| 06:23 |
自宅発
この時間、雲の間から太陽が見え隠れしている。
京王バス |
| 06:36 |
つつじヶ丘駅発 京王電車 |
| 07:30 |
新宿発
あずさ3号
、自由席、自由席はほぼ100%位の満席、
4,650円
新宿ー洗馬駅、新宿ー塩尻の特急券
朝食 560円(=サンドウイッチ、紅茶)特急電車の中での飲食はなんだか贅沢な感じする |
| 10:15 |
塩尻駅着
以前、中山道歩きの時はこの駅から木曾方面へ何回か乗り降りした
とても蒸し暑い。
空はドンヨリと曇っているが直ぐに雨が降り出す心配はないようだ。
ここから中津川方面への木曽路の入口になる。 |
| 10:49 |
中津川行きの列車
この時間、驚いたことに2両連結の列車は乗客で満席。坐れない! |
| 10:50 |
洗馬駅 |
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| <JR洗馬(=せば)駅> |
「1614年開宿
塩尻4宿400年」 |
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| 11:00 |
脇本陣
<中山道洗馬宿>
「洗馬宿」は慶長19年(1614)中山道が牛首峠越えから北国脇往還(善光寺街道)との分去れの宿場として新設された計画集落である。南北の出入り口は鉤型に、宿内は湾曲して造られている。用水は尾沢川の水を引き入れ、宿の南で2筋に分け東西の屋敷裏を流している。屋敷の間口は3間を基本として宅地の奥に畑が続く細長い屋敷割が特徴で、現在もこの形はあまり崩れていない。本陣、脇本陣、問屋場のほかに荷物貫目改め所も置かれ、分去れに位置する洗馬宿の重要性が伺われる。戸数は、始め100軒余、幕末には150軒程あって、大きな旅籠を持つ宿として賑わった。本陣、脇本陣の庭園は「善光寺道名所図会」の中で「中山道に稀な」と紹介された名園であったが、明治42年、鉄道の開通によって洗馬宿駅の敷地となり失われた。また、昭和7年の洗馬大火では宿場時代の建物がほとんど焼け落ち、今はその面影を見ることが出来ない。しかし、火事後に拡幅された道路の両脇には昔をしのぶ歴史の跡がそこかしこに残っている。
洗馬区 |
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| <洗馬宿脇本陣跡> |
<洗馬宿本陣跡> |
<善光寺道の起点の宿「洗馬宿」>
北国西往還、通称善光寺道は宿内の「分去れ」で中山道と分岐する。木曽義仲の家臣が義仲の馬の足を近くの清水で洗い癒したことから地名がついたと伝えられる。通行者の荷物の重さを調べる貫目改所が置かれた。
【JR中央本線洗馬駅下車】 |
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| 11:15 |
「あふたの清水」
冷たくてうまい湧水 |
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| <江戸時代から枯れることなく湧水する「あふたの清水」、何だかありがたい!って感じ> |
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| 11:20 |
追分(新)
<中山道と善光寺道の「わかされ」>
左側のおよそ50メートル行くと石造りの「常夜灯」のある桝形に至る。
ここが中山道と善光寺道の「わかされ」であった。道標は昭和7年(1932)4月6日の「洗馬の大火」以後右側の新道が開通したおりに桝形からここへ移されtものである。
洗馬区 |
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<中山道と善光寺街道の分去れ>
中山道は右に折れて肱松の坂(相生坂)を上り、桔梗が腹を経て塩尻宿へと向かう。江戸へ30宿59余里。左は北国脇往還の始まりで、松本を経て麻績から善光寺へ向かう。善光寺街道とも呼ばれる。善光寺へ17宿19里余。
ここにある常夜灯は安政4年(1857)の建立で、洗馬宿を行き交う参拝の旅人はこの灯りを見て善光寺へ、伊勢へ、御嶽へ、そして京、江戸へと分かれて行った。
洗馬区 |
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| 11:23 |
昔の「分去れ」
大きな常夜燈がある。
この分去れを過ぎるとブドウ畑が続く。
ひたすら前進するのみ。ファイトーッ!
ブドウの実が随分と大きいが未だ青い。食べられそうにない。 |
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| 11:53 |
花畑。道路脇にもたくさんの花が植えられている。 |
| 12:00 |
<善光寺道一里塚>(=下の写真)
一里塚が全国的に整備されるようになったのは江戸時代である。慶長9年2月4日(グレゴリオ暦1604年3月4日)、江戸幕府は日本橋を起点として全国の街道に「一里塚」を設置するよう指令を出した。一里塚の設置は、大久保長安の指揮の元に行われ、10年ほどで完了した。一里塚には榎などの木が植えられ、木陰で旅人が休息を取れるように配慮されていた。また現存する一里塚の多くは道の片側にのみ存在するが街道の両側に対で設置されるのが本来の姿である。 |
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新しい一里塚跡の石碑
ブドウ畑の一隅にある。何だか肩身の狭い思いをしている。 |
「サラダ街道?」の道路標識 |
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| 12:10 |
サラダ街道通過
ここから小雨が降り出す |
| 12:15 |
大きな中部電力変電所が点在する。何だかバラバラに置いた、って感じだ |
| 12:25 |
松本歯大交差点
ここから「郷原宿」
この宿場には昔の風情が色濃く残っている
ここからポンチョを着る。猛烈に暑い。助けてー!ファイトーッ! |
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江戸の風情が残る短歌の里「郷原宿」
江戸後期に大火に遭ったものの、その後建てられた家並みがゆかしく残り、江戸の風情を伝える宿。
松本周辺地方独特の本棟造りや横に長い横屋造りの家屋は必見。明治期以降、多くの歌人が活躍した地でもある。
【JR篠ノ井線広丘駅から約0.5km】 |
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| 12:35 |
郷原宿の古い看板
<明治天皇御膳水>
明治13年6月25日、午後3時10分郷原駅に駐蹕。巡幸日記に雨道のならひにてみちはかゆかず、郷原につくとある。
ご先発官は宮内大書記官山岡鐡太郎(鐡舟)外。供奉人員は太政大臣三條實美公、参議伊藤博文外400人をこえる。玉座は郷福寺本堂を御小休御座所として、現在も当時のままに保存。この井戸は宮内省より明治陛下の御膳水御用相勤候事とあり、御聖蹟を後世に残すため平成6年7月改築。大工棟梁は郷原赤羽張爾氏である。 (平成6年改修) |
| 12:40 |
古井戸
この付近は旧家が多い
昔の遺跡がたくさん残っている。うれしい |
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市史跡 郷原の古井戸
所在地 塩尻市大字広丘郷原
昭和45年1月13日塩尻市史跡指定
郷原の古井戸は、郷福寺境内、お茶屋付近、そしてこの問屋付近の三か所にあったといわれる。地下水が非常に低いため深井戸を掘ったが、これの維持管理には大変な費用がかかり労力を要した。村では十数戸が一組となって井戸の頼母子講・無尽講などをつくり費用を拠出し、共同作業で井戸ざらいや釣釣瓶縄作りなどの管理作業を行った。そして井戸端に水神様を祭り清浄な場として、清潔に取り扱うことを誓い合った。
郷原宿は善光寺参りお伊勢参りなどの旅人で賑わったが旅人もこの深井戸の水の恩恵に浴した。
この古井戸は、郷原宿の昔の深井戸の面影を遺している。
塩尻市教育委員会
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市史跡 郷原の区画割と古井戸
所在地 塩尻市大字広丘郷原
指 定 昭和45年1月13日
郷原宿は、北国脇往還西街道の中継宿として、慶長19年(1614年)に生まれた宿場の機能である。屋敷割、道路割、治水割、耕地割がはっきりと現存している。宿の形は他宿のように鍵の手など屈曲はないが、南端には奈良井川から上げた用水路が曲折して、宿の真ん中と東西の町裏を二筋ずつ灌漑用水として、計五筋が北流している。屋敷割は、安政5年(1858年)の大火後の再建の家が5〜6間以上の間口を占めているところから、他宿よりもゆったりとしている。奥行をみると、街道の西側を東西に宅地、用水、宅地、農道、用水、農道と区画されている。
現在の建物は、安政5年の大火後再建されたもので、他宿の横屋造りに対し雀返しのついた切妻が街道に面しているのが特徴で、家の前と街道の間に庭があり、そこに樹木が植えこまれた特殊の趣を添えている。
また、宿場の共同生活の基礎と平等への第1歩が始まったといわれる古井戸は宿の中央にある。 塩尻市教育委員会 |
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| 12:45 |
郷福寺
たいそう立派なお寺さん。
門前には高札場がある。
<桔梗山 郷福寺> 縁起
本寺は中世桔梗が原の中央、池の坊という地にありましたが、天文年間に武田氏の兵火にかかり、堂から記録まですべて焼失してしまいました。慶長17年になって憲快法印により、当地に移り、桔梗山郷福寺として中興されました。その後、延暦4年(1676)中興、第3世快秀法印の時、京都大本山智積院(真言宗智山派)第7世能化運敞僧正により伝法、以後直末となりました。文政4年(1821)郷原宿の大火に類焼し、堂塔や記録をすべて失ってしまいました。しかし文政6年庫裡、嘉永7年(1854)本堂に続き、宝蔵、薬師堂、土蔵、総門と復興をみました。
近年は成田山分尊奉安の不動堂、薬師堂が再建され、筑摩33ヶ所観音堂霊場第26番札所も復活し、参拝者が多くなっております。現在は高野山真言宗総本山金剛峯寺末となり節分会、大般若会、不動尊春秋大祭、施餓鬼会、お薬師様大祭と文化展などを年中行事としています。 |
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<薬師堂の概要>
以前の薬師堂は文政4年の郷原宿の大火に類焼し、慶応元年9月に再建。しかし、老朽化し63年10月28日再再建。この薬師堂は高野山大伽藍の三昧堂をモデルにしたものです。高野山の宮大工棟梁岡本豊氏によるもので、高野山の建築様式に則り、材料も出来るだけ高野山のものを使用。特にキバナ、マス組は高野山奥の院の天然檜が使用されております。中央に薬師瑠璃光如来を安置し、向って右側に聖観世音菩薩、左側に弘法大師(天保年間に弘法大師御入定1000年御遠忌製作)、馬頭観世音菩薩をお祭りしております。お薬師さまのご真言は<オンコロコロセンダリマトウギソワカ>。一心にお薬師さまのご真言を唱えれば、私たちの体の中にある自然治癒能力を引き出し、病を悉く取り除き心身を安楽にして下さいます。・・・・以下省略 |
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| 13:15 |
広丘駅交差点 |
| 13:25 |
広丘小学校
ファミリーマートでパンを2個、紅茶1本、唐揚げ1本、合計650円
これ等を歩きながら食うのだ!ウマーイ!グルメで美食家の内のカミさんに食べさせたいなぁ |
| 13:40 |
えびの子大橋信号
国道19号と合流 |
| 13:55 |
再びポンチョを被る。暑い。実にうっとおしい、未だ見たことはないが地獄のようだ!ファイトーッ!
<塩尻4宿400年>
いにしえの塩尻は、中山道・善光寺街道・三州街道などが交わる交通の要衝でした。
慶長19年(1614年)に初期中山道(下諏訪から岡谷・小野宿・牛首峠を経由して贄川桜沢」までのルートが、「下諏訪宿から塩尻峠越えで塩尻宿・洗馬宿・本山宿を経由して贄川桜沢」に至るルートに改められました。また、同年に、中山道洗馬宿から郷原宿を経由して北国街道丹波島宿に至る善光寺街道が開設されました。
本年(2014年)塩尻4宿は開宿400年の節目を迎えます。 |
| 14:05 |
下吉田信号
ここから左の道に入る。
牛馬頭観音 |
| 14:10 |
村井学校跡
<村井学校跡>
明治5年「筑摩県第1小校として創設された・・・・以下省略 |
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| <村井学校跡> |
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| 14:15 |
神明宮
入口に番所跡
<村井宿>
慶長年間、北国脇往還に開かれた宿場である。松本から1里20町、郷原宿へ1里12町、宿場の長さは5町9間、町割りは1戸分の間口6間、奥行20間から30間、元禄年間の記録では82軒ほどの家があったという。
本陣・問屋・旅籠屋が並んでいたが、明治20年、27年の2度の大火により当時の姿を失った。しかし町割りや鍵の手・用水路には昔の面影を遺している。 |
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| <村井番所跡> |
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| 14:30 |
村井下町交差点
この付近でも古い家々を沢山見ることができる
再び国道19号へ |
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| 14:35 |
一里塚跡と芭蕉句碑 |
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<一里塚跡と芭蕉句碑>
一里塚は北国脇往還(善光寺街道)におかれた目印で、周9メートル4面、2メートルくらいの高さの土盛りの上に周2・5メートルくらいの松があったという。その土盛りは明治40年ごろ取り壊され現在は人家になっている。
道端の碑は昭和24年に建てられた。
芭蕉句碑は国道19号線の回収により所を変えていたが、現在地に落ち着いた。文化10年8月「村井宿」の銘がある。
「霧しぐれ富士を見ぬ日ぞ面白き」・
善光寺道名所図会に載っている。
平成10年3月 芳川地区景観整備委員会 |
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| 15:25 |
多賀神社
店先にガイドブックにも記載がある「丸正醸造」の大きな味噌ダル |
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| <多賀神社> |
<店先に大きな味噌ダル> |
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| 15:30 |
寺子屋跡 |
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| <寺小屋跡> |
<可愛い地蔵のデモ・・・・かな?> |
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| 15:35 |
信楽村役場跡 |
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| <「信楽村役場跡」、立派なお屋敷> |
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| 15:40 |
中田氏の庭園 |
| 15;45 |
豊田橋を渡る |
| 15:55 |
栄橋を渡る
松本宿に入る。ほぼ予定の時間に到着できた |
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| <明治天皇小休所> |
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| 16:05 |
緑橋
<緑橋 史跡>
元和元年(1615年)、松本城主小笠原秀政が、長男忠脩・次男忠政を伴い、大阪夏の陣に出陣した。忠政は若干18歳で、乳母は別れを惜しむあまり、この橋で袖にすがって離さなかったという。忠政は陣羽織の袖を切って発ったと伝えられ、以後この橋を「袖留橋」と呼んだ。
明治11年に架け替えの際、取り壊された大手門の石材を利用して、石橋になった。その際に「緑橋」と改名した。 |
| 16:10 |
旧松本宿本陣跡 |
| 16:20 |
東横イン松本6,000円へチェックイン、
28,741歩。疲れたー
近くのレストランで夕食+夜食1、200円、早めに休むことにする |