| 07:20 |
2013年5月17日(金)
ルートイン篠ノ井 |
| 07:25 |
「川出家」前
少し寒いが晴れた実に気持ちの良い。
隊列を組んで通学中の小学生に多く出会う。 |
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古くからお店やってますッ!って主張している「川出家」 |
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芝澤の秋葉神社と天神さん
ここは、北国街道に面する交通要衝の地です。
右側の社殿が秋葉神社です。秋葉神社は、全国的にも多数存在しています。祭紳は火伏せ(防火)の神様として多数の人々の信仰を集めています。
左側は天神さんです。平安前期の学者・右大臣菅原道真公を「学問の神・天満天神」と崇敬してお祀りしています。どちらも、ここ芝澤の安寧と開運を記念して祀られております。
これからも、先人の心を大切に伝えていきたいとおもいます。
平成22年9月
芝澤区
芝澤区祭典係 |
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| 07:50 |
原村役場跡
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| 08:05 |
北原西交差点
ここで右折して寄り道する |
| 08:25 |
戻る、再スタート |
| 08:45 |
荒屋の交差点
19号と交差 |
| 08:54 |
橋場信号 |
| 08:55 |
親鸞聖人跡 |
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| 09:05 |
新田井戸 |
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新田共同井戸
明治10年代(1877〜)に新田組23戸の共同井戸として掘削されたつるべ井戸である。その後手押しポンプ、簡易水道となり、昭和30年(1955)県営上水道になるまで使用された。年一度の井戸がえ(整備と清掃)は村中総出の一大行事であった。深さは約13メートル。
現在も新田公民館と付近の住民が使用している。
川中島地区実行委員会
平成13年3月建立 |
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| 09:15 |
浄生庵 |
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丹波島宿の文化遺産
観音堂(浄生庵)
元禄年間、仏門に帰依した問屋柳島市郎左衛門寛休により建立された。本尊は観音菩薩であるが、地蔵菩薩も併尊されている。この地造菩薩は享保7年(1722)縁あって丹波島宿に安住することとなったと伝えられている。
堂内には念仏行者徳本上人の名号碑と寛休の経塚がある。平成4年丹生寺改築に合わせて改築された。
明治より昭和40年代まで庵主がおり、浄生庵と呼ばれていた。
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丹波島宿の文化遺産
鐘馗(しょうき)さんの飾り瓦
丹波島宿では、いつの頃からかわかりませんが、宿場に入ってくる邪気を追い払うため、街道の入口や脇町からの突きあたりの家の屋根の上に様々な形をした鍾馗さんの飾り瓦が鎮座しています。 |
| 09:30 |
於佐加神社
古い街並みが少しだけ残っている
丹波島宿
晴れる、気温は低く、風があり街道歩きには最高の気候 |
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於佐加神社
丹波島宿の産土神の鎮守様である。祭紳は健御名方神・八坂斗売神であり、明治時代に於佐加神社とよばれるようになった。
北国街道丹波島宿開設に合わせて諏訪河原の地から寛文2年(1662)現在の地に祭られ、明和元年(1764)神霊殿が造営され、安永5年(1776)遷宮されました。明治6年に村社となり、拝殿は明治22年に落慶している。
境内には秋葉社・弥栄社・三峰社・天満社・金毘羅社・住吉社・新津権現・道祖神・庚申塔の9社がある。他に筆塚二基などもある。丹波島宿由来碑は平成13年に建立した。
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| 09:30 |
丹波島宿の高札場 |
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丹波嶋宿の高札場
江戸時代、幕府の名により様々な法令や禁制の條目、掟などを板札に墨書し、人に目立つよう一段と高くした場所に掲示したところを高札場と呼んでいました。
高札は5代将軍徳川家宣の正徳元年(1711年)に書き換え指示があり設置されました。
法令は切支丹禁制、火付・徒党、偽薬・偽貨幣札禁制など、定札として人馬賃・銭札、覚札として3枚から5枚あったようです。幕末の混乱期をへて明治4年の太政官布告で終焉しました。
丹波嶋宿は幕府と松代藩の二重支配下にあり、松代藩内41か所の主要な高札場でありました。地域住民への公示はもとより、街道を通る旅人への情報提供も担い、明治5年頃撤去されました。
高札場復元に当たっては、過去の歴史を偲ぶ文面と、将来に向かって安全・安心で平和な丹波島の街づくりの指針となるような文としました。 |
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| 09:35 |
本陣跡
柳島家 |
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丹波島宿の文化遺産
丹波島宿問屋 柳島家
柳島家は慶長16年(1611)丹波島宿が開設されて以来260年間、問屋を務めました。
建物は江戸中期に建てられたもので、脇本陣を兼ねた造りとなっていた。
冠木門は松代藩廃止後払下げを受け、移築したものである。
門外に明治11年(1878)明治天皇北陸巡幸の御膳水記念碑がある。
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丹波島宿の文化遺産
丹波島宿本陣 柳島家
柳島家は近江の国で武田信玄の家来として松代に入封し、川中島の戦いののち、目まぐるしく代わる松代城主のときは物見役を務めていた。柳島家3代目柳島太郎左衛門政雄が、慶長15年、松代城主松平忠輝の補佐役大久保長安に命ぜられ、北国街道丹波島宿開設と本陣を務めた。当時、200石の知行を受け、間口・奥行60間の敷地を与えられた。
敷地には明治天皇巡幸を記念して建立された門前の明治天皇御小休の石碑と明治神宮宮司有馬良皐橘揮毫の「明治天皇御駐輦の跡」石碑が旧本陣の旧跡をしのばせる。 |
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| 09:50 |
丹波島橋 |
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| <残雪の菅平、右方面が善光寺へ続く北国街道> |
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| 10:10 |
赤い馬頭観世音 |
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| 10:25 |
JR長野の線路を越える |
| 10:35 |
こうじや
ここから善光寺方面へ一直線 |
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江戸時代から続く「こうじや」 |
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| 10:40 |
かるかや山 |
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| 10:45 |
しまんりょう小路
この付近は都会 |
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刈萓山(浄土宗)
草創正治元年と称せらる。
刈萓上人(寂照坊等阿法師)の開基でその後、石童丸(信生坊道念法師)が師の刈萓上人(実の父)を慕って、この寺に来り入寂したところで、境内に父子両法師の墓があります。
刈萓上人とは筑前の国司、加藤左衛門重氏が遁世出家した姿で石童丸父子の物語は、この地で終焉しています。
また、境内の大蛇、小蛇の墓は昔旭山で松の樹と間違えて木樵に切断された大蛇の墓であります。 |
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「かるかや親子の対面」
これは、顔も知らぬ父苅萱上人を尋ねて高野山に登った幼い赤道丸が無明の橋にて父上人と対面した情景を銅像にしたものです。
「かるかや」の話は謡曲「苅萱」や説経節「かるかや」あるいは浄瑠璃など、中世以来多くの芸能で語り伝えられてきた有名な悲劇ですが、最も感動的なのは親子の対面を果たしながら、父が子に親であることを告げぬこの場面です。
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針塚 |
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| 11:00 |
善光寺門前のそば屋に入る
天ぷら蕎麦 900円 |
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ウヒャー、さすが善光寺!
門前にある蕎麦屋、十割蕎麦!こんなにウマイ蕎麦がこの世にあったのか?生きてて良かった!
グルメで美食家のうちのカミさんに食べさせたいなぁ。
三つ星レストランなんて目じゃないな!これからの街道歩きの昼食は絶対に蕎麦、誰が何と言おうと信州蕎麦に限るのだ! |
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| 11:20 |
再スタート
ファイトーッ! |
| 11:25 |
善光寺信号
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史跡 善光寺参道(敷石)
平成9年4月1日指定
善光寺参道(敷石)は、宝永4年(1707)、本堂が仲見世堂跡地蔵尊付近から現在地に位置に移転竣工の後、7年目にあたる正徳4年(1714)に完成した。
本堂普請の後、参道の路面状態が悪く、参詣人に難儀をきたしていたため、正徳3年、本堂前の敷石が腰村(西長野)西光寺住職単求の寄進により敷設、続いて境内入口の二天門跡から山門下までの218間(397メートル)が江戸中橋上槇町(現日本橋3丁目)の石屋香庄(大竹屋平兵衛)の寄進により敷設された。(墓碑銘・大勧進日記)
伝説によると、平兵衛は、伊勢出身で江戸で財をなしたが、長男が放蕩で家へ寄りつかなかった。ある夜、盗賊が入ったので、突き殺すと、それが我が子であったという。平兵衛は世の無常を感じ、家を後継者に譲り、巡礼の旅の途中善光寺にきて、諸人の難儀を救うため敷石を寄付した。
平兵衛は後に茂菅静松寺で出家し、享保11年(1726)に没した。平兵衛の墓は、静松寺と善光寺境内にも今も残っている。その後も平兵衛の子孫は、敷石の修理をしていたという。
敷石は、山門上が幅4間、山門下から二天門跡までが幅三間で、長方形の石が規則正しく敷かれている。西長野郷路山産の安山岩製で総数7777枚といいならわされているが、現在およそ7千枚が敷設されている。一部補修をうけているが、大部分は当初のままで、これほどの規模を持つ近世以前の敷石の参道は、全国的にも稀である。
平成9年4月5日
長野市教育委員会 |
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| 11:30 |
西宮神社
この付近で旧北国街道を見失う
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善光寺七福神
恵比寿
右手に釣竿、左手に鯛を抱えたお姿で、七福神の中では唯一日本の神です。商売繁盛、家内安全、除災開運、五穀豊穣などの御神徳があります。
恵比寿の宮として県下で最も古く、11月19、20日のえびす講祭りは晩秋の風物詩で、煙火大会などが開催されます。
また1月19,20日には初えびす祭が行われています。 |
稲荷社
伏見稲荷大社の末社にして、豊田稲荷神社と申します。徳川初期の勧進と伝えられ、通称「起業稲荷社」と呼ばれ親しまれております。
殖産興業に御神徳著しく、信心される方は必ず竃を起こすと言い伝えられて、商工業の方は申すまでもなく一般の信仰も極めて篤いお稲荷様でございます。
西宮神社社務所 |
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| 12:30 |
JR北長野駅 |
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| 12:40 |
人形角源
ここで旧北国街道に戻る
ファイトーッ! |
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| 江戸時代から続く「人形角源」 |
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| 12:45 |
茂呂何丸翁生誕の碑 |
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俳人茂呂何丸翁生誕之碑
茂呂何丸は宝暦11年(1761年)信濃国水内郡吉田村 現在の長野市吉田2丁目1−20に生まれ、天保8年10月(1873)江戸に没す。享年77歳 昭和11年3月没後百年を記念して町内の有志にてこの生誕之碑を建立。
碑の書は二条家の子孫、公爵二条弼基の筆になる。
碑は平成24年6月天周院様のご理解をいただきこの地に移碑す。
平成24年6月吉日
何丸翁顕彰保存会
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| 12:50 |
他力橋 |
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| 12:55 |
吉沢家
本陣、問屋と高札場跡 |
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本陣問屋と高札場跡
吉澤家は代々稲積村の問屋を勤めており、ここに稲積本陣問屋と、代官所からのお触れ書き、隣宿までの道のりや運賃などを掲示する高札場が設けられていた。
昔の建物は、昭和16年(1941)7月に起きた長沼地震で壊れ、取り壊された。
新町(あらまち)宿は、稲積・徳間・東条の三村が協同で運用する宿場であった。宿運営の責任を持ち指図をするのが問屋で、稲積吉澤家・徳間八木家・東条松田家の三家は、江戸中期からの問屋で、一か月を十日交替で勤めた。特に、吉澤家は本陣を兼ねた新町宿の中心的問屋であった。
平成23年10月
若槻地区住民自治協議会・
稲田区 |
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| 13:00 |
稲田1・2丁目 |
| 13:05 |
追分
左北国往還・右いひ山なかの志ふゆくさつ道 |
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| 13:15 |
蚊黒田八幡宮
本殿は遠いので鳥居の前で深く且つ丁寧に礼拝する。
「何でもいいから、良いことがありますように」って、ついでに「出来れば宝くじの1等が当たりますように」、更に「健康で長生きできますように」、えーっとそれから・・・・ |
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| 13:20 |
幸い清水 |
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幸い清水
若槻東条のほぼ真中、1級河川堂万川から北の通称原の坂に沿った家々は、地盤が硬く井戸を掘っても湧水が無く、水不足に悩まされ、上野区からの貰い水等で賄っていた。
北国街道沿いの人口が増すとともに、益々水不足は重要な課題となった。この対策に当区の鈴木助左衛門ほか地域住民が当時、原の坂を上りきった北方上ノ原地籍に豊富な涌水があることに着目し、この水を導水する画期的な簡易上水道を計画した。これは延長930メートルを、太い竹を繋いだパイプによって共同井戸11か所に導水し、41軒の生活用水とするものであった。
この計画に関係者は、莫大な費用と難工事のため難色を示したが、鈴木助左衛門ほかは望みを捨てず、明治6年(1873)に関係住民協力のもとにこの簡易上水道を完成、長年の生活用水不足を解消させた。
これを「幸い清水」と呼ぶようになり、明治40年(1907)、水源に近いこの場所に氏の功績を称え、「人々 これを幸い清水の名をもってす ああ幸い清水 ああ幸い清水 これ聖代仁政の余澤ならんか」と刻まれた記念碑が建立された。
平成23年10月
若槻地区住民自治協議会
若槻東条区 |
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| 13:30 |
粟野神社 |
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粟野神社
取りあえず、「何でもいいから、良いことがありますように・・・・」ってお願いだけはしておく |
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ハナミズキ
<信州の春はいっぺんにやってくる> |
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| 13:33 |
田中信号
若槻大通りと交差 |
| 13:40 |
土京山城まで520mの標識 |
| 13:45 |
庚申塔 |
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| 13:50 |
田子神社 |
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船地蔵尊
高さ126センチメートル、丸彫りで、石船の上の坐像。享保4年亥天(1719)と刻まれ、毎年7月23日の祇園祭には、地蔵院住職の読経と神楽保存会の獅子舞が行われる。
大正時代までは旱魃の時に、首に縄をかけ、一本棒を差し込んで二人で担ぎ、田子神社の湧水へ漬けて水をかけ、一粒でも雨が降ると元の座へ奉還したという。
船地蔵尊を囲んで左右に自然石3基の庚申塔がある。書体も彫りも見事なもので、山千寺に近い田子川のほとりの、かっての善光寺下馬道沿いに、他の石仏や石塔と共にあったものを、明治期になり田子川改修工事の際に現地に移転されたものである。
平成23年10月
若槻地区住民自治協議会
田子区 |
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多胡氏居館跡
若槻里城(若槻団地内に所在)に本拠を構えた若槻一族は、鎌倉後期から南北朝・室町を経て戦国時代に至るまで繁栄を続けた。「尊卑分脈」によれば、源義家の孫頼隆の曾孫頼仲が、若槻庄内の多胡・押田の両郷を相伝し開発を進めている。 |
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| 13:53 |
田子神社
「明治天皇お休み処」
「湧き水がもたらした田子酒・・・・云々」
昔は7軒もの造り酒屋があったという。地元の方(=上の写真)に貴重な話を聞く
明治天皇田子御小休所
明治11年9月10日、8時25分頃北陸御巡幸中の明治天皇が当地で小憩された。
一行は右大臣岩倉具視以下の文武百官1千人を超える大行列であった。
御小休所は池田元吉が敷地483坪に総檜造り、菊花紋章入りの瓦ぶき31.6坪をしつらえた。小憩の際、田子神社境内の湧水が茶水に供され「御膳水」の碑が建てられている。
大門は飯山城の裏門を千曲川を船で運び、長沼河畔から搬入された。
門前碑石「明治天皇田子御小休所」の揮毫は、侯爵西郷従徳(隆盛の甥)によるものである。
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| 14:10 |
田子池

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| 14:15 |
観音山の石仏
観音山の石仏
北国街道に沿ったこの小高い丘は観音山公園と呼ばれ、地域の人々に親しまれてきた。ここに百番観音巡礼の名残を思わせる回国塔がある。高さ140センチメートルの宝塔型で、屋根は一風変わった唐破風で万治三庚子歳(1661)3月18日と刻まれている。塔の中央には15センチメートルほどの空洞があり、中に観音菩薩像が納められている。
石塔の両側には後背型の石仏などが、左に35基・右に32基が並んでいるが、石塔の前面に「秩父坂東西国」と刻まれていることから、秩父34所・坂東33所・西国33所の観音霊場である百番観音と考えられる。
江戸時代には、自らの信仰を確認し更に信仰を深めるために、各地の巡礼地を旅することが盛んになった。旅人は季節の移ろいを感じながら霊場の巡礼札所巡りを果たしたのである。
観音山の石仏群も吉区の先人たちが巡礼札所巡りをして、満願祈願を果たした際に建立したのではないかと考えられるが、同時に北国街道を善光寺などを目指して旅した人々が、旅の安全や牛馬の安穏などを祈願した名残であったのかもしれない。
平成24年10月
若槻地区住民自治協議会 吉区 |
| 14:40 |
原池観音堂
この付近、かなりきつい上りがえんえんと続く |
| 14:50 |
国道に合流 |
| 15:00 |
峠に着いた
ほぼ予想通り、一面のリンゴ畑、まだ白い花を付けている。
疲れた。
ファイトーッ! |
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| 15:37 |
三本松
飯縄、妙高、斑尾等の山々が一望出来る
北信五岳 |
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峠を過ぎると行く手に雪を被った北信五岳(飯縄山、戸隠山、黒姫山、妙高山、班尾山)が見え始める。
電線類が風景のジャマをする。 |
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| 15:55 |
四ツ屋一里塚 |
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| <四ツ屋の一里塚> |
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| 16:15 |
牟礼宿
筆塚 |
| 16:25 |
牟礼宿役場前 |
| 16:33 |
證念寺 |
| 16:57 |
JR牟礼駅発。
他に乗客はいない。寒い、春の夕方、私の背中に寂寥感が覆いかぶさる。
オイちゃんとサクラの待つ葛飾・柴又へ帰りたい・・・・そう、寅さんと同じ心境だ。 |
| 17:15 |
JR長野駅
47、775歩
長野駅前にある「ホテル A BEST」に泊まる。便利で、実に安い!まずは熱い風呂に入る。 |