| 10:40 |
自宅を出発。遅い、とても遅い出発となった。
曇り。湿気が多く、今年一番の暑さになる予想。
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| 11:30 |
日本橋
橋の袂、通行人に見られないように物陰で半ズボンに着替える。もう昼に近い。
中山道の目的地は東海道と同じく京都・三条大橋。
日本橋からは東海道の進行方向(品川方面)に背を向けて一旦、北の方向(神田方面)に向って出発。
ファイトーッ! |
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【日本橋之驛;木曾街道六拾九次 雪の曙
天保6- 8年(1835-1837年)、渓斎英泉筆
中山道への第一歩は、日本橋北詰から。
東海道を行くなら南詰からスタート。
中央の唐傘の「池仲」「伊勢利」は板を引きついだ版元。初手は、「霊巌島」「竹内」だった(広重の『東海道五十三次』 を企画した版元の一つ)。
「日本橋」は「木曽街道六十九次」(全70景71点)の第1景。英泉は木曽街道の旅の第一歩をあらわすため、江戸橋を望む東向きの構図を描いている。川の左岸は魚河岸で、大きなマグロを天秤で担いで橋を渡ろうとしているのは魚屋であろう。日本橋は江戸庶民の中心地で、その雑踏ぶりがあらわされ、雪晴れの中、真っ赤な朝日が昇るにつれ、その輝きを増してくる。
◎日本橋 東京都中央区
「日本橋」は、四代綱吉の時代に基幹街道に定められた五街道の起点である。橋を東から西に渡って向かう街道が「東海道」、西側から東へ渡れば「中山(仙)道」で、「木曽街道」は別名。現在は「木曽路」にその名残を残す。江戸日本橋から京都三条大橋までを69の宿場で結ぶ、全行程約135里2町(約534キロ)の街道である。「次」とは「宿る」「泊まる」という意味である。
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| <日本橋のド真ん中に埋め込まれた「日本国道路元標」> |
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【日本橋】
日本橋がはじめて架けられたのは徳川家康が幕府を開いた慶長8年(1603)と伝えられています。幕府は東海道をはじめとする五街道の起点を日本橋とし、重要な水路であった日本橋川と交差する点として江戸経済の中心となっていました。橋詰めには高札場があり、魚河岸があったことでも有名です。幕末の様子は、安藤広重の錦絵でも知られています。
現在の日本橋は東京市により、石造二連アーチの道路橋として明治44年に完成しました。橋銘は第15代将軍徳川慶喜の筆によるもので、青銅の照明灯装飾品の麒麟は東京市の繁栄を、獅子は守護を表しています。橋の中央にある「日本国道路元標」は、昭和42年に都電の廃止に伴い道路整備が行われたのを契機に、同47年に柱からプレートに変更されました。プレートの文字は当時の総理大臣佐藤栄作の筆によるものです。
平成10年に照明灯装飾品の修復が行われ、同11年5月には国の重要文化財に指定されました。装飾品の旧部分の一部は中央区が寄贈を受け、大切に保管しています。
中央区教育委員会
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| 11:50 |
今川橋跡
サラリーマンの昼休み時間が始まった。
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| 11:55 |
JR山手線・神田駅
神田駅前のガード下のこの道路が中山道とは知らなかった。 |
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<JR神田駅のガードレール>
ここから国道17号線を進む
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| 12:00 |
須田町交差点。「靖国通り」を通過、ここから17号線になる。 |
| 12:05 |
昌平橋手前(旧交通博物館)で重油漏れの交通事故が発生していた。
国道17号線は人を含め全面通行止めとなる。
街道歩きの初日から足止めを食う。
警備の婦人警官に「どこまで・・・・?」と聞かれ「京都まで」と返事。「車ですか?」と聞かれ「歩きです!」と答えると「エッ・・・・?」と婦人警官は絶句。
17号線への迂回路を教えられる。
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| 12:15 |
神田明神下交差点
ここで左折する。ゆるい上り坂が続く。
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| 12:20 |
神田神社
これが有名な江戸を代表する神社の一つ。両側のビルが迫っている
両側のビルに圧倒され、肩身をすぼめ、実に息苦しそうにしている。
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| <神田神社> |
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| 12:30 |
本郷2丁目交差点
昼飯のサラリーマンが多い。
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| 12:35 |
本郷3丁目交差点 |
| 12:45 |
東大赤門前
場所がらこの付近には古本屋が多い。やたら喉が渇く。
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| <東京大学校門>
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| 12:47 |
法真寺 |
| 12:55 |
追分一里塚
東大農学部前の「高崎酒店」の脇にひっそりと「追分一里塚」の看板が立っている。
注意していないと見落としてしまう。それらしい痕跡は何もない。
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【追分一里塚跡】(区指定史跡)
文京区向丘1−1
一里塚は、江戸時代、日本橋を基点として、街道筋に1里(約4km)ごとにもうけられた塚である。駄賃の目安、道程の目印、休息の場として、旅人に多くの便宜を与えてきた。
ここは、日光御成道(旧岩槻街道)との分かれ道で、中山道の最初の一里塚があった。18世紀中頃まで、榎が植えられていた。度々の災害と道路の拡張によって、昔の面影をとどめるものはない。分かれ道にあるので、追分一里塚とも呼ばれてきた。
ここにある高崎屋は、江戸時代から現代まで続く酒店で、両替商も兼ね「現金安売り」で繁盛した。
ー郷土愛をはぐくむ文化財ー 文京区教育委員会
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| 13:15 |
東洋大学前 |
| 13:25 |
千石駅前 |
| 13:38 |
JR巣鴨駅前 |
| 13:40 |
江戸六地蔵尊 |
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【ほうろく地蔵】
「八百屋お七」に因む地蔵尊。天和2年(1682)におきた天和の大火の後、恋仲になった寺小姓恋しさに放火の大罪を犯し、火あぶりの刑を受けた「お七」を供養するために建立されたお地蔵様である。
寺の由来書によると、お七の罪業を救うために、熱したほう烙(素焼きのふちの浅い土鍋)を頭にかぶり、自らの焦熱の苦しみを受けたお地蔵様とされている。享保4年(1719)に、お七供養のために、渡辺九兵衛という人が寄進したといわれる。
その後、このお地蔵様は、頭痛、眼病、耳・鼻の病など首から上の病気を治す霊験あらたかなお地蔵様として有名になった。
お七が天和の大火の時に避難し、墓もある円乗寺はすぐ近くにある。
東京都文京区教育委員会 |
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| 13:45 |
巣鴨地蔵通り商店街
有名な、お年寄りの原宿と呼ばれる「巣鴨商店街」は中山道であった。
今日もお年寄りでにぎわっている。例によって石のお地蔵を大勢の人がゴシゴシと磨いている。肩や首が磨り減っている。
これが人間なら全身、血だらけ、肩や背中の骨がむき出しになっている。 |
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| <巣鴨とげぬき地蔵尊> |
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| 14:00 |
庚申塚交差点
とげぬき地蔵尊通りの出口
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| 14:08 |
掘割交差点 |
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ここから間もなく平尾の一里塚付近で近藤勇が処刑された。
近藤勇の墓がある。
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| 都電・荒川線「庚申塚駅」 |
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| 14:20 |
埼京線・板橋駅 |
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板橋宿
この付近では何となく古い街道の雰囲気が感じられる。
商店街が続く。ミニトマトと昼食にマクドナルドのクォーターパウンドマックセットというのを食べる。ジャリジャリの氷入りコーラのその美味いこと。
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【木曾街道;板橋之驛(渓斎英泉画)
天保6- 8年(1835-1837年)、渓斎英泉筆
画面の左端、道の中央に「是從板橋(これより いたばし)」と記されているであろう傍示杭が建っている。中央より若干左手に見える姿のよい旅人は武家の夫婦で、1人の使用人が後に続く。その使用人は、乗っていくよう武家夫婦に声掛けすべく出茶屋から飛び出してきた駕籠かきを、巧みに遮っている。使用人の体の向きから察するに、おそらく3人は茶屋で一服していたのであろう。休憩後の出ばなの誘いを駕籠かきは振り切られてしまったように見える。しかし、武士の妻は声に応えてか頭の向きを変えている。駕籠かきが客をのがしたかどうかはまだ分からない。茶屋の中には客の町人2人がいて、榎(えのき)の陰に隠れて見えないが、飲み食いしているはずである。また、店先では馬子が馬のための草鞋を取り替えている。板橋宿(いたばし-しゅく)は、日本の近世にあたる江戸時代に整備され、栄えていた宿場町。 中山道六十九次のうち江戸・日本橋から数えて1番目の宿場[4](武蔵国のうち、第1の宿[5])。 同時に、川越街道(川越・児玉往還)の起点でもある。
◎板橋宿 東京都板橋区
日本橋から板橋宿までは約9・8キロ。天保12〜15(1841〜44)年の人口は2488人、総戸数573軒、本陣1軒、脇本陣3軒、旅籠54軒であった。日本橋を発し、巣鴨の棘抜き地蔵の前を過ぎると、この絵の庚申塚になる。現在の都電荒川線「庚申塚駅」である。この先、三軒家を通り板橋宿に達する。石神井川に架かる「板橋」が地名の由来である。 |
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<板橋宿>
今でも石神井川にかかるコンクリート製の「板橋」がある。 |
<志村の古い商店街>
この店で焼き鳥を買う。ウマイ! |
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【板橋】
この橋は板橋と称し、「板橋」という地名はこの板橋に由来するといわれています。
板橋の名称は、すでに鎌倉から室町時代にかけて書かれた古書の中に見えますが、江戸時代になると町名となりました。そして昭和7年に東京市が拡大して板橋区が誕生した時も板橋の名称が採用されました。
板橋宿は、南の滝野川村境から北の前野村境まで20町9間(約2・2km)の長さがあり、この橋から京寄りを上宿と称し、江戸寄りを中宿、平尾宿と称し、3宿を総称して板橋宿と呼びました。板橋宿の中心は本陣や問屋場、旅篭が軒を並べる中宿でしたが、江戸時代の地誌「江戸名所図会」の挿絵から、この橋周辺も非常に賑やかだったことがうかがえます。
江戸時代の板橋は、太鼓状の木製の橋で、長さは9間(16.2m)、幅3間(5.4m)ありました。少なくとも寛政10年(1798)と天保年間の2度修復が行われたことが分かっています。近代に入ると、大正9年に新しい橋に架け替えられましたが、自動車の普及に対応するため、昭和7年に早くもコンクリートの橋に架きかえられました。現在の橋は、昭和47年に下を流れる石神井川の改修工事の際、新しく架けかえられたものです。
板橋区教育委員会 |
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| 15:00 |
板橋
「距 日本橋二里二十五町三十三間」(日本橋から一四千六百四十二米)と書かれた支柱。
肉屋の表で美味そうな焼き鳥を売っている。もつ焼きを1本だけ購入。客の40歳代の男性から「どちらから?」と聞かれたので「日本橋から」と答えると「ホーッ」と感心してくれる。
ついでに「これから京都まで歩きます!」と答えると「スゴイ!」って云ってくれる。やったね!
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【縁切榎】
中山道板橋宿の薄気味悪い名所として旅人に知られていたのがこの縁切榎である。いつの頃からか、この木の下を嫁入り・婿入りの行列が通ると、必ず不縁になるという信仰が生まれ、徳川家に降嫁の五十宮・楽宮の行列はここを避けて通り、和宮の折には榎をコモで包み、その下を通って板橋本陣に入った。 この伝説の起こりは、初代の榎が槻の木と並んで生えていたため「エンツキ」と言われ、所在地である岩の坂を「イヤナサカ」としゃれ、これを縁切りに通わせたとする説と、富士に入山した伊藤身禄がこの木の下で妻子と涙の別れをしたからとする説がある。
現在の榎は三代目であるが、この木に祈ると男女の縁が切れるという信仰は今でも続いている。
板橋区教育委員会
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【縁切榎】(板橋区登録文化財)
江戸時代には、この場所の道をはさんだ向かい側に旗本近藤登之助の抱屋敷がありました。その垣根の際には榎と槻の古木があり、そのうちの榎がいつの頃からか縁切榎と呼ばれるようになりました。そして、嫁入りの際には、縁が短くなることをおそれ、その下を通らなかったと言います。
板橋宿中宿の名主であった飯田侃家の古文書によると、文久元年(1861)の和宮下向の際には、五十宮などの姫君下向の例にならい、榎をさけるための迂回路がつくられています。そのルートは、中山道が現在の環状7号線と交差する辺りから練馬道(富士見街道)、日曜寺門前、愛染通りを経て、板橋宿上宿へ至る約1キロメートルの道のりでした。
なお、この時に榎を菰(こも)で覆ったとする伝承は、その際に出された、不浄なものを筵(むしろ)で覆うことと命じた触書の内容が伝わったものと考えられます。
男女の悪縁を切りたい時や断酒を願う時に、この榎の樹皮を削ぎとり煎じ、ひそかに飲ませるとその願いが成就するとされ、霊験あらたかな神木として庶民の信仰を集めました。また、近代以降は難病との縁切りや良縁を結ぶという信仰も広がり、現在も板橋宿の名所として親しまれています。
平成18年3月 板橋区教育委員会
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| 15:45 |
志村の一里塚
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| <志村の一里塚>とても立派な「一里塚」が残っている。一里塚の右は国道17号線。 |
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【志村一里塚】
江戸に幕府を開いた徳川家康は、街道整備のため、慶長9年(1604)2月に諸国の街道に一里塚の設置を命じました。これにより、5間(約9m)四方、高さ1丈(約3m)の塚が江戸日本橋を基点として1里(4km弱)ごとに、道を挟んで2基ずつ築かれました。
志村の一里塚は、本郷森川宿、板橋宿平尾宿に続く中山道の第3番目の一里塚として築かれたもので、天保元年(1830)の「新編武蔵風土記稿」では「中山道往還の左右にあり」と紹介されています。
今日、現存する一里塚は全国的にみて非常にまれなもので、都内では北区西河原と志村の2箇所だけです。大正11年(1922)に国の史跡に指定され、昭和59年に板橋区の史跡に登録されました。 |
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| 16:25 |
荒川・戸田橋 |
| 16:15 |
戸田市。ここから埼玉県に入る。 |
| 17:05 |
蕨宿 |
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江戸時代、埼玉県内には五街道のうち、中山道と日光道中が通り、日光お成り道や多くの脇街道が通っていました。
中山道は、江戸日本橋から近江国(滋賀県)、守山宿までの67宿の街道で近江国草津宿で東海道と合流し、京都三条大橋に向かい、江戸と京都・大阪を結ぶ幹線道路として創設されました。
蕨宿は、この中山道にあり、江戸日本橋から数えると2つ目の宿場で、67宿のうちでも5指に入る大宿場として栄え、埼玉県では最初の宿場でした。 |
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| 17:15 |
蕨郵便局 |
| 17:20 |
蕨宿本陣跡 |
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【木曾街道 蕨之驛;「戸田川渡」(渓斎英泉画)】
天保6- 8年(1835-1837年)、渓斎英泉筆
蕨宿(わらび-しゅく)は、日本の近世にあたる江戸時代に整備され、栄えていた宿場町。 中山道六十九次のうち江戸・日本橋から数えて2番目の宿場(武蔵国のうち、第2の宿)。
所在地は、江戸期には東海道武蔵国足立郡蕨郷(上蕨村、および、下蕨村)と称(「蕨市#歴史」も参照)。 現在の埼玉県蕨市中央5丁目から錦町5丁目までがこの地域にあたる。
◎蕨宿 埼玉県蕨市
板橋宿から蕨宿まで約8・9キロ。天保14(1843)年の人口は2223人、総戸数430軒、本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠23軒、問屋場1ヵ所、高札場1ヵ所であった。「戸田の渡し」は荒川を戸田橋より100メートル程下流にあり、今の蕨市である。荒川を往来する物資の中継地として、また綿織物の産地として栄えた。
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| <蕨宿本陣跡> |
高架道路の下にある一里塚 |
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【蕨宿本陣】
蕨宿は江戸時代に中山道第2の宿駅として栄えたところである。
慶長11年(1606)蕨城主渋川公の将佐渡守岡田正信の子息正吉が初めて蕨宿本陣問屋名主の3役を兼ねたと伝えられる
その後その役は子孫に受け継がれ明治維新まで続いた。蕨本陣の建物は今は同家に残る本陣絵図面などによって知る外はないが公家大名などが休泊し、文久元年(1861)皇女和宮が御降嫁の折にはご休息の場となり、ついで明治元年(1868)同3年には明治天皇の大宮簸川神社御親拝の際の御小休所となった。
現在、岡田家には古文書記録歴史的な遺品などわが国近世交通史の研究に重要な資料が多数保存されている。 蕨市教育委員会 |
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| 17:50 |
辻二丁目交差点。ここに一里塚の址(上の写真) |
| 18:10 |
焼米坂
約10メートルほどの上り坂、ここからダラダラとした坂が続く。道が狭く、自動車の交通も結構多い。 |
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「焼米」はここにあった茶店の名物で、焼き米と言うのは、籾のまま米を焼き、それを搗いて殻をとったもの。米の古い食べ方で備蓄食の一種。そのまま食べられるが、煎り直したり、湯に浸して食べる。おそらく旅人の携帯食になったであろう。
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<焼米坂>
古い面白い地名が残っている
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| <調(つき)神社> |
<街道筋に残る古い民家> |
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| 18:25 |
調(つき)神社。もう薄暗い、くたびれた。 |
| 18:30 |
浦和西口交差点
浦和宿
今日はここまでとする。 |
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【支蘇路ノ 驛;浦和宿「浅間山遠望』(渓斎英泉画)】
天保6年(1835年)、渓斎英泉 画。
絵師が選んだのは蕨宿から浦和宿へ向かう途中にあって名物の焼き米を食べさせる立場茶屋である。右手の丘陵で鳥が一啼きでもしたか、歩きながら揃って視線をやる2人の旅人(武士とその使用人)がいるが、進む先には焼き米売りの茶屋が待っている。旅の道すがら腹の足しになる携帯保存食は買っておいて損は無い。さらに行くと用川路に架かった板張りの太鼓橋があり、その奥に遠く小さく建ち並ぶ浦和宿の家々が望める。左手遠方に描かれた浅間山は噴煙をたなびかせている。その手前、今一度近景に目を戻せば、荷駄を運ぶ馬子と、後ろに付いて馬糞を掻き集める子供がいる。男は馬子唄を歌っているのであろうか
◎浦和宿 埼玉県さいたま市
蕨宿から浦和宿まで約5・5キロ、現在の北浦和駅の南側辺りである。浦和宿は幕府直轄領(天領)であった。天保14年の人口は1230人、総戸数273軒、本陣1軒、脇本陣3軒、旅籠15軒、問屋場1軒、高札場1軒、自身番1軒であった。浦和宿は2と7のつく日に市が開かれ「六斎市」と呼ばれ賑わっていた。蕨寄りにある調(=つき)神社はその昔、年貢を集積した場所と言われる。 |
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【浦和宿】
江戸から3番目の宿。天保14年で人口1230人、家数273軒。本陣1、脇本陣3、旅籠15軒。
本陣は星野家が勤め、その本陣跡は現在仲町公園となっている。 |
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| 18:45 |
JR浦和駅発
今日は今年一番の暑さだった。
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