【奥州街道】 

 徳川家康は慶長5年(1600)関ヶ原の合戦に勝利し、天下人となり「五街道」の整備に順次着手し、奥州道中は慶長7年(1602)から取り掛かりました。但し、五街道に制定された奥州道中は青森迄ではなく、下野國白河迄です。
 五街道は幕府の道中奉行が直接、管轄した街道です。
 白河以北の街道は仙台藩、南部藩が管轄、整備した奥州道中なのです。家康の死後,その亡骸が日光に移されてからは江戸日本橋から宇都宮間は「日光道中」と呼ばれるようになりました。奥州道中は日本橋から宇都宮迄は日光道中を踏襲します。
 宇都宮から白河間を奥州道中と呼ぶようになりました。

 (奥州道中と日光道中)
 家康が当初、「五街道」の整備に着手した時の奥州道中は江戸日本橋から宇都宮宿を経由して白河に至る道筋を指しました。そして日光道中はこの奥州道中の宇都宮宿から鉢石宿間の道筋が日光道中とされました。元和3年(1617)日光東照宮が完成すると、日本橋と鉢石間は日光道中となり、宇都宮と白河間が奥州道中と逆転しました。


第1日目
宇都宮→白沢 →氏家→喜連川→(自宅)

月 日;

2011年1月6日(木)、天気;晴れ

区 間; 宇都宮〜喜連川、24.6km
時 間; 8時間25分
費 円; 14,994円
(内訳)交通費;5,710円、宿泊費;7、980円、食料;1,204円、
施設見学料;100円

歩 数;

40,011歩


1月5日(水)晴れ
13:53

自宅発
出かけないの?というカミさんの声に促され、ようやく出発の決断が出来る。

15:09

JR新宿発
湘南ライン「宇都宮駅行き」に乗る。何とか座ることができた。

16:48

JR宇都宮駅着
寒いが、予想していた積雪は町中には見当たらない。
JR構内にある観光案内所で、駅近くにあるビジネスホテルを予約する。
ホテルにチェックインする前に、少し早めだが、前回も食事した駅近くにある餃子専門店「みんみん」で夕食にする。
『焼餃子、揚餃子、水餃子各1人前6個240円、ライス100円、ビール(生)400円、ジュース、ウーロン茶、オレンジが各150円、炸醤麺・1日限定50食500円』これがこの店のメニューの全てである。
午後5時10分には座席の8割が客で埋まっている。入口の外には待ち客用の丸椅子が用意されている。
宇都宮泊

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
1月6日(木)晴れ
07:30

宇都宮駅前にあるビジネスホテルを出発。寒い!とても寒い。
テレビの天気予報では今日の気温は0・5℃。ファイトッー!

07;55 日光街道と奥州街道の追分。ここが奥州街道の出発点。
 【日光街道と奥州街道の分岐(追分)】
ここが奥州街道の出発点
日光街道はこの交差点で左折した。
奥州街道は宇都宮駅方面へ大通りを直進する。
大通りを駅方面へと進む。
08:00

高札場跡
現在は自動車駐車場になっている。
この時間、通勤・通学客が多い。寒い!
なんと、こんな季節にも女子高生はミニスカートと白のハイソックスで通学している。ガンバレー!と声援を送る。

08:05

ホテル万治
江戸時代から続くビジネスホテルである。玄関脇に足洗い用の水溜りが置いてある

<ホテル万治>
08:10

二荒山神社(下の写真)
高い石段を登る。境内には、圧倒的に若い人が多い。
会社の命令で参拝に来ました!という黒背広とワイシャツ姿の若いサラリーマン集団もいる。

本殿に至る階段
<二荒山神社の本殿>
釈迦堂町 高札場
08:20

釈迦堂町
先ほどまで多かった通勤通学の波が少なくなった。

08:30

交差点
ここで左折、正面はJR宇都宮駅。太陽の光が暖かい、でも寒い。

08:35 田川と幸橋。JR宇都宮駅に近い。街中の川としてはとてもきれいだ。
<田川と幸橋>
08:40

旧篠原家住宅。前夜泊まったビジネスホテルの目の前である。 
入場料100円。管理人のおじさんがとても親切に案内してくれた。

篠原家の
台所用品
帳場
    【旧篠原家住宅】 【宇都宮市指定有形文化財】(平成7年11月27日指定)

 篠原家は奥州街道口の豪商で、江戸時代から第二次世界大戦までは醤油醸造業・肥料商を営んでいた。明治28年(1895)に建てられたこの店蔵は、店舗と住居部分を一体化した蔵造りになっている。市内の店蔵の中で、改造がほとんどされておらず、かつ、石蔵を伴って残されているものは数少ない。
 住宅の1階部分の両側には、厚さ約8cmの大谷石が貼ってあり、この店蔵の特色になっている。帳場の奥に約45cm角のケヤキの大黒柱がある。これは2階の大広間(20畳敷き)の床柱を兼ね、さらに棟木まで延びており、建築的に大変珍しいものである。全体的に装飾性は少ないが、よい材料を贅沢に使っており、美しく豪華に造られている。なお、石蔵3棟のうち最も古いものは、嘉永4年(1851)に建てられたものである。

09:00

八坂神社
参拝する。ここでも、ひょっとしたら危ない集団と見間違うような黒背広の若者がやたら多い。
恐る恐る、近くで会話を聞いていると普通の建築関係のサラリーマンの集団でホッとする。良かった!

<八坂神社>
09:08 今泉交番前ロータリー
09:10

東北新幹線を斜めに横切る。
「白沢街道」の道路標識

<東北新幹線を斜めに交錯する>
09:25 宝蓮院
10:00

下川俣町交差点
途中にあったはずの「首切り地蔵」の記念碑を見落としてしまった。

10:10 左手に雪を被った日光連山が望める。この付近の街路樹は桜の樹が多い。
10:15

海道町に至る。
馬頭観音がかろうじて保存されている。(下の写真・左)

<街道沿いにある廃品回収の在庫置き場>
<感恩報徳の碑>
     【小林清次郎翁感恩報徳の碑】
 寛政11年3月14日、下川俣駒場家に生まれ後に海道新田小林為右衛門の養子になりました。
安政年間、海道新田に水路を開き自ら水田開拓に務め、終生農業に精励して海道新田の発展の為大きな貢献を致しました。
 明治14年9月8日他界 行年83歳
      建碑 慶応2年2月
10:25

感恩報徳碑(上の写真・下段)
この付近から沿道に畑が見えるようになってきた。
街道筋のつぶれたパチンコ屋の広い駐車場に廃品回収屋さんのテレビ、洗濯機、冷蔵庫それに自転車など大量にストックされている(上の写真)。特にテレビがすごい量だ。「回収料無料」とも書いてある。
この付近、昔の街道の匂いが少しする。

10:50

稚児坂
有名な坂の名前の割りに、高低差10m程の、なんてことない坂。

    <しばらくは自動車道を進む> <稚児坂のゆるい登り>
11:05

白沢バイバス入り口
ここから白坂宿に入る。

11:15

勝善神の碑
白沢地蔵尊

<勝善神の碑>
やたら大きい石碑
11:25 白沢宿交差点
11:28 白髭神社
<白沢地蔵堂>
     【白沢地蔵堂の伝説】
 今から約900年前の出来事です。
 鎌倉時代(建久年)源頼朝の命を受け伊沢家景が奥羽総奉行として鎌倉より東北に向かう途中、白沢稚児ヶ坂(現;高崎製紙工場西側)で子供が病気になり亡くなりました。
 この子をこの地に葬り地蔵堂と石塔を建てました。
 それから900年もの間、この地蔵堂は白沢南自治会(昔は上岡本村)の人々によって守られてきました。
11:30

本陣・宇加地宅

<白沢本陣跡>
     【白澤宿】
 
徳川家康の上杉攻めの時、徳川軍が鬼怒川を渡るとき、その案内役を買って出たのが、白沢村庄屋の宇加地家と上岡本村庄屋の福田家でした。
 その功績が認められ戦いの後、両村共同で白沢宿という名で往環宿を構成することが許され、慶長14年(1609)には、町割りも完成し両家は御用を勤め問屋になっています。天保14年(1843)には本陣1、脇本陣1、旅籠屋13軒を数えていました。白沢宿は江戸から明治になっても、大いに栄えました。明治18年奥州街道が現在の国道4号線に移り、おかげで現在の宿の面影を今にとどめています。
 白沢宿がしのばれる由緒ある家並みを保存していくため、むらづくり事業を契機に、用水掘りに鯉を放流し環境美化に務め、後世にその歴史を伝えていきたいと思います。
    昭和62年3月 白沢宿保存会
11:45 白沢の一里塚
                      【白澤沢一里塚】
 一里塚は、旅人が目的地へ到着するまでの目標と馬や駕籠の賃銭の支払いの目安に、江戸幕府によって慶長9年(1604)に設置されました。江戸・日本橋を基点にして、奥州街道はじめ五街道の両側に一里(約4km)毎に設けられました。塚は一般に9メートル四方で、この上に榎木が植えられ、一里塚であることの目印と旅人の日よけの役目も果たしました。
 古文書には、白澤の一里塚は日本橋から30番目で、かっては鬼怒川の河原にあったため、度々の洪水で壊れてしまったと記されています。
 奥州街道白澤宿の会では、江戸時代に多くの人たちが利用した一里塚の歴史を後世に伝えるため、会員と地元の白沢河原、白沢甲部、白沢南の各自治会の皆さんの協力を得て、ここに「白澤一里塚址」の碑を建立しました。

           平成21年5月23日 奥州街道白澤宿の会

11:55 昔の道は土手に塞がれて終わっている。鬼怒川の上流へ向かって歩く。
12:08 鬼怒川の渡し場跡
昔は、この付近に渡し場があったそうだが、今では全くその面影は無い。
12:16

久津大橋
ここで鬼怒川を渡る。
橋の途中で「さくら市」に入る

12:25

鬼怒川を渡り終える。
1里先に氏家市

12:28 上阿久津交差点
交差点の近くにある食堂で昼食
 <ランチタイムサービスセット>
 
大きなトンカツ、豆腐、サラダ、ラーメン、漬け物それに丼飯のセットでナンと900円!ご飯はお代わり自由だ。
ウヒャー、うまーい、もちろん完食!
うーん、かなりな食べ応えだ。街道歩きには何たって「トンカツ&ラーメン・ランチタイムサービスセット」に限るのだ!ファイトー!
<将軍地蔵> <堂原の公孫樹>
   【将軍地蔵】

 源義家が奥州に進軍したとき鬼怒川釜ヶ淵の悪蛇のため進めません。宗円法師の祈りで将軍地蔵が出現して悪蛇を退散させたので、勝山城を守護する寺院として常原に将軍山地蔵院万願寺を建てました。
 室町時代のころ、ここから日光山に修行にいったお坊さんが意地悪山伏に素麺を無理やり食べさせられ気絶しました。別のお坊さんが来て日光中の素麺を食べつくしたので山伏は降参しました。お坊さんは将軍地蔵の姿となりお坊さんを連れて勝山に帰りました。これから「そうめん地蔵」伝説が生まれ、日光責め・強飯式が起こったと言われています。戦国時代に那須勢が攻めてきて焼き討ちをしたので満願寺は焼けてしまいました。
 江戸時代には再建されて堂原地蔵堂となり奥州街道の道中安全にご利益があるので有名となり、遠く秋田・会津の商人たちから奉納された石灯籠などが残されています。

 【堂原の公孫樹】(天然記念物)

 堂原の将軍地蔵(そうめん地蔵)境内にある。イチョウ科の落葉高木で、雌雄異株。原産は中国。樹皮が厚く、耐火力にすぐれ、薬用にもなったので、日本では古い由緒をある神社仏閣に医療・火防の霊樹として植えられた。このイチョウは今宮神社のイチョウ(町指定天然記念物)と推定樹齢が同じく約600年とされている。
 今宮イチョウが雄、このイチョウが雌で、併せて「夫婦イチョウ」と呼ばれている。樹幹や枝から木根がたれ下り、乳房のように見え、樹液がしたたるので、乳不足の母親はこのイチョウに願いをかけると効き目があったといわれている。晩秋にはたくさんの銀杏が落ち、賞味されている。当地方の名木であり、まれにみる巨木である。
 樹齢(推定) 約600年
 樹高     28・2メートル
 目通周囲  4・9メートル

   昭和60年11月28日指定
       氏家町教育委員会

12:40 お伊勢の森
奥州街道から100m程離れて畑の中にポツンと森が残っている。
13:50

東北本線「旧奥州街道」踏み切り
左の日光方面から吹いてくる空っ風がとても冷たい。ファイトー!

14:00 馬頭観世音
     <氏家の馬頭観世音>
すぐ近くにタゴール平和記念公園もある。
あのタゴールはこんな所にまで影響を残している。
 <光明寺不動明>
14:07 タゴール平和記念公園
14:10

JR氏家駅東入口交差点
寒い!帰りたい。でも、もう少し頑張ってみよう。ファイトー!
光明寺不動明。派手な色合いだ。

14:20 薬王寺
<薬王寺>
<瀧澤家住宅、長い白壁が続く>
    【瀧澤家住宅】(鐵竹堂・蔵座敷・長屋門)

 瀧澤家住宅は旧奥州街道に面して、伝統的な板塀を巡らし、堂々たる長屋門を開くなど、屋敷構えは今なお旧家の面影を留めている。
 瀧澤家は明治になって紡績等の事業で財をなした旧家であり、明治期の当主であった瀧澤喜平治は貴族院議員などを歴任し、第四十一銀行の設立や那須野が原の開拓にも尽力した人物として知られる。
  鐵竹堂 南北6.5間X東西7間
  奥座敷 桁行4.5間X梁間4間
  長屋門 桁行8.5間X梁間2.5間

14:25

明治の建物
途中の八幡宮は街道筋からは遠いため参拝はパスする。

<明治時代の水準点の標識>
すぐ裏には自動車修理工場がある。
14:30 二十三夜塔
14:37 桜野交差点
15:00

松山交差点
ここで道を間違えそうになる。
車の往来が激しい自動車道から別れて、旧奥州街道は直進して弥五郎坂へ向かう。
ここから急に寂しくなる。最初不安になるほど車の往来が無い、山道に入る。

15:07 これより先一里「喜連川」の看板
15:15

弥五郎坂。古戦場。
旧街道筋の古戦場や処刑場のような場所を通過する時はいつも霊気というか肌寒さを感じる、何だか、ヤダー。

 早乙女坂は、下野国の北部(塩谷・那須)と中央部の接点にあり、戦国時代に、下野一円の領国経営を望む宇都宮氏にとって、早乙女坂を抜き喜連川を治めることは、北部支配への橋頭ほ(堡)を確保する上で最も重要な課題であった。
 このため、早乙女坂をめぐる攻防は幾度かくりかえされたが、その中でも、天文18年(1549)の戦いは、宇都宮軍の大将尚綱が喜連川方の助っ人、鮎ヶ瀬弥五郎(左衛門尉)に射殺されるという大激戦であった。
弥五郎の働きによって、喜連川城下のピンチが救われたため、喜連川領民は万こう(腔)の感謝を込めて早乙女坂を、弥五郎坂と呼ぶようになった。
 今、この地には、宇都宮尚綱のものと言われる供養塔が建ち、古戦場の跡を示している

<古戦場跡>

    【古戦場】
 天文18年(1549)、那須氏、喜連川塩谷氏500余騎と宇都宮尚綱率いる宇都宮軍2000余騎とが戦った古戦場で、激戦の末、宇都宮軍は喜連川軍の鮎瀬弥五郎実光に背後から大将の尚綱が射たれ退散したといわれています。
15:35

古戦場跡。野球場1面分も無い狭い台地。こんな寂しい場所で大勢の人々が死闘を繰り広げた。
通行禁止の林道を進む。もちろん、他に通行人は誰もいない。寒いヨー、寂しいヨー。ファイトーッ!

15:50 荒川。川幅50m程、この付近ではまだたいして大きくは無い。
15:55

喜連川宿に到着。今日の目的地。寒い、とても寒い。
時刻表を見ると次の「宇都宮駅行き」最終バスは約2時間後の1本だけ。こんな寒い町で2時間も待つ事はとても出来ない。ヤバイ、どうしよう。
念のため、観光物産店を訪問。聞いてみると別なバス便あるという。念のために駆けつけると10分後に到着するバスがあるという。聞いて良かった、何とラッキーなことか。
観光案内所の青年がその離れたバス停までわざわざ案内してくれた。良い青年だ、これで日本の将来は安心だ!

16:12

喜連川本町発
「宇都宮東武行き」東野バスに乗ることができた。ラッキー!
バスの振動が疲れた身体に実に快い。

16:30 JR氏家駅
17:09 氏家駅発・東北本線
19:10

上野駅着

20:40

帰宅

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