| 06:23 |
自宅発 曇り
沖縄地方を台風が通過中。空はドンヨリとしてこの時間で蒸し暑い。
大台の年齢になって始めての街道歩き。
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| 06:35 |
つつじヶ丘
この時間、既に電車は混んでいる。いつもの通り、何だか気恥ずかしい気分。
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| 07:37 |
JR新宿駅発 湘南新宿ライン・籠原行き
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| 08:55 |
籠原駅終点、ここで乗り換え |
| 09:16 |
籠原駅発
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| 09:55 |
高崎駅着、ここで更に乗り換え |
| 10:23 |
高崎駅発 横川行き
ローカル線ではどうにも不便だ。嬉しいことに電車はボックス・シート。
乗客の1/3は立っている。驚いたことに、この電車はとても混んでいる。
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| 10:34 |
JR安中駅着。自宅を出て約4時間で着いた
大きな子供たち(高校生かな?)が集まっている |
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【木曾街道;六拾九次 安中(歌川広重画)】
安中宿(あんなかしゅく)とは、中山道六十九次のうち江戸から数えて15番目の宿場。
場所は現在の群馬県安中市、JR東日本安中駅の真西方向、碓氷川と九十九川に挟まれた台地上に安中宿があった。また、駅北東側・碓氷川南岸にも安中中宿と呼ばれる宿場町が存在していた。
天保14年(1843年)の『中山道宿村大概帳』によれば、安中宿の宿内家数は64軒、うち本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠17軒で宿内人口は348人であった。
最寄り駅;JR安中驛 |
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| <JR安中駅> |
<昔から駅前にある東邦亜鉛工場> |
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| 10:40 |
中山道歩き始め
気温33度、蒸し暑い。安中駅前には昔から東邦亜鉛の大きな精錬所がある。
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| 10:45 |
久芳橋手前
川岸では多くの草野球が展開している。
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| <柳瀬川を渡る> |
<河川敷には野球場が広がっている> |
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| 11:00 |
熊野神社参道 |
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| <熊野神社参道入り口> |
<大泉寺> |
| この辺りは安中城東門があったとされるポイント。神社左手の「大ケヤキ」は樹齢推定1000年という老木、雷で多くが崩れ落ちたが、補強され今も逞しく生き続けている。 |
ここには、徳川家康の四天王の一人に数えられる井伊直政の正室唐梅院(東塔)等、井伊家所縁の五輪塔が残る。また、群馬に和算を芽生えさせた永山義長の墓もある。 |
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| 11:10 |
大泉寺
門前に庚申塔
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| 11:20 |
旧碓氷郡役所とキリスト教会
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| <旧碓氷郡役所> |
<安中教会> |
旧碓氷郡役所・安中市指定重要文化財
所在地 安中3丁目21−51
廃藩置県後の明治11年(1878)に郡区町村編制法が交付された際に群馬県内に17郡が設置された。当初は旧本陣・須藤家を利用していたが、明治21年(1888)に現在の場所に洋風の新庁舎が完成した。現在の建物は新庁舎が火災で失われた翌年の明治44年(1911)に完成したものである。そのときに安中杉並木10本が外壁の腰板の建材として使用されたという。
大正12年(1923)に郡制が廃止されたときの構成町村数は6町12村であった。郡役所としての機能を終えた後は、碓氷郡農会、碓氷地方事務所、安中農政事務所などを経て昭和49年に群馬県より安中市に移管された。平成8−9年度で修復工事が行われた。 |
安中教会
群馬県で最初に建てられた教会は、日本人により創立された日本最初の教会でもある。安中教会と関連施設は2004年、登録有形文化財となっている。 |
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| 11:45 |
旧安中落武家長屋 |
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| <旧安中藩武家長屋> |
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旧安中藩武家長屋 安中市指定重要文化財
所在地 安中3丁目6−1
安中城内には家臣の屋敷が百数十軒あったが、これはそのうちのひとつで4軒長屋である。すぐ東、現在の郡奉行役宅との間には5軒長屋があったがそちらは現存していない。4軒長屋のうち3軒分だけが現存していたのを、平成3年〜4年にかけて小野直(おの・ちょく)の残した図面を元に4軒長屋として復元された。 |
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| 12:00 |
便覧舎址
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<便覧舎址>
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<安中大木戸址> |
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便覧舎跡(べんらんしゃあと)・安中市指定史跡
所在地 安中2丁目10−15
便覧舎は湯浅治郎が明治5年(1872)に創設した日本で最初の民間による図書館であると伝えられている。私費により購入した和漢の古書、新刊書籍の3千部ほどを無料で閲覧させた。同じ年に日本最初の図書館といわれる東京書籍館と京都の集書院が設立されている。新島襄が恩人であるハーディー氏に送った手紙の中には「彼(湯浅治郎)はまた無料の読書室を開いており、そこには日刊紙、週刊誌、月刊誌が、宗教的なものもそうでないものをも含めて備わっています」・・・・以下略 |
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| 12:05 |
史蹟・安中大木戸址
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| 12:10 |
新島襄先生宅入口
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| 12:25 |
杉並木入口
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安中原市の杉並木(国指定特別天然記念物)
所在地 原市字一里山地内
安中原市の杉並木として旧中山道に沿って植えられたもので、神社などの参詣道ではなく、街道に沿って植えられたものは珍しい。
杉並木がいつ植えられたかについては諸説がありはっきりしていないが、慶長9年(1604)説、元和元年(1615)説、安中藩主板倉重形(いたくら・しげかた)(在位1681〜1686)が植えさせたという説がある。実際に伐採した木の年輪からの逆算では1640年頃から1680年頃までのものがあったので、何度かに分けて植え継がれたものと思われる。
杉の数は天保15年(1844)には732本、昭和7年(1932)には321本が残存していた。その後、交通量の増加によって枯れ死が相次ぎ、昭和42年には安中側67本、原市側155本まで減ってしまった。そのため安中側の指定が同年に解除となり、43年に全てが伐採された。残る原市部分も現在は16本までに減ってしまっている。なお、指定物件ではないものの、現在では管理者の安中土木事務所によって杉の若木が植えられている。
上毛カルタに「中山道しのぶ安中杉並木」と詠われた安中原市の杉並木も既に原市部分のみとなってしまっているが、いつまでも続くよう望むものである。 |
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| 12:28 |
並木苑
昔の本陣跡のような、ずいぶんと偉そうにしている門構えの家がある
「そば蒲焼」のノボリが立っている
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| 12:35 |
杉並木の「天然記念物の石碑」
天然記念物の杉並木としては、あまりにも杉の木が少ない。
猛烈に蒸し暑い。人殺しー!
ソルダム6個を歩きながら食う、ウァーォ!青く、身の毛がよだつほど酸っぱい・・・・でも美味い。
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| 12:40 |
原市村戸長役場跡
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原市
原市は安中宿と松井田宿との「間の宿」として位置づけられていた宿場である。江戸から30里13町40間。道幅は2間半(5m弱)と狭くなっていた。寛文5年(1665年)頃の家数は41軒。それより,137年後には、家数は230軒、字八本木に36軒あった。杉は、北側に213本、南側に131本、計344本(内1本は欅・幼木は数の内になっていない)。
杉は、細かく管理され枯れると植え替えが行われていたこともあって、杉の高さは2間〜14間(3・6〜24m)とばらつきがあったようである。 |
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| 12:45 |
原市高札場跡
明治天皇小休止。堅苦しい、いかめしい説明の掲示板がある。
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【説明】
明治11年北陸東海巡幸の際9月5日御小休所となりたる所にして主要部分はよく○(=判読不能な文字)規模を存せり
注意
1.火気に注意する事
1.工作物樹木等を損傷せざる事
昭和13年5月 文部省 |
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| 12:49 |
山本有所旧宅跡
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| 13:00 |
八本木旧立場茶屋
ここは峠になっている。はるか前方に妙義の山並みが見える
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| <八本木旧立場茶屋> |
<前方にゴツゴツした妙義山、
特徴ある岩山が見え始めた> |
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| 13:28 |
村社 日枝神社 |
| 13:30 |
前方に妙義のゴツゴツした山並みが見え始める
道祖神、松井田まで2.9km
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| 13:50 |
<郷原の妙義道>と<常夜燈(下段の写真)> |
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この常夜燈は、文化5年(1808)に、地元の碓氷郡郷原村(現安中市郷原)を中心とする「妙義講」の人々が、当時、原市村(現安中市原市)に仮住まいしていた「信州伊那郡手良郷野口村向山民吉」という石工に建立させたものである。
常夜燈の路盤の四面と笠の正面には16弁の菊(八重菊)の紋章が刻まれている。また、塔身の正面には「白雲山」、東面に「文化5年戌辰4月7日」、青面に「当所講中」と刻まれている。
また台石には「是より妙義道」と刻まれており、妙義神社への参拝者のための道しるべとなっていたことがわかる。切石積みの台座には、妙義講中67名と石工の名前が刻まれている。
当時の妙義山への深い信仰心を示している。
なお、元々この常夜燈はここから東へ50メートルの中山道から妙義道への入り口にあったが、昭和60年3月に現在地に移転したものである。
安中市教育委員会 |
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| 14:00 |
松井田交差点
ここから左の国道18号へ
松井田市内へ
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| 14:20 |
松井田本陣跡
カミナリが遠くから聞こえる
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【木曾街道六拾九次 松井田(歌川広重画)】
松井田宿(まついだしゅく)とは、中山道六十九次のうち江戸から数えて16番目の宿場。
郷原をすぎて「琵琶の窪」、「逢坂」との間に、かつては「これより橋を渡って妙義へ」との道標(みちしるべ)があったらしい。 遠景は碓氷峠か。
現在の群馬県安中市松井田町にあたる。
天保14年(1843年)の『中山道宿村大概帳』によれば、松井田宿の宿内家数は252軒、うち本陣2軒、脇本陣2軒、旅籠14軒で宿内人口は1,009人であった。
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松井田宿
慶長3年(1598年)町割が完成、宿内は、南方面へ抜ける脇道の手前辺りの下木戸から不動寺辺りの上木戸まで約700m。江戸から31里35町40間。往還通りの長さ15町38間、町並みは9町8間ほど。道幅は3間半より6間半。16町家並みが続き、寛文4年(1664年)頃の家数は通り116軒、横町・裏町101軒.本陣2軒(問屋場兼)、脇本陣各2軒。定期市が開設され絹・麻布・信州米・雑穀・塩・茶の売買がされていた。特に信州から輸送される年貢米(廻米)を扱う商人宿(米宿)が6軒,輸送者のための牛馬宿なども多くあった。(以下省略) |
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| 14:40 |
阿弥陀寺
空模様があやしい
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| 15:15 |
茶屋本陣
お西、お東
とても壮大な茶屋の跡
目の前をJR信越本線、背後には上信越自動車道が近い
ここから横川方面に行く旧中山道は途中、踏み切りの無いJR信越本線の線路を横切ることになる
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| <茶屋本陣・お西> |
<茶屋本陣・お東> |
五料の茶屋本陣 お西
松井田宿と坂本宿の間、五料村に2軒隣接して設置された茶屋本陣のうち、西に位置することから「お西」とよばれる。どちらも中島家で2軒で名主を勤め、天保7年(1863)からは1年交替で名主の仕事を勤めていた。
お西は明治11年(1878)の明治天皇北陸東海御巡幸の時に休憩所となったためその時に改修が行われた。昭和48年に中島家から当時の松井田町に寄贈された後、昭和57年から約2年をかけて保存修理工事が行われて往時の姿を取り戻した。現在は一般公開されている。
建物の中は大きく3つに区分され、一番西側が茶屋本陣としての区画であり幕府の道中奉行の管轄であった。ここは大名や公家などの賓客が宿と宿の間での休息の為に用いたところであり、表の間、次の間、上段の間に分かれている。
中央は村の名主としての業務を行うための区画であり安中藩の管轄であった。北側と東側が名主の住居としての個人的な区画であった。
外見は総二階であるが、大名達の休息する上座の上部にあたる2階部分は壁で仕切られ床もなく、上に入ることはできないようになっていた。
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五料の茶屋本陣 お東
2軒の茶屋本陣はそれぞれ中島家であり、五料村の名主も勤めていた。建物は文化3年(1806)2月に大火でお西・お東ともに焼失し、その年のうちに再建されたものと推測される。お東については平成4年に旧松井田町に寄贈され、同年より保存修理工事が行われ平成7年から一般公開されている。お西が明治天皇のお小休所(おこやすみじょ)となり明治の大改造を受けたのと比べると、江戸時代の古い様式を良く残している。
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群馬県指定史跡・五料の茶屋本陣・お西
碓氷郡松井田町大字五料564番地の1
昭和33年8月1日指定
五料の茶屋本陣・お西は、江戸時代の名主屋敷であるとともに茶屋本陣でもありました。茶屋本陣は、中山道を参勤交代などで行き来する大名や公家などの休憩所としておかれたものです。
この「お西」、中島家は、16世紀末から代々名主を勤め、特に、天保7年(1836)から明治5年(1872)までは「お東」と1年交代で名主を勤めていました。
この建物は、「お東」と同年(文化3年)に建てられたもので、間口13間、奥行き7間の切妻造りで、両家の母屋の規模、平面ともほとんど同じです。
白壁造りのよく映えた屋敷構えに当時をしのぶことができ、中山道の街道交通などを知る貴重な史跡です。
群馬県教育委員会
松井田町教育委員会 |
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| 15:23 |
茶釜石 |
| 16:10 |
JR横川駅
30分前から小雨が降り出す
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<左側50m程にJR信越本線の横川駅>
昔は「峠の釜飯」で有名だった、信越線がこの駅までで廃線となり、すっかり落ち着いた(さびれた)駅になってしまった。 |
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| 16:20 |
碓氷関所跡
関所跡の階段を登るところで猛烈なふくらはぎのケイレンが起きる。こんな痛い経験は初めて、ファイトーッ!
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碓氷関所跡 群馬県指定史跡
所在地 松井田町横川乙573
江戸幕府の関東北西の守りとして、元和9年(1623)それまで関長原(せきながはら)にあった関所を移す形で横川に関所が置かれた。「入り鉄砲に出女」が厳重に取り締まられ、明治政府によって明治2年(1869)に廃止されるまでの間、中山道の最重要地点であった。
「入り鉄砲」とは、関東へ鉄砲が持ち込まれることであり、それを監視することで大名などによる武力反乱を抑える目的があった。また「出女」とは、江戸にいる大名の妻女達が密かに国元へ戻ることであり、これを制限することで人質として江戸に住まわせ、反乱を未然に防ぐ意味があった。
西の門は幕府所轄であり、東門が安中藩の所轄であった。関所破りは重罪で、死罪とされた。関所を強引に押し通るはもちろんのこと、嘘をついて通過する、関所を避けて山中を通ることも発見されれば死罪とされた。この関所を避けて山中を通る者を見張り通報することは周辺の村の役目とされた。
現在の門は、廃関後の昭和34年、長らく関係者の手により保管されていた東門の部材を用いて石段の上に復元されたものである。なお、本来の中山道の石段の下を東西に通っていて、街道を仕切るように東西に塀と関門が設けられていた。東門と西門の間は52間2尺(約92m)あったという。 |
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| 関所跡から坂本宿・碓氷峠へ向かう国道18号線と旧中山道 |
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| 16:40 |
お座す薬師堂 |
| 16:50 |
白ヒゲ神社入口 |
| 16:55 |
水神宮 |
| 17:00 |
坂本宿
下木戸跡
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【坂本宿;木曾街道六拾九次 (渓斎英泉画)】
坂本宿(さかもとしゅく)とは、中山道六十九次のうち江戸から数えて十七番目の宿場。
刎石山(はねいしやまの)が俯瞰しているような坂本宿。碓氷の関所から10丁ほど。道の中央を流れるのは馬のための用水。
現在の群馬県安中市松井田町坂本。JR信越本線横川駅から国道18号線(旧道)を軽井沢方向に2kmほど行ったところにあり、その途中に碓氷関がある。中山道有数の難所であった碓氷峠の東の入口にあたり、本陣と脇本陣合わせて4軒、旅籠は最盛期には40軒ある、比較的大きな宿場であった。
天保14年(1843年)の『中山道宿村大概帳』によれば、坂本宿の宿内家数は732軒、うち本陣2軒、脇本陣2軒、旅籠40軒で宿内人口は732人であった。 |
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坂元宿
坂本は、中山道の整備に伴い、徳川幕府の命により始まった宿場町。東(江戸口)・西(京口)ともに木戸が設けられていた。
坂本宿内はおよそ700メートル。街道の中央には堀があり、17のかけ橋があった。戸数
およそ162軒のうち、40軒ほどが旅籠であったと記録が残る。
若山牧水は
秋風や 碓氷のふもと 荒れさびし 坂本の宿の 糸繰りのうた
と、詠っています。 |
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| 17:30 |
JR横川駅前にある「東京屋」に泊まる
江戸時代から続くこの旅館には中山道ウォーカーが多く泊まっている。
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