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【北国脇往還】(北国街道)

北国街道(ほっこくかいどう)は日本の街道である。江戸幕府によって整備された脇街道で、北国脇往還(ほっこくわきおうかん)、善光寺街道(ぜんこうじかいどう)などとも呼ばれる。
追分で中山道と分かれ、善光寺を経て直江津で北陸道に合流する。
本道は、善光寺への参拝のために整備され、佐渡の金を江戸に運ぶ道として五街道に次ぐ重要な役割を果たした。軽井沢町から上越市までの区間は現在の国道18号にほぼ相当する。
善光寺平の入り口屋代宿(矢代宿とも書く)を過ぎて雨宮の渡しで千曲川を渡るが、川を渡らずに東岸の松代宿や福島宿を経由して、牟礼宿で本道と合流する松代道と呼ばれる脇道があり、谷街道の一部と重なる。この路は、犀川の川止めで本道が足止めされた場合、布施の渡しで千曲川を渡って福島宿へと迂回し、足止めを回避することを目的としている。

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第2日目=「松代道」踏破
<北国街道奥州道は「出雲崎宿」まで、ついで8月10日「北国西街道」も歩き終えました>

月 日; 2014年2月1日(土)、曇り時々晴れ
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区 間; 松代道・第2日目
(川田=牟礼宿)リベンジ
時 間;

6時間15分

費 円; 7,116円(ホテル;5206/昼食;850/飲み物600/バス450)

歩 数;

36,000歩

07:45

長野駅前発 
マルピコ交通のバス「松代駅行き」に乗る。
晴、気温ー2℃。寒ーい!

08:25

松代駅バス停
直ぐに「弔電」じゃなかった「長電バス」に乗りかえる。
松代は真田十万石の城下町、ここまでは季節には観光客がくるようだ。今は地元の利用者だけ。
「長野電鉄」は街道歩きのガイドブックには運航しているように記載されているが、現在は廃線になっている。
「松代駅」といっても以前の駅舎だけが残っている。

09:05 川田駅
前回、2013年12月3日には川田宿から長沼宿まで歩いた。
見覚えのある旧・川田駅駅舎である。
今回の出発点。ファイトーッ!
駅を出て直ぐ近くに「古町宿庚申塔」
 
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旧;長野電鉄・川田駅
街道歩きにいつも携帯する北国街道歩きガイドブックには、この長野電鉄は今でも運行している・・・・かのごとき記載がある。
川田駅はバス利用者の休憩所
映画の「寅さん」がヒョッコリ出現するような風情がある。

09:15 領家信号
前回はこの付近の物陰で大キジを撃った(?)ことを鮮明に思い出す。実に爽快だった。気分良かった。
09:20 保科川を渡る
この川がどうやら川田宿の境界である。
寒い、吐く息が白くなる。
09:30 北野天満宮
真新しい金ぴかの神社。金かけました!贅沢しました!って感じ。
直ぐ隣には、これも新しい「北野美術館」がある。
道路の反対側には「北野建設技術研究所」の建物がある。
こんな場違いな田舎(=関係者の皆様ゴメンナサイ!)に、美術館や金ぴかの建物群、間違いだ!と言いたい。
何となく「税金逃れの為の施設を造りました!」って疑いたくなる。
 
<北野天満宮>
09:35 古屋の信号
角に富士社
 
ここにも立派な社殿がその存在を誇っている
09:45 正満寺
09:50 綿内駅入口交差点
 
長さ7−8m、ロングボートをひっくり返したような
白い物体が林の中に並べられている
一体、これらは何なんだ?
09:55 ボート???? 一体、何なんだこれは?林の中にスピード・ボートをひっくり返したような白い物体が幾つも並んでいる。
09:58 丸山久平の石碑
 
丸山久平の石碑 養蚕神社
10:03 養蚕神社
10:15 自動車専用道路の下をくぐる
須坂市に入る。福島宿
10:20 勝楽寺
 
<勝楽寺>
やたら立派な神社仏閣が多い
10:23

福島宿道標

    須坂市指定史跡
        福島宿道標
            昭和45年5月25日指定
 福島は、江戸時代には北国脇街道の重要な宿場で、集落の北に「布野の渡し」があり、この街道はここから千曲川を渡って越後へ向かいました。当時は身鎮中央に水路が通り、集落の北と南は道が鍵の手に曲がる典型的な宿場町の形態は今もその面影を残しています。
 福島宿のほぼ中央のこの地点は、江戸へ向かう北国街道の裏街道として、主に穀物の輸送ルートとして利用された大笹街道の起点で、この道標には「左 草津仁礼道 右 松代道」と刻まれています。
         平成11年9月設置     須坂市教育委員会

 
10:30

旧本陣
竹内文八の表札

    丸玉(まるたま)石と間知(けんち)石
 この「福島公会堂」の建立記念碑の台座の外周に展示の石は、2種類あります。北面の丸玉石は、平成20年に千曲川堤防漏水防止工事の際、鋼矢板の打ち込み作業中に発掘されたものです。その地点は、塚田茂博氏宅の西側の河川敷内です。地下3メートルほどで堤防に沿って整然と並んで発掘されました。
 この付近が千曲川通船の福島湊(ふくじまみなと)の船着場と伝承されてきたので歴史の証拠の遺産と思われます。
 江戸時代中期には幕府の治世も安定し、文化と商業の発展とともに川利用の通船の気運が高まり、千曲川において飯山市西大滝から須坂市福島の間が、寛政2年(1790)に運航が許可され、開始されました。一度に多くの荷物を運ぶことが出来るうえ、荷痛みが少ないことから運航範囲が上流へと延長され、日本海側と大消費地江戸を結ぶ大動脈として隆盛を極め、福島宿からは大笹街道を利用して群馬県側へ運び大幅な運送期間の短縮が図られました。主な運搬物は米などの穀類と塩でした。
  しかし、明治26年の国鉄信越線、大正15年の飯山線の開通でその役割は終わり、次第に通船とともに福島湊の姿は消えてしまいました。
 つぎに、台座の県道の歩道側に面した石は、間知石と言い、漏水防止工事前の堤防の内面の石張りとして施設されていましたが、今回の補強工事で不用となったものです。この石張り工法は、千曲市戸倉地区までの上流で流れの速い地域で採用されましたが、流れが緩やかなこの地区では大変珍しく、千曲川本流と福島集落が近いことから住民の強い願いと水害との戦いの遺産と考えられます。
 現在の千曲川堤防は、国の財源と管理で連続堤防として昭和16年に第1期工事が完成しています。
           平成25年10月吉日

10:50 新百々川橋
 
<千曲川を渡る新百々川橋。やがて長沼宿。山々は新雪を被っている>
10:55 村山橋手前
ここで千曲川を渡る。ファイトーッ!
11:10

千曲川を渡り終える
長沼宿入口

  長沼城 守田神社
 その昔、現在地より100mほど東の守田嶋にあった。正保年間、現在地に遷祀、合祀の上、日吉山王社と呼ばれたが、文政元年(1818)守田神社の旧号に復した。

11:25

枡形の松
長沼宿入口

     川中島合戦の舞台ともなった長沼城(長沼歴史研究会)
 長沼城の略歴
長沼城は、鎌倉時代の地頭の館がその元となったと云う説があるが定かではない。
弘治3年(1557年)、甲斐(山梨県)の武田信玄が信濃侵攻のおり、長沼の島津氏が撤退した後、築造した平城である。この城は、川中島の戦いの頃から、武田氏や上杉氏によって、幾度も改造が行われ、16世紀後半には、激しい戦いの舞台となっている。
 武田氏滅亡後は織田信長の支配下となり、上杉景勝・豊臣(直轄)・松平忠輝などの領地へと移り変わった。
長沼藩として独立したのは元和2年(1616年)、初代藩主佐久間勝之からである。元禄元年(1688年)4代目勝茲(勝頼)の時代、故あって改易廃藩となり、廃城となった。
このように数奇な運命をたどった長沼城であったが、その後千曲川の氾濫で城郭東側の一部が流失している。

 

<長沼宿>

長沼城跡復元図
ながぬm−じょう
                          <城跡の概要>
 この図は江戸中期、廃城となる前(1680年頃)の長沼城を数枚の古城図や検地帳、地籍図を元に現地調査を行い、想定し作成した図である。
 城域は、南北約650m、東西には約500mにおよび、約34ヘクタールの面積となる。北端は?笑寺(堤防沿いの森)の南、南端は貞心寺(南西の赤い屋根)の南まで。西端は、家並みを通る県道より130mほど西、東端は、堤防より約150m東である。
 本丸は、現在地から堤防沿いを北へ150mほどの位置となる。
天守はなかったと云われている。
 現在、遺構として天王宮の土丘、北の三日月堀・西の三日月堀跡の一部が見られるのみである。
 また、長沼城の門扉2枚が津野区ゲン笑寺に保存されている。
11:30 長沼神社
長沼宿には人口の割合には、神社やお寺がやたら多い・・・・気がする
 
<長沼神社>
11:35 えちご道道標
林光寺
ほぼ長沼宿本陣(たぶん)
長沼御坊・西厳寺
たいそうりっぱなお寺だ。
 
<えちご道道標>
11:43 善導寺
 
                                <善導寺>
11:55

右100m程に長沼城跡 

 
<長沼城跡>
12:00 歌碑
長沼宿出口
12:05 守田神社
12:10

句碑
    村松 春甫
  鶉鳴くや 山一つくれ ふたつ暮

    立花 呂芳
  陽炎や くたびれ顔の 古仏

    洪水の水位標
 
この洪水位標は、何世代にも渡る千曲川の氾濫による「人と水との戦い」の歴史の中で、洪水に対する先人の苦労を偲び、昭和16年8月に深瀬武助氏が私費で建設したものです。
 その後赤沼区で管理していたこの貴重な文化財も、歳月の経過と共に老巧化が進み、平成の年、治水に対する認識も新たに「ふるさとの川」として千曲川に親しみを持つ願いを込め、赤沼区で更新したものです。
        平成4年 秋

12:25

ストーブ屋
現代において「ストーブ屋」とは珍しい。どうやらストーブよりもその燃料のマキを売っている・・・のかな?

 
12:30 妙願寺
 
<妙願寺>
12:34 大田神社
この付近、やたら神社仏閣が多い、いずれも立派の寺社が並ぶ。さぞや立派な檀家さんが数多い。
12:40 赤沼信号18号線を渡る
12:52 JR豊野駅近くの線路を越える
神代宿
13:00 多賀神社
 
<多賀神社>
13:05 追分
善光寺みち
13:10 観音堂
 
         <観音堂>
 13世紀に創建されたという伝説のある、聖林寺が前身である。享保14年(1729)俊在という僧侶が宇山から現在地に寺を移して、油沢山正行寺と改めたという。
 観音堂として親しまれ、幕末頃は毎年3月17日に祭礼相撲が奉納された。
 明治24年(1891)、御堂の裏の山頂に33観音の石仏群が奉納された。
 毎年8月9日は四万八千日の縁日で、花火があがり、夜店も出て賑わいをみせている。
 現在は一帯が町定豊野公園に指定されている。
    昭和62年 長野市教育委員会
13:18 大石
ここからきつい上り坂が続く
リンゴ畑の中をすすむ 。5センチほどの積雪。所々で道が見えない。
途中で道に迷う。この時期のリンゴ畑には誰も人がいない。少々不安になる。
 
この付近からは豊野盆地が一望できる
昔の旅人もここからの展望を楽しんだに違いない。この付近からは積雪がある。
14:08 白坂峠一里塚
新日坂峠(標高582.2m)ここまでは雪道を歩く。寒ーい、ファイトーッ!
前回、ここまで飯島さんに車で案内されて、覚えがある。おかげで実にホッとした。
 
              <神代坂>
 戦国時代には、越後と善光寺とを結ぶ重要な軍道として利用され。天正11年(1583)上杉景勝によって、横道をせず香白(神代)坂を通るべき旨の通達が出されており、その後も森忠政、大久保長安、松平忠輝らが同様に横道通行を禁じている。これは長沼、松代の城下町を保護するためでもあったが、北国街道が整備されるに伴って脇街道となった。
 平出(現牟礼村)で北国街道から分かれ、神代坂を経て長沼、松代方面に至る街道で、北国脇街道または松代街道、長沼道とも呼ばれた。神代坂は全長29町17間(約3・2km)の急坂が続く難所であったため、長沼宿にとっては牟礼宿への人馬継立に大きな負担がかかり、元文4年(1736)に中間の神代村が新規の継場に指定された。
        平成元年 長野市教育委員会
14:15 平出地区。こで以前に歩いた北国街道に合流。実にホッとする
 
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ここで「北国脇往還道」へ合流する
上り坂が続く。ファイトーッ!
街道脇のリンゴ園では剪定作業が行われている

14:52

四ツ屋一里塚

 

    <四ッ屋一里塚>
 この一里塚は、松代街道(長沼道または神代街道とも呼ばれた)に沿って一里(約4km)ごとに築かれたものの一つで、北は牟礼村四ツ屋、南は長野市赤沼にそれぞれ一里塚があった。
 かっては道を挟んで両側に土まんじゅう型に築かれていたが、その後道路の拡幅工事で塚の一部が削り取られたことが惜しまれる。
      昭和61年 長野市教育委員会

15:20 牟礼(=むれ)駅着
「北国街道・松代道」(39.3km)を歩き終えた。バンザイ! 36,000歩
 
JR信越本線・牟礼(=むれ)駅
16:06 牟礼駅発
疲れた身体には列車の振動が実に心地よい。
長野駅に戻ったが大概のビジネスホテルが「満室」とのことで確保できない。助けてーぇ!
仕方ないので、長野から新幹線で隣駅の上田に移動することにする。
17:30

JR上田駅
新幹線で1駅、「上田駅」に戻り、東横インにチェックインすることが出来た。
とても疲れた。当分、街道歩きはしたくない。

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