| 01:15 |
JR下諏訪駅着、
前日の5月1日、22:00にNさんの車で東京を出発。中央高速を下諏訪まで走る。
無人の駅構内の駐車場に車を留め、持参のシュラフにもぐる。爆睡。
朝、先ずはJR下諏訪駅に自動車の駐車料を支払う。 |
| 06:05 |
JR下諏訪駅発。徒歩開始
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| 06:20 |
下諏訪宿本陣(甲州街道と中山道の合流地点)
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下諏訪町は、中山道と甲州道中の交わるところ、諏訪神社総本社の門前町であり、豊かな温泉が沸く宿場町として街道一賑わった。
諏訪大社で、7年ごと寅・申年に御柱祭りを執り行う。1200余年前、第50代桓武天皇は、この祭りに信濃一円を挙げての課役を命じたといい、今に諏訪地方全市町村が奉仕する正に天下の大祭である。
奥山から切り出した樅の巨木を、大群衆が木遣りのかけ声にあわせて曳行、社殿の四隅に建てる。途中には崖のような急坂を引き落とす「木落し」などの見せ場もあり、雄大・豪快なことは言語に絶する。
「おんばしらグランドパーク」の正面、御柱を印象づける巨木の年輪を表現したモニュメントに取り付けた曳航の男綱・女綱を、より合わせ天に伸びる形は、協力・団結・成長を、円形の広場は人の和・平和と地域の発展を表現する。(下の写真;左)
湯の町を象徴して、中央に温泉が流れ、復元した高札場と背景の格子塀がこの地の歴史と文化の面影を今に伝える。 |
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| 木曾海道六拾九次之内 下諏訪 (広重) |
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<神話と伝説 綿の湯>
諏訪大社は、上社の本宮・前宮と、下社の秋宮・春宮の総称です。
その昔、上社の地にお住まいの諏訪明神建御名方神(=たけみなかたのかみ)のお妃八坂刀売神(=やさかとめのかみ)が、日頃お使いになっておられたお化粧用の湯を綿に湿し「湯玉」にして下社の地へお持ちになりました。その湯玉を置かれた所から湧いたのがこの温泉で、綿の湯と名付けられました。神の湯ですから神聖で、やましい者が入ると神の怒りに触れて、湯口が濁ったといい、「湯口の清濁」は下社七不思議の一つに数えられています。
下諏訪宿は中山道と甲州街道中が交わるところ、全国一万余の諏訪神社総本社の門前町で、湯の湧く宿場として親しまれ街道一賑わいました。下諏訪宿の中心が綿の湯界隈です。
松尾芭蕉と門人近江国膳所藩士菅沼曲水の連歌
人込みに諏訪の湧き湯の夕まぐれ 曲水
中にもせいの高き山伏 芭蕉
「人込み」は共同浴場のこと、夕暮れの宿場の賑わいがしのばれます。
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| 06:30 |
下諏訪宿本陣発
甲州街道と中山道の合流地点
寒いがきりっと晴れている。絶好の街道日和だ |
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| 06:40 |
下諏訪駅入り口
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| 06:50 |
魁塚 |
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<史跡 魁塚(=さきがけづか)>
ここは赤報隊長相楽総三以下幹部八士その他の墓である。慶応4年正月江戸城総攻撃のために出発した東山道総督軍先鋒嚮導の赤報隊は、租税半減の旗印をたてて進んだが朝議一変その他によって賊視され明治3年同士によって墓がつくられた。名を「魁塚」として祭られた。
爾来地元では祭りを絶やさず昭和御大典には御贈位の恩典に浴した草弉として維新史の上に大きく輝く人々である。 昭和49年6月24日指定 下諏訪町教育委員会 |
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| 07:00 |
砥川
一斉に花が咲いている。この日、桜も満開だった。 |
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| <ボケ> |
<サクラソウ> |
<ムスカリ> |
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| <スイセン> |
<プリムラポリアンサ> |
<・・・・?・・・・> |
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| 07:05 |
岡谷市に入る
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| 07:17 |
旧渡辺家住宅 |
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渡辺家は代々諏訪高島藩に仕えた散居武士(城下町でなく在郷の村々に住んだ藩士)の家でした。安政年中(1854〜)の「家中分限帳」(武士の身分や禄高を記録したもの)によると、「郡方下役外様御徒士18俵2人扶持」であったことがわかります。住宅の規模は、間口7間半(約13.5m)奥行5間(約9m)で、外観は茅葺・寄棟造で内部には土間と炉の間があり、また居間に中床があります。
この住宅の創築年代については、記録や墨書などは残されていないが、南側の居間と台所の戸口が袖壁をつけた閉鎖的なものであること、柱の風蝕程度などから18世紀中ごろに建てられたと考えられます。その後、天保12年(1841)から嘉永年間(1848〜1854)にかけてのころ改築工事をして現状のような間取りになりました。現存する武士の家が全国的に数が少なくなった現在、この渡辺家は大変貴重なものです。
この一家から3人の大臣が出ており、渡辺千秋(1843〜1921)宮内大臣と、国武(1846〜1919)大蔵大臣の兄弟はこの住宅で育ち、千冬(1876〜1940千秋の三男で国武の養嗣子)は司法大臣になりました。
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| 07:30 |
道標 |
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| 07:40 |
一里塚碑(東屈)
駐車場の中
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橋戸一里塚
中山道を含む5街道の一里塚整備は、慶長9年(1604)に出された江戸府の命により大久保長安の指揮のもと行われた。江戸日本橋を起点として里(約4キロメートル)ことに街道を挟んで2基設置され、松や檜が植えられた。
橋戸一里塚は、市内に9ヶ所ある中山道一里塚のうち江戸川から8番目の一つである。
文化3年(1806)に完成した「中山道分間延絵図」には、「この辺り古往還一里塚」と記載されている。このことから、当初中山道は、奈良井川岸左岸にあり、そこに橋戸一里塚は、使われなくなったと考えられる。
この一里塚は、経路変更の経緯を示す貴重な交通史跡であり、地区住民により平成19年に修平整備が開始され、中山道の歴史をしのぶ公園として親しまれている。
塩尻市教育委員会 |
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| 07:55 |
道祖神 |
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| 08:15 |
今井本陣 |
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木曾街道 塩尻嶺 諏訪ノ湖水眺望 (英泉)
塩尻峠からの眺望。諏訪湖表面のひびは「御神渡」であろう。寒い日が4,5日と続くと突如音を立てて、氷の突堤が湖面を横切る。数年に一度、湖岸から湖岸まで数キロに渡り最高50センチもの高さの氷の道ができる。諏訪大社上社の男神が下社の女神のもとへ向かう恋の道と伝えられている。『御神渡」のあった後の湖面は頑丈で、人馬が歩いて渡った。
◎塩尻宿 長野県塩尻市
下諏訪宿から塩尻宿までは約11・5キロ。天保14年の人口は794人、総戸数166軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠75軒であった。下諏訪から贄川を結ぶ最短経路が難所続きであったため、慶長19(1614)年に洗馬宿、本山宿とともに設置された。中山道雄、伊奈街道、五千石街道、松本街道との分岐点で交通の要衝となる宿場である。中山道で旅籠が2番目に多い宿場であった。
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<旧御小休本陣>
旧今井村は、中山道塩尻峠の東の登り口にあって、古来交通上の要衝で、江戸時代には、ここに御小休本陣が設けられ、今にその旧観を残している。
中山道は江戸と京都を結ぶ裏街道として、江戸時代には、幕府の要人、尾張徳川家をはじめ、参勤交代の西国諸大名の人馬の往来も激しく、多くはこの家に御小休になった。
文久元年11月5日、皇女和宮が徳川将軍家に御降嫁の時、明治13年6月24日、明治天皇が山梨、三重、京都方面御巡幸の時、御小休になられた。
平成11年7月16日、「江戸時代の姿をほぼ継承している点が貴重である」として、主屋等11件が国の登録有形文化財に指定された。 |
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| 08:40 |
石船観音
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| 09:05 |
塩尻峠
石船からは直登に近い急な登りだった。暑くなってきた。
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塩嶺御野立(=えんれいおのだち)公園展望台
岡谷市中心部より北方5kmに位置するこの公園は、八ヶ岳中信高原国定公園内にあり、信濃の国信州でも美しい自然に恵まれた公園とされている。ここからは南方に脚下の諏訪湖を隔てて遠く富士の秀峰、南西側に南アルプス、南東側に八ヶ岳連峰、北西側には日本アルプスの山々を見渡すことができる。日本一の富士山(3776m)第2峰の北岳(3192m)、第3峰の奥穂高岳(3190m)といった我が国の3高峰が望める唯一の場所でもある。また、四季折々のすぐれた自然に恵まれ「小鳥の森」に指定され、「小鳥の楽園」として毎年5・6月の毎日曜日には早朝小鳥バスも運行され人気を呼んでいる。春は桜に始まり、レンゲツツジ、唐松の芽吹き、夏はニッコウキスゲの群生、秋は紅葉と、県内外を問わず多くの観光客が訪れている。尚、右手にある明治天皇巡幸記念碑の前では日本一短いと言われている。「御野立記念祭」が毎年催されている。 |
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| 09:38 |
夜通道
2体の石仏がある。 |
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| 09:45 |
東山一里塚
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<市史跡 東山一里塚>
東山一里塚は東山地籍(犬飼清水と茶屋本陣の中間)にあり古図には道を挟んで2基描かれているが、南側
のみが現存している。
この塚の大きさは幅12m、奥行13m、高さ3mの塚である。
元和2年(1616)に塩尻峠が開通したころから、中山道は牛首峠経由(桜沢口−牛首峠−小野−三沢峠−諏訪)から塩尻峠経由(本山−洗馬−塩尻−下諏訪)に変更され、この一里塚もその頃つくられたものと推定される。
市内には、東山、塩尻町、平出、牧野、日出塩の五ヶ所に築かれたが、現在は、ここと平出の一里塚が形を残しているだけである。
塩尻市教育委員会
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| 11:00 |
柿沢・首塚胴塚 |
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| 11:10 |
柿沢の高札場 |
| 11:20 |
塩尻宿入り口 |
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| 11:30 |
上問屋跡
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| 11:35 |
本陣跡、脇本陣跡 |
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| 11:50 |
大小屋交差点
庚申塚、道祖神他3対のオンパレード |
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| 12:10 |
JR塩尻駅近くのスーパーDELICIAで弁当を買って、休憩所で昼食。
大きなスーパーだが客が非常に少ない。経営は大変だろう。左足の膝が痛み始めた。痛み止めの薬を飲む。
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| 13:00 |
スーパーDELICIAを出発、実に快適な気候だ。
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| 13:40 |
平出の一里塚 |
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市史跡 平出一里塚
一里塚は慶長9年(1604)より徳川秀忠の命により各街道に築かれ、同12年にほぼ完成をみた。秀忠は、永井白元、本多光重等を一里塚奉行に任命して、中山道筋の幕府領、私領をとわず人足を徴発して道を整備し、江戸日本橋を基点として36町を一里として、一里ごとに道の両側に一里塚を築かせ、塚の頂上にエノキなどを植えて道程標とし、旅情を慰め、通行の便宜をはかった。その道路幅は5間(9m)塚は5間四方,高さ1丈(2・3m)と定めれれた明治以後はその必要も無く、いうとはなく次々に消滅し、県下でも平出のように原型を保つものは極くわずかとなった。江戸時代当塩尻市内は、3つの街道にそって、8箇所に一里塚が築かれていたが、両塚を残すのは、この平出のみとなってしまった。この一里塚は日本橋の基点より59番目のもの、また、宝暦6年(1756)頃には、この付近に茶屋2軒のあることがわかっている。
塩尻市教育委員会
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| 13:45 |
平出遺跡跡
曇ってきた。 |
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| 14:07 |
中仙道一里塚交差点 |
| 14:25 |
洗馬場入口 |
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中山道と善光寺街道の分去れ
中山道は右に折れて肱松の坂(相生坂)と上り、桔梗ヶ原を経て塩尻宿へと向う。江戸へ30宿59里余。左は北国脇往還の始まりで、松本を経て麻績から善光寺へ向う。善光寺街道とも呼ばれる。善光寺へ17宿19里余。
ここにある常夜灯は安政4年(1857)の建立で、洗馬宿を行き交う参拝の旅人はこの灯りを見て善光寺へ伊勢へ御嶽へ、そして京、江戸へと分かれて行った。
洗馬区
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| 14:30 |
肘懸松 |
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肱懸松=ひじかけまつ(肱松)
「洗馬の肱松日出塩の青木お江戸屏風の絵にござる」と歌われた赤松の名木。細川幽斎が「肱懸けてしばし憩える松蔭にたもと涼しく通う河風」と詠んだと伝えられている。また、江戸二代将軍秀忠上洛の時、肱をかけて休んだとの説もある。左方標柱辺りにあった。
洗馬区
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| 14:50 |
洗馬宿本陣跡 |
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木戸海道六拾九次之内 洗馬 (広重)
洗馬宿の西を流れる奈良井川の夕景。この図を広重の最高傑作に挙げる人が多い。柴をいっぱい積んだ舟と筏が、川を下り、中天にかかる大きな月が水面を明るく照らしている。広重が各画で用いている「空のぼかし」「たなびく雲」「山国の様子」を表現している。生い繁る葦に隠れ、屋根だけしか見えない民家が点在し、この絵の抒情性を高めている。
◎洗馬宿 長野県塩尻市
塩尻宿から洗馬宿までは約7・2キロ。天保14年の人口は661人、総戸数163軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠29軒であった。木曽義仲の軍勢と出会った今井兼平が、清水で義仲の馬を洗って疲れを癒したことが「洗馬」の地名の由来である。宿場は慶長19(1614)年に中山道のルート変更に伴い、塩尻宿、本山宿とともに設置された。この地はまた、砥石の産地でもある。 |
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中山道洗馬宿
洗馬宿は慶長19年(1914)中山道が牛首峠超えから塩尻峠超えに変更となったとき、中山道と北国脇往還(善光寺街道)との分去れの宿場として新設された計画集落である。南北の出入り口は鉤型に、宿内は湾曲して造られている。用水は尾沢川の水を引き入れ、宿の南で2筋に分け東西の屋敷裏を流している。屋敷の間口は3間を基本として宅地の奥に畑が続く細長い屋敷割が特徴で、現在もこの形はあまり崩れていない。本陣、脇本陣、問屋場のほかに荷物貫目改め所も置かれ、分去れに位置する洗馬宿の重要性が伺われる。戸数は、始め100軒余、幕末には150軒程あって、大きな旅籠を持つ宿として賑わった。本陣、脇本陣の庭園は「善光寺道名所図会」の中で「中山道に稀な」と紹介された名園であったが、明治42年、鉄道の開通によって洗馬駅の敷地となり失われた。また、昭和7年の洗馬大火では宿場時代の建物が殆ど焼け落ち、今はその面影を見ることが出来ない。しかし、火事後拡幅された道路の両脇には昔を偲ぶ歴史の跡がそこかしこに残っている。
洗馬区
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| 14:55 |
洗馬宿
高札場跡 |
| 15:25 |
本山宿 |
| 15:30 |
本山そばの里
もりそば950円、うまい!実に美味い。そうだ!グルメで美食家のうちのかみさんにも食べさせたいな。
ここが「もりそば発祥の地」だそうだ。 |
| 16:00 |
本山宿着 |
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木曾海道六拾九次之内 本山 (広重)
本山宿は、北から南へ向かった上り坂に沿ってある。宿場のはずれで上りが終わる。この図は緩い下り坂になった場所から宿場を描いている。台風の跡であろうか、倒れかけた松の大木が街道を塞ごうとしている。その下で樵が伐り倒した大木に腰を下して、一服しながら焚き火で暖をとる。風で落ちた枝や葉を竹籠に拾い集めた子ども二人は嬉々として家路を急いでいる。
◎本山宿 長野県塩尻市
洗馬宿から本山宿までは約3・3キロ。天保14年の人口が592人、総戸数117軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠34軒であった。慶長19(1614)年中山道のルート変更に伴い塩尻宿、洗馬宿とともに設置された宿場。山間の谷間で耕地が少なく、木曾地方への密輸品を取り締まる「口留番所」(各藩が自藩の境界や交通の要所などに設置した小規模な関所)が置かれていた。蕎麦が名物の本山は「蕎麦切」発祥の地でもある。それまでは蕎麦は団子にして食べた。 |
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| 16:20 |
一里塚跡(江戸より61里) |
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| 16:25 |
JR日出塩駅
今日はここまでとする |
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| 17:10 |
JR日出塩駅発
中央線に乗り、下諏訪へ戻る |
| 18:00 |
下諏訪駅
早速、児湯へ行く。とても快適な温泉に入る。
その後、観光センターにて夕食。 |