【甲州街道】

甲州街道(江戸時代は甲州道中と呼ばれていた)は徳川家康が制定した五街道(東海道、中山道、甲州道中、奥州道中、日光道中)の中でも地味な存在であるが、小仏峠・笹子峠を越え、韮崎の七里岩絶壁を遠望し、造り酒屋を堪能し、諏訪湖を眺めて中山道の下諏訪宿へ55里219km四十四次の道中。 3軒の本陣建物が残っており、遺跡・遺構も結構多い。 景色の良さも見逃せない街道である。

第8日目
台ヶ原→白州→教来石宿→金沢(→自宅)

月 日; 2010年2月8日(月)、天気;曇、後晴れ
区 間; 台ヶ原ー白州ー教来石宿ー金沢(青柳)
時 間; 7時間13分
費 用; 合計10,790円
旅館代(鈴屋旅館)7,000円、ドリンク100円、昼食(菓子パン2個、ドリンク1本)320円、交通費(JR青柳=高尾)2,190円、ラーメン650円、京王線(高尾=つつじヶ丘)330円、バス200円
歩 数;

35,171歩


台ヶ原・梅屋旅館(江戸時代から続いている旅館、北巨摩郡白州町白須109、電話0551-35-2108)は「街道ウォーカー」がよく泊まる宿である。
可愛い80歳になるという女将さん(=下の写真)が一人で切り盛りしていた。
三代前のおじいちゃんがかなりプレーボーイだったという。亡くなった母の話では、そのお爺ちゃんは小柄で良い男ぶりだったという。「寺銭」について面白い話を聞かせてくれた。
梅屋旅館の主人。江戸時代から続いている旅館の女主人。とても親切だった。
08:20 梅屋旅館発
曇、吐く息が白くなる。南アルプスが近い。寒い、とても寒い。
昨夜いただいた2人前の桜肉のせいか、何だか元気が出る、ような気がする。ファイトーッ!
<南アルプス・甲斐駒ケ岳> <台ヶ原宿>
08:50

武田神社
ブドウ畑の中に神社がある。
寒い、特に手が冷たい。手袋するとカメラがとても扱いにくい。

<ブドウ畑の中にある「武田神社」> <遠くに雪を被った南アルプス山脈>
08:55

白須松林址
反対側に甲斐駒ヶ岳がそびえている。

<白須松原の址碑>
  【白須松原の址碑】
 平安時代(794年〜)頃からこの地にはすばらしい松林が約4キロメートルにわたって続き、白須松原、また茸の産地として京にまで知られていた。惜しくも昭和十年代につごうにより伐られてしまった。

  【宗良(むねなが)親王歌碑
 鎌倉時代末期の1331年から、室町時代の1392年まで、日本には二人の天皇が在位し、南朝と北朝に分かれて争っていた。
 南朝方の征東将軍宗良(むねなが)親王は、甲斐の国(山梨県)の武将たちを味方につけようと、駿河の国(静岡県)から入ってこの地まで来たが、味方につく者はなく,松のかげで野宿し寂しく信濃の国(長野県)佐久地方へ向かわれた。その時詠まれた歌を歌碑として大正11年菅原村が建立したものである。

   「甲斐に志らすといふ松原のかけにしはしやすらひて

   かりそめの行きかいちとはきましかと

   しざや志らすにまつ人もなし」

     平成11年5月20日   白洲町教育委員会

09:07 句碑
09:12 石碑
09:15 前沢上交差点
ここで国道20号線と合流する。
この付近より甲斐駒ヶ岳が左後方になる。寒い、帰りたい。ファイトーッ!
09:18 サントリー・白州製樽工場
少し先にサントリー白州工場がある
09:20

20号と分かれる。
左の20号線を約1km進むとサントリー白州工場である。

09:30 松原常夜灯
09:40

常夜灯
荒田に入る。

09:50 教来石宿に入る
ここから教来石宿へ <明治天皇小休所跡>
10:05

諏訪神社
下教来石22番

10:07

明治天皇田植址
周辺を見てもそれらしい田んぼは見あたらない。

10:15 上教来石
10:20 御膳水跡
10:25

国道20号線へ出る。
直ぐに旧道に入る。

国道20号線の脇に置かれた「石仏群」
10:35  山口の関所跡
<山口の関所址>
町指定文化財(史跡)
       【山口関所跡】

                                 所在地    上教来石1359
                                 管理者    白須町長
                                 指定年月日 昭和48年12月1日

 甲州24カ所の口留番所の一つで、信州口を見張った国境の口留番所である。
 ここがいつ頃から使用されたかは不明であるが、天文10年(1546)の武田信玄の伊那侵攻の際設けられたという伝承がある。「甲斐国志(1814)」によれば、番士は2名で近隣の下番の者2名ほどを使っていた。当時の番士は二宮勘右衛門・名取久吉で名取氏は土着の番士であったが、二宮氏は宝永2年(1705)に本栖の口留番所から移ってきた。
 この番所の記録に残る大きな出来事に、天保7年(1836)郡内に端を発した甲州騒動の暴徒がこの地に押し寄せた折、防がずして門扉を開いた判断をとがめられ、番士が「扶持召し上げられ」の処分を受けたことである。番士のうち二宮氏は再び職に戻り、明治2年番所が廃さられるまで勤め、明治6年に設けられた台ヶ原屯所の初代屯所長に起用されている。
 今は蔵一つを残し地割にわずかなおもかげを留めるのみであるが、番所で使用した袖がらみ、刺股、六尺棒などの道具が荒田の伏見宅に残り、門扉1枚が山口の名取氏宅に保存されている。

10:50

新国界橋(釜無川)
県境。この橋を渡ると長野県に入る。

<山梨県と長野県の県境>
11:00 下蔦木交差点
小淵沢ICへの分岐
11:05 合流地点の道しるべ
  【三つ辻柳由来】

   川路下りよか逸見路にしよか
   いっそ蔦屋に泊まろうか
     ささ泊まろうか
   ここが思案の三つ辻柳
   蔦木日暮れて道三里
   さってもどうしよう道三里

 下蔦木小唄の1節です。ここに詠われた、三つ辻柳のモデルとなったしだれ柳の古木が甲州街道の此処堂坂の登り口にありました。
 それは情趣ゆたかな大木で敬冠院の百日紅、椿とともに住民からたいそう貴ばれ親しまれておりましたが樹勢次第に衰え強風の折りついに倒伏してしまいました。。
 以来60年程経た今日ありし日の堂坂の三つ辻柳の景観を偲び後生に伝えるよすがにと此処に植樹をした。

         平成21年3月20日 島蔦木集落組合  枝垂れ柳寄贈  進藤義一

11:07

真福寺
たいそう立派なお寺。何だかご利益がありそうなので門前から礼拝だけはしておく。

<真福寺>
11:15

応安の古碑
ここの手前の道路工事で道を間違えそうになる。

11:20 蔦木宿(=江戸より43番目の宿場)
<蔦木宿本陣跡>
  【蔦木宿の由来】

 甲州街道は江戸を起点をする五街道の一つ慶長15年(1610)江戸の日本橋から信州下諏訪まで凡56里(約219km)の路程として完成された。道中には45カ所の宿があり、蔦木宿は43番目(45里30丁)
 栂柿の並木、昔と今そして浪漫の宿、蔦木宿の上と下に枡形道路があり街道を開設した幕府の目的は軍事性にあったと思料される。 
 中山道との文化の交流にも貢献されている。
 本陣、脇本陣の他に、
 一般の旅人の宿屋15戸内、大10戸、小5戸
 問屋場2戸、駄馬25頭、人足25人、
 戸数105戸、人口508人(男233人、女275人)

    平成18年7月吉日   元気を出すぞ蔦木宿の会 建立

11:25

三光寺
べらぼうに立派なお寺
杉の木も大きい。暑くなってきた。

<三光寺>
12:20 机。変わった名前の地区だ。
12:25 町立落合小学校
12:27 瀬沢神社の常夜灯、やたら大きい。
<瀬沢神社>
やたら大きい常夜燈 これもやたら大きい石碑
12:37

尾片瀬神社
この付近、間違いやすい。

<重修一里塚>
これほど見事に昔の面影が残る一里塚は久しぶりに見る。
13:10

重修一里塚
昔からの面影が残る。
この付近、標高950m
前方左手に入笠山もスキー場が見える。誰もいない、寒いー、ファイトッー!

<重修一里塚付近>
前方の山は入笠山。スキー場が見える。大勢の人が滑っている。旧甲州街道は雪で覆われている。
13:25

原の茶屋
何もない。寒い、帰りたい、ファイトッー!

<これも旧甲州街道だ!>
11:35

名取の一里塚
見つからない。移動していた。
明治天皇御膳水跡

13:50 神戸
入口
右の常夜燈の脇に明治天皇御膳水跡があったが、その日、寒くてちょっと飲む気にはなれない。 <神戸の庚申塚>
14:05

御射山庚申塚
国道20号線と合流。

14:10

博愛の石碑
馬鹿でかい石碑
この付近ではやたら馬鹿でかいものが目につく。
この付近の標高902m

14:20 神戸八幡神社
<神戸八幡神社>
14:30

馬頭観音
桜肉の本場のせい?たくさんの馬の供養塔が立っている。

これ全て馬頭観音、全て桜肉用の供養・・・・?そんな訳ないな。
14:35 御射山神戸の一里塚
珍しい両側ともに残っている。初めて見る。
重修のそれと同じく、昔の一里塚の形を鮮明に残している。
<神戸八幡神社>
富士見町指定史跡【御射山神戸の一里塚】

 関ヶ原の合戦に勝利した徳川家康は、江戸を政治の中心とするため、慶長7年(1602)に江戸と地方を結ぶ幹線道路として五街道を定めた。甲州街道(道中)はその一つで、最初は甲府までであったが、慶長15年ころになって下諏訪(中山道)まで延長整備された。
 街道には、往来する人々のために宿場や一里塚が設けられた。一里塚は道中の目安のため1里(約4キロメートル)ごとに街道の両脇に盛られた塚で、大きさは5間(約9メートル)四方といわれ、そこにケヤキやエノキなどが植えられた。
 この一里塚は集落の北はずれにあって、江戸の日本橋から48里め(49里との説もある)の塚であるといわれ、明治中頃までその役割を果たしていた。道路の東塚にはエノキが、西塚にはケヤキが育っていたが、東塚のエノキは明治初期に枯れてしまったという。
 残っている西塚のケヤキは、塚がつくられた慶長年間に植えられたものと推定され、樹齢はおよそ380年を数える。現在では目通り高で幹の太さが周囲6・9メートル、樹高は約25メートルの巨木となり、永い歳月と風雪にたえて堂々たる風格をそなえ、樹勢もなおさかんである。
 甲州街道でこのように塚・ケヤキとも往事のものが保存されている例は他になく、実に貴重な存在である。

  平成10年3月   富士見町教育委員会

14:45

SEIKOのスポーツクラブ
山の中に突然、大きな建物が現れた。

15:00

金沢宿
庚申塔

<庚申塔>
15:05

国道20号線と合流
今日の歩きはここまでとする。
近くに「上町公会所前」のバス停がある。
ここからJR青柳駅へ向かう。

15:15

JR青柳駅
近いので助かる。15分後には高尾行きに電車が来る。

<無人駅。寒く、さびしい>
15:33

JR青柳駅発「立川行き」
いつものように電車の振動が身体にとても気持ち良い。

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