【甲州街道】
 
甲州街道(江戸時代は甲州道中と呼ばれていた)は徳川家康が制定した五街道(東海道、中山道、甲州道中、奥州道中、日光道中)の中でも地味な存在であるが、小仏峠・笹子峠を越え、韮崎の七里岩絶壁を遠望し、造り酒屋を堪能し、諏訪湖を眺めて中山道の下諏訪宿まで55里219km、44次の道中。 3軒の本陣建物が残っており、遺跡・遺構も結構多い。
景色の良さも見逃せない街道である。
第2日目
府中〜国立〜立川〜日野宿〜八王子〜高尾駅

月 日; 2009年11月28日(土)、晴れ
区 間; 府中ー日野宿ー八王子ー高尾
時 間; 6時間10分
費 用; 1、530円

(内訳)つつじヶ丘=府中170円、高尾=つつじヶ丘330円、マック710円、お茶120円、本陣見学料200円

歩 数; 35,100歩、約13.8km

07:45 京王線・府中駅
07:45

大国魂神社(=前回の終着点、今回の出発点)
ケヤキが盛んに落葉している。

<京王線・府中駅の前に伸びる欅並木(左は日本武尊の銅像)と馬場大門の欅並木>
【武蔵総社 大國魂神社】
 当神社は、大國魂神を武蔵の国魂と仰いで、鎮祭し祠った神社である。第12代景行天皇41年(111年) 5月5日大神の託宣によって創立せられ武蔵国造が代々奉仕して祭務を司った。其の後、孝徳天皇の御代に至り、大化の改新(645年)により武蔵の国府がこの地に置かれて、当社を国衙の斎場として、国司が祭祀を奉仕して国内の祭政を司った。国司が国内諸社の奉幣巡拝等の便により側に国内の諸神を配祀したので「武蔵総社」と称し、又両側に国内著明の神社六社を奉祀したので「六社明神」「六所宮」とも称された。鎌倉幕府以後徳川幕府に至るまで代々幕府の崇敬厚く、再三社殿を造営し、徳川幕府より社領500石を寄進せられた。明治18年より昭和21年迄官幣小社に列せられ、其の後宗教法人となる。 

          (例大祭 5月5日)               大國魂神社・府中市観光協会

07:55

時宗称名寺

<一遍上人像>
東海道・藤沢近くの「遊行寺」の一遍上人像も同じ表情をしていた。

この一遍上人の像は他の寺で拝見しても、皆、同じ表情をされている。ありがたや、ありがたや・・・・

08:00 府中市役所前

【鹿島坂】
 
坂の名は、大国魂神社の例大祭に深い係わりのある人名に由来するといわれます。
 5月の例大祭に「国造代奉
幣式」という古式があります。これは国造代(奉幣使)が神馬に乗って坪の宮におも向き、神輿渡御の完了を告げたあと、鹿島坂を上り、甲州街道を東上、御旅所へ参向して奉幣を行うというものです。この式は、古く社家の鹿島田家がその役を担っていたため、この坂を「鹿島田坂」と呼び、後に、名前の一部をとって、「鹿島坂」となったようです。
      昭和60年3月   府中市

<府中宿の高札場>

【府中高札場】
 
法度、掟書、犯罪人の罪状などをしるし、交通の多い市場、辻などに掲げた板札を高札といい、庶民の間に徹底させるためこれら高札を掲げる場所を高札場といった。これらは中世末期からあったが、江戸時代が最も盛んとなり明治3年(1870)廃止された。高札場は無年貢地で街道の宿場や村の名主宅前の目立つ場所に普通設置され、江戸には日本橋など6箇所の大高札場をはじめ35箇所に高札場があったという。
 
府中の高札場は、府中市において甲州街道と鎌倉街道の交叉する所、大国魂神社御旅所の柵内にあり、屋根を有する札懸けで、これに6枚ぐらいの高札が掛けられていた。         昭和62年3月20日建設   東京都教育委員会

08:10 高安寺
昔はたいそう賑わったに違いない。
<高安寺門前>
08:20 京王線踏切
08:28 内藤家本陣の門
<旧本陣の内藤家である。今時珍しい、たいそうな門構え>
08:30 本宿町交差点
国道20号線と合流
【棒屋の坂】
 
坂名の由来は、坂を下りきった所の家が通称「棒屋」と呼ばれたためといわれています。
 
この道は、徳川家康が江戸幕府を開いてから開設された甲州街道です。江戸幕府にとっては軍事的・経済的に重要な街道でしたが、府中にとっても一宿場として往古の繁栄を取り戻す役割を果たした道です。この街道が開設される以前の甲州方面への道は、もっと南よりの狭いハケ道で、今でも所どころに残っており、往時の面影を伝えています。                         昭和60年3月    府中市
08:35

本宿交番前交差点
角にひっそりと常夜灯が立っている。(下の写真)
東海道のそれと比べるといずれも小型である。

<熊野神社>
08:40

熊野神社
鳥居は新しいが本殿はかなり古い。
20号線の車の往来が激しい。

08:47

旧甲州街道とJR南武線が交差する。
ここで日本橋から33km
「甲州街道」の名は、この道が甲州へ通じることに由来します。この道は、慶安頃(1648〜52)に開設された江戸と甲州を結ぶ幹線道で、五街道の一つです。

甲州街道(国道20号線)、車の往来が激しい。
日本橋から国道20号線で33km。
08:52 国立市に入る
09:00

谷保
旧・本田家跡。家の周囲が、最近では珍しくなった板塀でグルッと囲まれている。
塀の隙間から覗くと古い木造の民家である。驚くことに「本田家」が甲州街道沿いに150m以上も続く。

本田家の敷地の一部を削って造られた常夜燈
09:05

常夜燈(秋葉燈)上の写真
東海道のそれよりもずっと小型で、「仕方ない、置いといてやるか」といった感じ。

【由来書】
 
甲州街道は往古水田地帯を通過していた。
 
その古街道が廃され現在の街道と家並みが出来たのは17世紀中ば、慶安から寛文の頃であった。しかし台地は水に乏しく人々は度重なる火災に苦しんだと言う。
 
ついに本宿村では「講」を作り遠江の秋葉神社で「火伏せ」の祈祷をなし、寛政4年、1792、この地に常夜燈を設けた。
 
村内に「番帖」講中の氏名を列記した木板を廻し、毎夕刻受領者は必ずこの燈篭に火を点して無事を祈り隣へと引き継いだ。爾来、1世紀半に亘り村人の祈りは続けられたが太平洋戦争末期、灯火管制が強化されて廃止となった。
 
このたび都道新設などにより旧地隣接の場所に移転したものである。
        平成2年2月
<谷保天満宮の鳥居>
09:10

谷保天満宮
国立駅入り口

09:20 潤澤学舎跡
垣根から、この時季としては珍しい、つつじの花が顔を出していた。
09:30 南養寺
街道から100m以上も参道が続いている。昔は相当に立派だったに違いない。
元上谷保村の常夜燈がある。相当に古い。
矢川駅入口交差点
09:45 元青柳村の常夜燈
東海道には至る所に残っていた常夜燈。甲州街道では少ない。
【元青柳村の常夜燈】
 常夜燈は、江戸時代に村を火難から守るために、火伏せの神を祀った秋葉神社の常夜燈を各村の油屋近辺に建てたもので、「秋葉燈」とも呼ばれています。
 この常夜燈には、東側に「棒名大権現」、北側に「正一位稲荷大明神」、西側に「秋葉大権現」、南側に「寛政11年9月 施主村中」などの文字が刻まれていることから、西暦1799年に青柳村の人々が建てたことがうかがい知れます。
 古老が語るところによると、昭和初期ごろまでは、村の人たちが毎晩当番で、ローソクを1本ずつ点す習慣があったということです。

  平成2年3月  国立市教育委員会

09:55 立川市に入る
10:00 日野交差点
10:15 日野の渡し碑
<多摩川の渡し碑>

変わったデザインである。

<多摩川>

「立日橋」(タッピバシ)の上から見ると川の中央には大きな鯉がたくさん泳いでいる。
ウマソ―、食べたーい!
多摩川の水は澄んで、とてもきれい。

10:20 多摩川の立川と日野市に架かる立日橋(「タッピバシ」とわざわざ振り仮名が書いてある)
頭上にはモノレールが通っている。
多摩川には大勢の釣り人、川中央には大きな鯉が泳いでいるのが見える。
10:45 日野宿本陣跡
見学料 200円
甲州街道には3軒しか残らない本陣跡。日野本陣跡の入口に置かれた菊(下の写真)

【日野宿本陣】
 
日野宿本陣は、江戸時代末期に日野宿名主を勤めていた下佐藤家の住宅として建てられたものである。下佐藤家は正保年間(1644〜48)頃に名主に取り立てられ、元々名主であった隣の上佐藤家と共に交代で名主を勤めてきたといわれる。また正徳6年(1716)に上佐藤家が本陣,下佐藤家が脇本陣と定められていたが、幕末には下佐藤家も本陣を称している。現在の建物は嘉永2年(1849)正月の火事で消失した後、再建されたもので、文久3年(1863年)4月には上棟し、元治元年(1864年)末に完成したものである。
 
日野宿本陣は瓦葺の建ちの高い大屋根と入母屋玄関を持ち、本陣建築として意匠的に優れている。建物の保存状態も良好であり、甲州道中のみならず都内に遺る唯一の本陣建築として、歴史的、建築史的価値が非常に高い。

          日野市教育委員会

11:00 八坂神社
<一里塚跡> <公園の前にある八坂神社>
11:05

日野駅前東
ここで旧甲州街道は左折する

11:20

日野駅前、ここで今日始めての休憩とする。
今日は贅沢にクォーターパウンダー、レタス&トマト入りのハンバーガーセットを食べる。ウメー!。
日本人ならやっぱ、マックのハンバーガーを食え!って一人叫ぶ。

12:05

日野自動車の工場の前を歩く
広い、バス停が3駅もある。

12:20 コニカミノルタ工場前
この付近の甲州街道沿いに大きな工場が他にも多く、この付近ではただひたすら前進するだけ。
ファイトッー!
<八王子市内に入ると急にイチョウの街路樹が増えた>
12:25

八王子市にはいる。
予定より2時間ほど早い。

12:30 20号線と合流して再び車の往来が激しい。
12:55 浅川
13:00 大和田橋南詰交差点
ここで旧甲州街道は右折する
13:10 新町竹の鼻の一里塚跡
【新町竹の鼻の一里塚】
  一里塚は、慶長9年(1604)に日本橋を起点として一里(約4キロメートル)ごとに塚を築き、榎を
植えた場所です。旅人の距離の目安となったり、木陰が憩いの場になっていたともいわれています。
  
ここ、新町の一里塚は甲州道中八王子宿の東の入口に位置し、江戸から12里にあたります。
  
明治30年(1897)の八王子大火で焼かれるまでは、大榎が涼しい木陰を作り、往時をしのばせていたようですが、現在は付近で鍵の手に曲がる道筋が、昔の面影をわずかに残しています。

                  平成21年3月1日  八王子市教育委員会

<この付近で道に迷い、来た道を戻る>
13:20 市守神社
この付近からひたすら黙々と街道を進む

【市守神社】
 
天正18年(1590)の八王子城落城後、八王子の町は現在地に移され、横山宿では4の日、八日市宿では八の日に市が開かれ賑わった。そこで、市の取引の平穏無事を守り、人々に幸せを与える守護神として「倉稲魂命」を祀り創建され、横山市守稲荷と呼ばれた。現在でも毎年2月の初午の日には「市守祭」と呼ばれる例祭が行われている。
 
また、江戸時代中期になって「天日鷲命」が配祀され、毎年11月の酉の日に商売繁盛を祈願する「大鷲祭」が行われ、現在でも「お酉さま」や「酉の市」と称されて賑わっている。
                          平成20年1月31日    八王子市教育委員会

13:55 追分
ここは道路が「X」になっている。風が強くなってきた。
右に行くと陣場高原、何処もイチョウの落ち葉だらけ。清掃車が次々にやってくる。
14:30

高尾警察署前
この付近には旧甲州街道を偲ぶものが何もない。ひたすら前進するのみ。ファイトッ!

14:40

多摩御陵西
「旧甲州道中」

14:40 町田街道入口交差点
高尾の山が近くなった。
14:55

高尾駅前
少し早いが今日の歩きはここまでとする。
駅にはハイカーが大勢、高尾の山は黄葉盛り美しい。
あまり疲れを感じない。いつもの街道歩きの後の足の爪の痛さも感じない。

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