matsusirodou

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第1日目
<奥州道・「出雲崎宿」まで歩き終え、ついで北国街道最後の「北国西街道」を歩く予定>

月 日; 2013年12月2日(月)
ojisan
区 間; 屋代宿=川田宿
時 間; 5時間40分
費 円; 18,655円

歩 数;

40,947歩、15.7km

 


 

    【北国脇往還】(北国街道)

 北国街道(ほっこくかいどう)は日本の街道である。江戸幕府によって整備された脇街道で、北国脇往還(ほっこくわきおうかん)、善光寺街道(ぜんこうじかいどう)などとも呼ばれる。
 追分で中山道と分かれ、善光寺を経て直江津で北陸道に合流する。
 本道は、善光寺への参拝のために整備され、佐渡の金を江戸に運ぶ道として五街道に次ぐ重要な役割を果した。軽井沢町から上越市までの区間は現在の国道18号にほぼ相当する。
 善光寺平の入り口屋代宿(矢代宿とも書く)を過ぎて雨宮の渡しで千曲川を渡るが、川を渡らずに東岸の松代や福島宿を経由して、牟礼宿で本道と合流する「松代道」と呼ばれる脇道があり、谷街道の一部と重なる。この路は、犀川の川止めで本道が足止めされた場合、布施の渡しで千曲川を渡って福島宿へと迂回し、足止めを回避することを目的としている。

06:11 自宅発
まだ薄暗い。寒い。
たとえばカミさんが病気とか、何らかの正当な理由があれば・・・・即、中止!出掛けたくないなぁ。

07:24

 

東京発 あさま505号
自由席の窓側に座れた。
雲一つない快晴
08:36

新幹線・上田駅着
早い。想定した時間より1時間も早く上田駅に着くことが出来た。寒ーい!
いつものように駅そば450円を食う。うーん、ウマーい!・・・・と云うことにしておこう、一応

08:58 上田駅発
しなの鉄道・長野行き 430円(上田駅=屋代駅)
09:25 屋代駅着
 
yasiroeki
<駅から100m程西に「北国脇往還」がある>
09:33 筆塚と道祖神の石碑
前回、この区間を歩いた時にこの石碑を見た記憶がある
 
fudezuka

    <筆塚(ふでづか)>
 寺子屋の師匠などをしのんで,教え子たちが建てた記念の碑。「筆子塚」ともいう。また,使い古しの筆を供養するために建てられた塚のこと。寺子屋の生徒は筆子とも呼ばれていたが,長じてから資金を集めて建立した。

09:40 藤屋旅館
「諸国○○足」のカンバン(ご免なさい、読めない!)
横町信号の前の須須岐神社(下の写真・右)、ここも立派な社殿である
 
fujiya susuki-jinja
<藤屋旅館の古い看板> <横町信号・ 須須岐神社>
09:50

矢代宿脇本陣跡
北国脇往還と松代道の追分、今日の出発点 ファイトッー!

    北国街道矢代宿
 今から400年前の慶長16年(1611)江戸幕府により「北国街道」が制定され、矢代宿がつくられました。
 「矢代宿」は、北国街道と松代街道の分岐点で、この地点から「松代街道」が始まります。 この街道の両側には本陣と脇本陣があり、加賀藩の殿様の大名行列や佐渡からの金銀の輸送にも使用され、多くの人や荷物でにぎわいました。 このように、矢代は昔から栄えた歴史と伝統を誇る町です。
        平成23年3月20日 矢代を語る会

 
wakihonjin iriguchi
<矢代宿脇本陣の跡> <正面が旧松代街道入口、手前が北国街道>
左;善光寺、右;江戸方面
09:55 旧松代街道踏切を通過
上は建設中の北陸新幹線。
10:10 高速道路を通過
10:12 勝軍地蔵
二十三夜の石碑
 
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<勝軍地蔵> <庚申塚>
 庚申塔(こうしんとう)は、庚申塚(こうしんづか)ともいい、中国より伝来した道教に由来する庚申信仰に基づいて建てられた石塔のこと。街道沿いに置かれ、塔に道標を彫り付けられたものも多い。村の境目に建立されることもあった。
 庚申塔は沖縄を除く全国で分布、地域によって建立数に差が見られる。 関東地方では多く京都や大阪など関西では比較的少ない。現存最古の庚申塔は埼玉県にある庚申板碑で文明3年(1471)。 江戸時代初期(寛永期以降)、近世を通して多数の庚申塔が建てられた。江戸中期から後期にかけて「庚申塔」あるいは「庚申」と文字のみ彫り付ける形式が増加する。
 明治時代になると、政府は庚申信仰を迷信と位置付けて街道筋に置かれたものを中心にその撤去を進めた。さらに高度経済成長期以降に行われた街道の拡張整備工事によって残存した庚申塔のほとんどが撤去や移転されることになった。
 残存する庚申塔の多くは寺社の境内や私有地に移転されたものや、もともと交通量の少ない街道脇に置かれていたため開発による破壊を免れたものである。田舎町へ行くと、今でも道の交差している箇所や村落の入り口などに、「庚申」と彫られた石塔を全国で見ることができる。
10:18 庚申塚
10:20 法輪寺
10:25 雨宮坐日吉神社
 
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<雨宮坐日吉神社>
10:30 沢山川
10:43 土蔵
街道脇に奇妙な大きな壺が置いてある。「多摩美大云々、1980・・・・?」って書いてある
 
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<デカい、壺、花を活けるには大きすぎる>           <土口の一里塚趾>
10:50 土口  一里塚跡
10:55 土口将軍古墳入口
どうやら山の上にあるらしい。
吉大穴神社
11:00 袖振地蔵尊
 
sodefuri fudezuka
         <袖振地蔵尊>     <筆塚>ここにも塚がある

     <筆塚(ふでづか)>
 寺子屋の師匠などをしのんで,教え子たちが建てた記念の碑。「筆子塚」ともいう。また,使い古しの筆を供養するために建てられた塚のこと。寺子屋の生徒は筆子とも呼ばれていたが,長じてから資金を集めて建立した。

11:05 高速をくぐる
千曲川に出る。ここから長野市
11:10 水難供養神社の碑
11:12

生き地獄

11:27 会津比売神社
森の中にある静かな神社、ただし近くを高速道路が走っている
 
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<会津比売神社>
11:40 高速道路下を通過
11:50 長芋直売所
 
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<長さ30センチ以上の長芋が500円、安ーい!全部買いしめたい!>
12:10

松代馬喰町(ばくろまち)
馬の仲買商人が多く居住し、真田家入封以前は馬市が開催された町

12:15

真田邸

  真田分流 真田勘解由家
 この家は約160年前、花の丸の長局をこの処に移築したもので、その前は殿町にあり、その時は茅葺であった。
 当家は初代藩主真田信之の子二代長政と京の小野お通の子(二代お通)圓子との間に生まれた信就(のなり)を始祖とする。通称勘解由信就は長子であったが大名家に入るを好まず末弟幸道が三代を嗣いだ
孝道に子がなく信就の六男信弘が四代を嗣ぎ六代まで続いたが七代は井伊家より迎えた
当家も四代は称津家から迎える等あり、両家とも現在に至っている。
 八橋流再興の祖真田志んはその生誕終焉の処として九代道泰が健碑している
         平成13年(秋)記

 
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<現代の真田当主>

                <真田邸>

    建造物  旧白井家表門
        長野市指定文化財
        昭和49年7月20日指定
 この表門は、もと表柴町に建っていましたが、平成12年に現在地に移築復元しました。
建築年代は、松代藩文書などから弘化3年(1846)であることがわかりました。
白井家は、松代藩の中級武士であり、真田家家中明細書によると、白井初平が高100石、元方御金奉行、御宮奉行などを務めました。
 その平左衛門も文武学校権教授に出仕し、また、佐久間象山との親交も密にしています。
 表門は、三間一戸門形式の長屋門で、門部は太い槻(つき)の角材でつくってあります。間口が20m余の長大な門で、背面に三つの居室部と付設し、白井家の陪臣武士などが居住したとみられ、門に住宅が津ぢているのも珍しい例といえます。
桟瓦葺の大型な長屋門は、それ以前には茅葺の門が一般的であったようです。
旧白井家表門は、長大な間口に対して、屋根を低くおさえ、正面は間口の左右に出窓と与力窓のみの単純構造で意匠性が秀抜です。
松代藩中級武士の代表的な表門として、旧松代城下の面影を今に伝える貴重なものです。
          平成12年7月10日
             長野市教育委員会

12:50 長国寺
珍しくお賽銭を奉納する。かねて預かっていた参拝銭も投函する
 
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                      <長国寺>
    建造物 長国寺 開山堂
        長野県宝
        昭和41年10月3日指定
 この開山堂は、もと松代真田家3代幸道(初名信房、法名真常院殿全山一堤大居士)の靈屋として建立されたものである。幸道は享保12年(1727)5月死去したが、その後まもなく、長国寺境内裏手の真田信之の靈屋の脇に建立されたものであるが、明治5年同寺が伽藍諸堂を焼失し、同19年本堂再建の際、この幸道の靈屋を本堂後ろに引き移して開山堂にあてたものである。
堂は方3間の宝形造、桟瓦葺で、もと回縁向拝付きであったが、今は撤去されている。
正面中央に桟唐戸をつり、他は縦桟の舞良戸はめ殺しとし、円柱に組物は出組詰組、軒は2軒繁垂木で、装飾は外部の頭貫と内法貫の間に唐草の透彫を入れるだけで極めて簡素である。内部は内外陣の仕切り、陣境に格子戸を入れ欄間に高肉彫の彫刻を入れ、奥に禅宗様仏壇をおくなど、信弘の靈屋と同じである。
        平成18年3月24日
            長野市教育委員会

 本堂は明治5年(1872年)に消失し、明治19年(1886年)真田幸氏(ゆきもと・第10代)の時、29世大典古鏡の代に再建、昭和53年屋根修理、平成15年大修理。
鯱鉾は海津城の屋根に取り付けられていた物。
釈迦牟尼仏、文殊菩薩、普賢菩薩の三尊物が祀られている。
桁行10間半、梁行8間半

13:25

松代藩高札場

    片井京助居住の地
 元込め連発銃を完成 松代町鍛冶町
 天明5年(1785)〜文久3年(1863)享年78歳
北佐久郡発知村(現軽井沢町)の浪人柳沢伝五郎の次男。松代藩士片井直治家に後継ぎとして入り、松代藩御鉄砲師見習、文政10年(1827)御鉄砲師となった後、江戸に出て江川太郎左衛門の門下に入り、その研究を引き継ぎ、元込め連発銃を完成させる。 幕末黒船来航時の銃器改良におおいに貢献した。

 
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                       <松代城下の高札場>
 この高札場は、松代藩が城下に対するきまりやお達しを立札(高札)に書いて掲示した所で、江戸時代に中町の北国脇街道筋(現国道403号)にあったものを復元しました。
 高札場が中町におかれたのは、早くから有力な町人たちが居住し、松代藩の下で城下8町を統括する「町年寄」や、松代宿で人馬継ぎ立てを行う「問屋」を務める城下宿場の中心地であったことに因ります。
 松代宿には「本陣」はなく、「検断)自治警察的な役職」を兼ねた「問屋」が高札場の管理を行い、火災時には「高札場」の管理を行い、火災時には「高札場堅め」を設け中町全戸で高札場の守りに当たった。
 高札場は明治6年廃止され、松代町の掲示場となったが以後の詳細は不明で、また明治時代2度の大火で宿場の街並みは焼失し、その面影や遺跡は残っていない。
 平成23年中町公会堂広場整備に当たり、往時の歴史的景観の再現を図り、唯一の宿場町遺物である中町市太神碑の移転鎮座と城下高札場の復原を行ったものです。
 尚、高札場の復元は旧藩領内近隣の高札場をもととし、高札の文面は江戸時代の文章をわかりやすく表記し、説明を加えた。
     平成23年3月 中町

13:40

追分の碑

13:45 長明寺
 
choumeiji atagosha
       <長明寺>          <愛宕社>
13:55

愛宕社(上の写真・右)
    寺尾城跡

   松代の民話
      親孝行な子猿
         心温まる子猿のはなし

 むかし、東寺尾から加賀井に通じる往来に、猿回しを商売にしている伊賀ありました。
 ある日、子猿が逃げ出してしまい、あちらこちらさがしましたが、見当たらず困っていると、近くの長明寺の和尚さんがやって来て、「今朝、子猿が本堂へ入ってきて手を合わせていてな・・・・」猿回しの夫婦は驚いて、「実は子猿の親は去年の今日なくなって、1年忌の法要をと思っていたのですが・・・・」親思いの心に感動した夫婦は、ねんごろに親猿の法要をしたのでした。町の人達は、この往来を猿屋小路と名づけて、末永く子猿の親孝行をほめたたえました。
        松代地区市制百周年記念事業実行委員会

13:58 道祖神
 
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 道祖神(どうそじん、どうそしん)は、路傍の神である。 集落の境や村の中心、 村内と村外の境界や道の辻、三叉路などに主に石碑や石像の形態で祀られる神で、松尾芭蕉の「奥の細道」では旅に誘う神様として冒頭に登場する。 村の守り神、子孫繁栄、近世では旅や交通安全の神として信仰されている。

14:25

大鋒寺と 真田信之の墓

 
sanada-nobuyuki daihouji
<真田信之の霊廟> <大鋒寺>

    <建造物 大鋒寺真田信之霊屋>
        長野市指定文化財 平成7年1月20日指定
 松代初代藩主真田信之の隠居所書院跡に建てられた霊屋。信之は明暦2年(1656)隠居し、翌3年7月、新造の隠居所に移った。同4年(万治元年)93歳の天寿を全うして没し、遺命により、隠居所をとし、真田林大鋒寺と号した。大鋒は信之の院号である。二代信政は父より先に没したので、三代幸道の時、伽藍が建てられた。霊屋は書院の場所に建てられ、信之の信仰していた阿弥陀三尊を本尊とした。
 正面3間、奥行5間、奥行の柱間は狭く、4,5尺である。宝形造・カヤ葺きである。外陣の欄間には三六歌仙画が飾られているが、残っているのは二四枚である。内外陣の柱二本が円柱で、残っているのは24である。内外陣の柱2本が円柱で、その上に木鼻付の出組があり、ここだけが仏寺用の木組みになっている。
 内陣奥中央に阿弥陀三尊、向って左に信之像(厨子入)、右に2代信政の画像を安置してあったが、明治4年、松代花の丸御殿にあった八代幸貫の像を移し、内陣奥に出張りを新造して三尊を安置し、幸貫像を左、信之厨子を中央に、信政画像を右に安置した。この霊屋は由緒がはっきりしており、近世初期の建築で、文化的価値の高い建築物である。

15:10

川田宿・ 関崎橋東詰
遠い、とても遠く感じる。JR駅方面へのバス便はこの時間には運行していない
JR川中島駅へ向かって歩き出す

 
kawada-juku kanzaki-watasi
<川田宿入口>              <関崎の渡しの常夜灯>
                  <関崎の渡し>
 関崎の渡しは、川田宿と川中島平を結ぶ千曲川の要衝の地に設けられた松代藩直轄の船渡しでした。
 岸に佇む清水観音の常夜燈は盛んだった往時を伝える渡し跡の名残です。
17:30 JR川中島駅着
川田宿からここまで歩く。この区間がとても遠かった。
この区間の歩きはとても疲れた。最悪だった。
40,947歩
もう街道歩きは当分したくない気分だ。 とても疲れた。
17:40 JR川中島駅発
ようやく電車に乗れた。良かった!
17:55 JR長野駅
今日の歩きは身体と心も、とても疲れた。明日は歩きたくない、でも歩かなければならない。
駅前にあるビジネスホテル「A Best」にチェックイン 5,650円
取り敢えず風呂へ、身体を温める。
夕食は隣にあるコンビニで軽食を買い、それを一人で部屋で食べる。850円
美味ーい!でも何だか寂しい。外は寒い。ファイトーッ!
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