洗馬→(32)本山→(33)贄川→(34)奈良井→(35)薮原→(36)宮ノ越→(37)福島→(38)上松→(39)須原→(40)野尻→(41)三留野→(42)妻籠→(43)馬籠→(44)落合→(45)中津川→(46)大井→(47)大久手→(48)細久手→(49)御嵩→(50)伏見→(51)太田→(52)鵜沼→(53)加納→(54)河渡→(55)美江寺→(56)赤坂→(57)垂井→(58)関ヶ原→(59)今須→(60)柏原→(61)醒井→(62)番場→(63)鳥居本→(64)高宮→(65)愛知川→(66)武佐→(67)守山→(68)草津(「東海道」と合流)→(69)大津→(ゴール)京都
甲州街道・45次
(日本橋=下諏訪)
(210.8km)
2009/11/7〜2010/2/28
(公開中)
徳川家康の江戸入府に際し、江戸城陥落の際の甲府までの将軍の避難路として使用されることを想定して造成された。そのため、短い街道であるにもかかわらず、小仏・鶴瀬に関所を設けている。これは、甲府城を有する甲府藩が親藩であることと、沿道の四谷に伊賀組・根来組・甲賀組・青木組(二十五騎組)の4組から成る鉄砲百人組が配置されており、鉄砲兵力が将軍と共に甲府までいったん避難した後に江戸城奪還を図るためである。
(スタート)日本橋→(1)内藤新宿→(2)下高井戸→(3)上高井戸→(4)国領→(5)下布田→(6)上布田→(7)下石原→(8)上石原→(9)府中→(10)日野→(11)横山→(12)駒木野→(13)小仏→(14)小原→(15)与瀬→(16)吉野→(17)関野→(18)上野原→(19)鶴川→(20)野田尻→(21)犬目→(22)下鳥沢→(23)上鳥沢→(24猿橋→(25)駒橋→(26)大月→(27)下花咲→(28)上花咲→(29)下初狩→(30)中初狩→(31)白野→(32)阿弥陀海道→(33)黒野田→(34)駒飼→(35)鶴瀬→(36)勝沼→(37)栗原→(38)石和→(39)甲府柳町→(40)韮崎→(41)台ヶ原→(42)教来石→(43)蔦木→(44)金沢→(45)上諏訪→(ゴール)下諏訪(「中山道」と合流)
奥州街道・26次
(日本橋=白河)
(84.8km)
2011/1/5〜11/7/10
(公開中)
江戸日本橋を起点として千住から陸奥白川(福島県白河市)へと至る街道である。
道中には27の宿場が置かれ、日本橋から宇都宮(栃木県宇都宮市)までは日光街道と共通である。五街道としての奥州街道は正式には奥州道中といい、江戸幕府道中奉行の直轄下にあった陸奥白川以南を指すが、一般的には江戸幕府勘定奉行あるいは諸藩が管理した陸奥白川以北の脇街道(陸奥白川から仙台(宮城県仙台市青葉区)までの仙台道、仙台から蝦夷筥館(はこだて)(北海道函館市)までの松前道)も含めて奥州街道と呼ぶこともある。
(スタート)(19)宇都宮(「日光街道」との追分)→(18)白沢→(19)氏家→(20)喜連川→(21)佐久山→(22)大田原→(23)鍋掛→(24)越堀→(25)芦野→(26)白坂→(ゴール)白河
日光街道・20次
(日本橋=鉢石)
(141.7km)
2010/4/4〜2010/10/12
(公開中)
江戸日本橋(武蔵国豊島郡日本橋、現在の東京都中央区日本橋)を起点とし、日光坊中(下野国都賀郡日光東照宮、現在の栃木県日光市山内)に至る街道。敷設の主たる目的は、歴代徳川将軍の東照大権現への参拝、すなわち日光東照宮への参詣であった。道中には21の宿場が置かれる。日本橋から宇都宮までの道程は奥州街道と共通である。
(スタート)日本橋→(1)千住→(2)草加→(3)越ヶ谷→(4)粕壁→(5)杉戸→(6)幸手→(7)栗橋→(8)中田→(9)古河→(10)野木→(11)間々田→(12)小山→(13)新田→(14)小金井→(15)石橋→(16)雀宮→(17)宇都宮(「奥州街道」との追分)→(18)徳次郎→(19)大沢→(20)今市(「日光例幣使街道」と合流)→(ゴール)鉢石
<街道歩き総括表>へリンク 緑の宿場名は既に踏破済み