| 06:50 |
ホテル発
長野駅前のマクドナルドでマック、アップルパイの朝食 480円。ウマい!街道歩きの朝食はマックに限る!
JR長野駅=牟礼駅 320円 |
| 07:45 |
長野駅発(しなの鉄道)
今朝も快晴。少々寒い。この時間に、高校生が大勢乗り込んでくる。
豊野付近では車窓から見る畑は全てリンゴ、リンゴ、リンゴ畑・・・・ |
| 08:09 |
JR牟礼駅
ここで高校生もドッと降りる
実に気持ちの良い晴。 |
| 08:45 |
證念寺(昨日の終着点=今日の出発点) |
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北国街道とは
街道が整備された江戸時代、「北国街道」という街道の区間や名称が定められたことはありませんでした。京や江戸から北国へ通じる道を通称したに過ぎなかったため、畿内や北陸各地、そして信州にも北国街道が通じています。
長野県の場合、中仙道追分宿から分かれて善光寺町を経、越後高田へ通じる道を明治時代になって「北国街道」と決定したため、現在の人々にはこの路線の名として強く印象に残っているようです。この道は江戸期には「北国往還」と書かてれいるのが一般的で、初期には「街道」を「海道」としていました。
17世紀初頭、この路線は佐渡島で産出した金銀を江戸へ輸送する道として重要度が高まり整備され、佐渡路と呼ばれました。ついで参勤交代制度がはじまると、加賀藩前田家が主にこの路線を使い、頻繁に江戸まで通行したため加賀街道の別名が生まれました。ほかに信濃から北行するときは越後道、越後から南下するときは信州道であり、「一生に一度は善光寺まいり」を目指したときは善光寺道とも称されました。 |
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| 08:49 |
十王堂 |
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慶長15年(1610)以前〜北国街道の芽ばえ
全国時代の末期、天正10年(1573)から北信濃を領有した越後の上杉氏は、長野盆地(善光寺平)の経営拠点を長沼城(長野市穂保)と海津城(長野市松代町)とした。
当時、古代以来の長野盆地の中心地だった善光寺町は、善光寺本尊が武田氏により甲府(山梨県)へ持ち去られていたため、都市機能は失われていたらしい。領主上杉氏は善光寺町を切り捨て、新しい城下町の発展策のために、信濃ー越後間の通路を「牟礼から硬白坂(神代坂)を直ちに長沼へ」通行するよう定め、善光寺町ほかへの横道通行を禁じた。信州の北国街道の芽ばえである。
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| 09:05 |
18号線を超える
高札場「定」 |
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慶長16年(1611)以降〜北国街道の完成
慶長3年(1598)、43年ぶりに善光寺本尊が帰還した。善光寺町は急速に発展し、長野盆地の中心地の地位を回復しつつあった。また徳川家康が江戸(東京都)を中心とした全国支配を進めるなかで、佐渡金銀山の直轄化(慶長6年(1601))、六男の松平忠輝の川中島領主移封(慶長8年(1603))、さらに越後高田領をあわせ75万石とする(慶長15年(1610))などの事情から、長野盆地の外周を遠回りする長沼城ー海津城ルート(松代回り)から、短距離で通行できる新町宿ー善光寺宿ー丹波島宿ルート(善光寺回り)が新たに定められることになった。上記の3宿を含む北国街道諸宿へ条目が発行されたのが慶長16年(1611)9月3日。これを北国街道の成立と考えれば、今年2011年で、ちょうど400年目となる。
定
1、親子、兄弟、夫婦を始、諸親類にしたしく、下人等に至る迄これをあわれむべし、
主人ある輩は各其奉公に精を出すべき事
1、家業を専にし憚る事なく万事其の分限に過べからざる事
1、いつわりをなし、又は無理をいい、惣じて人の害になるべき事をすべからざる事
1、喧嘩口論をつつしみ若其事ある時、みだりに出合べからず、手負たるもの隠し置べからざる事
1、鉄砲猥(みだり)に打べからず、若違犯の者あらば申出べし、隠し置、他所より
あらわるるにおいては、其罪重かるべき事
1、人売買かたく停止す。但男女の下人或は永年季或は請代に召置候事は相対に任すべき事
右條々可相守之、若於相背は可被行罪科もの也
正徳元年(1711年)5月日
奉行
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| 09:15 |
古道と新道の分岐
古道を往く |
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古道と新道の分岐
向って右の土の道(=現在はアスファルト舗装)は、江戸時代以来の北国街道で「古道」と呼ばれる。左の舗装道路は明治9年(1876年)に新設された迂回路で、遠回りになるが傾斜が緩やかになっている。この道路改良により、古道敷は民間に払い下げられた。
小玉こどう会 |
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| 09:22 |
観音平と馬頭観音
周囲に誰もいない。実に静か。 |
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観音平と馬頭観音
このあたりの地名を「観音平(かんのんびら)」といい、かつては道の守り神の馬頭観音をまつった観音堂があった。現在その跡に、街道周辺に散在していた馬頭観音などの石仏が集められ、安置されている。
小玉こどう会 |
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| 09:28 |
北国街道へ出る(新道=林道) |
| 09:30 |
小玉一里塚跡
大きな石碑があるのみ |
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小玉坂
春は四方の高山に山桜を見
夏は茂山に涼月を見
秋は紅葉野辺の千種に鶉(=うずら)の鳴を聞
冬は雪の梢に花を見る
浅加久敬「東武道中輯録(=とうぶどうちゅうしゅうろく)」(正徳元年(1711年)より
朝加久敬は加賀国前田藩(金沢藩)の家臣。「東武道中輯録」は金沢から江戸までの名所を書いた道中記。四季の小玉坂の景色を賞賛している。 |
小玉一里塚跡
街道の一里(約4km)ごとに築かれた一里塚の跡。二つの塚があったが、明治中頃に取り崩されたらしい。小玉一里塚からは鳥居川の断崖越しに次の四ツ屋一里塚が見えることで有名だった。傍らには「上杉謙信馬止清水」が湧き、茶屋があった。
小玉こどう会
隣村落影村までは30余丁のところ、惣名小玉坂と唱え、そのうち極灘場に石洗い坂・観音坂・赤坂・金坂などの場所これあり。雨天の節は大滑り相立ち、そのうえ荒石多く人馬の通行差支え候ほどの土地柄・・・・
小玉村百姓代儀右衛門「道中奉行への嘆願書」元治元年(1846)
小玉坂は約3kmつづく山道の難所で、石洗い坂、観音坂、赤坂・金坂と呼ばれる急坂があり、路面の整備は小玉住民の負担になっていた。過重な負担に耐えかねて、負担軽減の嘆願書が出されたこともあった。 |
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小玉坂の黄昏どき
明和9年(1772年)7月、加賀藩(石川県)11代藩主の前田治脩(=はるなが)は、参勤で江戸へ向かう途中、小玉坂をくだり、牟礼宿に泊まりました。
そのときの様子を治脩の日記「大梁公日記」から現代語訳したものです。
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明和9年(1772)7月18日、朝から蒸し暑い。関川では不快で夕食を食べなかった。柏原で暫く休んだが宿は甚だむさ苦しい。駕篭から馬に乗りかえ、古間坂・赤坂・小玉坂と進む。いずれも長く険しい坂で退屈だ。坂道はこのところ連日の天気でぬかるまず路面は良好。薄暗くなってきたので坂を下りた小玉村からは提灯を立てさせた。すると正面の山上、一片の曇のなかに稲妻がほのめくのが見えた。そのありさまを馬上で1首の歌に詠んでみた。心なしか、たいへん涼しい心地がした。
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| 09:45 |
明治天皇野立所跡 |
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明治天皇御野立所跡
明治11年(1878年)9月10日、北陸巡幸の明治天皇一行が休憩した場所。地名から「清水窪御野立」とも呼ばれる。石碑のある場所に天皇の「玉堂」が、左の平地に右大臣岩倉具視らの「随行員棟」が建てられた。
小玉こどう会
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| 10:00 |
柏原宿内に入る
行き過ぎて古道入口の庚申塔まで戻る |
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村の中心に旧北国街道、草に覆われている。
地元の方にこの旧道の存在を教えていただいた。 |
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| 10:30 |
坂上神社
予定より30分以上も遅れる。 |
| 10:37 |
落影
国道と合流 |
| 10:45 |
国道との分岐
小古間方面へ進む
まだ桜が咲いている。 |
| 11:00 |
古間一里塚跡 |
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小古間
この付近は旧街道が残されている、眺めのよいところで、天保5年(1834)年頃に書かれた「信濃奇勝録」にも飯綱・戸隠・黒姫・妙高の4山が一望できる所として紹介されています。
小古間村は、江戸時代のはじめに古間宿から独立して、戸数20戸余、村高が百石にみたない小村でした。
信濃町教育委員会 |
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| 11:20 |
第四北国街道踏切を通過 |
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この付近から見る「北信五岳」が美しい |
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| 11:30 |
小林一茶旧宅 |
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史跡 小林一茶旧宅
1827(文政10)年閏6月1日の柏原宿の大火によって、わが家を類焼した一茶が仮住まいした土蔵です。
土蔵住居して
やけ土のほかりほかりや蚤さわぐ
1930(昭和5)年、小林家から一茶終焉の土蔵を譲り受け史跡として整備し、1957(昭和32)年5月8日、一茶と弟分の敷地をあわせて国史跡に指定されました。
土蔵は桁行3間半、梁間2間の切妻造り、茅葺の置き屋根です。内部は土間で、北西の隅に仮住まいのための地路が掘られています。
火事の後一茶は門人宅を点々として療養し、11月8日修理を終えた土蔵に帰宅、19日に65歳の生涯を閉じました。 |
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| 11:40 |
柏原本陣跡 |
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柏原宿本陣跡
北国街道は、加賀金沢藩・大聖寺藩などの参勤交代や、佐渡の御金荷などの重要な交通路として栄えました。この付近は、雪深い信越国境に位置し、中山八宿と呼ばれた難所でもありました。柏原宿の中央には松並木と町用水があり、本陣の前に高札場がありました。
本陣には、御門や御殿が設けられ、御殿の天井は加賀藩の紋所「梅鉢」の格天井で飾られていました。代々中村六左衛門が世襲し、桂国(利和)・観国(利賓=としつら)は俳句をたしなみ、一茶と親しく交友しました。明治・大正時代には、第13代六左衛門利貞(随鷹=ずいおう)と弟の六郎利謙(蘿月=らげつ)が、一茶顕彰に力を尽しました。
柏原宿
柏原宿は鳥居川の南にある古間宿と合宿で、月の前半を柏原、後半を古間宿で分担して、人馬の輸送を行いました。南北の土手の内側に52軒分の伝馬屋敷と、街道の中央に用水と松並木がつくられました。1819(文政2)年頃は、旅籠屋10軒、茶屋4間、酒屋2軒などがあり、一茶の家は宿場のやや南よりにあり、本陣の観国・桂国は俳句をたしなみ、一茶と親しく交流しました。
1827(文政10)年閏6月、大火のため一茶家をふくむ92軒が焼失しました。一茶は仮住まいの土蔵に半年ほどくらし、そこでなくなりました。
宿場はその後復興し、江戸末期には、再び加賀金沢藩などの参勤交代の宿所になりました。
中山八宿
我宿は朝霧昼霧夜霧哉 一茶
信濃町教育委員会
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| 11:43 |
柏原交差点
今日の歩きはここまでとする
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| 11:55 |
一茶記念館
入場料 500円 |
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「一茶翁終焉之地」 |
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| 12:15 |
JR黒姫駅
JR(黒姫=長野駅)480円
昼食(戸隠山菜蕎麦)800円
19,520歩 |
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黒姫駅近くのそば屋で昼食
「戸隠山菜蕎麦」(=左の写真)、ドヒャー、ウマーい!こんなにウマイ蕎麦が日本にあったのか?
この蕎麦こそ日本一!これ以上にウマい蕎麦が世の中に存在するとは考えられないのだ。
日本蕎麦なのにレンゲが添えられている。なんと親切な!
街道歩きのお昼は、JR黒姫駅「戸隠山菜蕎麦」に限るのだ! |
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| 12:55 |
JR黒姫駅発
黒姫山が眼前にそびえる |
| 13:20 |
長野駅着
すぐに長野=東京間の特急と乗車券を購入
3,310円 |
| 13:45 |
長野駅前発
川中島バスで松代駅へ向かう。
松代城、真田御殿、記念館を見学
更に「川中島古戦場」を見学する
バス代1,060円、入場料500円 |
| 17:26 |
JR長野駅発新幹線あさま号で東京へ
とても快適な3日間の街道歩きだった。 |