| 06:45 |
4月27日(日)
ホテル発
JR直江津駅前にあるホテル・センチュリーイガヤ。「街道歩き」の旅人には少々贅沢な宿だった。
今のJR直江津駅は元気がない。
かって「直江津」は上野駅から出発する「JR信越本線」の最終目的地だった。
とても活気があり、特にお盆や正月の季節になると乗客がホームに溢れていた。そんな時代が確かにあった。
もう直ぐ開業する「東京=金沢新幹線」は直江津駅からは遠く離れた所を通過している。
男と女の関係に例えて言えば、それまで仲良くしていた彼女(=JR)が、「新幹線」というスーパースターが出現した途端、遥か遠くへ離れてしまい、そんな彼女から無視された彼氏(=直江津駅)は荒れる日本海を背に暗くうつむき、過去の楽しかった時代を思い出して一人で泣いている、って感じ・・・・かな?
今日も気持ちよく晴れている。少し寒いが、街道歩きには実に快適な気候だ。ファイトーッ! |
| 06:47 |
JR直江津駅
ホテルの前が駅だ。 |
| 07:17 |
JR直江津駅発
信越本線・
直江津=柿崎 320円
直江津駅から新潟方面へ向かって、日本海沿いを北上する。 |
| 07;30 |
JR柿崎駅
しまった!
間違いなく、直江津駅でここまでの切符は購入した。ポケットの何処を探しても見つからない。叔母さん駅員に事情を話して、再度、320円を支払って改札を出してもらう。あー大損害だ!
ここが昨日の終点。今日の出発点だ。ファイトーッ! |
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<JR柿崎駅> 日本海沿いを走る、信越線。
「♪・・・・白波打ち寄せる日本海、乗客少ない信越線・・嗚呼・・切符無くした男が一人、プラットホームたたずむ日本海・・・・(以下省略)・・♪」高倉健主演の映画又は演歌の世界である。
出来ればう少し古びた駅舎であって欲しかった。 |
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| 07:40 |
親鸞聖人のお枕石 |
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越後の歴史自然ルート
「親鸞聖人のお枕石」
浄土真宗本願寺派浄善寺には親鸞聖人の川越名号とお枕石とが安置してある。親鸞聖人は念仏を広めたことが御身の仇となり越後の国で流罪の身として五ヶ年の間逗留された。ある年の冬のころ柿崎の里扇屋の門に立たれ一夜の宿を乞われたが断られたので止む無くその軒場で一夜を過された。
この邪見の夫婦は夜中に聖人の奇端にふれ驚いて家の中へ招待し、その教を聞いて聖人の弟子となった。翌日米山川(黒川)の辺りまでお見送り申し上げ名残りを惜しみ川の向こうの聖人から帰命儘十方無*光如来の十字名号をたまわった。
世にこれを川越名号という。
新潟県・柏崎町 |
| <お枕石の石碑> |
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| 07:50 |
ごく普通の住宅街の中、三差路に昔からの道標「追分」が置いてある。(=下の写真)
左 奥州道
右 山みち
旧道はここで左折・奥州道へと進む |
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| <柿崎宿の東の枡形に古くからの三差路、そこには昔の道標がある> |
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| 08:15 |
国道8号と合流
中央海水浴場
一部を除き、ここ日本海側には高い防潮堤が延々と続く |
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| <信越本線> |
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| 08:25 |
慈眼庵 |
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| <慈眼庵> |
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| 08:48 |
柏崎市に入る |
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| <ここから柏崎市へ入る> |
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| 08:55 |
大清水観音堂(大泉寺が正式名)
標高200mの山上にある古刹。上杉景勝が再建した茅葺の観音堂(国重文)、飯綱社本殿(県文化)、木喰堂がある。 |
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| <大清水観音堂入口> |
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| 09:18 |
米山信号 |
| 09:22 |
鉢崎宿
国道8号から外れ、宿場町に入ると全く住民がいない(ような)家並みが続く。全く人気がない。 |
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| <北国街道・鉢崎宿入口(ここで国道から外れる)> |
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| 09:28 |
たわら屋跡
たわら屋跡
俳聖松尾芭蕉(1644〜1694)が「奥の細道」へと旅立ったのは元禄2年(1689)3月27日。芭蕉は柏崎の天屋に泊まる予定で紹介状まで用意して来たのであるが、思わぬことから米山峠を一気に歩き通して鉢崎まで来てしまった。同行した弟子の「曾良日記」には「申の下剋、至鉢崎、宿たわらや六良兵衛」とのみ記している。鉢崎での宿・たわら屋は、代々庄屋で三百年以上も古くからこの集落に栄えた旧家で、宿屋を業としていた。大正のころまで、刈羽郡高浜町の椎谷(現・柏崎市)に5月1日(旧暦)に馬市があって、その前夜はこの町も馬の往来が激しく、たわら屋は馬宿でもあったという
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| <鉢崎宿>通りにはまるで人の気配がない |
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| 09:30 |
鉢崎神社 |
| 09:35 |
鉢崎関所跡
佐渡の金荷が最初に泊まる地で、全国に置かれた53関所の一つ。得体の知れない測量器具を持った伊能忠敬一行7人が、無礼な扱いを受けた「鉢崎関所事件」もあった。 |
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戦国期、鉢崎関所は、当地域の戦略的拠点であった旗持城を擁する旗持山山麓が海に迫っているという地のを生かして、軍事・治安上の要衝地として、重要な役割を果たしていた。
江戸時代に入り、この機能は、高田藩に引き継がれたが、最も取り締まりが激しかったのは、女子と鉄砲に対してであり、「出女入鉄砲」という言葉があった。
これは、幕府が各藩主の妻室を江戸に住まわせて、人質としていたため、この人たちが無断で帰郷するのを警戒したためであり、また、地方から江戸へ鉄砲を持って入ることが治安上危険と考えられていたからである。
当時の覚え書きによると、関所の木戸が開くのは午前6時で、閉まるのは午後6時とあり、夜間の通行は一切禁止されていたが、飛脚などの通るときは、委細を改めて(理由を聞いて)通行を許したというである。
現在、自動車で通る人は、この関所跡を見ることは出来ないが、ここに立つと、その地勢を利用して、なぜここに関所が設置されたのかが理解できるであろう。
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定 榊原式部大輔
右は奥州筋へ通候女領主の証文を以って相通し申し候
所の女は名主手形を以て相通す
奉行 |
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| 09:45 |
カラフトの碑
厄介な問題が発生した。
ここから先は斜面が地震などで完全に崩落して「北国街道(=旧道)」消滅してしまった。
ガレ場でとても危険な状況である。「通行禁止」の札と人が侵入できないよう頑丈な柵もある。
「鉢崎宿」まで戻り、米山トンネル(=自動車道)内の側道を通行することも考えたが、「旧街道を出来るだけ忠実に歩くこと!」をモットーとしている。
無理や危険を承知の上で崖崩れしている旧道の跡を、断固トラバースすることにする。官憲に見つかったらヤバい。本当はやっちゃいけないことです。自分でも判っています。
関係者の皆様、ご免ナスッテ!と謝ってから頑丈な鉄柵を乗り越え、崖のトラバース始める。 |
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<カラフトの碑>
最初にカラフトの所在を確認した鉢崎宿出身の松田伝十郎を記念する石碑 |
<聖ケ鼻>=向こうの小高い丘
ガイドブックによると、旧北国街道はこの斜面を通っていた。
現在は地すべりで崩壊している。もちろん「通行禁止」である。
ここで滑落事故でも起こすと大変だ。助けを呼ぶことが出来ない。ひんしゅく、冷笑どころか、誰も救助には来ないだろう。
その結果、街道旅人(=筆者)は、昔、この日本海岸付近に多く発生した「拉致不明者リスト」に入るに違いない。 |
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| 10:05 |
慎重と緊張ついでに膨張(?)しながら順調に崩壊した旧北国街道を一人横断に成功した。バンザイ!
国道(=自動車道)に合流する。良かった! |
| 10:23 |
上輪
海抜5mの漁村。この集落にもまるで人が生存している気配がない。関係者の皆様、ご免なさい。
ドリンク・スタンドがある。緊張感からようやく解放される。助かった! |
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| <聖が鼻岬から道路は海岸> |
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| 10:30 |
釈迦仏安置
長い長い登り坂の途中、ご夫婦連れ千葉ナンバーの自家用車に「・・・・良かったら、乗っていきませんか?」って誘われる。
うーん、どうしよう。そしていつものようにその誘惑に負ける 。せっかく親切にお誘いいただいたのに、断るのは相手に申し訳ない、とも思慮する。
そして今日の目的地、「柏崎宿」まで運んでいただく。予想では4時間はかかるはずだ。
「絶対に自分の足だけで旧街道を歩き通すのだ!」と強く、固く心に決めていたのに・・・・嗚呼。今日も安逸の道を選んでしまった自分の意志の弱さに泣く。ファイトーッ! |
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| <ヒメオドリコソウ> |
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| 11:00 |
柏崎駅着
取り敢えず、駅前のビジネスホテル「αー1」を予約、荷物を預ける
時間も早いため、心を入れ替え、誘惑に負けて、同乗させていただいた地点まで、再び戻ることにする。
今日一日は思い知らされた。わが人生はずっと自分の意志の弱さとの闘いそしてちょっぴりの挑戦だ。
今日の目的地だった 柏崎から北国街道を直江津方面へと歩いて戻る。バカみたいだ。
しかし、人生にはこんな無駄な行動も必要だ!とあの夏目漱石先生も云っている・・・・はずだ。
余計に辛ーい。ファイトーッ! |
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<不求庵(ふぐあん)跡>
嘉永4年(1851=貞心尼54歳)4月、10年間住んだ釈迦堂が類焼したので、外護者の山田静里らが中心となって、広小路真光寺の側に八畳・四畳・三畳の庵室を建ててくれた。貞心尼はこの庵を「不求庵」と名づけて、弟子の孝順尼(19歳)とともに9月中旬頃に移り住んだ。不求庵では、時々、山田静里らの風流人が集まって、歌会を催したので、貞心尼の身近には平和な日がつづいた。
そして、安政6年(1859=貞心尼62歳)5月14日、長岡荒屋敷町高野治郎兵衛の娘で、常福寺広寛禅師の実家の生まれの智譲尼が8歳で弟子となった。同年12月8日、剃度師であった泰禅和尚が示寂された。
貞心尼はここで没すまで22年間住み、明治5年2月11日、午前2時過ぎ、静かにこの世を去っていった。75歳であった。
病の床についてから、死期の近づいたのを知ったのか、
「玉きはる今はとなれば みだ仏といふより
外に言の葉もなしあとは人
先は仏に任せおくのが心のうちは極楽」
などと詠んであり。
辞世の歌は次のものである。
「くるに似てかへるににたりおきつ波
立居は風のふくにまかせて」 |
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| 11:40 |
常在山福泉寺
<常在山 福泉寺>
福泉寺は、日蓮宗で、日蓮大上人様が鎌倉時代に越後の佐渡ヶ島へ流罪となり、やがて時を経て、御赦免になった折上人様の高弟、日朗上人が当寺に逗留し、日蓮大上人様をお迎えに佐渡へ渡り本土にお着きになった際にも日蓮大上人と日朗上人が福泉寺へ逗留された。
<宇佐美駿河守定之祈願寺>
越後の名将上杉謙信公の重臣で、琵琶島城主であった宇佐美駿河守定之は、甲斐(山梨県)の武田信玄と五度にわたる川中島の合戦の際、枇杷島城より北の方面にあたる福泉寺に祈願をした「妙見菩薩」と、祈願をした寺であるという証拠の祈願文の掛軸・奥方が第一子誕生を祝って自ら彫った手彫りの「子安三十番神」が祀られている。
上杉家がこの領土を治めていた時代に、水と風土に恵まれて出来た良質の米、越後上布を織る青芋、上田銀山でとれた銀などを北国船に積んで交易した鵜川湊があり、その宿坊ともなっていたのである。 |
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| <常在山福泉寺> |
<御嶽山神社> |
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| 11:55 |
陣屋跡及び県庁跡 |
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| <陣屋跡> |
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| 12:00 |
勝願寺
松村宗悦
柏崎町の富商奈良屋に生まれ通称規右衛門積翠庵と号した。壮年京に出て千宗室に茶儀を学ぶ。
安政2年(1855)65歳で没する。
江戸時代末期、松村宗悦が同寺の大藤環翠(かんすい)のために築造した茶室で、「環翠軒」(かんすいけん)という。構造は茶室と水屋とから成り、茶室は二畳台目(二畳に台目畳が一畳入る式)である。なお、茶室の席額「環翠」の文字は宗悦と親交のあった大徳寺大綱の筆である。 |
| 12:15 |
諏訪神社参道登り口
家の間に神社が挟まっている。
境内の展望台からは柏崎方面が一望できる。 |
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| <諏訪神社登り口> |
<百度石> |
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| 12:20 |
番神堂
市指定文化財 有形文化財・建造物
番神堂(ばんじんどう)
日蓮宗妙行寺の境外仏堂で、文永11年(1274)、佐渡から赦免の折り日蓮上人が三十番神の霊を請じ迎えて祀ったものと伝えられている。
明治4年の大火で類焼、同11年に再建された。本殿と拝殿の間に石の間を設けた権現造りで、本殿の壁面には、彫刻が施されている。
棟梁は四代目・篠田宗吉、石工・小林群鳳、彫刻は出雲崎の原篤三郎・脇野町の池山甚太郎・直江津の彫富(ちょうとみ)、飾り金具は大久保の歌代左次兵衛の鋳造である。 |
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番神堂一棟
日蓮宗妙行寺(西本町1丁目)に属し、文永11年(1274年)佐渡からの赦免の折、日蓮上人が三十番神を勧請(神や仏の霊を移して祭ること)したと伝えられる。明治四年(1871年)10月の下宿(今の番神町)大火で類焼、同6年から再建に着手し、同11年(1878年)4月17日竣工した。
民謡の三階節に”番神堂がよく出来た 向拝 向拝の仕掛けは 新町宗吉 大手柄”とある。
権現造り(本殿と拝殿との間に「石の間(相の間)」を設けたのが特徴)で、棟梁には四代目の篠田宗吉、石工は小林群鳳、彫刻は、出雲崎の原篤三郎・脇野町の池山甚太郎・直江津の彫富で、飾り金具は大久保の歌代左次兵衛の鋳造である。
昭和50年4月16日指定
柏崎市教育委員会 |
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米山(993m)
山頂には日本三大薬師の一つ米山薬師堂が建ち、豊作などを祈願す米山講中の人 たちによって古くから登られてきました。一等三角点の秀麗な山で、山頂からは360度 の展望が楽しめます。
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| 12:37 |
薬師如来
二十三夜搭
一見すると電話ボックスのように見えるが地元の願いを一手に引き受けているご様子だ。 |
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| <薬師如来> |
桜とチューリップが一緒に。 |
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| 12:55 |
鯨浜駅
「嫁入坂」は完全に廃道となっている(鯨浜宿) |
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| <鯨浜駅> |
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13:00 |
二十三夜搭 |
| 13:05 |
神社で御祭りが開催されている。神社のお祭りは何だかうれしい。
境内では風船釣り、ラムネ、焼きそばの屋台が並んでいる。屋昼食代わりに地元の伯母さんが売っている、おでん一皿450円を買う。発泡スチロールの頼りない白い皿に竹輪やコンニャクなどおでんがテンコ盛り、東京よりもずっと量が多い。ウマーイ!
こんなに美味いおでんを始めて口にした。街道歩きの昼食は「おでん」に限るのだ! |
| 13:18 |
庚申塔 |
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| <庚申塔> |
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| 13:43 |
道の駅
肉ラーメン 600円(下の写真・左)。
「ウヒャー・ウマーい、日本イチー!」って大声をあげる。街道歩きの昼食はラーメンが一番だ。
グルメで美食家のうちのカミさんにこのラーメンを食べさせたいなぁ。腹いっぱい! |
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<柏崎「道の駅」、海産物や魚介類が多い、羨ましい。全部買って帰りたい。
グルメで美食家のうちのカミさんが大喜びするだろうなぁ、きっと!> |
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| 14:20 |
青海川駅上 |
| 14:36 |
青海駅
「日本で一番海に近い駅」の看板を見てフラーっと駅にたどり着く
何の変哲もない普通の駅だ。ホームの下は直ぐに海。
この駅はテレビドラマや鉄道唱歌にも度々登場した駅だそうだ。 |
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| <海の上にあるJRの駅> |
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| 15:04 |
青海駅発 |
| 15:15 |
柏崎駅着
少し早めにホテルにチャックインする。
明後日の「柏崎=東京」の高速バスを予約。結構混んでいる。
柏崎駅前ホテル「αー1」12,500円(=2泊、朝食付き)、バス(柏崎=東京)4,900円、夕食 1,750円 |