| 06:34 |
自宅を出発 |
| 06:45 |
つつじヶ丘
快晴。寒い。
京王線の高尾駅が近くなると、1週間前に降った雪が随分と残っている。
遠くには真っ白な富士山が顔を出す。
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| 07:30 |
京王線・高尾駅
寒い。高尾駅には今日も大勢のハイカーが見られる。圧倒的に中高年が多い。
ここで京王線からJR中央線下りに乗り換える。30分も待たねばならない。最近、電車に乗るために30分も待ったという経験が、たしか無い。一旦改札から外に出て、マックの店に入る。
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| 08:01 |
JR高尾駅発
普通・甲府行きに乗車。車中には旅行気分とか緊張感が全く感じられない。
大月駅を過ぎると急に雪が多くなった。道路にも雪が残っている。
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| 09:46 |
甲府着
幸運なことに、直ぐに乗り換えの電車が発車する。 |
| 09:56 |
JR塩崎駅
快晴、風が強い。気温はそれほど寒くないが持参した防寒具を全て着る。
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| 10:00 |
JR塩崎駅入口交差点(今日の出発点)
後方には富士山、前方には雪を被った甲斐駒ヶ岳が大きくそびえている。
静岡県の東海道を通過中あまり見えなかった富士山が山梨県ではくっきり見ることが出来る。
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前方に甲斐駒ヶ岳が大きくそびえている。 |
| <後方は富士山。塩崎駅近くの甲州街道> |
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| 10:10 |
三界萬霊塔 |
| 10:20 |
田畑交差点
強風が冷たい。気持ちよく晴れた。ファイトーッ!
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| 10:30 |
三十三夜塔 |
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| <甲州街道沿いの古い民家と石仏> |
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| 10:35 |
金剛寺
この付近、旧甲州街道は曲がりくねっている。とても判り難い。 |
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| <金剛寺正門> |
<ロウバイ> |
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| 10:45 |
塩川橋
前方に南アルプス、右前方に八ヶ岳連峰がそそり立つ
韮崎市に入る。
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| <塩川橋> |
<振り返ると富士山が大きい> |
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| 11:03 |
鰍沢横丁(下宿交差点) |
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【鰍(かじか)沢横丁】
ここから「みのぶ道」駿信往還ともいい、峡北地方や諏訪・佐久地方の江戸城納めの年貢米を馬背に積んで、鰍沢河岸(幕末には船山河岸)まで通行の道筋である。
ために沿道には、駄菓子屋・馬方茶屋など軒を並べてにぎわったが、明治36年(1903年)国鉄中央線開通して、荷物経路も一変し、往時の活況は消え失せた。しかし町民には忘れじの横丁である。
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| 11:15 |
韮崎駅入口 |
| 11:18 |
小林一三翁生家(これは「街道歩き」とはあまり関係がない)
この付近にあるはずの「本陣跡」が見あたらない。
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| 宝塚の創始者・小林一三翁は甲府の出身 |
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| 11:35 |
一ッ谷交差点
ここで20号線と合流。
美味そうなラーメン屋が角にある。少し、早めの昼食を取る。濃厚な豚骨スープ、美味い。身体が温まる。街道歩きには「濃厚なスープ味のラーメン」に限るのだ!
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| 12:00 |
十六石
この付近から右側が岩壁となる。(上の写真)
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| <十六石> |
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【十六石】
武田信玄公が治水に力を入れたのは有名だが、まだ晴信といわれた天文12・3年頃、年々荒れる釜無川の水害から河原部村(現韮崎町)を守るため、今の一ッ谷に治水工事を行った。
その堤防の根固めに並べ据えた巨大な石が十六石で、その後徳川時代になって今の上宿から下宿まで人家が次第に集まり韮崎は宿場町として栄えるようになったと言われている。 |
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| <神明宮> |
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| 12:15 |
水難供養塔
ますます風が強くなった。
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| 12:35 |
神明宮
この付近には、昔の風景がずい分と色濃い。
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| 12:45 |
道祖神
この付近、誰も歩いている人は無い。道路側溝を流れる水がとても清い。 |
| 13:30 |
穴山橋
東京から156km
気温 6℃、風が強く、寒い。
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| 13:46 |
明治天皇小休止跡
内藤昭一邸内
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| <明治天皇小休止跡> |
<内藤家>
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| 13:55 |
上円井(つぶらい)交差点
前面に八ヶ岳が大きく見え始める。
ホットレモンが美味い。
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| 14:00 |
小武川橋
ここから北杜市に入る。
ここで東京から158km
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| 14:35 |
武川村牧原交差点
ここでミカンを買う。
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| 14:40 |
大武川橋 |
| 15:05 |
上三吹の交差点
この間、特に何も見るものがない。ひたすら前進するのみ。 |
| 15:15 |
明神社 |
| 15:20 |
尾白川橋
寒くなってきた。
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| 15:30 |
台ヶ原宿入口 |
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| <台ヶ原宿入り口> |
<左の道路が20号線、右が旧甲州街道(台ヶ原入口)> |
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| 15:35 |
台ヶ原分岐 |
| 15:37 |
17道祖神 |
| 15:40 |
台ヶ原本陣跡
常夜灯
高札場
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<秋葉大権現常夜石灯籠の由来>
往年、台ヶ原宿が火災と水害に見舞われたことに起因して、慶應3年「秋月講」というグループが誕生し、防火を念願して「秋葉大権現」の石燈籠を旧小松家(本陣)屋敷跡に建立して、大火の防火を祈願した。
その後「秋葉講」として祈願グループが広がり、年々秋葉山に代参をたて、地域の火災予防に寄与してきたが、諸般の事情により自然消滅した。近年、集落内に火災が続発し、恐怖心に包まれた折りもこの石灯籠が地元住民の心の支えになり、毎年、12月15日を祈願祭としている。 記
建立年月日 慶應3年11月祭日
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<本陣跡>
大名が陣を敷いた場所というところから、大名級の者が宿泊した所である。したがって、規模は広大であり、門を建て玄関を設け、上段の間を有することで一般の旅籠と区別され、一般の旅籠には許されない書院造りの建築様式であった。
天明2年の記録に、敷地は間口18間、奥行き19間の351坪で建坪は92坪であった。
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<造り酒屋「七賢」> |
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<登記所跡>
この登記所は、明治24年2月甲府区裁判所若神子出張所の管轄のうち、菅原村外十ヶ村を分離し、管轄するため開庁された。
はじめは、龍福寺の庫裡を借りて庁舎としたが、その後、民間の個人宅を借りて業務を行ってきた。しかし、大正元年に庁舎が新築落成し、以来業務を行ってきた。その後の機構改革により、大正10年7月より現在の白州町と武川村をその管轄地としたが、昭和50年3月韮崎出張所に統合され廃所になった。
平成16年10月吉日 台ヶ原区 |
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<つるや旅館>
江戸時代から続く旅籠。
電話で宿泊を申し込んだが、「一人」という理由で断られた。 |
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【郷倉跡】
毎年の生産物より一定量を備蓄して、非常の時に対応するために造られた備蓄庫であり、囲い籾(ふるいもの)は、新しい物に取り換えられた。
文化3年の記録に「壱ヶ所貯穀有之」と記され、凶作の時に時価をもって極難の者に分売したとある。また、明和4年には郷御倉壱ヶ所、2間に3間の建物で敷地は除地であった。慶應2年の大凶作、嘉永7年の大地震のときに貯穀を借り受けたという。安政5年の貯穀取調書上帳によると籾47石6斗2升8合であった。
【高札場跡】
幕府からの命令を板の札に墨で書いて掲示した場所で、幕府の権威を人々に認識させる役割を果たしていた。
文化3年の記録によると、その大きさは高さ2間余、長さ3間、横7尺であった。
【問屋場跡】
問屋場は、人馬継ぎ立ての駅務を行う事務所であり、問屋、年寄、帳付け、馬差しのものが常勤していたが、交通量の多い時は、名主等の台ヶ原村役人が手伝っていた。
天明6年の記録に、敷地は間口7間、奥行き28間の196坪、建坪は56坪で貨客の多いときは、旅籠としても利用されていたと記されている。この問屋制は、慶應4年に廃止された。
平成16年10月吉日 台ヶ原区
【お茶壺道中と当社の由来】
お茶壺道中は、江戸幕府3代将軍家光の寛永10年から毎年4月中旬、京都の宇治に採茶使を派遣して、将軍家御用達の新茶を茶壷に納封して、江戸城へ運んだ行列である。
行列の往路は東海道であったが、帰路は中山道を経て甲州街道へ入り、谷村勝山城の茶壷蔵に収蔵して、熟成後の秋に江戸城に搬入されていた。このお茶壺行列は権威が高く、御三家の大名行列さえも道を譲らねばならないほど格式の高い行列であった。
資料によれば、このお茶壺行列は、中仙道奈良井宿や下諏訪宿に逗留後、当田中神社に宿泊したと記録されている。甲斐国志には「此ノ拝殿昔時ハ毎年御茶壺一泊ノ処ナル故ニ修造料トシテ金拾両宛二度拝領セリ、慶安五年六月ノ立札ノ写ニ御茶壺毎年当社拝殿御一泊候間拝殿並ニ御番所柱壁等落書一切仕ル間敷候」とあり、また「御茶壷通行ノ停マリシハ元禄三年ナリト見タリ」と記されている。故に当社は、お茶壺道中とゆかりがあり、由緒ある神社である。
平成16年10月吉日 台ヶ原区
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| 16:00 |
梅屋旅館
冷えきった身体にお風呂が最高のご馳走。
更に夜は名物の「桜肉」(馬の刺身)が2人前も供された。
ヒ・ヒーン!明日からは元気に歩けるに違いない。良かった!
厚さ20センチほどにもなる何重もの掛け布団で爆睡。
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鈴屋旅館の夕食
予約客のキャンセルで桜肉(右の大皿)を2人前も提供された。確かに桜肉は美味いけど、「馬を生で食う」ことに抵抗を感じる。
我が残りの人生で「桜肉」をもう2度と食べなくても悔いはないな。きっと。 |
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